「大層な人ですね、親分」
兩國橋の上、ガラツ八の八五郎は、人波に押されながら、
「まア、少し歩けよ。橋を越せば、一杯呑む寸法になつてゐるんだ」
錢形平次は、泳ぐやうに近づいて、八五郎の袖を引きます。
引つ切りなしに揚がる花火、五
「本當ですか、親分。お
「現金な野郎だな」
「腹を減らして、
「相變らず殺風景な野郎だなア――もう少しの辛抱だよ、
「戌刻の鐘を合圖に、良い
「そんな氣のきいた話ぢやない。兎も角、橋の上は混雜で急に動けないから、少しづつ東兩國の方へ寄ることにしよう」
上を見て通れと言はれた兩國の賑はひ、今の常識では想像もつきません。橋の上は盛りこぼれるやうな人波、東西の廣場から、左右の町家は、棧敷を
五月二十八日の川開きから、八月二十八日までの三月の間、江戸の歡樂と
江戸の末期には、土地繁榮のため、商人達が金を集め、玉屋、鍵屋を買ひ占めて、人寄せの花火が連夜に亙つたと言はれますが、錢形平次が盛んだつた頃は、まだそれ程ではなくとも、八月十五日の夕凉みの晩の催しなどは、川開きの日に
「おや、淺草寺の鐘が鳴りますね」
八五郎は人波に搖られながら指を折つてをります。
「この騷ぎの中で、鐘の音の聞える耳は大したものだな」
平次は笑ひを噛み殺しました。
「呑みたい一心ですよ、――鐘が鳴りや宜いんでせう、五つの鐘が」
「何んにも變つたことはないやうだな、さては
平次は首を
「何を擔がれたんです? 親分」
「今朝、――變な手紙を受け取つたのだよ。今晩、五つの鐘を合圖に、兩國橋の上から
「誰がそんな手紙を書いたんでせう」
「そんなことがわかるものか。おや/\、あれは何んだ、八」
急に橋の下、大川の水の上が騷がしくなつたのです。
「何んでせう、親分」
「何んかあつたに違ひない。來いツ、八」
平次と八五郎は、人波を掻きわけました。が、今にして思へば、もう少し橋の袖の方に行つて出入を便利にして置くべきでした。
水の上は
「何があつたんだ」
わけもなくわめき散らす人々、盛りこぼれさうな人間の大集團、平次はそれを潜つて、どうやら番所に
「どうした騷ぎでせう、これは」
「お、平次か、丁度宜いところだ。怪我人があつたらしいよ。いま船を出すところだ。一緒に行くが宜い」
見廻り同心
漕ぎ出して五、六十間、と言つても、これは大變な努力でした。橋の下は、橋の上に劣らぬ大混雜です。
さすがに
「その船の人もやられましたよ」
役人の船と見て、一人の男が、胴の間に伸び上がつて教へてくれます。その邊の人は皆、醉も興も
「どれ/\、この船か」
とある屋形船、
「お役人樣、――
船を寄せて見ると、十六、七の小娘が、頬をやられたらしく、手拭で傷を押へて、二、三人の介抱を受け、あとの五、六人は、
「いきなり、矢が飛んで參りました。何處からともわかりません。娘の頬に立つて、この通り」
父親らしい中年男は、
「何んだこれは、
「楊弓の矢ではございませんか」
同心久良山と土地の岡つ引の問答を聽いて、
「――」
平次は
「平次、これは何んだ。見當が付くか」
「半弓の矢のやうでございますが」
「いや、半弓の矢よりも短かい」
「それは後で調べるといたしまして、まだ他にも怪我人があるやうでございます。それをお調べになるのが先でございます」
平次は氣が氣でない樣子でした。久良山三五郎が武具の講釋をしてゐるうちに、
「
此處で平次と八五郎は眼くばせをして次の活動に入りました。
折から船の間を漕ぎ拔けて行く一艘の
「待つてくれ。この騷ぎを調べたい、その舟を貸してくれ」
「何を言やがる。俺達は、お
若い男が二人、それは元柳橋あたりの料亭から、屋形船へ
