夢の話をするのはあまり気のきいたことではない。確か痴人夢を説くという言葉があったはずだ。そう思って念のために辞書をひいて見ると、痴人が夢を説くというのではなくして、痴人に対して夢を説くというのがシナのことわざであった。夢の話をすること自体が馬鹿げたことだというのではない。痴人に対して夢の話をするのが馬鹿げているというのである。そうなると大分むつかしくなる。どうしてそれが馬鹿げているのであろうか。反対に、賢人に対して夢の話をしても馬鹿げたことにならないのはなぜであろうか。それに対するシナ人の答えは、痴人ノ前ニ夢ヲ説クベカラズ、達人ノ前ニ命ヲ説クベカラズという句に示されているように見える。これは陶淵明の句だと言われているが、典拠は明らかでない。とにかく、すでに命を十分に体得している達人に対して、今さら命を説くのが馬鹿げているように、到底現実となり得ないような夢にあこがれている痴人に対して、さらに夢を説いて聞かせるのは、馬鹿げたことだという意味であろう。夢にあこがれている痴人に対してなすべきことは、人力のいかんともなし難い命運を説いて聞かせることである。そのように、命を悟ってあきらめに達している賢人に対しても、夢を説いて聞かせるのは無意味ではあるまい。夢へのあこがれがどれほど現実に動いているかを痛感させてやれば、命運で割り切ってあきらめの底に沈んでいる達人も、なんとかしなくてはという気持ちで、動き出してくるかも知れない。あるいはまたそういう達人は、夢の話を聞いて、その底に動いている命を達観し、それを解りやすく教えてくれるかも知れない。従って達人に対して夢を説くということは、少しも馬鹿げたことではない。これが陶淵明の句から当然帰結されてよい考えだと言ってよかろう。
右のシナ人の句では、夢というのが文字通りの夢であるのか、あるいは理想のことを比喩的に言っているのか、はっきりしないのであるが、理想のことを言っているのだとすると、空想的なユートピアの論や歴史的転回の必然性の論に関係がなくもなさそうである。しかし文字通りの夢を問題としているのだとしても、学者が夢の中から無意識の底の深い真実を掴み出してくれる現代にあっては、なかなか馬鹿にできぬ考えだといわなくてはならない。痴人に対して夢を説いても何にもならないが、精神分析学者の前で夢を説けば、自分にも解らない自分の真相を実に明白に開示してもらえるからである。もっともそういう精神分析学者の解釈を信用しないことはその人の自由である。昔は夢は神のお告げということになっていたので、占卜者の解釈を信用しないと、恐ろしい神罰を受ける怖れがあった。精神分析学者は神のお告げを神様の方から生理心理的な個体の方へ移してしまって、リビドの表現ということにしてしまったのであるから、そういう学説をエセ学説として排斥しても、リビドが復讐するなどということはなかろう。そういう態度を取る方がかえってその人のリビドを健康ならしめるかも知れない。もっともこのリビドがエラン・ヴィタールのようなものであるとすると、また大分神様の方へ近づいてくるが、それにしても神罰などの怖れはない。そういうエセ形而上学は困ると考えるのはその人の自由である。しかしそれにもかかわらず、夢を説くことは、痴人に対してこそなすべきでないが、達人に対してはやってよいという事態は、依然として変わらないのである。昔のシナ人の言葉にはなかなか味があると思われる。
フロイドが夢の解釈を書いた時よりも後に出た本だと思うが、ヒルティの『眠られぬ夜々のために』というのを高等学校の時に岩元さんに読まされたことがある。その中に、夢はその時々の人格の成長のインデックスだという意味の言葉があった。この言葉はその後長くわたくしの心にこびりついていたが、夢を見たあとで、自分の人格の成長を知って喜ぶなどということは一度もなかった。何か食い過ぎた夜の夢などはろくなことはなかった。ヒルティの言葉が本当なら、わたくしは人格的に一向成長しなかったことになる。あるいはそうであるのかも知れない。そういう点についても、少し夢を語って見なければ、達人から教えを受けるわけに行かないであろう。
