芭蕉
芭蕉が創造の功は俳諧史上特筆すべき者たること論を
蕪村の名は一般に知られざりしに非ず、されど一般に知られたるは俳人としての蕪村に非ず、画家としての蕪村なり。蕪村没後に出版せられたる書を見るに、蕪村画名の生前において世に伝はらざりしは俳名の高かりしがために圧せられたるならんと言へり。これによれば彼が生存せし間は俳名の画名を圧したらんかとも思はるれど、その没後今日に至るまでは画名かへつて俳名を圧したること疑ふべからざる事実なり。余らの俳句を学ぶや類題集中蕪村の句の散在せるを見てややその非凡なるを認めこれを尊敬すること深し。ある時小集の席上にて
かくして百年以後に始めて名を得たる蕪村はその俳句において全く誤認せられたり。多くの人は蕪村が漢語を用うるを以てその唯一の特色となし、しかもその唯一の特色が何故に尊ぶべきかを知らず、いはんや漢語以外に幾多の特色あることを知る者
美に積極的と消極的とあり。積極的美とはその意匠の壮大、
積極的美と消極的美とを比較して優劣を判ぜんことは到底出来得べきにあらず。されども両者共に美の要素なることは論を俟たず。その分量よりして言はば消極的美は美の半面にして積極的美は美の他の半面なるべし。消極的美を以て美の全体と
一年四季の
四季の内夏期は最も積極なり。故に夏季の題目には積極的なる者多し。
尾張より東武に下る時
牡丹蘂 深くわけ出る蜂の名残かな 芭蕉
桃隣新宅自画自賛
寒からぬ露や牡丹の花の蜜 同
等の如き、前者はただ季の景物として牡丹を用ゐ、後者は牡丹を詠じて極めて
牡丹散つて打重 りぬ二三片
牡丹剪つて気の衰へし夕 かな
地車のとゞろとひゞく牡丹かな
日光の土にも彫れる牡丹かな
不動画く琢磨 が庭の牡丹かな
方百里雨雲よせぬ牡丹かな
金屏 のかくやくとして牡丹かな
蟻垤
蟻王宮 朱門を開く牡丹かな
波翻舌本吐紅蓮
閻王 の口や牡丹を吐かんとす
牡丹剪つて気の衰へし
地車のとゞろとひゞく牡丹かな
日光の土にも彫れる牡丹かな
不動画く
方百里雨雲よせぬ牡丹かな
波翻舌本吐紅蓮
その句また
若葉もまた積極的の題目なり。芭蕉のこれを詠ずる者一、二句にして
招提寺
若葉して御目 の雫 ぬぐはゞや 芭蕉
日光
あらたふと青葉若葉の日の光 同
の如き、皆季の景物として応用したるに過ぎず。蕪村には
山にそふて小舟漕 ぎ行く若葉かな
蚊帳 を出て奈良を立ち行く若葉かな
不尽 一つ埋 み残して若葉かな
窓の灯 の梢 に上 る若葉かな
絶頂の城たのもしき若葉かな
蛇を截 つて渡る谷間の若葉かな
をちこちに滝の音聞く若葉かな
窓の
絶頂の城たのもしき若葉かな
蛇を
をちこちに滝の音聞く若葉かな
雲の峰の句を比較せんに
ひら/\とあぐる扇や雲の峰 芭蕉
雲の峰いくつ崩れて月の山 同
游力亭
湖や暑さを惜む雲の峰 同
揚州の津 も見えそめて雲の峰
雲の峰四沢 の水の涸 れてより
旅意
の如き皆十分の力あるを覚ゆ。
五月雨の雲吹き落せ大井川 芭蕉
五月雨をあつめて早し最上川 同
の如き雄壮なるものあり。蕪村の句またこれに劣らず。
五月雨の大井越えたるかしこさよ
五月雨や大河を前に家二軒
五月雨の堀たのもしき砦 かな
五月雨や大河を前に家二軒
五月雨の堀たのもしき
夕立の句は芭蕉になし。蕪村にも二、三句あるのみなれども、雄壮当るべからざるの
夕立や門脇殿 の人だまり
夕立や草葉をつかむむら雀
夕立や筆も乾かず一千言
時鳥声横 ふや水の上 芭蕉
の一句あるのみ。蕪村の句の中には
時鳥柩 をつかむ雲間より
時鳥平安城をすぢかひに
鞘 ばしる友切丸 や時鳥
時鳥平安城をすぢかひに
など極端にものしたるもあり。
桜の句は蕪村よりも芭蕉に多し。しかも桜のうつくしき趣を詠み出でたるは
四方より花吹き入れて鳰 の海 芭蕉
木のもとに汁も鱠 も桜かな 同
しばらくは花の上なる月夜かな 同
奈良七重七堂伽藍 八重桜 同
木のもとに汁も
しばらくは花の上なる月夜かな 同
奈良七重七堂
の如きに過ぎず。蕪村に至りては
花に舞はで帰るさ憎し
花の幕
の如き妖艶を極めたる者あり、その外春月、春水、暮春などいへる春の題を艶なる
女倶して
薬盗む女やはある朧月
片町にさらさ染るや春の風
梅散るや
玉人の座右に開く
梨の花月に書読む女あり
閉帳の
ある人に句を乞はれて
返歌なき青女房よ春の暮
琴心挑美人
いづれの題目といへども芭蕉または芭蕉派の俳句に比して蕪村の積極的なることは蕪村集を