「若い衆、この騷ぎに氣のつかない筈はあるまい。何人かの人が怪我をしてゐるんだ。酒より命が大事だ、暫らく頼むぜ」
後ろから平次が聲を掛けました。
「あ、いけねえ、錢形の親分だ――この野郎は何んにも知らないんで、相濟みません。どうぞお使ひ下さい」
年
「それぢや、暫らく頼むぜ」
漕がせて、騷ぎの第二の船に、
「この船にも何にかあつたのか」
八五郎はわめきます。
「
それは五、六人乘りの
矢は水に落ちたらしく、船の中には見えませんでした。念のために名と所を訊くと、
「横山町の伊豆屋勘六でございます。怪我をしたのは、嫁の
と主人らしい五十年輩の男が代つての挨拶でした。
「少し調べたいが、
平次は心を殘して第三の船に行きました。その第三の船といふのは、ツイ隣の大傳馬で、これは十五、六人の武家の一座でした。
「私は神田明神下の平次と申すものでございます。何にかお間違ひがあつたやうで」
恐る/\聲をかけると、
「おや、錢形の親分か、それは良い人が來てくれた、――見てくれ、何處からともなく矢が飛んで來て娘の耳を射たのだ」
武家は本田傳右衞門、
「飛んだことでございます、矢は
「不覺なやうだが、それが少しも見當はつかないのだ」
「何にか、左樣な
「少しもない。たつた十八の娘、それも隨分嚴しく育ててある。仇も
さうは言ひ放つたものの、本田傳右衞門、何んとしても腹の虫が納まりさうもありません。
酒で洗つて、用意の藥をつけて幸ひ血も止り、痛みも納まつた樣子ですが、第四の船の災難はそれどころの手輕なものではなかつたのです。
同心
「怪我のあつた船は、これで皆んなか」
「いえ、橋を
平次の船は、
「それでは直ぐ行つて見よう」
今までのは橋の下より少しづつ下流に向つた方でしたが、四
橋の
久良山三五郎の船と、平次の船は、凉み船の間を漕ぎ拔けて、橋架の下から顏を出すと、これはまた、一ときは大型の屋形船が一艘、滿船の
「どうだ、――何があつたんだ」
船は左右から近づきました。
「あ、お役人樣方、どうしようか、途方に暮れてをりました。兎も角、
久良山三五郎を迎へたのは二十歳を過ぎたばかりの氣のきいた若い男でした。
「何處の船だ」
「
「よし、案内しろ」
と言つたところで、屋形船の中、廣いやうでも、中の樣子が一と眼に見渡されます。見ると、丁度船の中程、眞新しい
「あ、錢形の親分」
續いて船に上がつた錢形平次が、一番先にこの男の眼に留りました。ザラの
「久良山三五郎樣だ、
平次はあわてて、見廻り同心を紹介します。こんなときは、妙な人氣が邪魔をして、反つて仕事の進行を
御藏前の板倉屋といふのは、當時一流の
金が
それは十分に
「私が久兵衞でございます――娘は息を引取りました――醫者の來る前に」
板屋久兵衞[#「板屋久兵衞」はママ]は、聲を呑むのです。五十年輩の立派な男で、
娘お絹、血潮の中に浸つた、美しい
「平次、よく見て置いてくれ」
「かしこまりました」
「
「私でございます」
振り返ると、恐れと驚きと歎きとに、滅茶々々にされた許婚の新六郎が、顏一杯涙に濡れて答へるのです。
「矢が飛んで來たのだらう」
「お絹さんと二人、
「この矢がどうした」
「
「あ、矢張りこの矢だ」
久良山三五郎は、矢を受取つてためつすかしつしてをります。
「うまい具合に私は水の中から拾ひました。が、お絹さんは、その時はもう、いけなかつたんです」
新六郎は水から矢を拾ふ機轉があるのに、美しい許婚の死に直面して、意氣地なく泣くのです。
「それにしては、傷の具合が――?」
平次は母親の腕から、娘の死骸を引離さうとしましたが、取りのぼせた母親のお
