前掲の『雪華図説』の研究というのは、ほんの思いつきのようなつもりで『画説』に書いたのであるが、脇本楽之軒氏が大変興味をもたれて、この後日譚を書く材料を集めるのに色々世話をして下さった。
ことの起りは、脇本さんがかねて藤懸静也教授に会われた際、同教授が『雪華図説』の著者土井利位の家老であった鷹見泉石の
前にも言ったように、この『雪華図説』は当時の欧米の学者たちの雪の結晶の研究とくらべて、なんら遜色のない立派な研究なのであって、江戸時代の日本の科学が遺した業績の中でも特筆すべきものなのである。ところでこういう立派な仕事が、当時の日本の武蔵野の一隅に
『雪華図説』の出た頃は、蘭学が既に我が国で隆盛の期に達していた。それで土井利位の仕事も、蘭学の系統に属していたにはちがいないので、当時既にかなりすぐれた蘭学者であったところの泉石の助力がよほどあずかって力あったものと考えられるのである。東京科学博物館刊行の『江戸時代の科学』には、『雪華図説』の著者として、土井利位の代りに鷹見泉石の名が挙げられているくらいで、あるいはこの研究は主として泉石によって為され、刊行の際にその殿様であった土井利位の名を冠したものではないかと疑われるくらいである。『江戸時代の科学』に著者として泉石の名を挙げた理由は、其の後鷹見家の後裔、鷹見久太郎氏に会って尋ねたが分らなかった。詳しいことは後述の通りである。
こういう風に考えてくると『雪華図説』の研究をする場合には、どうしても鷹見泉石のことを詳しく知る必要がある。それで脇本さんに紹介を願って、一日帝大の美術史研究室に藤懸教授を訪ね、泉石の遺品を見せて貰い、かつ泉石のことについて色々の話を承った。きいて見ると、泉石は家老として非常にすぐれた人であったばかりでなく、蘭学者としても立派に一家をなしていたらしい。それに色々面白い話があり、特に崋山の泉石像のことや陶工道八の名前まで出てくるので、その話は『画説』の読者にも興味あることと思われるので、教授の談話を紹介することとする。
藤懸静也教授の談話より
泉石の本名は鷹見十郎左衛門忠常、字を伯直といった。天明五年古河の家老の家に生る。早くから父に従って江戸に出て修業につとめた。幼にして天才の名があって、絵を巧みにし、十二歳の時に既に寛永三補図を写した。三補とは土井、酒井、本多を指す。文化年間、
泉石は早くから蘭学を学んでいた。その系統は桂川系でもなく、又大槻一派の門人の中にも泉石の名は見当らない。ちょうどその時代に古河藩の河口信任なる蘭学者がいて、泉石はその系統であった。河口の晩年は泉石の壮年時代に当り、共に江戸に住んでいたので、泉石が河口より蘭学を学ぶ機会は多かったものと思われる。河口は古河の藩医で、『解屍篇』なる解剖書を出した人である。この書は実際に解剖を行って調べた結果を集めたもので、明和年間に刊行され、木刻、手彩色の立派なものである。この上梓は有名な『解体新書』に先立つこと数年である。
これから見ても河口信任が蘭学者としてかなり非凡な人であったことが分るが、その門下の泉石の蘭学も、相当に進んだものであった。当時の一般の蘭学者は、多くは医家であって、医書を通じて外国の事情を知り、国を憂うるに至った人が多かったが、泉石は家老の家に生れ、若い時から北辺防備に思いを致して、その故もあって、蘭学を学んだものと思われる。
泉石の家老としての仕事の中で、一番変化に富んだのは、天保八年の大塩平八郎召捕事件であった。大塩が乱を起した時に、ちょうど土井利位は大坂城代として赴任していた。古河の領地が大坂の平野郷にあって、そこの女が大塩の隠れていた家へ女中として行っていたために、召捕事件となった由で、その報告書が残っている。