積極的美と消極的美と相対するが如く、客観的美と主観的美ともまた相対して美の要素を為す。これを文学史の上に照すに、上世には主観的美を発揮したる文学多く、後世に下るに従ひ一時代は一時代より客観的美に
客観的、主観的両者いづれが美なるかは到底判じ得べきに非ず。積極的、消極的両美の並立すべきが如く、これもまた並立して各自の長所を現すを要す。主観を叙して可なるものあり、叙して不可なるものあり。客観を写して可なるものあり、写して不可なるものあり。可なる者はこれを現し不可なるものはこれを現さず。しかして後に両者おのおの見るべし。
芭蕉の俳句は古来の和歌に比して客観的美を現すこと多し。しかもなほ蕪村の客観的なるには及ばず。極度の客観的美は絵画と同じ。蕪村の句は直ちに以て絵画となし得べき者少からず。芭蕉集中全く客観的なる者を挙ぐれば四、五十句に過ぎざるべく、中につきて絵画となし得べき者を
鶯や柳のうしろ藪 の前 芭蕉
梅が香 にのつと日の出る山路かな 同
古寺の桃に米踏 む男かな 同
時鳥 大竹藪を漏 る月夜 同
さゞれ蟹 足はひ上る清水かな 同
荒海や佐渡に横 ふ天の川 同
猪 も共に吹かるゝ野分 かな 同
鞍壺 に小坊主乗るや大根引 同
塩鯛 の歯茎 も寒し魚 の店 同
梅が
古寺の桃に米
さゞれ
荒海や佐渡に
等二十句を出でざらん。『
春風や麦の中行く水の音 木導
師説 云、景気の句世間容易にする、以 の外 の事也。大事の物也。連歌に景曲と云 、いにしへの宗匠深くつつしみ一代一両句には過 ず。景気の句初心まねよき故深くいましめり。俳諧は連歌ほどはいはず。総別 景気の句は皆ふるし。一句の曲なくては成 がたき故つよくいましめ置たる也。木導が春風、景曲第一の句也。後代手本たるべしとて褒美 に「かげろふいさむ花の糸口」と云 脇 して送られたり。平句 同前 也。歌に景曲は見様 体 に属すと定家卿 もの給 ふ也。寂蓮 の急雨 、定頼卿 の宇治の網代木 、これ見る様体の歌也。
とあり。景気といひ景曲といひ見様体といふ、皆我いふ所の客観的なり。以て芭蕉が客観的叙述を蕪村の句の絵画的なる者は
釣鐘にとまりて眠る胡蝶かな
やぶ入や
葉うら/\
卓上の
夕風や水
四五人に月落ちかゝる
日は
柳散り清水
かひがねや
てら/\と石に日の照る枯野かな
むさゝびの小鳥
水鳥や舟に菜を洗ふ女あり
の如し。一事一物を画き添へざるも絵となるべき点において、蕪村の句は蕪村以前の句よりも更に客観的なり。
天然は簡単なり。人事は複雑なり。天然は沈黙し人事は活動す。簡単なる者につきて美を求むるは易く、複雑なる者は難し。沈黙せる者を写すは易く、活動せる者は難し。人間の思想、感情の単一なる古代にありて比較的に善く天然を写し得たるは易きより入りたる者なるべし。俳句の
芭蕉の句は人事を詠みたる者多かれど、皆自己の境涯を写したるに止まり
鞍壺に小坊主のるや大根引
の如く自己以外にありて半ば人事美を加へたるすら極めて少し。
蕪村の句は
行く春や選者を恨む歌の主
命婦 より牡丹餅たばす彼岸 かな
短夜 や同心衆の川手水
少年の矢数 問ひよる念者ぶり
水の粉 やあるじかしこき後家 の君
虫干 や甥 の僧訪ふ東大寺
祇園会 や僧の訪ひよる梶がもと
味噌汁をくはぬ娘の夏書 かな
鮓 つけてやがて去 にたる魚屋 かな
褌 に団扇 さしたる亭主かな
青梅に眉 あつめたる美人かな
旅芝居穂麦がもとの鏡立て
身に入 むや亡妻 の櫛 を閨 に踏む
門前の老婆子薪 貪 る野分かな
栗そなふ恵心 の作の弥陀仏
書記典主 故園に遊ぶ冬至かな
沙弥 律師ころり/\と衾 かな
さゝめごと頭巾にかづく羽折かな
孝行な子供等に蒲団 一つづゝ
少年の
水の
味噌汁をくはぬ娘の
青梅に
旅芝居穂麦がもとの鏡立て
身に
門前の老婆子
栗そなふ
書記
さゝめごと頭巾にかづく羽折かな
孝行な子供等に
の如き数へ尽さず、これらの
天然美に空間的の者多きは殊に俳句において然り。けだし俳句は短くして時間を容るる能はざるなり。故に人事を詠ぜんとする場合にも、なほ人事の特色とすべき時間を写さずして空間を写すは俳句の性質の然らしむるに因る。たまたま時間を写す者ありとも、そは現在と一様なる事情の過去または未来に継続するに過ぎず。ここに例外とすべき蕪村の句二首あり。
御手討の夫婦なりしを更衣
打ちはたす梵論 つれだちて夏野かな
前者は過去のある人事を叙し、後者は未来のある人事を叙す。一句の主眼が一は過去の人事にあり、一は未来の人事にあるは二句同一なり、その主眼なる人事が人事中の複雑なる者なる事も二句同一なり。此の如き者は古往今来他にその例を見ず。