「何にか、氣になることでもあるのか」
同心久良山三五郎は、平次の顏を覗きました。
「大變な矢でございます」
娘の
「これを射たのは餘つ程の上手だらうな」
平次はそれに答へずに、新六郎に向ひました。
「ところで、花火が揚がつて、矢が飛んで來たとき、お孃さんは何處にゐたのか、
「
友吉といふ威勢の良い船頭が、鉢卷を取つて答へました。
一としきり船の中はザワめきました。主人久兵衞夫婦、許婚の新六郎、妹のお鳥、手代の周次郎、それに
その間に、平次が何やら
「久良山樣、矢の飛んで來た方角に、お氣づきはありませんか」
「いや」
平次の問ひに、久良山三五郎は首を
「橋の向うの三
平次は手を擧げて遙か竹屋の渡しの方を指さすのです。
船の
「すると、どういふことになるのだ」
「曲者は二人ゐる筈はありません。それに川に浮ぶ船を一々調べるわけにも參りません。取あへず、橋
「かう暗くては、凉み船の
「
見ると兩國橋の、東西兩方の橋詰から、一杯に灯を積んだ船が二艘、この邊の中心點を目がけて、長
その間に平次は、常吉と伊太郎に指圖をして、橋の下の船を、上流下流に押しやり、虫一匹逃がさずと、橋の下を睨むのでした。
そのうちに、東西から漕ぎ寄せた船は、五、六間の距離まで攻めて來ると、
「あツ、あの野郎だ」
橋の下から湧いて一人の曲者、橋の上へ這ひ上がらうとするところへ、平次の手から、珍らしくも錢が飛ぶのです。
暫らく曲者はためらひましたが、次の瞬間吹き散るやうな錢を潜つて、曲者の身體は
曲者が、水へ逃げずに、橋の上へ逃げたといふことは、その頃の『上見て通れ』と言はれた、兩國橋の水の上の賑ひを語るものでした。花火さへ揚がつてゐなければ、橋の上は寧ろ暗いくらゐ、水の上の明るさ賑やかさとは比較にもなりません。
曲者が橋の上の人混みに
「あツ」
橋の上も、水の上も、一度にドツと沸きました。群衆の中から八五郎が飛出して、曲者の後ろから、
平次はこのことあるを豫想して、八五郎を橋の上に待機させたのです。
この組討ちは厄介極まるものでした。暗い橋の上、豆の中に豆を交ぜたやうな、曲者と岡つ引、組んだりほぐれたり、群衆に揉み込まれての大亂鬪でした。
群衆は八方に散りました。が、散ればまた恐ろしい力で押し返される人波です。が、どうしたことでせう、八五郎の剛力を振り切つて二、三間逃げ伸びた曲者が、僅かな群衆の
「野郎、神妙にしやがれ」
八五郎は、こんなに英雄的な心持になつたことはありません。見物は橋の上一パイの人だかり、人數に不足はない上に、空には引つ切りなしに花火が咲いて、遠くの船からは、まだ
「畜生ツ、世話を燒かしやがる」
もう一度さういつて、橋の上に
二つ三つ小突いて、得意の早繩、膝に敷いた曲者の手を
「あツ、血」
曲者の脇腹から吹き出す血が、橋の上を眞紅に染め、花火の青い光に照らされて、毒の花のやうな、無氣味な紫に見えるのです。
橋の上の人々は、かくと見るや本能的な恐ろしい力で、サツと左右に分れました。中に取り殘された八五郎の間の惡さ。
「親分、た、大變なことになりましたよ」
「どうした、八、手に餘るなら行つてやらうか」
平次は八五郎の腕を信じて、少しのんびりとしてをります。
「曲者がやられましたよ。來て見て下さい親分」
八五郎の聲は悲鳴になるのです。
「何んだと?」
事の容易ならぬ發展に驚いて、平次も船を兩國河岸に廻しました。大急ぎで飛降りると、續いて久良山三五郎と、その同勢、
「邪魔だ、邪魔だ、
こんなときだけは、馬鹿に威勢がよくなります。
橋の上に刺された男は、五十五六の不景氣な男、この時は最早虫の息もありません。
