南のほうのあたたかい町に、いつもむっつりと仕事をしている、ひとりの年とった木ぐつ屋がありました。目はぞうのように小さく、しょぼしょぼしていましたが、それにひきかえ、
けれど、そのぶかっこうな両手が、なんという、かっこうのよい木ぐつを、つぎつぎとつくったことでありましょう。まるで
子どもたちは、いつも店先の日よけの下にしゃがんで、おじいさんの仕事を見ていました。あんまりうまくできあがるので、子どもたちは思わず、ため
けれど、そんなに
「マタンじいさん。木ぐつ屋になるのは、むずかしいの。」
木ぐつ屋になりたいけれど、指を落とすのはおそろしいと考えていた、ひとりの子どもが、ある日、こういってたずねました。すると、マタンじいさんは、
「どうして?」
と、ききかえしました。
「おじいさんの名なし指、ノミで切っちゃったんでしょう。」
「うん、これかい。」
と、マタンじいさんは、左手をひろげて見せながらいいました。
「こいつは、ノミで落としたんじゃないよ。」
それを聞いた子どもたちは、今まで、そうだと思いこんでいたことが、まちがっていたとわかって、ふしぎな気持ちにとらわれましたが、それといっしょに、新しい
「じゃ、どうしてなくしたの。」
と、さっきの子が
「ふん。」
マタンじいさんは、口のあたりに、かすかなわらいをうかべながら、名なし指のない大きな手を、二度三度ひろげたり、げんこつにしたりしました。それから子どもたちのほうへ顔をむけて、
「おまえたち、手を出してごらんよ。」
と、いいました。
子どもたちは、すこし
「なんだい。どうもしやしない。」
そういわれて、さっきの
「そうだ。わたしが名なし指をなくしたのは、わたしのこの大きな手が、この小さな手のくらいのときだったな。今では、木の根っこみたいに、ごつごつになったけれど、そのころは、この手のように美しく、やわらかだった。」
といいながら、なつかしむようにマタンじいさんは、子どもの手を見つめていました。
「わたしが名なし指を、どうしてうしなったか、そのわけを聞かせてあげようかな。」
そういってまた、ノミをにぎり、前かがみになって、木ぐつのあなをほりはじめました。
マタンじいさんも、五十年ほどいぜんには、ほっぺたの赤い、かわいい少年でした。そのころマタンは、北のほうの、古い小さな村に、たったひとりのかあさんの手で、そだてられていました。村にはリンゴの木がたくさんあって、明るい夏には白い花がさき、村にはリンゴのかおりが、いっぱいに流れました。そしてその花が、寒いころになると、
「なんだ、つまんない。」
マタンは、ひろったクルミをすてました。なぜなら、そのクルミは、実がはいってない、ただのからだけでした。けれど、すててはみたものの、落ちているのを見ると、またほしくなって、ふたたびひろいあげました。
〈なにかにならないかしら〉と考えながら、いろいろ、ひねくっていると、左の名なし指の頭に、ちょうどうまく、かぶさったのでした。
「ああ、ぼうしだ、ぼうしだ。」
マタンは、ひとりでおかしくて、ひとりでわらいました。そして、
名なし指、名なし指、
ぼうしかぶった名なし指、
たららん。
そんな、でたらめな歌をうたって、クルミのからのかぶさった名なし指を、まげたりのばしたりしながらやっていくと、いかめしい石のへいの下で、女の子がひとり、しょんぼりすわっていました。ぼうしかぶった名なし指、
たららん。
「おい、ジュリーちゃん、ごらんよ。」
といって、マタンは近づいていきました。
「ほら、この指が、おじぎするよ。はい、ジュリーちゃん。こんにちは。」
女の子は、クルミのからをかぶった名なし指におじぎされて、にっこり、ほほえみました。けれど、その大きなみどり色の目は、なみだでうるんでいました。しかし、どうしてないているのか、マタンはきこうとしませんでした。なぜならマタンは、ジュリーのおかあさんが、病気でながい間ねていること、おとうさんは酒飲みで、めったに家へ帰ってこないこと、ジュリーはパンを食べないで、水ばかりでがまんすることもあること、たまに、よっぱらったおとうさんが家へ帰ってくると、ジュリーは家からおっぽり出されることなど、よく知っていたからでした。
きょうも、たぶん、おとうさんが家へ帰ってきて、ジュリーをおっぽり出したぐらいのことでしょう。マタンは、いつものように、ジュリーをなぐさめてやりたくなりました。けれどいったい、なんでなぐさめたらいいでしょう。ビスケットでも持っていれば、たといそれが一つでも、半分ずつ食べることができるのでしょうが。