俳句の美あるいは分つて実験的、理想的の二種となすべし。実験的と理想的との区別は俳句の性質において既に然るものあり。この種の理想は人間の到底経験すべからざること、あるいは実際有り得べからざることを詠みたるものこれなり。また実験的と理想的との区別俳句の性質にあらずして作者の境遇にある者あり。この種の理想は今人にして古代の事物を詠み、いまだ行かざる地の景色風俗を写し、かつて見ざる或る社会の情状を描き出す者これなり。ここに理想的といふは実験的に対していふものにして両者を包含す。
文学の実験に依らざるべからざるはなほ絵画の写生に依らざるべからざるが如し。しかれども絵画の写生にのみ依るべからざるが如く、文学もまた実験にのみ依るべからず。写生にのみ依らんか、絵画は
芭蕉も初めは
の如き理想的の句なきにあらざりしも、一たび古池の句に自家の立脚地を定めし後は、徹頭徹尾記実の一法に依りて俳句を作れり。しかもその記実たる自己が見聞せる総ての事物より句を探り
蕪村の理想を
(略)其角 を尋ね嵐雪 を訪ひ素堂 を倡 ひ鬼貫 に伴ふ、日々この四老に会してわづかに市城名利の域を離れ林園に遊び山水にうたげし酒を酌 て談笑し句を得ることは専 不用意を貴ぶ、かくの如くすること日々或日また四老に会す、幽賞雅懐はじめの如し、眼を閉て苦吟し句を得て眼を開く、忽 ち四老の所在を失す、しらずいづれの所に仙化して去るや、恍 として一人自 彳 む時に花香 風に和し月光 水に浮ぶ、これ子 が俳諧の郷なり(略)
蕪村は蕪村の句の理想と
湖へ富士を戻すや五月雨
名月や兎のわたる
指南車を
滝口に
白梅や墨
宗鑑に
朝比奈が曾我を訪ふ日や
雪信が
新右衛門蛇足をさそふ冬至かな
寒月や
隠れ住んで花に
歴史を借りて古人を十七字中に現し得たる者、以て彼が技倆を見るに足らん。
思想簡単なる時代には美術文学に対する
芭蕉は「発句は頭よりすらすらと
鳩吹くや渋原の蕎麦 畑
刈株や水田の上の秋の雲
の
芭蕉は一定の真理を言はずして時に随ひ人により思ひ思ひの教訓をなすを常とす。その洒堂を
蕪村は立てり。和歌のやさしみ言ひ古し聞き古して
芭蕉の句は
鶯や柳のうしろ藪の前
つゝじ活 けて其陰 に干鱈 さく女
隠れ家 や月と菊とに田三反
つゝじ
隠れ
等の数句に過ぎざるべし。蕪村の句の複雑なるはその全体を通じて
草霞み水に声なき日暮かな
燕 啼 いて夜蛇を打つ小家かな
梨の花月に書読む女あり
雨後の月誰 そや夜ぶりの脛 白き
鮓 をおす我れ酒かもす隣 あり
五月雨 や水に銭踏 む渡し舟
草いきれ人死 をると札の立つ
秋風や酒肆 に詩うたふ漁者樵者
鹿ながら山影 門 に入 日 かな
鴫 遠く鍬 すゝぐ水のうねりかな
柳散り清水涸 れ石ところ/″\
水かれ/″\蓼 かあらぬか蕎麦か否か
我をいとふ隣家寒夜に鍋を鳴らす
梨の花月に書読む女あり
雨後の月
草いきれ人
秋風や
鹿ながら
柳散り清水
水かれ/″\
我をいとふ隣家寒夜に鍋を鳴らす
一句五字または七字の中なほ「草霞み」「雨後の月」「夜蛇を打つ」「水に銭踏む」と曲折せしめたる妙は到底「頭よりすらすらと言ひ下し来る」者の解し得ざる所、しかも洒堂、凡兆らもまた
うき我に砧 打て今は又やみね
の如きに至りては蕪村集中また他にあらざるもの、もし芭蕉をしてこれを見せしめば
外に広き者これを複雑といひ、内に
の如き比較的に
鶯の鳴くや小 き口あけて
あぢきなや椿落ち埋 む庭たづみ
痩臑 の毛に微風あり衣 がへ
月に対す君に投網 の水煙
夏川をこす嬉しさよ手に草履
鮎 くれてよらで過ぎ行く夜半 の門
夕風や水青鷺 の脛 を打つ
点滴に打たれてこもる蝸牛
蚊の声す忍冬 の花散るたびに
青梅に眉あつめたる美人かな
牡丹散 て打ち重りぬ二三片
唐草に牡丹めでたき蒲団かな
引きかふて耳をあはれむ頭巾かな
緑子 の頭巾眉深 きいとほしみ
真結びの足袋 はしたなき給仕かな
歯あらはに筆の氷を噛 む夜かな
茶の花や石をめぐりて道を取る
あぢきなや椿落ち
月に対す君に
夏川をこす嬉しさよ手に
夕風や水
点滴に打たれてこもる
蚊の声す
青梅に眉あつめたる美人かな
牡丹
唐草に牡丹めでたき蒲団かな
引きかふて耳をあはれむ頭巾かな
真結びの
歯あらはに筆の氷を
茶の花や石をめぐりて道を取る
等いと多かり。
庭たづみに椿の落ちたるは誰も考へつくべし。埋むとは言ひ得ぬなり。もし埋むに力入れたらんには俗句と成りをはらん。落ち埋むと字余りにして埋むを軽く用ゐたるは蕪村の力量なり。善き句にはあらねど、埋むとまで形容して俗ならしめざる処、精細的美を解したるに因る。精細なる句の俗了しやすきは蕪村の