もう十何年か前の話である。日米関係が大分険悪になっていたころであるから、昭和十五年の末か十六年の初めごろであったかと思う。国際文化振興会の黒田清氏に招かれて、谷川徹三氏などとともに星ヶ岡茶寮で会食したことがある。その席で少し食い過ぎたためであったかも知れない。その夜の夢にわたくしは日米開戦を見たのである。
星ヶ岡茶寮のあった日枝神社の台は、少し小高くなっていて、溜池の方向から下町が少し見える。しかし東京湾まで見晴らせるというわけではない。しかるに夢では、どうやら星ヶ岡らしい高台から見晴らしているのであるが、海がわりに近くに見え、その海に面して十層くらいの高層建築が数多く立ち並んでいた。初め岡の麓から崖ぞいの道をのぼりかかった時、どういう仕方であったか、とにかく空襲だということが解って、急いで見晴らしのきくところまでのぼって行ったのであるが、その時にはちょうど右の高層建築群の上へ編隊がさしかかっていた。盛んに爆弾が落ちてくる。急降下爆撃をやる飛行機もある。あっと思った瞬間に、わたくしにはこれがアメリカの飛行機であり、この爆撃によって日本が致命的な打撃をうけるということが解っていた。やっぱりやられることになったのかと思って、わたくしは、なんともいえず重苦しい気持ちになった。
東京で海添いに高層建築の立ち並んだ場所などはない。どうしてそういう風景が心に浮かんで来たかは、まるで見当がつかない。しかしその風景は、夢のさめた後まで、実にはっきりと心に残っていた。それはどこかシンガポールのようでもあったし、またヴェニスのようでもあったが、それらよりはよほど壮大であった。むしろ、飛行機から撮ったニューヨーク港の景色に似ていたといってよいかも知れない。高層建築はニューヨークほど高くはなかったが、それらの建築が日光に輝いている光景は、なかなか立派であった。ここをやられると日本は致命的な打撃をうけるというのが、この夢の前提であった。
右の第一場から第二場へどういうふうに転換したかは、まるで覚えがない。第二場は今住んでいる練馬あたりの田舎と同じような、畑つづきの野原であった。その畑の間の野道を家内や孫とともにぶらぶら歩いていると、突然空にガーッと飛行機の音が聞こえて来た。驚いて見上げると、数十機の編隊がわりに低空を飛んで来る。それを見た瞬間に、どういうわけかわたくしには、それがアメリカの飛行機であることが解った。のみならずわたくしは、あゝ、やっぱりあれを発明していたのだ、これではどうにも仕方がない、と感じて、ひどいショックをうけた。その「あれ」が何であったかは一向明らかでない。蒼空にくっきりと刻まれた飛行機の姿は、妙に鮮やかに記憶に残っているが、それには新しい発明を思わせるものは何もなかった。それでもわたくしは、かねがね恐れていた発明をアメリカ人がすでに成就していること、その恐ろしい武器をもって今日本を攻撃して来たのであることなどを、この瞬間に理解して縮み上がったのである。でとにかく家内や孫をどこかへ避難させなくてはならぬと思って、あたりを見回すと、そこは一面の茄子畑で、茄子の紫色が葉陰から点々と見えているだけで、身を隠す草むらさえなかった。飛行機の編隊はもう真上へ迫ってくる。それは晴れ上がったよい天気の日で、野一面の緑が実に明るく美しかったが、もういよいよこれで最期だ……という時に目がさめたのである。
この茄子畑の印象は、関東大地震の時の記憶が蘇ったものらしい。わたくしはあの地震に千駄ヶ谷の徳大寺山の下で会ったが、最初の大きい地震で家の南側の畑の中に避難していると、そこの茄子畑が余震の時にちょうど池の面のさざなみのように波うつのが見えた。茄子畑と危険とが結びついたのはそういう因縁であろうと思われる。飛行機の編隊なども平生見慣れていた低空飛行の時の姿であって、後に実際に B29 の攻撃を受けたときの光景とはまるで似寄りがなかった。夢の個々の要素を捕えて洗い上げて行けば、大抵は見当がつくかと思う。しかし東京がアメリカの航空隊の奇襲をうけるということ、そのアメリカの航空隊が何か重大な恐ろしい発明を運んでくるということは、昭和十五六年ごろのわたくしの意識には、はっきりとはのぼっていなかったように思う。わたくしのみではない。世界の軍事専門家の間でも、真珠湾の奇襲やプリンス・オブ・ウェールズの撃沈が起こるまでは、まだ航空機をそれほど重要視してはいなかったであろう。