国際雪氷委員会のことなど

中谷宇吉郎




 国際雪氷委員会(International Commission of Snow and Ice)は、ごく最近まで国際雪及び氷河委員会(International Commission on Snow and Glaciers)という名前で、国際水文学協会(International Association of Hydrology)の一部となっていた。
 雪及び氷河委員会の名の起りは、氷河委員会(Commission of Glaciers)から始まったのである。この委員会は、初めは同好の人々が集って、氷河の進出及び後退の連続観測を、熱心に継続していたものである。それが水文学協会において、水文学に近縁の学界として承認されたのが第一歩である。
 一方アメリカ地球物理学連盟(American Geophysical Union)は、初め連盟内に、雪の部会をもっていたのであるが、国際的協力を便ならしめるために、雪委員会(Commission of Snow)に、その仕事をゆだねることにした。また気象学協会(Association on Meteorology)の賛同を得て、水文学協会もまた、この雪委員会を支援することになった。ただしその時に、この雪委員会の主な仕事を、積雪水量調査及び水量予報におくことにとりきめた。最初に委員長に選ばれたのは、アメリカのネバダ大学のJ・E・チャーチ博士であった。同博士は、その後十五年にわたり、昨一九四八年八月のオスロ会議まで、引きつづきその任にあたり、氷河委員会との合併後は、雪及び氷河委員会総裁として、熱心な努力をつづけた。
 雪委員会の第一回の総会は、一九三三年にリスボン市で開かれ、チャーチ博士を委員長とし、他に瑞西スイスのマーカントン教授及びイタリアのエレディア教授が顧問として、これを援けた。
 第二回の総会は、一九三六年に英国のエヂンバラで開催された。この委員会は、その時に到って、初めて世界的の支援をうけるまでに発展し、雪関係の研究者ばかりでなく、氷河関係の学者からも論文がたくさん提出された。この時の報告は、八百頁に余る大部の印刷物として公刊された。その内容は、降雪、積雪、水量予報、流出量、湖水及び河の氷、雪上輸送、雪氷の物理学、雪崩、氷河、北極及び南極の雪氷、近時探検隊の報告、測定器の各項に分類され、雪及び氷に関するあらゆる部門にわたったものである。
 この大会が予期以上の成果を納めたのは、チャーチ博士の努力もさることながら、その蔭に“Historja Naturalna Lodu”の著者、ワルソーのドブロウォルスキー博士のきわめて熱心な協力があったからである。この年代、すなわち今次の大戦のきっかけとなった英独開戦の三年前という時期は、独逸ドイツの勃興が欧洲に不安な底流を生じ、その反動として、国際的の協力をすべての国民が希望していた時代である。エヂンバラ総会が、全世界からの意外な協力を得たのは、一つは時代のせいもあったのであろう。この機を捕えて、この委員会は、その国際性を拡張し、二十七か国にわたり、八十余名の雪及び氷の専門家を会員とするまでに成長した。
 米英独ソなどのいわゆる大国は、もちろん多数の会員を出したが、いわゆる小国もそれぞれ会員を出し、この委員会に有力な寄与をした。例えばラトヴィアのピーター・スティクル博士は、この委員会のセクレタリイに挙げられ、エヂンバラ総会報告書の編輯に協力した。日本からは、岡田武松、藤原咲平、黒田正夫の各博士及び私が、会員に推薦された。
 第三回の総会は、一九三九年に、ワシントンで開催された。前のエヂンバラ総会の場合もそうであったが、この総会は、国際測地学及び地球物理学連盟(International Union of Geodesy and Geophysics)の総会と一緒に開催されるのが例となっており、この場合もその例に従った。この総会は、たまたまその時期が、英独開戦の直前であったために、欧洲大陸よりの参加はきわめて少なかったが、会議は熱心に遂行された。
 この総会において、年来の衆望であった氷河委員会と、雪委員会との統合が、はじめて実現した。この両委員会の統合の問題は、前のエヂンバラ総会の時にも希望されたのであるが、国際間の微妙な眼に見えない障害のために、遂に実現されなかった。その障害がとれ、この時以来、正式に国際雪及び氷河委員会として発足することになったのである。この総会に、私は当時療養中であったために出席することが出来なかった。その代りに、人工雪の生長過程を、顕微鏡微速度映画にとり、英文のアナウンスをつけて提出した。
