はしがき
『名古屋、おきやあせ、すかたらん』
誰が言ひだしたか、金の
だが、どうも、その方言の響がミユージカルでないことは、いくら慾目でも、認めざるを得ないところであると同時に、市街全体が、金の鯱鉾に光を奪はれたのか、何となく暗い感じのするのも争はれない真実であらう。『と同時に』を今一つ、名古屋人の心が、薄情で、
『花の名古屋の碁盤割、隅に目を持つ
これは宝永七年、名古屋で刊行された『今様くどき』の名古屋町尽しの冒頭だがその碁盤割も、大名古屋市となつた今は崩れて、人口八十八万は有難いけれど、日本第三の都市と威張つたならば、その都市の田圃で、盛んにメートルをあげる蛙どもから、げた/\笑はれるにちがひない。従つてその、『柔和で華奢でしやんとして』居る筈の女も、今は追々に姿をかくして、尤も、これは名古屋ばかりの現象ではないけれど、遅がけながら、モダン・ガールといふものが見られるのは
だが、宝永と昭和の間には、大きな年月の差異がある。とは、言はずと知れたことだが、やゝもすると、昭和の名古屋に、宝永の
とはいふものゝ、年々歳々、たえず変化はしつゝあるのだ。昭和三年には、昭和三年らしい
広小路
名古屋を西から東へ横断する、いはゞ銀座通りである。名古屋駅を下りてから柳橋、納屋橋を越すまでは、銀座どころか、銅座か鉛座ぐらゐの感じしかないが、一たび納屋橋に立つて、静かに東を向いて眼を放つならば、さすがに、近代都市の面影を認めざるを得ない。十数年前までは、視野のまん中に、はるかむかうに日清戦争記念碑が、生殖器崇拝論者を喜ばせさうな形をして突立ち、なくもがなの感じを起させたものだが、今は、覚王山のほとりに移されて、視野に入るものは、第一銀行支店、三井銀行支店、住友ビル、名古屋銀行、明治銀行など――考へて見れば、拝金宗の寺院ばかりであるが――両側にいはゆる
街の両側にある柳は、初夏の頃など、眺め心地が
東北隅に座を占めて居る赤煉瓦の建物は日本銀行名古屋支店で、この支店を動かすことが出来なかつたゝめ、大津町筋を真直にすることが出来ず、電車線路が歪んで居るところは、弁膜不全の心臓を見るやうである。赤煉瓦の建物など、どう考へても時代遅れだが、その時代遅れの建物にがん張られて、街の方を歪めたところなどは、どうもやつぱり名古屋式であるらしい。日本銀行支店など、名古屋の三銀行(名古屋、愛知、明治)から見れば問題にされて居ないのだが、いや、むしろ継子扱ひなのだが、その継子のために折角の都市の美観を犠牲にするとはげにも残念至極なことではないか。
その日本銀行と対角線的位置にあるのが、旧伊藤呉服屋、今は栄屋と称する食料品専門の販売店である。近々改築される筈で、いやもう一日も早く改築してほしいと思はれる、旧式な洋風建物で、
あとの二つの角にある建物は、これといふ特徴のないもので、名古屋市の中心点はいはゞ、まことにさびしいものである。たゞ、大津町筋を南にさがると、松坂屋デパートがあり、昨今はどうやら、そちらへ中心点が移動しさうであるが、広小路をはなれて中心点をつくることは当分はどうもむづかしさうである。その証拠に、断髪やセーラーパンツは、やはり広小路に最も多く見られるからである。メニキユアド・ハンドに、スネークウツドのケーンを持ち、しやんとしたネクタイをかけた
一たび夜の
いや、広小路伯爵の話が、とんだところへ落ちてきたが、元来広小路伯爵なるものは、純粋の名古屋人ではないのであるから、この悪口に気を揉む必要はないであらう。その代り、広小路伯爵たちは、赤電車の通つたあとの広小路には多くは無関心である。けれども、名古屋の名古屋らしさは、午前零時以後の広小路界隈にあるといつてよい。そこにはかの『なも』『えも』のなまりを売り物にする