従ってこの夢の主題そのものは、覚めた意識のなかから生まれて来たと考えることができない。それを産んだのは潜在意識である。昔の人のように、これを神の告げと解し、それを心の底から信じて人々に説いていたならば、わたくしは予言者になることができたわけである。航空隊の奇襲で戦争が始まるという予言は、アメリカ側の奇襲でなく日本側の奇襲であったという点において、ちょっと外れた格好にはなるが、しかし数か月待っていれば、アメリカ航空隊の東京奇襲は事実になってくる。この奇襲は大した効果もなかったように見えるが、しかしそれがミッドウェー海戦を誘発したとすれば、非常に大きい意義を持つものになってくる。それが日本に致命的な打撃を与えたと言えなくもない。やがて間もなく南洋でボーイング B17 が活躍を始め、レーダーが日本海軍の特技を封じてしまう。新しい発明が物を言い始めたのである。そうして最後には、文字通りに、飛行機が「あれ」を、原子爆弾を、運んでくる。ここで予言は完全に適中したことになる。
わたくしは、覚めた意識においても、その種の可能性を考えなかったわけではない。しかし多くの可能性が考えられる場合に、その一つを選んで、これが必ず未来に起こると決定することは、なかなか容易でない。従って右に類することを考えたとしても、それはただ一つの可能性としてであって、未来の見透しというようなはっきりした形を持ってはいなかった。しかるに夢では、その一つの可能性だけが、実現された形で現われてくる。自分が選択したのではないのに、それはすでに選択されている。そういうふうに、覚めた意識では決定のできないことを、夢ではすでに決定しているというところに、夢の持つ示唆性があるのであろう。もちろん、夢で決定されている通りに未来の事件が運ばないこともある。恐らくその方が多いであろう。しかし夢の通りに未来の事件が運んで行った場合には、夢にいろいろと意味をつけることになる。右の夢の場合はその一つである。
わたくしはこの二三年あまり夢を見なくなった。停年で大学をやめて講義をする義務から解放されたせいであるかも知れない。あるいは夕食の際に飯を一碗以上は決して食わないという習慣がついたせいかも知れない。あるいはまた、実際に夢を見ていても、醒めた後に意識に残らないのであるかも知れない。しかるに最近、珍しく変てこな夢を見て、それがはっきりと意識に残っているのである。
それはシカゴで共和党の大統領候補者指名大会が開かれ、新聞にデカデカとその記事がのるようになってからであった。アイゼンハワーの指名はまだきまっておらず、マッカーサーの基調演説の内容もまだ報道されていなかった時だと思う。その新聞の記事が刺激になっていることは明らかである。しかしわたくしは大統領選挙にそれほど肩を入れているわけではないし、あの記事から近ごろの夢を見ない習性を破るほどの強い刺激を受けたとも思わない。多分その晩に食った鳥鍋がおもな原因であろう。鳥鍋と言っても鳥の肉をそんなに食ったわけではない。おもに野菜や豆腐を食ったのである。しかしその分量が普段の日よりは多かったように思う。
その夢の初めの方は少しぼんやりしているが、なんでも山の上の温泉場か何かで重大な大会が数日来催されていた。その様子は毎日テレヴィジョンで全世界に報道されている。今日はその最終日で、プログラムの最後に、重要な宣言が行なわれる。その宣言を演説する役目を、どういうわけかわたくしが引き受けているのである。それでその会場に行くために、わたくしは麓の電車の終点から、ぽつぽつと山あいの道を歩いている。時間は余分に見込んであるので、ゆっくりぶらついて行って大丈夫なのである。
この山あいの道は箱根のような山道ではなく、鎌倉の町から十二所の方へはいって行く道のように、平坦な道であった。そのくせ山の上の温泉場は、太平洋側と日本海側との分水嶺になっていて、日本海がよく見晴らせるはずであった。数日来のテレヴィジョンで、わたくしはその会場の広闊な眺めを知っていることになっていた。なんだかそこは山陽道と山陰道との脊椎に当たる場所であったような気もする。そういう場所へ平坦な山あいの道を歩いて簡単に行けるということは、いかにもおかしいが、そこはいかにも夢らしいところである。
