「兄さん、こう暑くては、まったく頭がぼんやりするねえ」
少年科学探偵塚原俊夫君は、ある日の午後、実験室で、顕微鏡を見ていた顔をあげて私に言いました。七月になってから急に暑さが増して、二三日は華氏九十度近くに達しましたから、俊夫君が、このような嘆声を発するのも無理はありません。
「君の頭でも、ぼんやりすることがあるのかね?」
と、私は、別に皮肉を言うつもりでなく尋ねました。
「冗談いってはいけないよ。僕の頭だって誰の頭だってみんな同じだ。僕はただ物事を他人よりもいっそう深く考えることが好きなだけだ。考えさえすれば、だれの頭だってよくなるよ。
よく人は物事を考えると頭が熱するというけれど、僕はちょうど反対だ。僕は考えれば考えるほど、頭も
「夕立でもくるといいがねえ」
と、私は、俊夫君に同情して、窓越しに、晴れ渡った空を眺めました。
「普通の夕立なんかきたとて、僕の
と、俊夫君は、何となく不機嫌に言いました。
その時、実験室兼応接室の
「やあ、Pのおじさんが来た。ありがたい!」
こう言って俊夫君は、うれしそうに小田さんのそばに駆けよりました。
「Pのおじさん、きっと、夕立を持ってきてくれたんでしょう」
と、俊夫君は、小田さんの汗を拭く手にすがって言いました。
小田さんは、俊夫君の言葉の意味が分からないので、きょとんとした顔をしました。そうでしょう、夕立を持ってくる人など世の中にありません。で、私は簡単に私たちが、たったいま話しつつあったことを告げました。
すると小田さんはにっこり笑って、テーブルのわきの椅子に腰をおろし、
「いかにも、夕立を持ってきたよ」
と言いました。俊夫君の顔はうれしそうに輝きました。
「早く事件を聞かせてください」
小田さんに息つくひまも与えず、俊夫君は話をせがみました。
やがて、小田さんは私の差しだした冷やしコーヒーをすすって、事件の要頷を告げました。
芝区M町十番地に藤田又蔵という無職の老人がありました。以前高利貸しをしていたことがありましたが、最近は健康があまりすぐれないので、雇いの老婆と二人暮らしで、植木いじりなどをして日を送っておりました。
高利貸しをしたことがあるだけに、その性質はきわめて頑固であり、一年ほど前まで、たった一人の甥をわが子として養っておりましたが、その甥が
その頑固な老人が、何を感じたのか、一昨夜、寝室たる座敷の欄間にへこ帯をかけ、
取り調べの結果、老人の死は覚悟の自殺らしく見えました。というのは、机の上に
藤田家は内部がかなりに広く、藤田老人はいちばん奥の八畳の間に寝るのに、老婆は台所の隣の
しかし、色々老婆に尋ねた結果、藤田老人が自殺するような理由は、どうしても見つからなかったのであります。机の引き出しには遺言状の写しがあったが、それは三ヶ月ほど前に書かれたもので、老人としては当然のことです。それかといって、他殺のあとは、無論はっきり分かりませんでした。
藤田老人は
で、藤田老人はたぶん自殺しただろうということに決定されたのであります。
以上が小田さんの語った主要な点でありますが、これだけを話し終わった小田さんは、最後に声を小さくして言いました。
「ところがだね、俊夫君、僕にはやはりどうも老人が自殺したとは思われないのだ。といって、その証拠は何一つないので、自殺と決めるより他に仕方がないが、平和に暮らしてきた人間がとつぜん自殺するとはどうもおかしい。昨今暑さがきびしいから、それで気が変になって自殺する者もないとかぎらぬが、それならば、静かにお経を読んだりして自殺はしないだろうと思う。だから、僕は、君に、老人が果たして自殺したかどうか
俊夫君は、小田さんの話をじっと聞いておりましたが、この時、
「その藤田老人の甥というのはどこにおりますか」
と尋ねました。
「実は、こちらでも捜しているのだが、むろん行く先は分からず、一年ほど前から、一度も寄りつかないそうで、生きているのか死んでいるのかすら分からないのだ」
「それは困りましたねえ、その甥に聞けば、老人の自殺する事情も分かるでしょうに、時に、この事件はまだ新聞には出ていないようでしたねえ?」
と、俊夫君は言いました。
「自殺かどうかがはっきり決定されるまで、記事を差し止めたのだ」
俊夫君は、しばらく考えておりましたが、
「どうも、いま聞いただけでは、さっぱり見当がつきません。死体はまだそのままにしてありますか」
「いいや、暑い時節だから、
「それはなおさら困りましたねえ。しかし、ここでとやかく考えていたとてわかる道理はありませんから、これからすぐ藤田家へ案内してくださいませんか」
そこで私たちは身仕度をして自動車を雇いました。久しい間の照りで、道路には真っ白な土ぼこりがたまって、それがいかにも蒸し暑いような感を起こさせましたが、俊夫君の顔には、いかにも涼しそうな表情が浮かんでおりました。おそらく、今、俊夫君の頭は猛烈に働いているのでしょう。