召捕の際は古河藩の士九人が大塩の家の裏に向い、与力が表から入った。押し入ったのは暁方のことで、就寝中の大塩は逃れられぬと覚悟して、家に火を付け、その中に飛び込んだ。その時古河の藩士が袖を捕えたが、千切れてしまった。そして大塩は短刀を投げつけたが、それは藩士の持っていた半棒に当った。この半棒は、其の後鷹見家でしんばり棒として使っていたが、それに「大塩召捕棒」と刻まれていることを藤懸教授が発見され、それと分った由である。大塩はこの時黒焦の屍体となって発見され、泉石もその検死に立会った。続いて大塩召捕について、古河藩と与力との間に功名争いがあったが、残った片袖と短刀とが証拠になって、古河藩の手柄となった。泉石はこういう交渉などにも有能な人であった。
泉石はこの事件の顛末を幕府へ報告するために江戸へ下った。そして土井家の菩提寺たる浅草の誓願寺へ、土井家の代拝として参詣した。その帰途、崋山の居を訪れたところ、崋山は、「ちようど[#「ちようど」はママ]御姿が出来ているから」と言って、泉石の像を写した。今日崋山の泉石像として有名なものは、この時描いたものである。あの像が正装をしているのは、こういうわけがあったのである。この泉石像は、日本画の肖像画として、顔に洋風の陰影をつけ風神
崋山は田原藩士で、同藩家中の鷹見爽鳩と泉石の家とは一家であったため、その縁で、早くから文通があり、また共に江戸にいることが多かったので、師弟の関係が結ばれたらしい。
大塩事件の直後、土井利位は京都所司代となり、翌年には老中に抜擢された。それで利位は京都より江戸へ下ったが、その時は中仙道を通った。藤懸教授が、先年軽井沢の先の追分の旧家に残っている古文書を調べられた時、天保九年の大名の宿帳の中に、利位、泉石の名が発見された由である。
利位は江戸に帰って老中となるや、水野越前守と共に、天保の改革を断行した。泉石は終始利位を援けて、家老の重責を果し、非常に忙しい生活をしていたが、『雪華図説』および『続雪華図説』のような仕事が、こういう多忙な公的生涯の中にあって為されたことは注目すべき点である。
泉石はこのように、政治家と学者との両面を具えた珍しい人であって、万事に非常に克明であった。その性質がよく出ているのは日記であって、八十冊の詳しい日記が遺っている。この日記は史料編纂所で写しをとったが、それが印刷にでもなれば、かなり貴重な資料となるであろう。泉石は
弘化年間に至り、泉石は古河に蟄居を命ぜられた。理由は分らないが、外国関係のことで、主君に累を及ぼすのを恐れたためらしい。爾来、安政五年、七十四歳で歿する迄、ずっと古河にいた。この時代の泉石は、すっかり政治より遠ざかり、著述と読書とに日を送った。嘉永二年出版の新訳和蘭国全図などもその間に出来たもので、その版木が遺っている。この図は先年藤懸教授が外遊の時新しく刷って諸外国の図書館などへ寄附された由であるが、ライデン大学にはその初刷があったそうである。蟄居後の泉石は、来客があると、渡良瀬川の堤防で会うことが多かった。大槻磐渓ともこの堤防で会って話をしたことが、日記に残っている。後年磐渓が『雪華図説』の翻刻をして序文を書いているのも、そういう関係があったためと思われる。
泉石の蘭学は為政者としての憂国の念から発したもので、最も力を入れたのは地理であった。現在沢山の地図が残っているが、嘉永二年作の北海道樺太の地図などを見ると、現今の地図とほとんど同じである。