わたくしは非常に憂欝な気持ちでその道を歩いて行った。なんだってこんな役目を引きうけたろうとムシャクシャするのである。大会の宣言演説はテレヴィジョンで全世界に報道される。それはまことに花やかな役目であるかも知れないが、しかし今の世界に対してこういう理想を説くことは、いかにもそらぞらしいではないか。舞台で見栄を切ることはわたくしの性には合わない。わたくしはそういう世界からは文字通りに隠居することを堅く決意していたはずである。それになんだって気弱く譲歩してしまったのであろう。それでも大会のお祭り騒ぎに列することは避けて、自分の役目を果たすだけのぎりぎりの時間に出席しようとはしている。そのため人目を避けてこっそり電車でやって来て、こうしてぽくぽく歩いているのである。しかしそうするくらいなら、なんだって初めに固くことわってしまわなかったのであろう。実にだらしがない。そういうことをくよくよ考えながら歩いて行った。
やがてこの谷の奥にある最後の村へついた。その村はだらだら坂をのぼった丘の上にある。この村の左下を回って裏へ抜けると、向こうに目ざす温泉場の山が見えることになっている。約束の時間にはゆっくり間に合うと思いながら、村のうしろへ回る道を崖の上から見おろすと、驚いたことには、その道の上に一メートルほどの深さで澄んだ水が溜まっている。その水の底に白っぽい道の表面がはっきりと見えた。その道はどういうわけかわたくしには見慣れた馴染みの道なのである。この道がこれほど水をかぶるくらいならば、この谷の奥はよほどひどい洪水だなとわたくしは思う。これでは予定通りに向こうへつくことはできないかも知れない。これは大変なことになった。なんとかならないだろうかとわたくしはやきもきし始める。ここへ来るまでは大会へ出席することがいやでたまらなかったのに、ここで約束通り目的地へ着けないかも知れぬということが大問題になってくる。
わたくしは大急ぎで馴染みの爺さんの家の方へ歩いて行った。いつの間にかこの村がわたくしの馴れ親しんだ土地だということになっていて、ここに親切な爺さんの家があるのである。爺さんの家の前の庭にはいっぱいに刈り取った麦が積んであって、人々が忙しそうに脱穀の作業をやっていた。はいって行くと皆が笑顔で迎えてくれる。この庭を取り囲んで納屋や鶏小屋があり、おも屋の軒には小鳥の籠が吊してあった。その小鳥の籠の下で爺さんにわけを話し、なんとか方法はなかろうかと相談すると、爺さんは、そんなら舟で行ったらよかろう、あいにくわたしンとこには舟はないが、あの崖ぶちの○○が舟を持っている。頼めば舟で向こうまで渡してくれるだろうと教えてくれた。わたくしはその○○という名を聞いて、あああの家かとすぐに了解したのであるが、今その名を思い出そうとしても、どうしても出て来ない。
わたくしはほっとした気持ちで崖ぶちへ引き返し、その○○の家の前に立った。その家は戦災後の東京でよく見かけるような、こけら葺きの板小屋であった。往来に向いた方は羽目板ばかりで窓もなかった。その家の扉の前で音ずれると、扉を中から押し開いて顔を出したのが、洋装した若い女であった。わたくしが来意をつげると、それを落ちついて聞いていた女が、いやにハキハキした言葉で答えた。よろしゅうございます。舟はお出しいたしましょう。しかしこちらにも条件がございます。こういう際に好意でお出しいたすのでございますから、まずわたくしどもの××協会の活動に同情していただいて、寄付金千円頂戴いたしとうございます。それから渡し舟料は三千円にしていただきます。この××協会というのもその時ははっきりと名を聞いたのであるが、今は思い出せない。とにかくその協会の名を聞いて、わたくしは、ああこの女は左翼の運動に参加しているのかと思った。こんなわずかな渡し舟のために、足許を見て三千円と吹きかけるのも、資金かせぎのためであろう。ところでわたくしは、千五百円しか持っていない。紙入れを調べて見なくてもわたくしにはそれが解ったのである。普通の相場から言えば千五百円でも高すぎるくらいであるが、しかしこの相手では値切ってもだめであろう。そう思ってわたくしは退却した。その女にどういう挨拶をし、その女がどう言ったかは、はっきりしない。
