赤い
牛乳屋の
車が、ガラ、ガラと
家の
前を
走っていきました。
幸吉は、
春の
日の
光を
浴びた、その
鮮やかな
赤い
色が、いま
塗りたてたばかりのような
気がしました。それから、もう一つ
気のついたことは、この
車がいってしまってからまもなく、カチ、カチという
拍子木の
音がきこえたことです。
昨日もそうであったし、
一昨日もそうであったような
気がするのです。
「
不思議だなあ、
牛乳屋の
車と、
紙芝居のおじさんと、どうして、いつもいっしょにくるのだろうな。」と、ブリキ
屋の
店から、
外を
見ていた
幸吉は、
思ったのでした。
紙芝居は、
今日も、
赤トラのつづきをやるにきまっています。
赤トラの
話は、なかなか
長編なんでした。おじさんはじめ、
子供たちは、みんな
赤トラを
悪いねこだといっていましたけれど、
幸吉は、
心の
中で
赤トラに
同情していました。なぜなら、もとをいえば
人間が
悪いからです。三びきの
子を
産むと、一ぴきは、
近所の
子供が
追いかけて、どぶの
中へ
落としたし、一ぴきは、だれかが
連れていってしまったし、もう一ぴきは、
車に
足をひかれたので、
母ねこは、そのたびに
悲しんで
気が
狂いそうになり、ついに
仕返しをしようと
決心するようになりました。
赤トラは
人の
家へ
入り
込んで、はじめのうちは、
金魚をとったり、カナリヤを
食べたり、お
膳についているお
魚をさらったりしたくらいのものですが、だんだんいたずらが
募って、
赤ん
坊をひっかいたり、お
嬢さんの
手提を
失くしたり、
取り
返しのつかないことをするようになりました。しまいには、「
赤トラ」と、きくと、みんなが
震えあがるようになりました。
中には、
槍や、
鉄砲を
用意しておいて、きたら
退治してやろうと
待ちかまえているものもありましたが、
神通力を
得ました
赤トラは、なかなか
人間の
目には
入りませんでした。
いつ
忍び
込んできて、いつそんないたずらをするかわからないので、まったく
悪魔のしわざとしか
思われなくなりました。
町の
人たちは、
夜になると
心配でろくろく
安眠はできなかったのです。
ここに
K技師という、
若い
発明家があって、
赤トラの
話をきくと、たいそう
腹を
立てました。
「
世間を
騒がせる
悪いねこだ。いかほどの
神通力があるにせよ、
科学の
力にはかなうまい。
私が
退治してやろう。」と、
電気を
応用して、いよいよ、
赤トラと
勝負を
決することになったのです。
ここまでは、
幸吉が
見た、
話のあらましでありました。
「きょうは、どうなるだろうか?」
彼は
家にじっとしていられませんでした。ちょうど
叔父さんが、
店にいなかったので、
幸吉は、
酒屋の
前の
空き
地の
方へ
走っていきました。
子供たちは、
空き
地に
積んである
砂利の
上へ
登ったり、
空き
箱の
上にすわったりして、
紙芝居のおじさんを
取り
巻いていました。
自転車の
上の
小さな
箱の
舞台の
中には、
見覚えのある
赤トラの
絵が
出ていました。七、八
人も
子供があめを
買わなければ、おじさんは、
説明をはじめないのが
常でありました。
「まだはじめないかなあ。」と、
待ちくたびれて、いっている
子供もありました。
自転車に
乗って、そばを
通りかけた
小僧が、わざわざ
自転車を
止めて、
子供たちの
中にまじって、おじさんの
説明をきこうとしているのも
見受けられます。
茶色の
古びた
帽子を
斜めにかぶった、
口ひげのあるおじさんは、なんとなくずるそうな
目つきをして、
自分のまわりに
立っている
子供たちの
顔を
見まわしました。そして、
心の
中で、いつもくる
子供たちがみんな
集まったかと、
一人一人の
顔をしらべているようにも
見られました。おじさんは、いつも
買ってくれる
子供の
顔は、よく
覚えているのでしょう。そして、その
中に
幸吉が
立っていると、おじさんの、そのずるそうな
目つきは
幸吉の
顔の
上に
止まりました。おじさんは、
幸吉にさも
皮肉そうに、
「おまえ、このごろ
買わないな。」といいました。
幸吉が、いつも
汚らしいふうをしていたからでもありましょう。また、めったにあめを
買わないので、
紙芝居のおじさんにとって、けっしていい
得意でなかったのも
事実です。
しかし、
幸吉は、みんなの
前で、こんなことをいわれていい
気持ちはしませんでした。
彼は、だまって、ただ
顔を
真っ
赤にしているには、もっと
勇気がありました。また、そんなことをいわれる
理由もないように
感じました。
彼は、おじさんに
向かって、
「
買いたくないから、
買わないのだよ。」と、きっぱりといいました。
彼は、すくなくも
侮辱に
対する
仕返しをしたように、
小さな
肩をぐっと
上げたのです。