「手に草履」ということももし
「
顔しかめたりとも額に
蒲団引きあふて
「頭巾
足袋の真結び、これをも俳句の材料にせんとは誰か思はん。我この句を見ること熟せり、しかもいかにしてこの事を
「歯あらはに」歯にしみ入るつめたさ想ひやるべし。
蕪村の俳句における意匠の美は既にこれを言へり。意匠の美は文学の根本にして人を感動せしむるの力また多くここにあり。しかれども用語、句法の美これに伴はざらんには、
(一)漢語 は蕪村の喜んで用ゐたる者にして、あるいは漢語多きを以て蕪村の唯一の特色と誤認せらるるに至る。この一事がいかに人の注意を
指南車を胡地に引き去るかすみかな
閣に坐して遠き蛙 を聞く夜かな
祇や鑑や髭 に落花を捻 りけり
鮓桶 をこれへと樹下に床几 かな
三井寺 や日は午に逼る若楓
柚 の花や善き酒蔵す塀の内
耳目肺腸こゝに玉巻く芭蕉庵
採蓴をうたふ彦根の夫かな
鬼貫 や新酒の中の貧に処す
月天心貧しき町を通りけり
秋風や酒肆に詩うたふ漁者樵者
雁鳴くや舟に魚焼く琵琶湖上
閣に坐して遠き
祇や鑑や
耳目肺腸こゝに玉巻く芭蕉庵
採蓴をうたふ彦根の夫かな
月天心貧しき町を通りけり
秋風や酒肆に詩うたふ漁者樵者
雁鳴くや舟に魚焼く琵琶湖上
の如きこの例なり。されども漢語の必要ありとのみにて
第二は国語にて言ひ得ざるにはあらねど、漢語を用ゐる方善くその意匠を現すべき場合なり。漢語を用ゐて
夕立や筆も乾かず一千言
時鳥平安城をすぢかひに
絶頂の城たのもしき若葉かな
方百里雨雲よせぬ牡丹かな
「おほかは」と言へば水勢ぬるく「たいが」と言へば水勢急に感ぜられ、「いただき」と言へば山
漢語を用ゐていかめしくしたる句
売卜先生木 の下闇の訪 はれ顔
「坐右」の語は僧に対する多少の尊敬を表し、「
寂として客の絶間の牡丹かな
蕭条として石に日の入る枯野かな
の如きは「しんとして」「淋しさは」など置きたると大差なけれど、なほ漢語の方適切なるべし。
第三は支那の成語を用うる者にして、こは成語を用ゐたるがために興ある者、また成語をそのままならでは用ゐるべからざる者あり。支那の人名地名を用ゐ、支那の古事風景等を詠ずる場合は勿論、我国の事をいふ引合に出されたるも少からず。その句
行き/\てこゝに行き行く夏野かな
朝霧や杭打つ音丁々たり
帛を裂く琵琶の流れや秋の声
釣り上げし鱸 の巨口玉や吐く
三径の十歩に尽きて蓼 の花
冬籠り燈下に書すと書かれたり
侘禅師 から鮭に白頭の吟を彫る
秋風の呉人は知らじふぐと汁
朝霧や杭打つ音丁々たり
帛を裂く琵琶の流れや秋の声
釣り上げし
三径の十歩に尽きて
冬籠り燈下に書すと書かれたり
秋風の呉人は知らじふぐと汁
右三種類の外に
春水や四条五条の橋の下
の句は「春の水」ともあるべきを「橋の下」と同調になりて耳ざはりなれば「春水」とは置たるならん。但し四条五条という漢音の語なくば「春水」とは言はざりけん。
蚊帳釣りて翠微つくらん家の内
特に「
薫風やともしたてかねつ厳島
「風薫る」とは俳句の普通に用ゐる所なれど
(二)古語 もまた蕪村の好んで用ゐたる者なり。漢語は
およぐ時よるべなきさまの蛙かな
命婦 より牡丹餅 たばす彼岸 かな
更衣 母なん藤原氏なりけり
真しらげのよね一升や鮓のめし
おろしおく笈 になゐふる夏野かな
夕顔や黄に咲いたるもあるべかり
夜を寒み小冠者臥 したり北枕
高燈籠 消えなんとするあまたゝび
渡り鳥雲のはたての錦かな
大高に君しろしめせ今年米
真しらげのよね一升や鮓のめし
おろしおく
夕顔や黄に咲いたるもあるべかり
夜を寒み小冠者
渡り鳥雲のはたての錦かな
大高に君しろしめせ
蕪村の用ゐたる古語には藤原時代のもあらん、北条足利時代のもあらん、あるいは漢書の訳読に用ゐられたる即ち漢語化せられたる古語も多からん。いづれにもせよ、今まで俳句界に入らざりし古語を手に従て
(三)俗語 の最俗なる者を用ゐ
出る杭を打たうとしたりや柳かな
酒を煮る家の女房ちよとほれた
絵団扇 のそれも清十郎にお夏かな
蚊帳 の内に蛍放してアヽ楽や
杜若 べたりと鳶 のたれてける
薬 喰 隣 の亭主箸持参
化さうな傘かす寺の時雨 かな
酒を煮る家の女房ちよとほれた
絵
化さうな傘かす寺の
後世
句法は言語の接続をいふ。俳句の句法は
春雨やいざよふ月の海半
春風や堤長うして家遠し
雉 打て帰る家路の日は高し
玉川に高野の花や流れ去る