わたくしは爺さんの所へひき返して○○の言い分を話した。爺さんはいかにも気の毒そうな表情をしたが、そうかねと言ったきり、何も説明してくれなかった。しかしその表情でわたくしは、爺さんが○○のやっていることに対して強い非難の気持ちを抱いていること、しかし口に出して非難するのを用心深く差し控えていること、爺さんが仲にはいって口をきいても○○の気持ちを変えさせる望みがないことを了解した。でわたくしは、爺さんの顔から気の毒そうな表情が消えないうちに、目的地の温泉場へ行くことを断念した。そうしてできるだけ早く大会へ欠席の旨を通知したいと思った。わたくしは爺さんに、電話のある家はなかろうかと聞いた。爺さんは、電話ならあのうちにあるがね、と浮かない顔をしながら、近所の大きい木に囲まれた家を指さした。
わたくしはなるべく早く電話をかけて、大会の人たちに事情を知らせたいと考え、急いでその家の方へ行った。そこはその家の横手で、草花などを植えた庭のよく見えるところであった。門はどこにあるか解らなかった。気がせくのでその庭の垣根のそばだか土手のそばだかへ近づいて行った。どんな垣根があったかははっきりしないが、そこから家へ近づいて行って電話の借用を申し込むつもりであったらしい。一歩庭へ足を踏み入れたときに、突然庭の方から、和服を着流した四十格好の役者のような美男子が出て来て、なんだって人の邸へ侵入するのだと詰問した。わたくしは足を引きこめて、へどもどしながら、急ぎの用のために電話を拝借したいのだと弁明した。しかしその男は承知しなかった。そういう用事なら門からはいってくるがよい。庭へ侵入してくるとはけしからん、と言った。わたくしはこの際電話を借りることができなくては大会の人たちに迷惑をかける、なんとかしてこの相手の気持ちを和らげなくては、と思って、しきりに言いわけを言ったが、相手は頑としてきかなかった。元来わたしはノラクラ遊んで生活しているやつは大嫌いなんだと言った。
わたくしは気がせいたために人の家の庭先からはいり込もうとした手落ちを認め、改めて表門から訪ねて行って頼み込もうと考えた。そうしてその庭の外側を回って表門の方へ出ようとした。初めはさほど広い庭でもなかったはずであるが、土手の上に生垣を作った外側は数町も続いていた。相変わらず、早く電話をかけなくてはと思いながら、やっと表門へ出て、玄関から声をかけると、すぐに前の人が出て来た。改めて急ぎの用のあることを言い始めると、今度は前と変わって非常に和らかな調子になって、わたしは根本方針を変えることはできない、従ってわたしの家の電話をお貸しすることはできないが、しかしこの村にはもう一軒電話を持った家がある、そこへ案内して差し上げようと言った。そうしてわたくしと連れ立って、この村の中心ででもあるらしい場所を歩いた。火の見櫓の下を左へ折れると、突き当たりに寺の山門が見えた。その寺がもう一軒の電話のある家であった。
案内の人に連れられてその寺に上がると、そこは本堂だか庫裏だかハッキリしないが、とにかく天井の高い広い部屋に、ところどころ椅子やテーブルが置いてあって、そこでいろいろな人が事務を取っていた。その間を通りぬけて奥まったところ、どうやらもと内陣であったらしいところに、これもやはり四十格好の、せいの低い、太った、逞しい男が控えていた。その顔は、下品ではあるが精悍であった。わたくしは一眼見て、あゝこれが和尚さんだなと思った。案内の人はわたくしを紹介して、電話を貸して上げてくれと言った。和尚さんは無愛想なムッツリとした顔をして、あゝよろしいと答えた。
わたくしはこれでやっと解決したと思いながら、和尚さんの左うしろの壁にかかっている電話器のそばへ行った。がさてかけようとしても向こうの番号が解らなかった。で振りかえってそこいらにいた人に大会場の番号をきいた。すると和尚さんの顔が急に緊張した。それとともに数人の人がばらばらとわたくしの囲りに集まって来た。ただならぬ空気がそこに醸し出された。