ほどなく自動車は藤田家の門前で止まりました。
小田刑事に案内されて、私たちは、藤田老人の寝室なる八畳の座敷に入りました。寝床は最早たたまれてありましたが、机と
小田さんは、老婆を呼び、はじめてここへ来て自分の検査した顛末を、いちいち俊夫君に説明しました。俊夫君はただ黙ってうなずきながら、熱心に聞いておりました。
やがて、俊夫君は、机のそばに寄り、まずその上の般若心経を手に取って見ました。それは長さ六寸、幅二寸ほどの大きさのもので、老婆に聞いてみると、藤田家の仏壇にあるものだということでした。
それから、俊夫君は机を検べました。それは二つの引き出しのついた
するとそこに、色々な書類の中に、藤田老人の遺言状の写しがありました。それには、自分の死後、財産は甥の
次に、俊夫君は右の引き出しをあけました。そこには、
俊夫君は、老婆に尋ねました。
「ご主人はどこか
老婆は答えました。
「何だかこのごろ度々お薬を召し上がっていたようですが、元来が頑固な気性で、他人に病気だということを知らせともながって見えました」
「肺が悪いようなことはなかったですか」
「そんなことはなかったようです」
俊夫君はそれから、左右の引き出しの中をさらに繰り返して
「何かめずらしいものが見つかったかね?」
と、私は思わず尋ねました。
「これだよ」
こう言って俊夫君の示したものは、ある眼科医の診察料の領収証でありました。私はそれが、いかなる意味をもつのか、さっぱり分かりませんでした。
「Pのおじさん、僕ちょっと外出して検べてきますから、ここに待っていてください」
こう言うなり俊夫君は、私たちを残して、さっさと出かけてゆきました。やがて、表に待たせてあった自動車のエンジンの音が聞こえました。
約一時間たって俊夫君は、勝利者のように、喜悦に輝く顔をして帰ってきました。
「どうだった?」
と、小田刑事は待ち兼ねて尋ねました。
「やっぱり、藤田老人は自殺したのではありません」
と、俊夫君はきっぱり言いました。
「どうしてわかった?」
と、小田刑事はびっくりして言いました。俊夫君はずるそうな笑いを浮かべました。
「それはあとで話します。それよりも、僕の言うとおりに、この事件を新聞に発表してくださいませんか」
「ああ、いいとも」
小田さんは、俊夫君の言うことならば何でも素直に聞いてくれます。
そこで私たちは警視庁へ行きました。俊夫君は小田さんと二人きりになって、新聞に発表すべき事柄を相談しました。
あくる日の新聞には、果たして「自殺か他殺か」という大きな活字の見出しで、藤田老人の自殺のことが載っておりました。まず、死体の発見された顛末が詳しく述べられ、それから次のような記事が書かれてありました。
「……しかし、取り調べの結果、老人はその日、S町の水野という弁護士に、遺言状を書き直したいから二三日中に来てくれという手紙を差しだしたことが分かった。その晩自殺をするものが、そのような手紙を書くはずがないので、もしや他殺ではあるまいかと、その筋では厳重に取り調べ中である……」
私はこれを読んで異様な感に打たれました。というのは、藤田老人が水野という弁護士に手紙を出したことなど、小田さんも話さなかったからであります。そこで私は、俊夫君が
「君は昨日、水野弁護士のところへ行ったのか」
と、私は尋ねました。
「いや違う。僕は眼科医のところへ行っただけだ。水野弁護士なんてこの世の中にいやしない」
と、俊夫君は言いました。
私は再び異様な感に打たれました。けれども、この際、深入りして尋ねては、俊夫君の機嫌を損じるであろうと思い、黙って色々考えてみましたが、何のために架空の人物なる水野弁護士のことを新聞記事に入れたのか、どうしても分かりませんでした。
その翌日は何事も新聞にあらわれませんでした。俊夫君も何とも言いませんでした。するとさらにその翌日、次のような新聞記事があらわれました。
「……藤田老人の死は、一時、他殺ではないかという疑いをもって、取り調べが行われたけれど、やはり、暑気による一時的の精神異常のために自殺したものと決定された。……藤田老人には
私はまたもや異様の感に打たれました。というのは、俊夫君はその後、この事件の取り調べに携わっておりませんから、藤田老人の死が他殺でないと決定されたはずはないからであります。
「俊夫君、一体これはどうしたというのだ?」
と、私は辛抱しきれずに尋ねました。
「それには深いわけがあるんだ。まあ兄さん、しばらく待っておくれよ。多分、遅くとも今日の午後には、Pのおじさんから電話がかかるだろうから」