泉石が進歩した意見を持っていたことを示す例として、ペルリ来朝の時に幕府に提出した開国の意見書を挙げることが出来る。この意見書は、幕府が各藩に意見をきいたのに対する答申書であって、公にされたものか否かは不明であるが、今日遺っているのは泉石の添削がついている下書である。泉石の開国論は次の如くである。向う三軒両隣りと言うが如く、外国との交通を開始するのが急務である。西洋人は古来礼儀の国民であるから、礼をもって交わるべきである。支那は英国を夷狄として扱ったために阿片戦争を起して失敗した。我が国としては、まず軍艦迦砲を作り、砲術を心得た蘭人を雇い、世界に巡検使を出し、外国の状勢地理に通ずることが肝要である。かくすれば侮りをうけずにすむことが出来る。我が国は
泉石は当時の進歩主義者であって、ヤン・ヘンドリック・ダップルという洋名までもっていた。この洋名は和蘭商館長が命名したもので、ヘーグ古文書館にある商館の日記に遺っている由である。鷹見家にも、達夫児様という宛名の手紙があり、和蘭学者との文通の手紙も沢山遺っている。
現在藤懸教授の許に保管されている泉石の遺品は沢山あって、Le grand Dictionaire Francois Halma 二冊、地理書、文法書、蘭仏の小辞典、プリンカン地理書(一八一七年アムステルダム版)、和蘭綴字書(一八〇五年アムステルダム版)、蘭領バタビア役員名簿、英吉利日本対語、ローマ字百人一首和蘭語訳付など、外にまだ沢山の本がある。その中には手写したものも沢山あって、大黒屋幸太夫が
『雪華図説』に関連して最も興味のあるのは、仁和寺宮様のお附の者からの手紙の遺っていることである。それは泉石が、「蘭鏡」を宮様に御貸し申し上げたのに対する御礼状であって、その蘭鏡が宮様の御興趣をひき、その御礼として、道八の茶碗を御下賜になる旨が書いてある。そしてその道八の茶碗も遺っている。その蘭鏡は残念ながら今日遺っていないので、何を意味するかは分らないが、後記の如く色々の点から考えてみて、それは、『雪華図説』の研究に用いた顕微鏡であろうと思われる。望遠鏡や水銀寒暖計は今日も遺っているが、その寒暖計は英国製で、今日吾々の用いているものとほとんど同じ立派な寒暖計である。
藤懸教授の話で、面白く感じたのは前記の蘭鏡のことである。これは現在残っていないために、どういうものかは分らないが、多分複式の、すなわち今日吾々が用いているものと同じ顕微鏡ではなかったかと思う。というのは、単なる虫目鏡ならば、教授の話にあるように、それほど珍重されたはずがないからである。
土井利位が雪華の研究をした時代は、もう既に複式の顕微鏡が日本に十分よく紹介され、かつ将来されていたのである。以下の話は、主として『江戸時代の科学』からの抜萃であるが、当時の状況を瞥見してみることとする。
鎌田昌長著『結夏随筆』によると、小野蘭山が、年代ははっきり分らないが、とにかく既に複式の顕微鏡を用いて、毎年雪華を観察して楽しんだということである。蘭山の雪華図というのは残っていないようであるが、多分これが我が国での雪華研究の最初の記録であろう。蘭山は享保十四年(一七二九)に生れ、『本草綱目啓蒙』四十八巻を以て有名である。歿年は文化七年(一八一〇)であるから、『雪華図説』の著者が、二十年来の研究を天保三年に刊行したとしても、その研究著手よりも数十年以前に、蘭山は雪華を複式の顕微鏡で覗いていたことになる。
この複式の顕微鏡が我が国に渡来したのは、いつであるかは分らない。しかし後藤光政の『紅毛談』(一七六五)に既に記載があり、その図解が『紅毛雑話』(一七八七)に載せられている。其の後享和二年(一八〇二)に至って、桂川甫周が幕命によって顕微鏡用法を述べている。鷹見泉石の記述「公事務ノ暇、雪ノ下ル毎ニ之ヲ審視スルコト、今春ニ至テ、幾ド二十年」というのによると、土井利位、或は泉石が初めて顕微鏡で雪華を観察したのは、一八一二年頃で、甫周が顕微鏡の用法を講述してから十年後くらいに当る。