ふと、ふりあおいだマタンの目に、まっかに
マタンは、その一つをもいで、ジュリーにやろうと思いました。マタンはなぜ、そんなよそのリンゴを、もごうなどと考えたのでしょう。家へ帰りさえすれば、庭にりっぱなリンゴが、ほしいだけ実っていましたのに。マタンだって、よそのリンゴをもぐのは、わるいことだと知っていましたろうに。
けれど、ジュリーをなぐさめてやりたい気持ちがいっぱいで、そのほかのことを、考えてるひまがなかったのでありましょうか。
「待っといで。」
そういっておいて、マタンは、車かじやのほうへ、かけていきました。車かじやの横には、たがのはまった古い
白いずきんで、まるいほっぺたをつつんだジュリーは、マタンがなにをするか、だまって見ていました。マタンは、もたせた車の
「あ、いけないわ。」
ジュリーは、あわててさけびました。
「マタンちゃん、いけないわ。そんなことしちゃ。」
そして、マタンの右手をひっぱったのでしたが、そのときにはもう、マタンの左手は、一つのリンゴをつかんでいました。
へいの中ではさっきから、はさみを持ったお金持ちが、おじょうさんにかごを持たせて、色のよいリンゴをえらびながら、チョキンチョキンと切ってまわっていました。そして、マタンがリンゴに手をかけたとき、お金持ちはちょうど、その木の下にいたのでありました。
「マタンちゃん、いけないってば。」
ジュリーが右手をひっぱりますと、マタンはひっぱられるままに、おりてきました。けれど、どうしたことでしょう。左手をおさえて、その場にしゃがんでしまいました。顔色は、まっさおでした。
「あっ、マタン。」
ジュリーは、ものにおびえたようにするどくさけぶと、前だれで顔をおおってしまいました。
「わたしの名なし指は、そうしてなくなってしまったのさ。」
といって、おじいさんはもう、かたほうのくつをつくりあげてしまいました。子どもたちは、大きく目を見はって、聞いていました。
「クルミのからをかぶったまま、なくなってしまったのさ。」
と、ひざの上にたまった木くずを落としながら、おじいさんは、いいたしました。
「いたかったでしょう。」
と、ひとりの子どもがききました。
「いたかったさ。おまえたちなら、とびあがってなくな。」
「おかあさんにしかられやしなかった?」
と、ひとりの子どもがききました。その子は、外でけがをして帰ってくると、きっと、おかあさんにしかられるので、そんなことをきいたのでした。
「おかあさんにかい。しかられたな。よくしかられたな。けれど、しかったあとでおかあさんは、いつもわたしの手を
「お金持ちのほうから、あやまってきたの。」
と、なかでいちばん年上の少年がききました。
「あやまっちゃこないさ。よその家のリンゴをとろうとしたのがわるいのだって、いってたそうだ。」
子どもたちは、だまってしまいました。
なるほど、よその家のリンゴをとろうとしたのは、わるいことにちがいありません。けれど、一つのリンゴをとろうとしたからって、指を一本切り落として、それがあたりまえだといっているのは、あまりにざんこくであるとも考えられました。
「それで、その名なし指は、どうなっちゃったんでしょう。」
木ぐつ屋になりたい子どもが、いちばん前にしゃがんでいてききました。その
「まだ聞きたいのかい。それじゃ、聞かせてあげようかな。ちょっと、待っといで。」
もう、日が西のほうへうつっていましたので、マタンじいさんは、子どもたちの上にかぶさっていた日おおいの
マタンは小学校をおえると、木ぐつ
マタンが、木ぐつ
村からなんキロも去った、ある川口にのぞんだ大きな町には、りっぱな木ぐつ
「指が一本ないからには、こいつあ、いい木ぐつ
親方はそう思って、マタンの左手を、じぶんの手にとって見たのでありました。けれどマタンは、おどろくほど
「マタン。もうねよう。」
と、親方のほうからいい出すのでした。
「親方、おいら、まだねむくない。」
と、マタンは顔をあげていうのでした。
「おまえの目はねむくなくても、ランプの目がねむいってさ。」
マタンが、はじめてじぶんの手ひとつで、木ぐつを
はじめてつくりあげたもの。こんなになつかしく、こんな美しく、こんなによいものが、この世にあるでしょうか。マタンは、その木ぐつを
「ジュリー」と名前をほりつけて、マタンははじめてつくったその木ぐつを、村のジュリーのところへ送ってやりました。