果たして、午後一時少し過ぎに、小田さんから、電話がかかって、たった今、藤田老人の甥の
警視庁へ行くと、直ちに私たちは、小田さんの部屋に案内されました。そこには三十前後の眼つきの鋭い大柄な男がおりました。言うまでもなく、それが、瀬木福松でありました。
小田さんは俊夫君と私とを瀬木に紹介しました。瀬木は、妙な顔をして、俊夫君を眺めました。彼は、こんな少年が、果たして探偵などをすることができるのかと、不審に思ったに違いありません。
やがて、俊夫君は瀬木に向かって言いました。
「実は瀬木さん、藤田さんは自殺なさったのではなく、殺されなさったのです」
「ええっ?」
と、瀬木は顔色を変えました。
「でも、新聞には自殺と決まったと書いてあったじゃありませんか」
「新聞記事は、たいてい
と俊夫君は落ちついた態度で言いました。
「実は僕は先日、藤田さんの居間の机の引き出しを
すると、僕は眼科医の診察料の領収証を見つけました。その時に、はッと思い当たったのです。眼病でビタミンAを要するものは、第一に夜盲症すなわち俗にいう『とりめ』を考えなければなりません。
そこで僕は自動車をとばしてその眼科医を尋ねたところ、果たして藤田さんは強度の夜盲症にかかっていたことが分かりました。藤田さんは、頑固な人だから、老婆にも、自分が『とりめ』だということを知らせなかったらしいのです。
ところで、藤田さんが夜盲症だとすると、夜は眼が見えぬのですから、自殺前に
こう言って俊夫君は相手の顔をじッと見つめました。瀬木の顔には驚きと恐れの色があらわれました。私は俊夫君の推理に感心しました。俊夫君は、かまわず続けました。
「しからばその犯人は誰でしょうか。老婆の話によると、戸のかけがねが皆かかっていましたから、誰もその夜、外から入った形跡はありません。すれば、老婆が犯人かもしれんということになりますが、老婆の腕では、藤田さんをしめころして、首を吊ったように見せかけることはできません。
そこで僕は考えたのです。これは家内の様子をよく知ったものの所為に違いない、たぶん犯人は日のうちにしのび込み、どこか押し入れの中にでも隠れていて、藤田さんを絞殺し、勝手知った仏壇の中から
こう言って、俊夫君は再び相手の顔を見つめました。瀬木は化石したように、この不思議な少年の言葉に聞きいっていましたが、その顔は土のように蒼ざめ、一言も発しませんでした。
「しからば、その犯人は誰でしょう」
と、俊夫君は一段声を大きくして言いました。
「瀬木さん、僕は、犯人は、あなたより他にないと思います。あなたは金に困って叔父さんを殺したのです」
これを聞くなり瀬木は立ちあがろうとしましたが、腰から下が麻痺したもののように、再び椅子にうずくまり、
「違います、違います。失敬な、君は何を言うのです」
と、反抗しました。
「まあ、静かにお聞きなさい」
と、俊夫君はいよいよ落ちついて言いました。
「それじゃ、聞きますが、あなたは、一昨日の新聞記事を見て、なぜすぐ警視庁に出頭しなかったのですか」
この言葉に、瀬木はいささか
「僕は一昨日の新聞を見なかったのです」
「嘘おっしゃい!」
と俊夫君は押さえつけるように言いました。
「あなたはあの記事の中に、他殺の疑いがあって取り調べ中とあったから、顔を出さなかったのでしょう。ところが、今日、自殺と決まったと書いてあったから顔を出したのでしょう」
「違います、僕が殺したという証拠がどこにあるのですか。僕は一年ばかり叔父の
「ではその間どこにいましたか」
「どこにいたっていいではありませんか」
「それじゃ、たしかにあなたは、一年ばかり藤田さんに会わなかったのですか」
「会いませんとも」
「そうですか、あなたがそれほど頑張るならば致し方ありません。けれども悪いことはできぬものです。あなたは一昨日の新聞に、藤田さんが、水野という弁護士に遺言状の書きかえを依頼するつもりだったということを読んだでしょう。
藤田さんの遺言状には、自分の死後は財産を全部、公共団体に寄付するということが書かれてありましたが、それを水野氏に頼んで、あなたにも一部分譲ることに書きかえようとしたのです。
ところが、あなたは藤田さんを殺したから、もはや一
これを聞いた瀬木はにわかに全身を緊張させ、思わず叫びました。
「何を言うのです。叔父の遺言状はたしかに全財産を僕に譲ると書いてありました」
「ははは、とうとう白状しましたね」
と、俊夫君は得意げに言いました。
「あなたは机の中の遺言状の写しを自分で見たのでしょう。あの遺言状は三ヶ月前にできたものです。一年以前から藤田家に立ち寄らぬものが、それを知っているはずがありません。実は水野弁護士なんてこの世にありません。みんなあなたを白状させる方便だったのです」
これを聞くなり、瀬木はその場に