サントリーの鳥井信治郎さんとは、もう三十年越しのお近付きを願っている。この鳥井さんと私との話には、少し美談めいたところがあるので、今まであまり書いたことがなかった。美談というものは、公表すべきものではないそうである。しかし三十年といえば、たいへんな年月であるから、もう今では、遠い過去の話として、書いてもよいであろう。
ことの起りは、私が四高の三年生になった時の話である。校長は溝淵進馬先生で、当時天下の名校長とうたわれていた人である。土佐の出身で、浜口雄幸の親友の一人であった。浜口さんといっても今では知らない人もあろうが、当時ライオン宰相とあだ名されたくらいの剛直清廉な大政治家である。総理大臣の現職で刺客に襲われ、それがもとになって、間もなく亡くなられた。
溝淵さんも、浜口さんそのままのような人で、剛直で誠実な教育者として知られていた。生徒たちには、まことに恐ろしい先生であったが、皆敬慕はしていた。私は弓術部の主将をしていたが、対校試合の華かだった時代だったのでその用事もあって、時々溝淵先生のところへ顔を出していた。それで少しは個人的な話をする機会もあった。
私の家では、父が早く亡くなって、母が一人で、田舎で呉服屋をしていた。それで私と後に考古学をやった弟とを教育するのは、なかなかたいへんであった。溝淵先生にも、そういう話をしたかどうかは忘れたが、或る日、先生から、大学へ行ってからの学資について、相談があった。
関西の実業家で、全くの匿名で、学費を出したいという人があるが、それを貰わないか、という話なのである。毎年各高等学校の校長に依頼して、各校から一名宛、そういう学生の推挙を頼まれるのだそうである。金額は月額五十円で、三年間。返済の義務はもちろんなく、その実業家の名前は、本人にも知らさない、というのである。それでは返済のしようもないわけである。
当時の五十円といえば、今の二万円くらいに相当するであろう。
一流の下宿にいて、相当本も買い、時には映画を見たり、コーヒーをのんだりしても、五十円あれば充分という時代であった。あまり結構な話で、少し気味悪いくらいであったが、悪びれずに、有難く頂戴することにした。
ところで東大の物理学科に入り、下谷の池の端近くに住むことになったら、そこへ毎月、月末になると、五十円の為替が、きちんきちんと送られて来る。差出人は、大阪毎日新聞社のO氏の名前になっていたが、O氏からは、この金は私から出すものではなく、単に送金の世話をしているだけだから、礼状は要らない、と断って来た。そして封筒の中には、毎回印刷した受領書がはいっていた。それに署名してO氏のところへ送るだけでよいのである。
そういうことが、一年近く続いた後、或る月から、差出人が、鳥井信治郎という名前に変った。そして今後の受領書は、私の方へ送ってくれと書き添えてあった。その頃は鳥井さんの名前は全然知らなかったので、同じ新聞社の他の人が、この世話をすることになったのだろうくらいに、簡単に考えていた。
ところが大学の二年になった年の九月、関東の大震災に遭った。大学へはいると同時に、母たちも下宿へ移って来ていたが、その家は全焼、持ち出した荷物もほとんど焼いて、風呂敷包み二つくらいになってしまった。大学も震災を受けて、当分開講の見込みもなかった。それでいったん郷里に帰ることになって、途中大阪の友人の家にしばらく足を停めた。
東京を立つ前に、いろいろな流言蜚語がとんでいた。関西にも被害があり、それに帝都の全滅で、関西の実業界も間接の大損害を受け日本の実業界は、当分立ち直ることが出来ないだろう、という風説が伝わっていた。事実、あの大震災に伴なった当時の混乱は、太平洋戦争中の大空襲を遥かに上廻るものであった。いわば全関東が、同時に空襲を受けたような騒ぎであった。
それで、学資を出して貰っていた匿名の実業家の人からも、今後はそういう恩恵を続けて受けることは出来ないものと、簡単に諦めた。しかし折角大阪へ来たのであるから、今までのお礼を兼ねて、震災の見舞かたがた訪ねてみることにした。
そのため一応取次をして貰っている鳥井氏に会おうと思って、川辺郡川西村字何とかいうアドレスを頼りに、探して行った。川西村というのは、直ぐわかった。秋の晴れた日であって、柿の木のある富裕らしい農家が、たくさん並んでいた。当時のあのあたりは、まだ静かな農村であった。実業界や新聞界に関係のある人が住むにしては、まるで気配のちがった土地であった。
方々探したが、アドレスにある