 たまたま坪井、日高両博士が、地球物理学連盟の方へ我が国の代表として出席されたので、このフィルムを托した。幸い好評であったらしい。私の方へは、国際水文学協会よりの正式の感謝状が届けられた。雪及び氷河委員会のこの総会の報告では、私は出席者として取扱われ、アナウンスを全文掲載し、それに二、三名の会員の討議ディスカッションがつけ加えてあった。
 国際雪及び氷河委員会が正式に発足するとともに、各国にその支部が作られたようであった。そのうちで私の方と連絡が保たれたのは、英国部会であった。英国部会の会長は“Snow Structure and Ski Fields”の著者セリグマン氏であった。セリグマン氏は、前から熱心な氷河の研究者で、現在も英国氷河学会(British Glaciological Society)の会長である。
 セリグマン氏は、前から私の雪の研究について、精神的にいろいろ支援をしてくれていた。私の天然雪の研究及び人工雪の研究を、ネーチュア誌に詳しく紹介したり、王立気象学界記事に論文を出す世話をしてくれたりしていた。その上王立研究所(Royal Institution)の金曜会(Friday Meeting)に、私の人工雪の講演をしてくれたこともあった。そういう関係があったので、連絡は始終あった。このセリグマン氏とチャーチ博士とから、国際雪及び氷河委員会の日本支部を作るように努力してはどうかとすすめてきたが、八十何名の会員と、外国語の手紙を始終交換するのは、考えただけでも閉口なので、うやむやにしておいた。もっともその後まもなく英独戦争の進行とともに、日華事変もますます悪化し、日本に対する世界の感情は、それどころではなくなった。そして遂に今次の大戦となってしまった。
 第四回の総会は、戦争のために延期されて、のびのびになっていた。戦争がすんだ年の翌年チャーチ博士から、この戦争を生きのびた会員たちを探す手紙がきた。そして再び国際協力の日を迎えて、新しく会員のリストを作りたいという希望が述べてあった。終戦後の三か年、占領軍の好意ある統治下に、私たちは、新しい国の姿に応じた研究の態勢をととのえるのに、やっとの思いであった。しかしこの間にも、再びこの方面の科学者の国際的協力の気運が、活溌に蘇りつつあったのである。そしてワシントン総会以来、九年ぶりに、昨年(一九四八年)八月、オスロで第四回の総会が開催されることになった。
 総会事務長は、ベルゲン博物館のクント・フェグリ博士がつとめ、準備は、アメリカのマシウス博士が、総裁代理として万事を進めた。たまたま総裁チャーチ博士は、南米の積雪調査の指導に、ブエノスアイレスに滞在していたからである。
 今度の総会の第一課題は、北氷洋の氷山についてであって、氷山の起源、移動、融解、特にその出現の予報について論議しあう点に重きをおいた。第二課題は、積雪の物理的変化で、特に融雪による出水並に洪水の問題をとりあげた。第三課題は、氷河であって、その結晶構造と氷河の移動との関係を主題とした。
 この三課題のうち、我が国に直接関係のある問題は、第二課題だけである。この総会の報文の提出勧誘と前後して、たまたま私の方では、経済安定本部の資源調査会からの委託で、大雪山の積雪水量並にその融解による流出量の調査をすることになっていたので、その仕事を少し急いで、八月のオスロ総会に間に合わせることにした。低温科学研究所員菅谷重二君がこの仕事を担当した。幸い総司令部天然資源局の好意により、二六七平方キロに及ぶ全集水区域にわたって、三回の航空写真測量が行なわれ、積雪分布及びその融解状況が明かにされた。地上観測の結果もそれによって十分に活かされた。航空写真を利用した積雪水量調査は、従来諸外国にもその例がなかったので、かなり目新しい研究が出来た。それでこの研究の全経過を映画にとって、その英語版をオスロの総会に提出することにした。
 オスロ総会の最初の通知があったのは、昨年の二月頃だったが、その時のチャーチ博士の手紙に、映画のことが書いてあった。先年ワシントン総会に出した『雪の結晶』は、その後ハーバート大学のブリューヒル気象台長ブルックス博士が保管していた。そしてアメリカ各地を見せて廻っていたが、フィラデルフィアのフランクリン研究所で見せたあと、宛名を間違えて送り出し、そのまま行方が分らなくなってしまった。それでもしあのコピィがあったら、今度のオスロ総会に今一度見せて貰いたい、そして出来たら総会に出席して、自分で説明をして貰いたいという意味のことが書いてあった。