きっとジュリーは、なみだをこぼして喜んだことでしょう。長いお
「マタンちゃんのつくったものかと思うと、足にはくのが、もったいないような気がします」とか、「市日と祭日と、日曜日に教会にいくときしか、はかないことにします」とか、「マタンちゃんのお手々のように、大切にします」とか、そんなことが長々と書いてあって、「ありがとう、ありがとう」が、なん度もくりかえされてありました。
けれども、市日や祭日にはいてるばかりでは、木ぐつもなかなか、すりへるものではありません。それから三年もたったある日、マタンのところへとどいたジュリーの手紙には、こんなことが書いてありました。
「マタンちゃん。どうしましょう。あたしの足が、すこしずつ大きくなるのに、あの木ぐつは、大きくなってくれません。きのうもがまんして、教会まではいていきましたら、
「おお、かわいそうに。おいらは、ジュリーのあんよが大きくなることを、すっかりわすれていた。」
もうそのころは、ひとかどのりっぱな
「マタン。おまえがはじめて、わしの店へやってきたとき、わしはおまえの手を見て、指が一本かけているんでは、まあ、ろくな
親方はそういって、たくさんの
マタンは、お金と木ぐつを大切に身につけて、川のふちのにぎやかな町を去ったのでありました。それは秋のすえごろのことで、はだ寒い風が東からふき、野には人のかげさえ見えず、マタンはさびしさを感じながら、けれど、心のおく深いところには喜びをわきたたせつつ、いそいそと道をたどっていきました。いくつもいくつもの、
一つの風車の下を通りかかると、風車のかげから、ひとりの男があらわれました。
「もしもし。」
と、その男は、マタンによびかけました。
「旅のお方のようだけど、ゆくさきはどこかね。」
マタンは、顔のつるりとしたその男を、なんて、いやな感じのやつだろうと思いましたが、正直に、これから帰っていこうとしている、じぶんの村の名をつげました。
「え、そうかね。」
と、男はさも、うれしいことを聞いたというようすでいいました。
「そいつは、さいわいだ。じつはわたしも、その村へ帰っていくところですよ。旅は道づれとかいいます。では、ごいっしょにお願いしましょう。」
「あなたは、どこの人ですか。」
「わたしは、その村生まれですよ。」
「え?」
マタンは、もういっぺん、その男を見なおしました。けれども、ちっとも、見おぼえのない男でした。するとその男は、マタンの心にわいたうたがいを、ちゃんと知ってるというように、
「生まれは生まれだが、なにしろ、三十年もまえに、あの村をとび出したっきりだから、村のことは、あんまり知りませんね。わたしの知らない人も、たくさんできたことでしょう。」
と、ぺらぺらいうのでした。そしてふたりが、だまったまま、しばらく歩いたあと、
「三十年もまえにとび出したんだから、ひょっとすると、あなたのおかあさんがわかかった
と、男はききました。
マタンは、
「わたしのおかあさんは、ローザといいます。」
「ローザ?」
とつぶやいて、男はなにか、遠いむかしのことを思い出そうとするように、考えこみました。そして、しばらくすると、
「あ、そうだ。思い出しました。思い出しました。ローザ、ローザ。」
と、なつかしむようにいって、マタンの
「あなたのおかあさんは、
といいました。
「いいえ。
と、マタンは答えました。すると男はあわてて、
「ああ、そうそう、
と、いいわけをしました。そしてこんどは、マタンの目の小さいのを見て、
「あなたのおかあさんは、小さい、かわいい目だったと思いますが。――」
といって、こんどはまちがっていないだろうというように、マタンの顔を見つめました。
「そんなことは、ありません。ぱっちりした大きな目です。」
と、マタンは答えました。
「あ、そうそう。大きな美しい目でした。そういおうと思っていて、つい、まちがったことをいってしまいました。わたしの口は、きょうはどうか、へんになっていますね。」
と男は、そんなふうに、ごまかしました。そしてさいごに、
「あなたのおかあさんは、世界にふたりといないほど、やさしい、よいおかあさんでしょう。」
といいました。
なるほど、それにちがいありませんでした。マタンにとっては、おかあさんほどやさしい人は、世界じゅうに、ひとりもありませんでしたから。
だれでも、じぶんのおかあさんをほめられれば、うれしくなるにきまっています。マタンはこうして、その男を信用してしまいました。