「どうした八?」
「何が何んだか、少しもわかりませんよ。あつしの手を振りもぎつて、人混みの中に飛び込んだこの野郎が、いきなり橋の上に引つくり返るんですもの」
八五郎の説明し得るのは、これが精一杯。
「怪しい人間を見なかつたか」
平次の問ひも少し
「誰も見なかつたか。刄物を持つた
久良山三五郎は、自分の無能さを救ふ折を見付けて、東西眞二つに割れた群衆に呼びかけました。
「――」
お立あひは、掛り合ひを恐れてたゞ尻ごみをするばかり。
その中から一人、橋の見廻りをしてゐたらしい、三十前後の男が飛出しました。
「一人、變な女を見ましたよ」
「どんな女だ」
「刄物は持つてゐなかつたが、片手を
「?」
「――あの騷ぎの側へ寄つて飛んだ目に逢つたよ。こんなに着物を
「お前は何んだ」
「り組の若い者で、今夜は人出も多からうし、一應花火も見張らなきやならないといふので、あつしは橋の上を受持つてをります、磯吉と申しますが」
「その女の人相を覺えてゐるか」
「良い女で、二十二、三の、何百人の中で見掛けても間違ひつこはありません」
「それは宜いあんばいだ。次に見掛けることがあつたら、必ず屆け出るのだよ」
「へエ、かしこまりました」
浴衣は秋草を染め出した中形で、なか/\に
袖の先三角になつたところに、刄物で突いたらしい穴があり、その穴をめぐつて、ベツトリと
「この穴は何んだ」
久良山三五郎は首を
「曲者が――その女が、
「成る程」
「この人混みの中で、時々花火が頭の上で開きます。
平次の細かい説明に、久良山三五郎は舌を卷くばかりです。
「ところで、殺されたのは誰でせう」
八五郎が横から口を出しました。
「不景氣な年寄だが、
平次は
「名乘り
日本橋のほかに、幾つかの見附は、その頃罪人
その頃はもう、花火も打ち終り、橋の上の群集も次第に
「平次、隨分厄介な仕事らしいが、乘り掛つた舟だ、宜しく頼むぞ」
同心久良山三五郎はこの跡始末を
翌る八月十六日、晝少し前にはもう、八五郎が明神下の平次の家に飛込んで來ました。大きな事件に出つ
「お早やう」
「お早やう――は少しをかしいな、もう晝だぜ、八」
「
「馬鹿野郎、
「へエ、兩國の娘殺しのせゐぢやありませんか、――良い娘の死骸を見ると、あつしも二、三日は氣になりますが」
「ところが、俺は橋の上で殺された、あの年寄のことが氣になつたよ。どうも、何處かで見た顏に違ひないが、夜つぴて考へても思ひ出せねえ」
「あの野郎の身許なら、見附へ
「誰だえ?」
「深川の三十三間堂前に矢場を開いてゐた、半九郎ですよ」
「あ、成程あの男か」
「大弓は引かないが、半弓と、楊弓の名人で、若い女を置いて、
「すると?」
「あの矢は、楊弓の矢よりは大きく、半弓の矢よりは小さいやうだが、恐ろしく頑丈な矢で」
「それはわかつたよ、あの矢は
「へエ、そんなもので人が殺せますかね」
「殺せるどころか、ものの本には永祿八年とかに、竹内大夫左衞門といふ人が、半弓で馬上の侍を十四、五人射殺したといふことが書いてあるさうだ。小さいけれど凄い弓だ、昔は柳で造つたといふ。ヒヨロヒヨロの
「へエ、成る程ね、――ところで、半九郎が何んだつて橋の下から、若くて綺麗な女を三人も四人も射たんでせう。氣狂ひ沙汰ぢやありませんか」
「いや、氣狂ひぢやない。現にその半九郎が刺し殺されてゐる、――多分、半九郎の口を
「成程ね」
「ところで、秋草の
「厄介なことに、あの柄の浴衣は、この夏の
「片袖が半分切れてゐるんだ。何んとか搜す工夫があるだらう」
「へエ」