わたくしはおおぜいに取り巻かれて、いろいろ和尚さんから詰問をうけた。大会場へ何の用で電話をかけるのか、いったい君は誰だというようなことであった。結局わたくしは、自分の名を名のり、なぜ電話をかけなくてはならなくなったかを白状せざるを得なくなった。しかし白状しても和尚さんはそれを信用しなかった。今世界的なニュースになっている大会の、しかも最も重要な宣言演説者が、今ごろこんなところでまごまごしているはずはない。そういう地位の人は自動車でも飛行機でも自由に使えるはずではないか。人を馬鹿にするな、というのである。致し方なくわたくしは胸のポケットから書類を出した。それを和尚さんに渡す前にパラパラとめくって見ると、初めの二三枚は和文のタイプライターで打った宣言演説の原稿であり、そのあとにこの地方の知事とか警務部長とか国鉄の当局とか町長とかに当てた通牒が続いていた。一々名宛てを書いて、別々の文句が記されていた。それは大会場へ赴くためにあらゆる便宜を供与してもらいたいという意味のものである。わたくしは、おやこんなものを持っていたのかと思いながら、それを和尚さんに渡した。和尚さんはそれを見ると急に態度をかえて、部下に早く電話をかけろと命令した。
その時にわたくしは時計を見た。十一時三十分であった。わたくしは、あゝとうとう間に合わなかったかと思った。そこで目がさめた。
この夢にシカゴの大統領指名大会とかマッカーサーの基調演説とかが反映していることは明らかであろう。またその基調演説が行なわれる前であったということも重要な関係を持っているであろう。その演説を阻止する契機として洪水が出てくるのは、多分その晩に雨が降ったせいであろうと思われる。しかしその洪水が、濁水の奔流としてでなく、透きとおった水の停滞した姿で現われて来たのは、実に案外である。わたくしは洪水で見渡す限り一面に泥海になるという光景を見たことがある。また逆巻く濁流のなかに田舎家の流されて行くのを見たこともある。しかし澄んだ水の洪水というのは、ただ一度、明治四十年の秋に、河口湖で見ただけである。その時は春山武松君などと一緒に富士五湖めぐりをやったのであるが、船津で泊まって翌日舟で河口湖を渡るときに、湖水の水の下に立ったままの唐もろこしの畑などが見えた。船頭の説明によると、その夏の豪雨の時に湖水の水位が一丈何尺とか上がり、周囲の畑に水をかぶったまま、まだ減水しないのだということであった。つまりその時には、平生の畑の上を舟でとおっていたのである。その時の経験以外には、どう考えて見ても、水の底に往来が見えるなどという光景の思い浮かべられる機縁がない。して見るとこの夢には、前の晩に読んだ夕刊の記事と一緒に、四十何年か前の印象が蘇って来ているとしなくてはならない。まことにでたらめなものである。
わたくしはこの久しぶりの夢を回想してあんまりいい気持ちがしない。ヒルティの言葉が本当なら、全くやり切れないなと思う。いくらなんでもあんまりケチ臭すぎる。その上、前の夢と違ってその後年月が経っていないのであるから、この夢の中の予言的な要素などを見つけ出してくることもできない。だからこの夢を書いて見ようと思ったときに、いきなり、痴人夢を説くという言葉が頭に浮かんだのである。しかし古人が戒めているのは、痴人に対して夢を説くことであって、痴人が夢を説くことではないと気づいて、ケチ臭い夢をケチ臭いままに書いて見たのであるが、そうやって反芻しているうちに二つのことに気づいた。それはいずれも覚めている時のわたくしにとって、おやと思うようなことである。
夢のなかでわたくしを押えつけていた力の一つは、渡し舟料を高く吹きかけた○○の娘である。それは左翼運動を代表して現われて来たはずであるが、わたくしは渡し舟料を払い得ない貧乏のためにその前に屈した。もう一つは電話を貸してくれなかった男であるが、最初垣根越しに相対した時の人相が妙にハッキリと記憶に残っている。若いころの寿美蔵と現在の清水幾太郎氏とを一緒にしたような顔であった。何かしゃれた和服を着流していたし、その邸はなかなか広大であったのであるが、その男が実にはっきりと、ノラクラ遊んで暮らしているやつは大嫌いだと言った。この言葉はわたくし自身に向けられていたのである。つまり資本家階級を代表して現われて来たらしい男が、わたくしを遊民として非難したのであった。左翼からは貧乏のためにやっつけられ、右翼からは徒食のためにやっつけられるというのは、どうも理屈に合わない。