鳥井さんは幸い在宅で、すぐ会うことが出来た。そして匿名の実業家が鳥井さん自身であること、その鳥井さんは、赤玉ポートワインやサントリーの主人であることなどを、初めて知った。来意を述べると、鳥井さんは、「そういう心配は全然要らない。大分被害はあったが、君たちの学資などは問題ではない。それよりも気を落さないで、しっかり勉強なさい」と励まされた。
震災を受けてから後は、とくにこの学資は大いに有難かった。お蔭で無事大学を出て、理研の寺田研究室にはいり、やっと細々ながら安定した研究生活の緒につくことが出来た。それで卒業と就職との報告を兼ねて、大阪へ出かけて行き、雲雀丘へ挨拶に伺った。大正十四年の春のことである。
今までに貰った学資は、初めから返済の義務はないと聞かされていたが、匿名の本人がわかった以上、一応意向をきいてみる必要がある。その点に話が触れたら、鳥井さんは、ちょっと真面目な顔付になって、述懐めいた口ぶりで話し出された。
「わたしは今は金も相当出来て、皆さんに少しくらいの御手伝いも出来るようになったが、もとは非常に貧乏だった。しかしこの財産は、自分で働いて儲けたものとは思わない。これは天から授かったものと思っている。それで君もあの学資は、天から授かったものと思っていたらよい。返済の意志があったら、天へお返しなさい」という意味のことを言われた。もちろん大阪弁で、その方がもっと味があるのだが、どうも巧く表わせない。
今の若いインテリの人たちには、「返済の意志があったら、天へお返しなさい」などという言葉は、浪花節的に聞えるかもしれないが、三十年前の日本には、こういう人たちもいたのである。もっとも鳥井さんは、今でも健在であるが。
その後、北海道大学へ勤めることになったので、大阪へは滅多に行かなかった。しかし関西に学会があった機会とか、満州の凍土調査の往き帰りとかに、時々雲雀丘を訪ね、鳥井さんが、老いてますます元気なことを祝福した。その間、サントリーは、非常な勢いで売れ出し、社運がますます隆盛になって行ったことは、私たちのような門外漢にも、よくわかった。
そのうちに、戦争になった。私は北海道のニセコ山頂で、飛行機の着氷防止の研究をすることになった。国家総動員法による戦時研究である。ニセコの山頂は、着氷の発生に最も適した気象条件になっている。即ち、寒さと強風と濃霧と、三拍子揃ったところである。人間の生活には最悪の条件が、着氷の研究には最良の条件なのであるから、話は厄介である。気温零下二十度、風速四十メートルがそう珍しくないこの山頂で、私たちは三冬を過ごした。この間鳥井さんのところから、サントリーの一ダース箱が時々届いた。山頂の冬籠りにはそれが非常に有難かった。もうその頃は、サントリーなど滅多に手に入らぬ時代であった。
この研究が始まった頃、即ち戦争の初期頃、東京で時々鳥井さんに会った。鳥井さんの会社の方でも、醸造装置を転用して、軍事用の燃料か何かをつくっておられたので、東京へは始終出て来られたようであった。
その頃鳥井さんは、ちょっと健康を損ねて、東京で武見国手の診療を受けておられた。この武見さんには、私も前に難病の胃周囲炎と肝臓ジストマとを治してもらい、それ以来親しくしていたので、ここでも、時々鳥井さんに会った、
武見さんは、牧野伸顕伯の姻戚にあたるので、その紹介で、松濤にあった牧野伯の家へ時々遊びに行ったことがある。牧野伯は、戦争の前途を、初めから非常に心配されていた。
とくに日本の科学や技術は、基礎が非常に浅いから、東条流の科学振興策では駄目だと、常々言っておられた。或る晩など、降下の宮様を二、三人まじえた七、八十人のお客に、私の科学映画「雪の結晶」を見せられたことがある。これは国際雪氷協会の大会に送った英語版のものであった。「バドリオ」として東条の監視の下にあった伯が、戦争中に、大勢の客を集めて、英語版の映画を見せるというようなことは、相当な勇気を必要とする。しかし伯は、そういうことは、平気であった。
鳥井さんも、その頃、時々牧野伯のところを訪ねておられた。
或る晩、伯の家で、鳥井さんと同席したことがある。伯には、前に「匿名の実業家」としての鳥井さんの話をしたことがあった。伯は鳥井さんに「君もなかなかしゃれたことをするそうだね。中谷君から聞きましたよ」と言われた。鳥井さんは、頭を掻きながら「到頭、露顕致しまして」と苦笑しておられた。
戦争の数々の暗い話の中では、これなどが懐かしい思い出の一つである。
(昭和二十九年)