「それから、兩國の近所で、駕籠半弓を搜してくれ。楊弓は二尺八寸だから、駕籠半弓は三尺以上はあるだらう。それから、矢が二本だけ見つかつたが、ほかにまだ二、三本はあるだらう。川に沈んだか、流れてしまつたか」
平次の調べは次第に
「八、今日は、少し骨が折れるぞ」
平次は身仕度をしながら、八五郎を
「
かう言つた八五郎です。
「殺された板倉屋お絹のほかに怪我をした女達を見舞つて、それから、深川の三十三間堂前の半九郎の家へも行つて見たい」
「半九郎の家は常吉と伊太郎をやりましたが、娘達の家はあつしが一と廻りして來ましたよ」
八五郎は娘達のことといふとさすがに勤勉です。
「變つたことはなかつたのか」
「四人の親達は、口を揃へて、あんな事をされる覺えはないと言ひますよ、――兎も角改めて親分が行つて見て下さい。あつしは瀬踏みだけで」
「俺はお前の歸つて來るのを待つて出かける氣でゐたんだ」
「先づ御藏前の板倉屋ですが、あの娘は殺されてしまひましたが親達の歎きは大變です。
「いづれ、一と通り廻つて見なきやなるまいが、俺は女達より、殺された半九郎のことが氣になつてならない。三十三間堂を先にしよう」
「さうですか」
八五郎は少し不足らしい顏をしましたが、それでも默つて平次の後に
深川の三十三間堂は、京の三十三間堂を
その楊弓屋の一軒で、淋しく不景氣なのは半九郎の店でした。
半九郎は楊弓と半弓の名人で、その道にも知られてをりましたが、酒癖が惡いのと、身持が宜しくないので客が寄りつかず、年々さびれるばかりで、近く店仕舞をするほかはあるまいといふ噂でした。
楊弓の
「御免よ」
「おや、錢形の親分、八五郎親分も一緒か」
常吉と伊太郎は迎へてくれました。店を閉めてゐると、楊弓の結改場などといふものは、まことに狹苦しく、亂雜極まるもので、その一と間に
「飛んだことだつたな、お神さん」
「不斷心掛けの良い人ではありませんでしたが、まさか、こんなことにならうとは思ひませんでした」
佛樣を前にしてツケツケとこんなことを言ふ女房です。亭主の放埒と酒には、
半九郎の女房といふのは、禿げ上がつた四十七、八の女で、夫婦喧嘩と
「親分、ちよいと」
「何んだい?」
「妙なことがありましたよ」
「?」
「あつしは、半九郎に隱し事があるやうな氣がして、それとはなしに家中を捜して見ました。ところが、明るくなつてから、お勝手の天井裏の、板のズレたところへ手を入れて見ると、二十五兩包みの
「それをどうした」
「お
伊太郎は内懷ろから切餅を二つ取出して、ドシリと平次の前へ置くのです。
「そいつは、親分、あの人が
女房はそれを見ると、我慢のなり兼ねた樣子で膝を
「よし/\、筋が通れば返してやる、――ところで、主人の半九郎に、近頃變な樣子はなかつたのか」
平次は、女房を
「何んにも變つたことはありませんよ」
「兩國の
「さう言へば、近頃
「どんな女だ」
「私にはろくに顏も見せないんですもの、前から合圖か何んかで呼出して、八幡樣の境内へ行つて、何にか話し込んだ樣子です。でもうつかりとがめ立てをすると私はひどい目に逢はされるんですもの」
「顏を見た者はなかつたのか」
「店の女達は
女房はさう言つて、多勢の女達のところへ行きましたが、やがて一人の
「お前が、主人を訪ねて來た女を知つてゐるといふのか」
平次は改めて、この非凡の醜い女に訊ねました。
「知つてゐると言つても、何處の人か知りませんが、良い女でしたよ」
「年は?」
「二十二、三――
「どんなことを話してゐた」
平次は一歩突つ込みます。
「聲が低くて聽えませんでしたが、
「――」
「主人はもう五十過ぎの年寄だけれど、良い女にあんなにされると、イヤとは言へないんだね」