土井利位等が雪華を観察したのと同年代頃に、宇田川榕庵は顕微鏡を用いて植物の細胞や組織などを観察図説している。又『雪華図説』の研究が始まったと思われる頃、すなわち文化八年(一八一二)には栗本瑞見が『千虫譜』を刊行している。この瑞見は顕微鏡を用いて昆虫を観察した最初の人の由である。
すなわちこの時代は、かなり多くの人々が顕微鏡で色々のものを観察していた頃である。それで土井利位や鷹見泉石などが雪華の観察に用いていた蘭鏡も、複式のちゃんとした顕微鏡であっただろうと思われる。
それで藤懸教授の話された蘭鏡が残っておれば大変面白いので、土井家または鷹見家に伺えば何か手がかりがあるかも知れないと思って、まず鷹見久太郎氏を訪ねた。土井家の方は、幸い御当主の友人増谷麟氏の紹介を得ることが出来、同氏を通じて、土井家に雪華の版下が残っていること、其の他手稿などもあることを知ったが、まだ訪ねる機会がないので、この方は後日に譲ることとする。蘭鏡は矢張り残っていないようであるが、『雪華図説』には『続雪華図説』があり、この『続』の方はかなり稀本である。それでそういう本とか、外にも未刊行のものがあることが想像されるので、一度ぜひ拝見したいものと思っている。
鷹見久太郎氏は、ただいま泉石の日記、それは非常に膨大なものであるが、それを整理しておられる由であった。出来上ったらかなり貴重な資料になることと思われる。同氏の話の中で、泉石の人となりが分る面白い話があったので、その二、三を左に紹介することとする。
鷹見久太郎氏の話
『江戸時代の科学』に『雪華図説』の著者として鷹見泉石の名があげられているが、その考証をしたのは多分日下寛氏であっただろう。日下氏はもと帝大文学部の講師をしておられた人であるが、今は故人であって、それを調べる手掛りはない。蘭鏡は残っていないが、望遠鏡などは残っている。これらの器械は日本橋のオランダ屋から買ったものである。
泉石の日記によると、これらの器械は一々取り寄せて試験をして買っていたらしい。望遠鏡を買う時なども、湯島の高台に上って市中を眺めたが、その日は霞んでいて見えず、改めて神田明神の高台へ行った。その時は市中が一望の下に実にはっきり見えたということである。もっともあまり熱心に見ていたら夕方晩くなってしまって、門が閉って出られなくなったので、神主に頼んでやっと出して貰った。ちょうど土井利位が寺社奉行をしていた頃なので、そういう点では便宜があったのであろう。
泉石には一面こういう研究者風なところがあったが、その生涯の仕事は、ほとんど土井藩の家老としての職に終始していた。日記などにもほとんど私事は書いてないくらいであった。そして官界遊泳術などにも如才のない人であった。当時の各藩の藩主は、皆就職に狂奔していて、各々心願書を幕府へ提出して中央の政治にたずさわることを願っていたらしい。
その頃中野碩翁という男が幕府内に妙に強い権力をもっていて、大名と幕府との間の取次はほとんどこの男の手を通して行われた。泉石は、中野碩翁の気に入りの植木屋平作の手を通して碩翁に近づき、度々訪問もしている。土井利位が度々異数の抜擢を受けて、幕府の重職を歴任したのは、泉石のこういう方面での助力もあずかって力あったものらしい。
以上は折角の材料を少しとりとめもない話にしてしまったが、藤懸教授、鷹見久太郎氏、楽之軒氏の御厚志によって、当時の学界の事情と泉石の人となりとがよく分り、『雪華図説』のようなものが出たことが不思議でなかったという点が明かになったことは非常に有難いと思われる。御多忙中時間を割かれた三氏の御好意に厚く感謝する次第である。特に藤懸教授が談話筆記の御校閲までして下さったことは望外の喜びである。
(昭和十四年十二月)