祇や鑑や髭に落花をひねりけり
桜狩美人の腹や減却す
出 べくとして出ずなりぬ梅の宿
菜の花や月は東に日は西に
裏門の寺に逢著す蓬 かな
山彦の南はいづち春の暮
月に対す君に投網 の水煙
掛香 や唖 の娘の人となり
鮓 を圧 す石上に詩を題すべく
夏山や京尽し飛ぶ鷺 一つ
浅川の西し東す若葉かな
麓 なる我蕎麦存す野分かな
蘭夕 狐 のくれし奇楠 を ん
漁家寒し酒に頭 の雪を焼く
頭巾二つ一つは人に参らせん
我も死して碑にほとりせん枯尾花 (蕉翁碑)
春風や堤長うして家遠し
玉川に高野の花や流れ去る
祇や鑑や髭に落花をひねりけり
桜狩美人の腹や減却す
菜の花や月は東に日は西に
裏門の寺に逢著す
山彦の南はいづち春の暮
月に対す君に
夏山や京尽し飛ぶ
浅川の西し東す若葉かな
蘭
漁家寒し酒に
頭巾二つ一つは人に参らせん
我も死して碑にほとりせん枯尾花 (蕉翁碑)
の如きは漢文より来りし句法なり。蕪村
しのゝめや鵜 をのがれたる魚浅し
鮓桶を洗へば浅き遊魚かな
古井戸や蚊に飛ぶ魚の音暗し
鮓桶を洗へば浅き遊魚かな
古井戸や蚊に飛ぶ魚の音暗し
「魚浅し」、「音暗し」などいへる警語を用ゐたるは漢詩より得たるものならん。従来の国文いまだこの種の工夫なし。
橋なくて日暮れんとする春の水
の如きは古文より来る者、
春の水背戸 に田つくらんとぞ思ふ
この「とぞ思ふ」といふは和歌より取り来りし者なり。その外
衣がへ野路の人はつかに白し
蚊の声す忍冬 の花散るたびに
水かれ/″\蓼 かあらぬか蕎麦か否か
蚊の声す
水かれ/″\
の如きあり。
元禄以来形容語は極めて必要なる者の
水の粉やあるじかしこき後家の君
尼寺や善き蚊帳垂るゝ宵月夜
柚 の花や能酒蔵す塀の内
手燭して善き蒲団出す夜寒かな
緑子の頭巾眉深きいとほしみ
真結びの足袋はしたなき給仕かな
宿かへて火燵 嬉しき在処
尼寺や善き蚊帳垂るゝ宵月夜
手燭して善き蒲団出す夜寒かな
緑子の頭巾眉深きいとほしみ
真結びの足袋はしたなき給仕かな
宿かへて
後の形容詞を用ゐる者、多くは句勢にたるみを生じてかへつて一句の病と為る。蕪村の
蕪村の句は堅くしまりて
つゝじ咲て石うつしたる嬉しさよ
更衣八瀬 の里人ゆかしさよ
顔白き子のうれしさよ枕蚊帳
五月雨の大井越えたるかしこさよ
夏川を越す嬉しさよ手に草履
小鳥来る音嬉しさよ板庇
鋸 の音貧しさよ夜半 の冬
更衣
顔白き子のうれしさよ枕蚊帳
五月雨の大井越えたるかしこさよ
夏川を越す嬉しさよ手に草履
小鳥来る音嬉しさよ
の如きこれなり。普通に嬉しと思ふ時嬉しといはば俳句は無味になりをはらん、まして嬉しさよと長く言はんは
帰る雁 田毎 の月の曇る夜に
菜の花や月は東に日は西に
春の夜や宵 曙 の其中に
畑打や鳥さへ鳴かぬ山陰 に
時鳥平安城をすぢかひに
蚊の声す忍冬の花散るたびに
広庭の牡丹や天の一方に
庵 の月あるじを問へば芋掘りに
狐火や髑髏 に雨のたまる夜に
菜の花や月は東に日は西に
春の夜や
畑打や鳥さへ鳴かぬ
時鳥平安城をすぢかひに
蚊の声す忍冬の花散るたびに
広庭の牡丹や天の一方に
狐火や
常人をしてこの句法に
蕪村は
三椀の雑煮 かふるや長者ぶり
少年の矢数 問ひよる念者ぶり
鶯 のあちこちとするや小家がち
小豆 売る小家の梅の莟 がち
耕すや五石の粟のあるじ顔
燕 や水田の風に吹かれ顔
川狩や楼上 の人の見知り顔
売卜 先生木 の下闇の訪はれ顔
行く春やおもたき琵琶 の抱き心
夕顔の花噛 む猫やよそ心
寂寞 と昼間を鮓 の馴 れ加減
少年の
耕すや五石の粟のあるじ顔
川狩や
行く春やおもたき
夕顔の花
またこの類の語の中七字に用ゐられたるもあり。後世の俗俳家何心、何ぶりなどと詠ずる者多くは卑俗
なれすぎた鮓をあるじの遺恨かな
牡丹ある寺行き過ぎし恨 かな
葛 を得て清水に遠き恨かな
牡丹ある寺行き過ぎし
「恨かな」といふも漢詩より来りし者ならん。
蕪村以前の俳句は五七五の句切にて意味も切れたるが多し。たまたま変例と見るべき者もなほ
松風の落葉か水の音涼し 同
松杉をほめてや風の薫る音 同
の如き者にして多くは「や」「か」等の切字を含み、しからざるも七音の句必ず四三または三四と切れたるを見る。蕪村の句には
夕風や水青鷺の脛 を打つ
鮓を圧す我れ酒醸 す隣あり
宮城野の萩更科 の蕎麦にいづれ
鮓を圧す我れ酒
宮城野の萩
の如く二五と切れたるあり、
若葉して水白く麦黄ばみたり
柳散り清水涸れ石ところ/″\
春雨や人住みて煙 壁 を漏る
柳散り清水涸れ石ところ/″\