大須界隈
東京の浅草、大阪の千日前、京都の新京極、それに匹敵するのが名古屋の
観音様の境内が、食べ物の店で占領されて居ることは、こゝに至つて名古屋の特徴が最も露骨にあらはれて居ると言つてよい。仁王門から本堂に通ずる道は、食べ物店を迂回する。何と痛快な現象ではないか。こゝ十数年前までは、すべての民衆娯楽機関が、境内のいはゞ四面を取り囲んで居たが、今は映画が主になつて、もう、あの説教源氏節の芸子芝居は見られなくなつてしまつた。説教源氏節は誰が何と言つても、名古屋のもので、名古屋情調をたつぷり持つたものだが、今はもう、安来節などに押されて、大須から程遠からぬ旧末広座を活動小屋にした松竹座で、アメリカ本場に劣らぬジヤズが聞けるなど、時の力は恐ろしいものである。
大須といへば縁日を思ふ。
スケツチでなくて何だか懐旧談のやうになつてしまつた。けれども、明治末期に生まれたモダン・ボーイならざる限り、現在の大須をながめては、その昔大須にあふれて居た名古屋情調を顧りみて惜まざるを得ないのである。さうして一たび旧名古屋情調をしのびはじめたならば、今の名古屋で、だんだん勢力を得て来たモダン・カフエーへは、ちよつと、はいる気がなくなるのである。
とはいふものゝ、最近の名古屋を知らうとするものは、数十軒を数ふるカフエーを見のがしてはならない。昼なほ手さぐりを要するやうな暗さの中で、コーヒーか紅茶一杯に,ものゝ三時間
尤もこれ等のカフエーが新時代の要求によつて生れたかどうかは考へ問題である。小資本ではじめ得られて、比較的多くの収入があるといふことも、カフエーの
そのカフエーと共に、今名古屋で、漸次流行しようとして居るのが、ダンス・ホールである。大阪で禁止されたゝめの一種の調節現象かも知れぬが、そのダンス・ホールの一つが中村遊郭に出来て遊郭よりもよく流行つて居るのは皮肉なことゝいはねばならぬ。といふよりも、遊郭経営者の一考を要すべき点であらう。
中村遊郭
たとひ中村遊郭が、東洋一の建築美を誇つても、さうして今なほ木の香新らしく
汽車の煤煙で化粧された名古屋駅近くの明治橋を渡つて、一直線に単線電車を
不景気の影響を受けてか、昨今のさびれ方は甚だしいものだが、これはあながち、不景気の影響ばかりではないやうである。その証拠には、前にも述べたごとく、遊郭内のダンス・ホールの繁昌でもわかる。要するに、このやうな遊郭は、もう、新時代には適せぬのだ。いつそ、懐古趣味を発揮させようとするならば、うちかけを着せて張店を出すがよい。張店といへば、昨年一時そんな噂がひろがつて、政治問題とされたことがある。筆者は公娼存置にも、張店にも賛成だけれど、遊郭そのものゝ改良は、早晩行ふべきだと思つてゐる。
中村遊郭の振はぬのは、べらぼうに高価なことも其原因の一つであるらしい。尤も、それは大店だけのことだが、市内で、比較的廉価な遊びが出来るものだから、わざ/\遠くまで出張に及んで高い金を払ふ必要がないといふ論者が可なりに多い。誠にそのとほりである。市内に於けるいはゞ私娼、乃至みづてん芸者の
午前零時といへば、遊郭は最も繁昌しなければならぬのに、その頃試みに中村遊郭内を散歩して見るがよい。
*
名古屋でスケツチすべきところは、まだほかに沢山ある。熱田は今は名古屋市内となつたが、そこには尊き熱田神宮がある。なほ又名古屋市民に近頃追々喜ばれ出した鶴舞公園はスケツチの種にならぬことはないけれど、公園などのスケツチに出かけては、近頃流行の感冒にでも襲はれると悪いから、今日はこの辺で筆をとゞめて置く。