「ふん。」と、おじさんは、いったきりで、あっちを
向いてしまいました。
「そんなこと、どうでもいいから、
早くおはじめよ。」と、
一人の
子供が
叫びました。
「もうすこし
待ちな、いまはじめるから。」と、おじさんは、お
客の
気を
損じまいとしました。
幸吉は、いつまでも
立っていてお
話をきこうとはしませんでした。
独り、みんなからはなれて、あちらへ
歩いていきました。
彼の
心の
中は、なんとなくさびしかったのです。
黒い
常磐木の
林があった、その
下へきました。じきに
花の
咲く
季節だったけれど、ここだけは、まだ
冬が
残っているように
風が
冷たかったのです。
彼は、この
冷たい
風が、かえって、
哀しい
自分の
胸にしみるように、いつまでもここにいて、
風に
吹かれていたい
気持ちがしました。
足音がしたので
振り
向くと、こちらへ
駆けてくる
女の
子の
赤いたもとが
見えました。
「
幸吉さん、
早くいらっしゃいよ。
私お
金を
持っているわ。」と、
日ごろから
親しいみつ
子さんが、いいました。みつ
子のお
父さんは、
大きな
会社に
勤めているとかで、みつ
子は、いつも
幸福そうでした。けれど、
幸吉には、そのことが、なんの
関係もなかったのです。
「みつ
子さんが、きけばいいじゃないか。」と、
幸吉は、
白い
目で、みつ
子の
顔を
見ました。
「あんたもいらっしゃいよ。」
みつ
子は、
独りはなれていった
幸吉を
心の
中で
気の
毒に
思ったので、
追いかけてきたのです。
あちらでは、おじさんのおもしろそうに
声色を
使っているのが、きかれました。
「
僕、きかなくていいんだよ。」
幸吉は、このうえ、
自分を
連れていこうとするのは、
自分を
降伏させるものだと
思ったので、つい
怒り
声を
出したが、しまいにそこにいたたまらなくなって、またあてもなく
駆け
出していきました。
幸吉が
店へ
帰ると、
仕事場に
立っていた
叔父さんは、さも
手柄顔をして、
「ジャックの
奴、うまく
物置へ
入れて
閉めてしまった。いまに
犬殺しがきたら
引き
渡してくれるのだ。」といいました。
幸吉は、これをきくと、どきっとしました。なにか
真っ
黒な
手で
胸を
押さえつけられたような
気味悪さを
感じました。「
赤トラ」の
話に
強く
心を
惹かれたのも、このジャックという
年老いた
不幸の
野犬のことが、たえず
頭の
中にあったからでした。
叔父は、どういうものかジャックを
心から
憎んでいるのでした。それにはたいした
理由があるのでなく、ただこの
哀れな
黒い
毛の
汚れた
老犬を
見ると、むらむらと
憎くなるというふうでした。
幸吉は、それを
怖ろしいことのように
思いました。
幸吉は、あるときには、たまりかねて、
叔父さんの
顔を
見上げながら、
「
叔父さん、ジャックをかわいがっておやりよ。かわいそうじゃないか。」といいました。
「どういうものか、あいつはきらいでな。ひどいめにあわせてくれなけりゃ。」と、
叔父は、
金づちを
手に
握って、きたら
投げつける
身構えをしていました。
「なにも
悪いことをしないじゃないか。」と、
幸吉は、つくづく
叔父さんの
顔を
見て、どうしてこの
哀れな
犬だけに
無情なことをするのだろう、ほかの
犬には、やさしくしてやるのにと
思ったのでした。
「あいつが、
植木鉢に
小便をかけたし、いつかくつが
片方失くなったのも、きっとあいつがどこかへくわえていったのだ。」と、
叔父は、
答えたが、なんの
理由もつけずにいじめるのは、
自分でも
気がとがめるからだと、
幸吉には、
思われました。
しかし、いまはそんなときでない。ジャックが
物置の
中に
入れられて、
戸を
閉められたときいては、じっとしてはいられなかったのです。
「なんで
物置の
中へ
入ったのだろうな。」と、
幸吉は、あの
年を
取っていてもりこうで、
敏捷な
犬がと
不思議に
思いました。
「
犬殺しに
追われてきたんだ。
逃げ
場がないので、
物置の
中へ
隠れたのだよ。」と、
叔父は、ところもあろうに、おれの
家の
物置の
中へ
隠れたのが、あいつの
運の
尽きだったと、せせら
笑いをしていました。
幸吉は、またかわいそうに、
自分が
平常ジャックをかわいがってやるものだから、
助けてくれると
思って、
家の
物置にきて
隠れたのだ。もし、このまま
犬殺しに
引き
渡してしまったら、ジャックはどんなに
自分をうらむかしれない。よし、
助けてやろうと、
決心しました。
あちらで、しきりに
犬の
遠ぼえをする
声がしていました。
犬殺しが
近づいてきたのを
警戒して、
仲間に
知らせているのです。
幸吉は、すぐに
裏手へまわりました。
彼の
足音をききつけると、
暗い
物置の
中から、
訴えるように、すすりなく
犬の
悲鳴がしました。
「ジャック!
