ゆずの話
小川未明
お父さんの、大事になさっている植木鉢のゆずが、今年も大きな実を二つつけました。この二つは、夏のころからおたがいに競争しあって、大きくなろうとしていましたが、二つとも大きくなれるだけなってしまうと、こんどは、どちらが美しくなれるかといわぬばかりに、負けず劣らずにみごとな色合いとなりました。
年雄くんは、これを見ると、なんということなく悲しくなるのです。そして、ぼんやりと遠い過ぎ去った日のことを考えるのでありましたけれど、考えても、まだ小さかった日のことは、はっきりとわかりません。ちょうど、庭を照らしている初冬の弱い光のように、ところどころ夢のような記憶に残っているばかりでした。ただ、その日のことをお父さんや、お母さんから聞いて、
「ああ、そうであったか。」と、思うばかりでした。その日のことというのは、やはり、こうした寒い、さびしい日のことでした。兄さんと二人は、お縁側で遊んでいました。そこには、このお父さんの大事になされているゆずの植木鉢が、置いてあって、しかもたった一つ大きい実が、枝になっていたのであります。
このとき、兄さんは七つで、年雄くんは五つでした。
「僕、このゆずがほしいな。」と、年雄くんはいいました。
「それは、たべられないのだよ。」と、兄さんが、いいました。
「おいしくないの?」
「ああ、すっぱくて、たべられないのだ。」
兄さんは、そう返事をして、うしろを向いて、おもちゃの汽車を走らせていました。
「ポオー、うえの、うえの、ポオー、あかばね、あかばね――。」
そのうちに、汽車はひっくりかえりました。
「年ちゃん、汽車がてんぷくしたよ、たいへんだからきておくれよ。」と、兄さんは、弟の年雄くんを呼びました。けれど、返事がありません。遊びに気を取られて、弟がなにをしているかも知らなかった兄さんは、はじめて弟の方に目を向けたのでした。そして、なにを発見したでしょうか。
「あっ!」と、兄さんは、その瞬間おどろきの目をみはったのです。
「年ちゃん、ゆずをもいでしまったのかい?」
兄さんは、弟が、ゆずを持って、うれしそうにながめているのを見ると、そばへ走ってきました。
「たいへんなことをした。お父さんにしかられるよ。」と、兄さんはいいました。
こう、いわれると、さすがに、年雄くんの顔にはいままでの明るい、うれしそうな色は失せてしまって、急に悲しそうな、泣き出しそうな顔つきとなりました。
やさしい兄さんは、これをかわいそうに思ったのでしょう。
「いいよ、年ちゃんは、知らんでしたのだから……。」
そういって、自分が、枝からはなれたゆずを手に持って、それがついているときのように枝へつけて見ていたのでした。
「たいそうおとなしいのね。そこで、二人はなにをして遊んでいますか。」と、お母さんが、入っいらっしゃいました。すると、ふいに兄さんは泣き出しました。つづいて年雄くんも泣き出しました。
「だれです、ゆずをとったのは?」
お母さんは、目をまるくなさって、大きな声で叫ばれました。
茶の間で、新聞を見ていらしったお父んが、これをききつけて、
「なに、ゆずをもいだ?」といって、足音荒々しく、縁側へ出てこられると、怖ろしい目で、にらみつけて、
「おまえか?」と、ゆずを持っている、兄さんの頭をパチパチとなぐられました。
「わるいいたずらをするやつだ、せっかく大事にしているものを。」
お父さんは、顔を真っ赤にして、怒られたのであります。
このとき、兄さんは、なぐられながら黙っていました。年雄くんは、ただ怖ろしいので、小さくなって、ふるえていました。そして、兄さんがしたのでないことは、その後になって、年雄くんの口からわかったのでした。
「ああ、そうだったか。」と、お父さんは、はじめてやさしい兄さんの心持ちを知って、自分のしたことを後悔なされました。
このやさしい兄さんは、その翌年の春、疫痢を患って、わずか一日で死んでしまったのでした。
年雄くんは、いつしか兄さんの年となりました。いま、一人で、ゆずの実を見て、やさしい兄さんのことを思い出していたのです。
いいお天気でした。お父さんは、庭へ出て、倒れかけたコスモスに竹を立てて、起こしていらっしゃいました。やがて、年雄くんのいる縁側へきて、お父さんは、腰をおかけになりました。
「おお、いい色になったな。」と、お父さんは、ゆずをごらんになっていました。
「年や、あすこにあるはさみをもっておいで。」と、お父さんは、おっしゃいました。年雄くんは、さっそくはさみを持ってきて、お父さんに渡しながら、
「なにをなさるの?」と、ききました。
「きって、仏さまに上げるのだ。」
ゆずを見て、お父さんも、やさしい兄さんのことを、思い出しなされたのでありました。
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