そこでふたりは、その日の夕方たどりついた道ばたの
ま夜中のころ、
朝になってマタンは、木ぐつとお金とは、つれといっしょになくなっていることに気がつきました。世の中には、なんというひどいやつがいることでしょう。せっせと長い間はたらいて、あせとあぶらのかわりにえたとうとい金を、
しかし、なくなってしまったものを、いつまでもなげいているのは、おろかなことでした。マタンはまだ、
やせっぽちの主人の木ぐつ、気球のように大きな
ところがこの村には、木ぐつ屋がなくて、村のお百しょうさんたちが、たいへん
夕方になっても、仕事はかたづきませんでした。そこでマタンは、もうひとばん、そこの
「ゆうべのへやは、わたしひとりには広すぎるから、ほかにもっと、小じんまりしたへやがあったら、うつらせてください。」
「いいですとも。ちょうどさっき、ろうかのつきあたりの、小さなへやがあきましたから、あそこへうつりなさい。」
と、主人はいって、ローソクをマタンの手にわたしました。マタンは「お休み」をいって、教えられたろうかのつきあたりのへやへ、やっていきました。
天じょうのひくい、まどの一つついたその小さなへやの中で、マタンはねるまえに、まだしばらく仕事をしました。カシの木のはめ板に、コオロギが一ぴきとまっていて、マタンに話しかけるように鳴いていました。
さていよいよ休もうと思って、マタンがテーブルの引き出しをあけ、その中へ、ノミとツチをしまおうとしたとき、マタンは引き出しの中に、ふっくらとふくれたさいふを一つ、見つけたのでありました。
思いがけないことでした。マタンは、ぼんやりしてしまいました。だれのさいふでしょう。ゆうべこのへやにとまった人が、あわててわすれていったものでしょうか。ならばマタンが、このさいふをもらってしまったら、どうなるでしょう。だまって、じぶんのふところへ入れてしまえば、それまでのことではありませんか。いや今にも、わすれていった人がひきかえして、さいふをとりにくるかも知れません。今からすぐまどをおしあけ、にげてしまえばよいのです。
ぼんやりと、さいふに目をおとしているマタンの頭の中で、たくさんの声が、いろんなことを、めまぐるしいほど、しゃべりあいました。はめ板から、ゆかに落ちたコオロギまでが、なにかいっているようでありました。
「それはわるいことだ。それはわるいことだ。」
と、コオロギはうたっていました。するとマタンの頭の中で、一つの声が、
「この世じゃ、みんながわるいことをするのだ。おまえも、ひとに金をぬすまれたのだから、こんどは、ひとの金をぬすんでやるがいいのだ。」
と、ささやきました。
「そうだっ。」
と、マタンは思いました。そこでマタンの左手が、さいふの上におずおずとのっかりました。
コオロギは、だまってしまいました。ローソクのほのおは、油のようにすんでしまいました。さっきまで、カルタでにぎわっていた台所のほうも、もう、ねしずまっていました。チョロチョロと、小川の水の流れる音だけが、この深いしずけさの中から聞こえてくる、ただ一つのものでありました。
マタンの左手が、ちょうど、引き出しの中のさいふの上におおいかぶさったとき、かれは、コツコツとたたく音を聞きました。それは、すぐやんでしまいました。マタンは、
マタンは、じぶんの
「だれだろう。」
マタンは、じぶんにつぶやきました。するとマタンの耳に、答えるものがありました。
「わたしです。」
「わたし?」
マタンは、びっくりしました。
「わたし? わたしってだれだ。」
すると、その声が答えました。
「わたしは、名前がありません。わたしは生まれたときから、名前なしでした。」
「そんなへんてこな話は、ありゃしないよ。ネコだって、プスとか、ミイと、名前をもっているもの。」
と、マタンはいいました。
「ほんとうに、へんな話です。わたしには、四人のきょうだいがありました。かれらはみんな、それぞれ、名前をもっていましたが、わたしだけ、名前がありませんでした。」
と、声はいうのでした。
「きみは、ドアの外に立っているのか。さっきから、ノックしていたのはきみか。」
と、マタンがききました。
「わたしはさっきから、ノックしていました。」
と、声は答えました。
「けれど、わたしは、強くノックすることができません。四人のきょうだいたちと、いっしょにするときは、もっと強く、ノックできるのですけれど。」
「ところできみは、今じぶん、こんなところへなんの用事があってきたのだ。」
(未完)