春雨や人住みて
の如く五二または五三と切れたるもあり。これ恐らくは蕪村の
句調は五七五調の外に時に長句を為し、時に異調を為す、六七五調は五七五調に次ぎて多く用ゐられたり。
花を踏 みし草履も見えて朝寐かな
妹 が垣根三味線草の花咲きぬ
卯月 八日 死んで生るゝ子は仏
閑古鳥かいさゝか白き鳥飛びぬ
虫のためにそこなはれ落つの花
恋さま/″\願 の糸も白きより
月天心貧しき町を通りけり
羽蟻 飛ぶや富士の裾野の小家より
閑古鳥かいさゝか白き鳥飛びぬ
虫のためにそこなはれ落つの花
恋さま/″\
月天心貧しき町を通りけり
七七五調、八七五調、九七五調の句
売卜先生木の下闇の訪はれ顔
花散り月落ちて文こゝにあら有難や
立ち去る事一里眉毛に秋の峰寒し
門前の老婆子
五八五調、五九五調、五十五調の句
およぐ時よるべなきさまの蛙かな
おもかげもかはらけ/\年の市
秋雨 や水底 の草を踏み渉 る
茯苓 は伏かくれ松露 はあらはれぬ
侘 禅師乾鮭 に白頭の吟を彫
おもかげもかはらけ/\年の市
五七六調、五八六調、六七六調、六八六調等にて終六言を
夕立や筆も乾かず一千言
ぼうたんやしろがねの猫こがねの蝶
心太 さかしまに銀河三千尺
炭団 法師火桶の穴より覗 ひけり
ぼうたんやしろがねの猫こがねの蝶
の如く置きたるは古来例に乏しからず。終六言を三三調に用ゐたるは蕪村の創意にやあらん。その例
嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮れし
一行の雁 や端山 に月を印す
朝顔や手拭 の端の藍をかこつ
水かれ/″\蓼 かあらぬか蕎麦か否か
柳散り清水涸 れ石ところ/″\
我をいとふ隣家寒夜に鍋をならす
霜百里舟中 に我月を領す
一行の
朝顔や
水かれ/″\
柳散り清水
我をいとふ隣家寒夜に鍋をならす
霜百里
その外調子のいたく異なりたる者あり。
梅遠近 南 すべく北すべく
閑古鳥寺見ゆ麦林寺とやいふ
山人は人なり閑古鳥は鳥なりけり
更衣 母なん藤原氏 なりけり
閑古鳥寺見ゆ麦林寺とやいふ
山人は人なり閑古鳥は鳥なりけり
最も奇なるは
をちこちをちこちと打つ砧 かな
の句の字は十六にして調子は五七五調に吟じ得べきが如き。
漢語、俗語、雅語の事は前にも言へり。その他動詞、助動詞、形容詞にも蕪村ならでは用ゐざる語あり。
鮓を圧す石上 に詩を題すべく
緑子の頭巾眉 深きいとほしみ
大矢数弓師親子も参りたる
時鳥 歌よむ遊女聞ゆなる
麻刈れと夕日此頃斜 なる
緑子の頭巾
大矢数弓師親子も参りたる
麻刈れと夕日此頃
「たり」「なり」と言はずして「たる」「なる」と言ふが如き、「べし」と言はずして「べく」と言ふが如き、「いとほし」と言はずして「いとほしみ」と言ふが如き、蕪村の故意に用ゐたる者とおぼし。前人の句またこの語を用ゐたる者なきにあらねど、そは終止言として用ゐたるが多きやうに見ゆ。蕪村のはことさらに終止言ならぬ語を用ゐて余意を永くしたるなるべし。
をさな子の寺なつかしむ銀杏 かな
「なつかしむ」という動詞を用ゐたる例ありや否や知らず。あるいは思ふ、「なつかし」といふ形容詞を転じて蕪村の創造したる動詞にはあらざるか。果して然りとすれば蕪村は
蕪村は古文法など知らざりけん、
更衣母なん藤原氏なりけり
の如きあり。
我宿にいかに引くべき清水かな
の如く「いかに」「何」等の係りを「かな」と結びたるは蕪村以外にも多し。
の「ね」の如き例も他になきにあらず、蕪村は終止言としてこれを用ゐたるか、あるいは前に挙げたる「たる」「なる」の如く特に言ひ残したる語なるか。
の「愛すかな」「存す野分」の連続の如き
夏山や京尽し飛ぶ鷺 一つ
の「京尽し飛ぶ」の連続の如き
蘭夕 狐のくれし奇楠 を ん
の「蘭夕」の連続の如き、漢文より来りし者は従来の国語になき句法を用ゐたり。これらは
蕪村は
飯盗む狐追ふ声や麦の秋
狐火やいづこ
秋の暮仏に化る狸かな
戸を叩く狸と秋を惜みけり
石を
蘭夕狐のくれし奇楠をん
小狐の何にむせけん小萩原
小狐の隠れ顔なる野菊かな
狐火の燃えつくばかり枯尾花
草枯れて狐の飛脚通りけり
水仙に狐遊ぶや宵月夜
怪異を詠みたる者、
化さうな傘かす寺の時雨かな
西の京にばけもの栖 て久しくあれ果たる家ありけり今は其さたなくて
春雨や人住みて煙壁を洩る
狐狸にはあらで幾何か怪異の聯想を起すべき動物を詠みたる者
獺を打し
河童の恋する宿や夏の月
麦秋や
むさゝびの小鳥喰み居る枯野かな