早く
遠くへ
逃げろ。」
幸吉が、
戸を
開けると、
黒犬は、
弾丸のように
飛び
出して、
叔父さんが、
仕事をしている
店先のブリキ
板を
蹴散らして、
路次を
抜けて
原っぱの
方へ
逃げていったのです。
「ばかやろう、なんで
犬を
出したのだ!」と、
叔父さんは、
幸吉の
頭をなぐろうとしました。
幸吉は、
手の
下をくぐって、
自分も
犬の
後を
追って
逃げたのであります。
しかし、ジャックの
姿は、どこにも
見えませんでした。
彼は、
町を
離れたさびしい
原っぱの
中に
立って、
口笛を
鳴らしました。どこへいってしまったか、ジャックはやってきませんでした。
いつも、こうして
口笛を
吹けば、
遠くからききつけて、
駆けてきたものです。
彼は、
家無しのジャックを
思うと、
心の
中が
悲しかったのでした。
幸吉は、しばらく
茫然として、
考えながら
立っていました。あちらに
見える
高い
煙突は、
町のお
湯屋か、それとも
工場の
煙突らしく、
黒い
煙が
早春の
乳色の
空へ、へびのようにうねりながら
上がっていました。
「あ、
田舎の
家へ
帰りたいな。」
幸吉は、
自分には、
帰る
家があるのだと
思いました。そう
思うと、しみじみと
故郷の
村が
恋しくなりました。
ジャックは、
森の
中へ
深く
入ってゆきました。
彼の
後からは、びっこの
白犬と、
耳の
垂れた
斑犬がついていきました。そして、たがいにジャックの
右になり、
左になりして、ジャックの
身を
護衛するように
注意深く
先方を
見つめていました。すぎや、
松の
木のしげった
森の
中にはところどころ
日の
光が、にじのごとく
洩れて
下のささの
葉を
明るく
照らしています。ここまでは
彼を
追ってくるものがありません。
野犬の一
群は、ジャックを
中心にして、
自分たちの
生活を
営むことにしました。
彼らは、どこへいくにも
一塊となって、いつでも
敵に
当たる
用意をしていました。
犬たちの
間にも、
戦って
弱いものは、
強いものに
絶対に
服従するというおきてがあって、
夜になると、どこかの
飼い
犬が、
畜犬票をチャラチャラと
鳴らしながら、
牛の
骨や、パンくずなどをくわえて、
彼らの
機嫌を
取るべく
森の
中へ
持ち
運ぶのもありました。
ある
日、
幸吉は、ジャックのことを
思い
出しました。
「ジャックは、どうしたろうか。」
往来へ
出ると、
紫色の
美しい
着物をきたみつ
子が
遊んでいました。
日の
光の
中に、ぱっと
花が
咲いたように、
道の
上までがまぶしかったのです。
「みつ
子さん、
赤トラはどうなった?」
幸吉は、このごろ、カチカチという
拍子木の
音をきいても、いくことがなかったのです。
「とうとう
K技師に、
電気で
殺されちゃったのよ。」
「かわいそうだね。」
「だって、
赤ん
坊をひっかいたり、
人間にかみついたりするんですもの、しかたがないわ。」
「どこかへゆくの?」
幸吉は、みつ
子にたずねました。
「
叔母さんがいらして、お
母さんと三
人でお
買い
物にいくの。
幸吉さんにお
土産を
買ってきてあげるわね。」と、みつ
子は、ぱっちりとした
黒い
目で
幸吉を
見ました。
「みつ
子さん、もう
僕、
晩にいないかもしれない。」と、
幸吉は、じっとみつ
子の
顔を
見返すと、みつ
子も、ちょっと
驚いた
顔つきをしたが、すぐにいきいきと
笑って、
「そんなことうそよ、だましたって
知っているわ。」と、くるりと
彼方を
向いて、
駆け
出していきました。げたについている
鈴の
音が、リンリンと
幸吉の
耳にきこえました。
軽気球の
上がっているであろう、
遠い
町の
空はかすんでいました。こうして
耳をすますと、
大海原の