「で?」
「それつ切りですよ、――十五日の正
「よし/\それでわかつたよ、有難う」
平次は下女のお濱を追ひやつて、もう一度半九郎の女房の方に向き直りました。
「お神さん、御主人は餘つ程半弓がうまかつたんだね」
「それはもう、自慢でしたよ。若い頃長崎にゐて、
「すると、七、八間のところで、三寸ぐらゐの的を射るのは何んでもなかつたわけだな」
「百發百中――とか言つてゐました。大弓ほど強くはないが、首筋を狙へば、間違ひもなく、十人でも二十人でも討ち取れると――」
それは實に恐ろしい
「昨夕出かけた時刻は?」
「晝のうちに出かけました」
「半弓を持つて出たのか」
「
平次の手に渡つた、五十兩に未練があるせゐか、女房は訊かないことまで、ペラペラと話してくれます。
「不斷身持が惡かつたといふが何處へ遊びに行つた」
「岡場所を、あちこち
「御藏前の板倉屋の話の出ることはなかつたか」
「そんな、大町人の旦那衆は、私どもに掛り合つてくれません。尤も、
平次は女房の話を宜い加減に切りあげて、
傷は突き上げた脇腹の一と突き、心の臟をやられたらしく、なか/\の手際です。兩國橋の人
永代橋から兩國まで船、兩國の橋番所に顏を出すと、
「おや、平次か、丁度宜いところだ。
同心
見せてくれた弓といふのは、成る程普通の半弓よりはまた少し小さく、
「これは良い物が見付かりました。大した品でございますね」
「今はこんなものを道中に持ち歩く人もないだらうが、鐵砲の行渡らぬ頃は、
久良山三五郎はこの半弓が氣に入つた樣子です。
「矢はなかつたでせうか」
「
その頃の大川は今の常識では考へられないほど澄んでをり、落語の
見つけたといふ、二筋の矢は乾いてをりました。これは多分、六本持つて來た矢のうち、二本は放つ
「この二筋の矢は、川の中に立つて半ばは浮いてゐたやうだ。伊豆屋の嫁と、本田
久良山三五郎は説明してくれました。
「これで六本の矢は揃ひました。一つわからないのは?」
「まだ、何にか、わからないことがあるのか。半弓の名人の半九郎が、氣が狂ふかどうかして、四人の若い女を射た――といふだけではないか」
久良山三五郎は、簡單に片付けます。
「いえ、それだけでは、半九郎が橋の上で刺し殺された意味がわからなくなります」
「?」
「それに、名人の半九郎が、五間や十間の近いところから射て、三人までも人を射損じる筈はございません。四文錢を釣つた
「だが、あれだけの賑はひの中で、取りのぼせるといふこともあるだらう」
「お言葉でございますが、氣違ひの考へは別で、あたりの騷ぎなどに氣を取られる筈はございません」
「成るほど」
「まだ/\わからないことばかりでございます。暫らくお待ち下さいますやうに」
平次は久良山三五郎を
平次は道順に無駄をしないやうに、川向うの
「錢形の親分で、飛んだ御手數で」
「いや、災難だつたね。ちよいと樣子を見せて下さい」
「へエ/\どうぞ、本人はまだほんの子供で、何を訊いてもわかりません。それに私どもにも、全く心當りのないことで」
辯解する主人に案内させて、平次と八五郎は奧に通りました。
お得意のために凉み船を出すほどあつて、それはなか/\の店でした。奧は廣いといふほどではありませんが、調度もよく整つてをり、傷ついた娘を寢かした六疊には、
「お孃さん、飛んだことでしたね、――痛みはしませんか」
平次が枕元に坐ると、娘は半身を起して、
「有難うございます、もう痛みはありませんが――」
とツイ涙ぐむのです。
「嫁入前の娘で、萬一顏に傷でも殘つてはと、たいそう心配をいたしましたが、
父親の
「お