 ところが『雪の結晶』のネガは、戦災でこれも行方が分らなくなっていた。丁度私の方でも、戦争がすんだので、新しく映画をとり直そうと思っていたので、この機会に前よりももっと充実した研究用映画を作ろうということになった。それで前のカメラマンであった日映の吉野馨治君に相談して、八月の総会までに間に合わせる見込を立てた。ワシントン総会以後の九年間という期間は、日華事変、太平洋戦争、敗戦、飢餓の期間であった。しかしこの間にも、戦時研究の隙を縫い、増産の研究の合間合間に、人工雪の実験も主として花島政人博士の手によって、著しい進歩を遂げ、現在では天然雪のすべての結晶が自由に出来るようになっている。そして多年の懸案であった、結晶形とその生成条件との関係という難問題も、一応の解決をみていた。それで前の映画とは、学術的にも映画的にも見ちがえるようなものを作って、オスロに集った戦勝国の学者たちを一つ驚かそうではないかということになった。
 問題はフィルムであるが、こういう特殊の目的に適った高性能のフィルムを特に註文して作らせることは、敗戦後の日本では困難であった。それでチャーチ博士にこの計画を書いて、高感度で極微粒子のフィルムを送ってもらえないかと頼んでやった。
 アメリカでもフィルムはかなり高く、それに量が多いので、雪及び氷河委員会の手では、ちょっと都合がつかなかったらしい。しかしいろいろ口添えがあって、けっきょくジェネラル・エレクトリック研究所のシェファー博士の手を経て、ある団体から希望どおりのフィルムが送られることになった。シェファー博士は、一昨年の秋、人工的に雪を降らす研究を発表して、急に有名になったまだ若い学者である。それで私たちの研究とは、一番縁が近い人である。
 ところでそのフィルムは間もなく送り出されたのであるが、途中で輸送事故があって、オスロ総会には間に合いそうもなかった。けっきょく日本製のフィルムで、間に合せの映画を作って、総会だけは、それで場をふさぐことにした。それでも針型の結晶だの、鼓型の結晶だのという、前の映画の場合には夢想だにしなかった結晶まで、その生成状態を示す顕微鏡微速度映画がとれた。初めに細い六角柱が出来て、それが次第に太くなり、急にその両端に六花の平板状結晶が発達して、鼓型の不思議な形の結晶がみるみるうちに出来る。スクリーンの上で、その生成過程を見ていると、ちょっと妙な感じになる。
 この映画作成の準備期間中に、手を馴らす意味で、厳寒地の窓硝子ガラスにつく霜の結晶について、雪の結晶の場合と同じような映画を作った。この方はうまく完成した。この『霜の花』と、前にいった『大雪山の雪』と、それに『雪の結晶』の仮版と、合計六巻の英語版が仕上ったのは、八月五日頃であった。総会までには、一週間あまりしかない。しかし幸い総司令部の好意で、早速飛行便でオスロへ送ってもらうことが出来たので、総会には辛うじて間に合った。チャーチ博士からの手紙によると、総会の前日に、このフィルムをオスロの米国大使館で発見して、やっと安心したそうである。
 オスロの総会には、私も出席するはずになっていたが、手続上の問題で、出発三日前に急に取り止めることになった。しかしこのフィルムは、オスロのヴィクトリア劇場で、水文学会会員の外に、測地学地球物理学関係の人たちにも見せたそうである。そして好評を博したということで安心した。英国氷河学会長セリグマン博士からも、王立地学協会(Royal Geographical Society)の年会に、あの映画を見せたいから、適当な方法がないかといってきた。またチャーチ博士がアメリカへ帰ってからも、ネバダ大学の学会で二度見せたそうである。そして西部雪協議会(Western Snow Conference)の年会からも、あの映画の申込があったといってきた。万更の御世辞でもないようである。
 オスロ総会の模様は、まだよく分らない。八月のオスロは世界でも有名な美しい街である。長い世界戦争のあとで、九年ぶりで旧知にめぐり合った人たちは幸福であっただろう。しかし戦争で死んだ会員の数も決して少なくはなかった。ソ連はレニングラードの飢餓戦でアーノルド・アラビューを失い、チェッコはウルリッチ教授を失った。「ウルリッチ教授は一九四一年年十月二十日死亡。勇敢に独逸人に抵抗して。彼は犠牲となった八十名以上のチェッコの科学者の中の一人であった」。