波音のように、あるいは、かすかな
子守唄のように、
都会のうめきが、
穏やかな
真昼の
空気を
伝ってくるのです。
幸吉は、
原っぱへいったが、
原っぱには、だれも
遊んでいませんでした。
丘の
木立は、みんなうす
紅く
色づいていました。あちらの
高い
煙突からは、
今日も
黒い
煙が
上っていました。
幸吉は、その
煙を
見て、
明日も、
明後日もまたこのように
立ち
上ることであろうと
思ったのです。
まだ
霜で
枯れたままになっている、
草株の
上へ
腰を
下ろすと、
黄色な
小さいちょうが、
風に
吹かれて
目の
前を
飛んでいきました。
幸吉は、
年ちゃんや、
正ちゃんたちと、ボールを
投げて
遊んだ
去年の
秋の
日のことを
思い
出していました。
このとき、
突然後方から、
飛びついて
幸吉の
頭を
抱えたものがあります。
「あっ、ジャックだ!」
彼は、びっくりしたよりは、
踊り
上がったほど
喜びました。そして、ジャックと
原っぱで
相撲を
取りました。
「ジャック、どこにいたんだい。
僕、
晩に
田舎へ
帰るんだ、もうあえないのだぜ。」
知らずに
熱い
涙が、
目の
中からわいて
出ました。ジャックは、いったことがわかるのか、
幸吉の
涙にぬれた
顔を
舌でぺろぺろとなめています。
遠くで、ほかの
犬のなき
声がしました。すると、ジャックは、
急に
幸吉を
振り
捨て、あちらへ
走っていってしまいました。
がんこの
叔父さんが、たいそう
機嫌がよくジャックの
頭をなでています。そのそばに
紫色の
長いたもとの
着物をきたみつ
子さんが
立って、
見て
笑っていました。あちらで、
拍子木の
音がすると、
年ちゃんや、
正ちゃんが、
「
紙芝居のおじさんがきたよ。」と、
駆け
出していきました。
幸吉は、
自分もいこうかと
思ったとき、ふいにガタンと
体が
揺れたので、
眠りから
覚めたのです。
彼は、
田舎行きの
汽車に
乗って、
夢を
見ていたのでした。
昨夜、
叔父さんが、
荷物を
持って、
停車場まで
送ってくれました。
夜が
明けると、
汽車は、
広々とした
平野の
中を
走っていました。
車中には、
眠そうな
顔をした
男や
女が
乗っていました。
窓から
外を
見ると、あたりの
田圃や、
雑木林は、まだ
冬枯れのしたままであって、すこしも
春の
気分が
漂っていなかったのです。
山々には、
雪が
真っ
白に
光っていました。
汽車は、だんだんその
山の
方に
近づいていきました。そして、ある
駅へ
着いたときに、
幸吉は、いままで
乗ってきた
汽車と
別れて、ほかの
客車へ
乗り
換えなければならなかったのです。これから
自分を
乗せてゆく
汽車は、もうちゃんとあちらで
待っていました。
形が
旧式で
色も
古びていました。
幸吉は、
自分がだんだん
都から
離れてゆくという、さびしい
気がしました。
その
日の
晩方、
彼は、
故郷の
生まれた
家へ
帰ったのです。そして、
幾年ぶりかで、お
母さんのそばに
床を
敷いてもらって
寝ることができました。
夜中に
目をさまして、
小便に
起きました。
彼は、
戸を
開けて
戸口に
出ると、
青ざめた
星晴れのした
空は、
忘れていた、なつかしい
幼い
日の
物語をしてくれますので、しばらくその
昔語りにききとれて、じっと
目をみはっていると、
遠くで、
「ウオー、ワン、ワン。」という
犬のほえ
声がしました。
「ジャックだ!」
幸吉は、こう
叫んだものの、ジャックの
声が、こんなところまできこえるはずのないことを
悟りました。
彼は、
泣きたいような
気持ちがしました。ただ、あのとき、ジャックを
助けてやってよかったと
独り
心の
中で
満足して、また
床へ
入って
眠りました。