クラリネットを吹く男
小川未明
李さんが、この町にすんでから、もう七、八年になります。いまではすっかり町の人としたしくなって、えんりょ、へだてがなくなりました。工場へつとめ、朝出かけて晩に帰ってきます。
休みのときは、よく近所の源さんのところへあそびにいきました。この二人は、わけて仲がよかったのです。源さんは会社につとめて、ごくほがらかな性質でありましたが、李さんはそれにくらべて口数の少ない、うちきなところがありました。
二人は、顔を見ると、将棋をさしました。源さんのほうが、いくらか李さんよりは強いようでした。しかし、李さんは、音楽にも趣味をもっていて、ラジオで、歌を放送するときなど、将棋をさしながら、自分の駒がとられるのも知らず、歌のほうに気をとられていました。あるとき、朝鮮の歌が、若い女の人に歌われました。
李さんは、目に涙をためて聞いていました。
「李さん、あれはどんな歌かね。」と、源さんがきくと、李さんは、さびしく笑って、
「鳥、鳥、どこへいく、あちらの山へというような歌ですよ。」と、答えました。
「ははあ、どこの国も、子守唄は、かわらないんだね。」
「そうですとも、私、子供の時分に、おばあさんが、よく歌ってくれました。」
「李さんは、クラリネットが、うまいそうだが、ひとつきかせておくれよ。」と、源さんがいいました。
「私の生まれた町へも、あめ屋がよくクラリネットを吹いてきました。私、あの音が大すきで、はたらくようになってから、古道具屋に下がっていたのを買って、吹くことをおぼえました。こんど、野原へいってきかせます。」
李さんが、休みの日には、源さんが出かけなければならなかった。二人が、クラリネットを持って、そとへいくような日は、ついにこなかったのでした。
ある日、李さんは一人で土手の上でクラリネットを吹いていました。もう、夏もいくころで、空には、赤い花びらをちらしたように、雲が美しく飛んでいました。
ちょうど良ちゃんと清ちゃんが、川を後にして、釣りから帰ってくる途中でした。二人は話しながら、いい音のする方へ、土手を上って近づいてきました。
「あっ、だれだと思ったら李さんか、うまいんだなあ。」と、良ちゃんは、感心しました。
「もう一つ、なにか吹いてきかせておくれよ。」と、清ちゃんがたのみました。すると李さんは、しずかにくれていく、遠い空の方をながめながら、「ぼうやはいい子だ、ねんねしな」の子守唄を吹いてきかせました。二人の少年は、じっと耳をすましてきいていました。バケツを下に置いて、さおを肩にかついだまま、お母さんに抱かれていたころを思い出すように……。
それから、三人は、話しながら、お家の方へ帰っていきました。
「僕は、学校で会があると、ハーモニカを吹くんだよ。」と、良ちゃんが、いいました。
「李さん、良ちゃんはうまいんだよ。」
「こんど、クラリネットと合わせてみようか。」
「ほんとうに、吹いてみよう。」
秋のはじめでした。源さんに、召集令が下りました。
「どうか、家のことはあんじないで、お国のためにはたらいてください。」と、近所の人々が、源さんにいいました。
「一命をささげて、ご奉公いたします。」と、源さんは、誓いました。
それから後のことです。源さんの家では、お菓子屋をはじめました。李さんは良ちゃんに、
「どうだ、一つジンタになって、店のひろめをしてやろうじゃないか。」と、いいました。
「ああ、それがいい。」と、良ちゃんは賛成して、清ちゃんにも相談しました。
冬空の下に、クラリネットと、太鼓と、ハーモニカの音が、いりまじって聞こえました。中でも調子の高いクラリネットの音は、光った雲にまでとどくようでした。
町の人々は、戸口へ出てみると、先に立って歩いているのは李さんです。背中に大きな紙を下げていました。それには、
「銃後をまもるために、菓子屋を開きました。みなさん、ごひいきにしてください。」と、書かれ、その下に番地と店の名がしるしてありました。李さんのつぎに、半ズボンをはいた良ちゃんが、ハーモニカを鳴らし、その後に、大太鼓をたたく清ちゃんがつづきました。大太鼓は、町会から借りたものです。
折から西日のさした町の内は、この楽隊の音で、いっそう明るく見えました。
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