『猫』の寒月のモデルとして一般に信ぜられていた寺田寅彦先生が、昨年の暮押し迫って亡くなられた。その御葬式も済んで、一通りの用事も片付いた頃、漱石同門でありかつ先生の心友であった小宮さんが、「古蹟巡りをしよう」といわれて、私をあるビルディング内のC亭へ案内された。そこは小宮さんが仙台から出てこられるたびに、寺田先生と東京中の美味い料理を喰べさす家を廻られたその古蹟の一つなのである。その小さい一室で、「そこにいつも寺田さんが坐ることになっていたんだが」といいながら、小宮さんが色々漱石先生と寺田先生との思い出を語って聞かせて下さった。その話の途中で、私が前に寺田先生から聞いていた、寒月の「首
寺田先生自身は、寒月のモデルなどというものはないということをよくいっておられた。実際漱石先生の小説はいわゆるモデル小説などに出てくる意味でのモデルがあったわけでは決してない。ただ『猫』の寒月についての記述の素材が、主として寺田先生から提供されたものが多かったというだけのことである。「首縊りの力学」の原本は実は立派な物理の専門雑誌に出ていた論文なのである。漱石先生が『猫』を書き出された頃、当時大学院におられた寺田先生が、ある時図書室で旧いフィロソフィカルマガジンという英国の物理雑誌を何気なく覗いておられる中に、ホウトン(Rev. Samuel Haughton)という人の「力学的並に生理学的に見たる首縊りに就いて」という表題の論文に出会われたのだそうである。大変驚かれてちょっと読んでみられたところ、正真正銘な首縊りの真面目な研究だったもので、早速その話を漱石先生にされたのであった。漱石先生も大変興味を持たれて、ぜひ読んで見たいから君の名前で借りてきてくれと御依頼になったのだそうである。その論文の内容が間もなく、寒月君の「首縊りの力学」となって現われたのである。
以上の話は、私が大学を卒業した年位だったと思うが、寺田先生の指導の下で実験をしていた時、大学の狭い実験室の片隅で、実験台を卓として一同で三時の紅茶を呑みながら先生から伺った話である。その時寺田先生は、「僕はもう大分旧い話なので、論文の内容なんかすっかり忘れてしまったが、誰か一つ古いフィルマグを探して見給え、きっとあるから」との御話だった。早速図書室へ行って、埃っぽい古い雑誌を片っ端から探してみたら、果して見付かったのであった。それは一八六六年の第三十二巻第二十三頁にあって、題目は“On hanging, considered from a mechanical and physiological point of view.”というのである。著者ホウトンはF・R・S・(Fellow of Royal Society)と肩書きがあるところからみても、真面目な一流の学者であったらしい。その論文と『猫』とを併せて読んでみると、漱石先生がいかにこのような素材を美事に取扱われたかということが分って大変面白かった。
寒月君の演説の冒頭「罪人を絞罪の刑に処するということは
寒月君が続いて、「波斯人も矢張り処刑に磔を用いたようで御座います。但し生きているうちに張付けに致したものか、死んでから釘を打ったものか、其の辺はちと分りかねます」という
それからこの時の絞殺の二つの方法について、一方が力学的に成り立たないという証明が本当にあるのである。「T1cosα1=T2cosα2……(1), T2cosα2=T3cosα3……(2)」と寒月君が始めると、苦沙弥先生が「方程式は其の位で沢山だろう」と乱暴なことを言うのであるが、この式は実際には十二個あって、それをちゃんと解いて、初めの方法が成立しないという所まで、約四頁にわたって証明がしてあるのである。「此の式を略して
この数学的の取扱いの次に、英国のことに言及して、ブラクストーンやプローアンの説が飛び出したり、有名なフイツゼラルドという悪漢を絞めた話が出たりするのも、やはり原論文にあるのである。「とうとう三辺目に見物人が手伝って往生さしたという話です」と寒月君がいうと、「やれやれ」と迷亭はこんなところへくると急に元気が出るのは、漱石先生の実感であったのかも知れない。実際、この論文も段々少し面倒になってきて、数式ばかり沢山出るようになるので、もう後は全部この調子かと思って読んでいると、急にこんな話が飛び出してくるので、誰でもちょっと妙に愉快になるのである。「演説の続きは、まだ中々長くあって、寒月君は首縊りの生理作用にまで論及するはずでいたが」というのもその通りであって、原論文は以上が前半であって、その後半には縄の弾性系数と体重と飛び下りる高さとから、首に縄を附けて飛び下りた時の首に与えられる衝撃を計算してある。そして縄の長さをどれ位にしたら、その時の衝撃がほとんど瞬間的に罪人を致死させ得るかという点を生理学的に取扱ってあるのである。このような題目が大真面目に取扱われ、そしてその論文が平気で物理の専門雑誌に載っていた時代もあったのである。もっともそれも英国の雑誌なればこそと思われるのである。
寒月君のついでに、
東京の大学の物理教室では、旧くからニウトン祭というものがあって、毎年十二月二十五日のクリスマスの夜、教室の職員学生一同で教室内の一室を片付けて、そこで懇親の会をすることになっている。その会の呼び物として毎年学生達の楽しみにしているものに漫画の幻灯がある。漫画は学生や大学院連中の中での器用な人が描くことになっていて、その種にはその一年間の先生方の秘話や失敗談が選ばれるので、まあ悪太郎連が一年の
それからこれは全く私の臆測であるが、「蛙の眼球と紫外線」の出所も、寺田先生の話からヒントを得られたものでないかと思われる節がある。それは、その頃やはり大学でN先生が梟が何故
以上の話は漱石先生がいかに色々な材料を美事に処理されたかという一例にもなり、またどのような話でも、特に文学者の方に比較的不得手でありそうな科学的の話でも、よくその本質を理解されていたということを示す例としてもみることが出来ると思われる。またこれはほんの一例ではあるが、漱石先生の書かれたもののモデル詮議などをすることはいかにも意味のないことという気もするのである。
附記
首縊りの力学の原論文を読んだのは十年位も前のことであり、今度これを書こうとしたら、そのような旧い時代の雑誌は私の今勤めている所にはないので、平田森三君に御願いしたところ、わざわざ東大の図書室で原文をタイプに打って送って戴いた。これが書けたのは全く同君の御蔭で、ここに厚く感謝する次第である。
(昭和十一年二月『漱石全集月報』)