 チャーチ博士は、オスロ総会における総裁演説で、この委員会の過去と未来とを語り、さらに会員の消息に、彼の友情を披瀝した。この委員会の最初の目的、すなわち積雪水量調査と流出量予報とは、既に今日までに一部の実用化を見た。北米の積雪地帯、ヒマラヤ、南アンデスがその例である。水及び水力の配分が問題となる諸国間では、その積雪水量調査に国際的の協力が必要である。そういう協力は、加奈陀カナダと合衆国との間には、以前から行なわれているが、印度インドとヒマラヤ諸王国間にも、またアルゼンチンと智利チリとの間にも成立することになっている。
 この総裁演説の最後で、チャーチ博士は、過去十五年にわたる会員たちの協力を謝し、そして勇退を声明した。後任は瑞典スウェーデンのアールマン教授になった。そして加奈陀モントリオールの北極研究所長ベアード博士が、事務局長に推薦された。会の名は三度変更されて、国際雪氷委員会(International Commission of Snow and Ice)と決められた。氷河も氷の中に含められるからである。
 オスロの会議で決められた問題の一つに、雪の国際的分類という課題があった。世界各国の雪の研究家たちにとって、従来から最も難点とされていた点は、雪の分類と命名とが、国際的に統一されていなかったことである。
 雪の分類には、大別して二つの問題がある。一つは雪の結晶の分類であり、今一つは地上に根雪として存在している積雪の分類である。両者ともに、その形や性質などが、気象条件によって著しく変化することは、もちろんである。それで国際的に、その分類を決め、命名あるいは表示法を統一しておく必要がある。それが出来ていないと、各国の研究結果を比較することも、また利用することも出来ない。
 それで昨年のオスロ会議で、この問題を正式に採り上げ、国際雪氷委員会の中に、雪分類の特別委員会が作られた。委員としては、米国GE研究所のシェファー博士、瑞西スイスの雪崩研究所長ドケルヴァン博士、加奈陀カナダ国立研究所のクライン氏の三人が選ばれた。この特別委員会は、なるべく早く議案を作って、それを各国の雪の研究者あるいは団体に配布し、各国の意見をきいて、それを調和修正し、一九五一年のブラッセル総会までに、正式の原案をまとめておくべき任務がある。しかしこの委員会には、東洋方面の雪の専門家がいないので、第一回の議案の作成が延び延びになっていたそうである。
 それで今度の私の渡米を機会に、この試案を片づけてしまおうということになり、八月十六日に、オッタワの加奈陀国立研究所で、四人の会議をすることになった。会議は案外すらすらと進行して、まる一日がかりで、ほぼ一致した見解に達した。
 この結果は主としてドケルヴァン博士の手によって整理され、最近この「国際雪分類試案」が出来上り、各国の関係者に配布された。この試案に対しては、それぞれの国の気象状況に応じた修正補足の提案を大いに歓迎するという。そしてなるべく一九五〇年の夏頃までには、各国の提案をまとめたいということになった。
 我が国では、学術会議の地球物理学研究連絡委員会で、この問題を採り上げ、気象分科会で日本としての意見をまとめることになった。同分科会の幹事畠山久尚博士が、その任に当られるはずである。
 雪の研究は、近年になって、アメリカでも非常に盛んになって来た。ミネアポリスにあるミネソタ大学には、雪氷永久凍土研究会(Snow, Ice, Permfrost Research Establishment; SIPRE)が結成され、綜合的な雪氷研究所を作ろうとしている。レーダーによる雨の研究では、いわゆる白線ホワイトラインが上空の雪による反射であろうということになって、雪の各種の性質の究明が要望されてきた。スケネクタデイのGE研究所におけるラングミュア博士及びシェファー博士らの人工降雪及び人工降雨の研究も、もちろん雪の研究の一分野に属する。
 雪の研究が、こういう風に、世界的の問題となりつつあることを思うにつけても、日本が正式に世界の学界に復帰し得る日の一日も早いことが希望される。
(昭和二十四年十二月)





底本:「中谷宇吉郎集 第六巻」岩波書店
   2001(平成13)年3月5日第1刷発行
底本の親本:「花水木」文藝春秋新社
   1950(昭和25)年7月10日刊
入力:kompass
校正:岡村和彦
2017年1月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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