この外犬鼠などの句多し。そは怪異といふにはあらねど
州名国名など広き地名を多く用ゐたり。
河内路や東風 吹き送る巫女 が袖
雉 鳴くや草の武蔵の八平氏
三河なる八橋 も近き田植かな
楊州の津も見えそめて雲の峰
夏山や通ひなれたる若狭 人
狐火やいづこ河内の麦畠
しのゝめや露を近江の麻畠
初汐 や朝日の中に伊豆相模
大文字や近江の空もたゞならね
稲妻の一網打つや伊勢の海
紀路 にも下 りず夜を行く雁一つ
虫鳴くや河内通ひの小提灯
三河なる
楊州の津も見えそめて雲の峰
夏山や通ひなれたる
狐火やいづこ河内の麦畠
しのゝめや露を近江の麻畠
大文字や近江の空もたゞならね
稲妻の一網打つや伊勢の海
虫鳴くや河内通ひの小提灯
糞、尿、
いばりせし蒲団干したり須磨の里
糞一つ鼠のこぼす
蕪村はこれら糞尿の如き材料を取ると同時にまた上流社会のやさしく美しき様をも巧に詠み出でたり。
春の夜に尊き御所を守 身 かな
春惜む座主 の連歌 に召されけり
命婦 より牡丹餅 たばす彼岸 かな
滝口に灯 を呼ぶ声や春の雨
よき人を宿す小家や朧月
小冠者 出 て花見る人を咎めけり
短夜 や暇 賜はる白拍子
葛水や入江の御所に詣づれば
稲葉殿の御茶たぶ夜なり時鳥
時鳥琥珀 の玉を鳴らし行く
狩衣 の袖の裏這ふ蛍 かな
袖笠 に毛虫をしのぶ古御達
名月や秋月どのゝ艤
春惜む
滝口に
よき人を宿す小家や
葛水や入江の御所に詣づれば
稲葉殿の御茶たぶ夜なり時鳥
時鳥
名月や秋月どのゝ
蕪村の句新奇ならざる者なければ新奇を以て論ずれば『蕪村句集』全部を見るの完全なるに
野袴の法師が旅や春の風
陽炎 や簣 に土をめづる人
奈良道や当帰畠 の花一木
畑打や法三章の札のもと
巫女 町によき衣 すます卯月かな
更衣印籠買ひに所化 二人
床涼み笠 着 連歌の戻りかな
秋立つや白湯 香 しき施薬院
秋立つや何に驚く陰陽師
甲賀衆 のしのびの賭 や夜半 の秋
いでさらば投壺 参らせん菊の花
易水に根深 流るゝ寒さかな
飛騨山 の質屋鎖 しぬ夜半の冬
乾鮭や帯刀 殿の台所
奈良道や
畑打や法三章の札のもと
更衣印籠買ひに
床涼み
秋立つや
秋立つや何に驚く
いでさらば
易水に
乾鮭や
これらの材料は蕪村以前の句に少きのみならず、蕪村以後もまた用ゐる能はざりき。
蕪村が縁語その他文字上の遊戯を主としたる俳句をつくりしは怪むべきやうなれど、その句の巧妙にして
春雨や身にふる頭巾着たりけり
出代 や春さめ/″\と古葛籠
近道へ出てうれし野のつゝじかな
愚痴無智のあま酒つくる松が岡
蝸牛 や其角 文字 のにじり書
橘のかはたれ時や古館
橘のかごとがましき袷 かな
一八 やしやが父に似てしやがの花
夏山や神の名はいさしらにぎて
藻 の花やかたわれからの月もすむ
忘るなよ程は雲助時鳥
角 文字のいざ月もよし牛祭
葛の葉のうらみ顔なる細雨かな
頭巾着て声こもりくの初瀬法師
晋子三十三回忌辰
擂盆 のみそみめぐりや寺の霜
近道へ出てうれし野のつゝじかな
愚痴無智のあま酒つくる松が岡
橘のかはたれ時や
橘のかごとがましき
夏山や神の名はいさしらにぎて
忘るなよ程は雲助時鳥
葛の葉のうらみ顔なる細雨かな
頭巾着て声こもりくの初瀬法師
晋子三十三回忌辰
または
題白川
黒谷の隣は白し蕎麦の花
の如き固有名詞をもぢりたるもあり。または
短夜や八声 の鳥は八ツに啼く
思古人移竹
去来去り移竹 移りぬ幾秋ぞ
の如く文字を重ねかけたるもあり。
俳句に
独鈷鎌首水かけ論の蛙かな
苗代の色紙に遊ぶ蛙かな
心太 さかしまに銀河三千尺
夕顔のそれは髑髏 か鉢叩
蝸牛 の住はてし宿やうつせ貝
金扇に卯花画
白がねの卯花もさくや井出の里
鴛鴦 や国師の沓 も錦革
あたまから蒲団かぶれば海鼠 かな
水仙や鵙 の草茎 花咲きぬ
ある隠士のもとにて
古庭に茶筌花 咲く椿かな
雁宕久しく音づれせざりければ
有と見えて扇の裏絵覚束 な
波翻舌本吐紅蓮
閻王 の口や牡丹を吐かんとす
蟻垤
蟻王宮朱門を開く牡丹かな
苗代の色紙に遊ぶ蛙かな
夕顔のそれは
金扇に卯花画
白がねの卯花もさくや井出の里
あたまから蒲団かぶれば
水仙や
ある隠士のもとにて
古庭に
雁宕久しく音づれせざりければ
有と見えて扇の裏絵
蟻垤
蟻王宮朱門を開く牡丹かな
浪花の旧国主して諸国の俳士を集めて円山に会筵しける時
傚素堂
乾鮭や琴に
蕪村は享保元年に生れて天明三年に歿す。六十八の長寿を保ちしかばその間種々の経歴もありしなるべけれど、大体の上より観れば文学美術の衰へんとする時代に生れてその