もっともこの、ノラクラ遊んで暮らしているという非難は、戦前から戦争中へかけて、われわれ頭脳労働者が時々あびせかけられたものである。そのころは肉体労働をしないとノラクラ遊んでいることにされた。だから文学報国会などというものができて、文芸家たちが宮城前広場で肉体労働をやったりなどした。わたくしはそういうものに一度も関係したことはないし、学生の勤労奉仕について行ってもただ眺めているだけであった。そのため陰では非難する人もあったらしい。わたくしはそんなことは意に介しなかったが、最も困ったのは、近所の畑道を散歩することであった。書斎で頭脳労働をやっているものは、時々散歩でもしないと体がもたない。ところでその散歩する時刻は、ちょうど農業労働者の労働の真っ最中にぶつかる。散歩はノラクラ遊んでいることを露骨に形に現わしたものであるから、それを農人たちの労働の真中へ持ち出せば、否応なしに極端なコントラストが起こる。おれはノラクラ遊んでいるのではない、書斎で苦しい労働をしているのだ、と弁解して見たところで、散歩がノラクラ遊んでいる姿であることを変えるわけには行かない。またノラクラ遊ぶのでなくては、散歩は休養の役には立たない。だから右のコントラストはどうにもできなかったのである。そこへ文芸家が人前で肉体労働をやって見せるなどという形勢が現われて来たのであるから、右のコントラストはおいおい心理的に重荷として感ぜられるようになって来た。とうとう最後には、一年くらいの間、散歩ができなくなってしまった。ノラクラ遊んで暮らしているやつは大嫌いだという言葉の裏には、そういう重荷の経験がひそんでいるのである。
しかしその言葉が、麦の脱穀に忙しい爺さんの家の庭ででも聞かれたのなら不思議はないが、大きい邸に住んでいて和服をぞろりと着流している男、おのれ自身がノラクラ遊んで暮らしているらしい男の口から出たのだから、不思議である。爺さんの家の庭で働いていた人たちは皆笑顔でわたくしを迎えてくれた。しかるにこの和服を着流した男は、いかにも憎悪をこめた調子であの言葉を言った。どうも話が逆である。
もう一つ気づいたことは、和尚さんや寺の様子が、覚めているわたくしにとって案外に感ぜられることである。和尚さんもまた夢の中でわたくしを押えつけていた力の一つであり、しかも前の二つと違ってわたくしを吊し上げのような目に合わせるのであるが、その面構えは、徳田球一と広川弘禅とを一つにしたようであった。もっともこの二人の顔は写真で見ただけである。肉づきの工合やふてぶてしい感じは徳田に似ていたが、鼻の下の髯や無愛想な表情は広川そっくりであった。ところで寺を改造した事務所の空気は、どうも十年前の大政翼賛会と同じであったように思う。和尚さんの下にそういう若者たちが集まっていて、それがこの村の政治を握っている。そうしてみんながいやに威張っている。そういうことを覚めているわたくしはかつて想像して見たこともない。仏教や寺や僧侶たちが新しい活気を帯び、指導的な役目にのり出してくるであろうということは、今の情勢ではちょっと考えにくい。しかるに夢の中の和尚さんは、十年前の軍人のように威圧力を持っていて、若者たちを手足のように動かしていた。これがどうも不思議である。
この和尚さんも若者たちも、大会の権威の前には恭順の意を表したのであるから、大会そのものも大政翼賛会のようなものであったかというと、それはそうでなかったようである。大会はもっと進歩的で、国際的で、思い切った革新的なプログラムを発表するはずであった。ところがそのプログラムの内容が一向明らかでない。最後の場で演説の草稿を一瞥したとき、わたくしは、あゝあれかと思った。その内容は先刻御承知という気持ちであった。しかるにわたくしは一語も覚えていない。ただそれが近い将来には到底実現の見込みのない理想的なものだということだけが、この夢の前提になっている。
十数年後にふり返って何かこの夢の中に意義が見いだされるとすれば、それは今理屈に合わない、不思議だと思われる点の中にあるかも知れない。
(昭和二十七年九月『新潮』)