「いや飛んでもない、お客樣大事、仲間の者とも折合が良いやう奉公人の扱ひ、附け屆け、
源之助は江戸の大町人らしい
「お孃樣方に、何にかお心當りは」
「何んにもある筈はございません。まだ定まる縁談もなく、堅い一方で」
父親が代つて言ふのです。
「深川三十三間堂前の、
「私はさう言つた遊び事は大嫌ひで、武藝などにも關係もなく、弓も鐵砲も、手に取つたこともございません」
「その楊弓と半弓の名人で半九郎と申すものがやつた
「いや、そんな人とは附き合ひもなく、名前を聽くのも初めてで御座います」
主人の源之助は、以てのほかの手を振るのです。
「御藏前の板倉屋さんと、お附き合ひはありませんか」
「お名前だけは存じてをりますが、酒屋と
さう言ひ切られるとそれつ切りです。
内儀と乳母のクドクドと言ふのは宜い加減にあしらつて、平次と八五郎は兩國橋を渡りました。
「次は何處で?」
「板倉屋だよ、これは娘が死んでゐるから調べも難儀だな」
御藏前の板倉屋は、
その娘のお絹――十九の美しい盛り、
娘一人の命が、藏前中を
若い人達は、町の風呂や髮結床で顏を合せて、その噂が出ないことはなく、いつの間にやら『
そのお絹が死んだのです。しかも人手にかゝつて、怪しい死にやうをしたのです。町内の若い者達がいきり立つて、我こそは――と敵討ちを狙つたのも無理のないことでした。
この騷ぎの中へ、錢形平次と八五郎は、物の順序として乘込みました。
「おや、錢形の親分さん」
裏から廻つて、お勝手口から入ると、ちよいと見は
「大變だつたね、お銀さん」
八五郎が聲をかけると、
「有難うよ。本當に、お絹さんが可哀想。私はあんな良い
日頃の調子が思ひやられる態度です。
「お銀さんは船の中にゐなかつたやうだね」
「私は、留守番よ、居候の役目ぢやないの――
かう言つた調子、いかにも八五郎と馬が合ひさうです。
「奧へ案内してくれ、兎も角も」
「さア/\、どうぞ、今日は皆んな
お銀はそれでも、いそ/\と二人を奧へ
「錢形の親分か、――これは何んとしたことだらう。たつた十九の嫁入前の娘に、何んの怨みがあつての
板倉屋の主人久兵衞は、名だたる分別者ですが、娘の不慮の死に取りのぼせたものか、挨拶も拔きにこんな
「お氣の毒なことで」
平次は答へる言葉もありません。
「曲者は殺されたと聽いたが、何んだつてこんなことを仕出來したか。大方の目星はついたことでせうな、親分」
「いや、まだ、何んにも見當はつきませんが」
「それは?」
板倉屋久兵衞、
「いろ/\伺はなきやなりません。先づ旦那は、半弓の名人で、三十三間堂前に楊弓場を開いてゐる、半九郎を御存じでせうか」
「いや、少しも知らない、私は楊弓も半弓も大嫌ひで」
五十年輩の堅いので通つた大町人が、そんなところに出入りする筈もありません。
「お店を怨む者の御心當りはございませんか」
「ないとは言へないが、商賣の方のいざこざは、皆んな御武家が相手だから、まさか、半弓で罪もない娘を殺す筈はあるまいと思ふ」
「いかにも」
「船に乘つてゐたのはが[#「ゐたのはが」はママ]娘を殺す筈もなく、あの晩船に乘らないのを詮議すると、これは當てもないことになるが」
「その船に乘つたのは、どんな顏觸れでせう?」
「手代の周次郎――年は若いが
「――」
「藝者の小奴にお春、御存じだらう、芳町の良い顏だ。ほかには、さう/\手代の新六郎、これは私の
「――」
「氣の毒なことに、娘に死なれて、この新六郎は一番氣を落した。
主人の久兵衞は、自分の歎きも忘れて、若い者の無分別さを
「すると、お孃樣と、手代の新六郎さんと、
平次は口を挾みました。