和歌は『万葉』以来、『新古今』以来、一時代を
当時の和文なる者は多く擬古文の類にして見るべきなかりしも、擬古といふことはあるいは蕪村をして古語を用ゐ古代の有様を詠ぜしめたる原因となりしかも知らず。しかして蕪村はこの材料を古物語等より取りしと覚ゆ。
蕪村が最も多く時代の影響を受けしは漢学
(略)彼も知らず、我も知らず、自然に化して俗を離るるの捷径 ありや、答 曰 、詩を語るべし、子もとより詩を能 す、他に求むべからず、波疑敢問 、それ詩と俳諧といささかその致 を異にす、さるを俳諧を捨て詩を語れと云迂遠 なるにあらずや、答曰 (略)画の俗を去だにも筆を投じて書を読しむ、況 詩と俳諧と何の遠しとする事あらんや(略)
(略)詩に李杜を貴ぶに論なし、猶元白 を捨ざるがごとくせよ(略)
これを読まば蕪村が漢詩の趣味を俳句に(略)詩に李杜を貴ぶに論なし、猶
絵画の上よりいふも蕪村は衰運の極に生れて盛ならんとして歿せしなり。蕪村は自ら画を造りしこと多く、
天明は狂歌盛んに行はれ、
蕪村の
蕪村は
馬堤は毛馬塘なり、則 余が故園なり
といへり。やや長じて東都に遊び、蕪村は総常
彼が字句に拘らざりしは古文法を守らず、仮名遣に注意せざりし事にもしるけれど、なほその他に
射干して く近江やわたかな
とあり。
「春風馬堤曲」とは俳句やら漢詩やら何やら交ぜこぜにものしたる蕪村の長篇にして、蕪村を見るにはこよなく便となる者なり。俳句以外に蕪村の文学として見るべき者もこれのみ。蕪村の熱情を現したる者もこれのみ。「春風馬堤曲」とは支那の曲名を
一春風馬堤曲(馬堤は毛馬塘なり則ち余が故園なり)
余幼童之 時春色清和の日には必 友どちとこの堤上にのぼりて遊び候、水には上下の船あり、堤 には往来の客あり、その中には田舎娘の浪花に奉公してかしこく浪花の時勢粧 に倣 ひ、髪かたちも妓家の風情をまなび、○伝 しげ太夫 の心中のうき名をうらやみ、故郷の兄弟を恥いやしむ者有り、されども流石 故園情 に不堪 、偶 親里に帰省するあだ者成べし、浪花を出てより親里までの道行にて引道具の狂言座元夜半亭と御笑ひ可被下 候、実は愚老懐旧のやるかたなきよりうめき出たる実情にて候
余幼童
やぶ入や浪花を出て長柄川
春風や堤長うして家遠し
堤下摘芳草 荊与棘塞路 荊棘何無情 裂裙且傷股
渓流石点々 踏石撮香芹 多謝水上石 教儂不沾裙
一軒の茶店の柳老 にけり
茶店 の老婆子儂 を見て慇懃 に無恙 を賀し且 儂 が春衣を美 む
店中有二客 能解江南語 酒銭擲三緡 迎我譲榻去
古駅三両家猫児 妻を呼 妻来らず
呼雛籬外 籬外草満地 雛飛欲越籬 籬高堕三四
春草路三叉 中に捷径あり我を迎ふ
たんぽゝ花咲り三々五々五々は黄に三々は白し記得す去年此路よりす
憐 しる蒲公 茎 短 して乳を
むかし/\しきりにおもふ慈母の恩慈母の懐抱別に春あり
春あり成長して浪花にあり
梅は白し浪花橋辺 財主の家
春情まなび得たり浪花風流
郷を辞し弟 に負 て身 三春
本 をわすれ末を取 接木 の梅
故郷春深し行々 て又行々
楊柳長堤道漸くくれたり
矯首はじめて見る故園の家黄昏 戸 に倚 る白髪の人弟を抱き我を待 春 又 春
君 不見 古人太祇が句
藪入 の寝るやひとりの親の側
春風や堤長うして家遠し
一軒の茶店の柳
古駅三両家
春草路三
たんぽゝ花咲り三々五々五々は黄に三々は白し記得す去年此路よりす
むかし/\しきりにおもふ慈母の恩慈母の懐抱別に春あり
春あり成長して浪花にあり
梅は白し
春情まなび得たり浪花風流
郷を辞し
故郷春深し
楊柳長堤道漸くくれたり
矯首はじめて見る故園の家
なほこの外に「
蕪村は『
ある人
蕪村とは天王寺
蕪村の絵画は余かつて見ず、故にこれを品評すること難しといへども、その意匠につきては多少これを聞くを得たり。(筆力等の技術はその書及び俳画を見て想像するに足る)蕪村は南宗より入りて南宗を脱せんと工夫せしが如し。南宗を学びしはその雅致多きを愛せしならん。南宗を脱せんとせしは南宗の
蕪村の画を称する者多く俳画をいふ。俳画は蕪村の書きはじめし者にして一種摸すべからざるの雅致を存す。しかれども俳画は字の如き者のみ、
蕪村の文章
蕪村の俳句は今に残りし者一千四百余首あり、千首の俳句を残したる俳人は四、五人を出でざるべし。蕪村は比較的多作の方なり。しかれども一生に十七字千句は文学者として珍とするに足らず。
蕪村の俳諧を学びし者
明治廿九年草稿
明治卅二年訂正
明治卅二年訂正
(明治三十年四月十三日―十一月二十九日)