「いや、從兄同士とはいふものの、血のつながりは遠くなります。新六郎の父親は、この坂倉屋の先代で、私には義理の兄に當り、お銀の母親は、私の
「そのお銀さんは、
「下男の圓三郎と二人だけ、店の留守をしてをりました。圓三郎は
「外から、斷つてお孃さんを欲しいと言つた、御縁談の口はありませんでしたか」
「隨分、そんな口もありましたよ。でも近頃では、新六郎と一緒にするとわかつて、そんなことを言ひ出す者もありません」
「妹のお鳥さんの方には」
「これはまだ子供で」
「お銀さんは?」
「十八の年に變な男に
「では、こんなことにして、佛樣を」
平次は、主人の久兵衞に案内されて、その豪華な部屋から、芝居の大道具のやうな、
奧の佛間――と言つても、次の間付きの十二疊半、さすがに巨富を
型の如く逆さ屏風、經机に名香が煙つて、娘お絹の死骸は、
平次は丁寧に拜んで近づくと、死顏の上を
「――」
ハツと
傷は白布を卷いて隱してをりました。八五郎にほどかせると、玉を伸べたやうな首筋がパクリと、口をあきます。
「八、お前は不思議だと思はないか」
「何んです、親分」
平次は八五郎を
「あの矢の根は物凄かつたが、矢が當つてついた傷なら、眞つすぐに突き
「へエー」
「そんなことがあるだらうか、――多勢の者の見てゐる前でやられたのだから、間違ひもあるまいが」
「――」
「おや」
平次は後ろを振り向きました。
「あの通りで、まことに困つてをります。いくら何んでも、泣き過ぎては、娘の
主人の久兵衞は苦々しがるのです。
二十二といふ立派な男、少し
「親分さん、この
「待つてくれ、番頭さん。この敵は半弓の半九郎ぢやないか。兩國橋の上で、もう誰かに殺されて死んでしまつた筈だぜ」
平次は慰め顏にかう言ひました。
「では、矢張り、あの男が曲者だつたでせうか。あの男が」
「お前さんは、あの男を知つてゐたのか」
「知りやしません、人の話で聽きました。橋の下から、何人もの若い女の人を、半弓で射た者があると」
「その中で殺されたのはお孃さん一人だ――お孃さんは、半九郎を知つてゐたのかな」
「あんな不氣味な男を、知つてる筈はありません」
「まア、急には
「――」
「ところで、旦那」
平次は主人の久兵衞の方に向きを變へました。
「ハイ、何んか、御用で?」
「少しお訊きしたいことがありますが、次の間までお顏を」
「ハイ、ハイ」
板倉屋久兵衞は、平次に
「お孃さんが
「――」
「この後、新六郎さんはどうなりませう。お孃樣が亡くなれば唯の奉公人になるわけですが――」
平次の問は妙に突つ込みました。
「いや、あれは、私のためには義理のある兄の子で――一季半季の奉公人とは違ひます。いづれ本人達の望みも
「――」
「この上は成るやうにさせるほかはありません」
「おや?」
平次は廊下の障子をサツと開けました。誰かが、ヒラリと
「どうかしましたか、親分」
「いや、なに」
「あれは、下男の圓三郎ですよ。ひどい
「ちよいと、あの男を呼んで下さいませんか」
「おい、圓三郎、――ちよいと來てくれ、錢形の親分が、訊きたいことがあると
主人の久兵衞は
「
平次は下男の圓三郎を庭の方に誘ひ出しながら、嚴しい調子で訊ねました。
「何んにも聽きやしません、――私は線香をあげるつもりで、縁側に參りますと、旦那樣と親分方がいらしつて、驚いただけのことで、へエ」
「お前は、
「二十五、六年にもなりませうか。御先代が繁昌していらつしやる頃からの奉公でございます」
圓三郎は鼻を
「家はあるのか」
「昔は女房子もありましたが、女房も伜も
「御主人はよくしてくれるのか」
「それはもう、申分のない御主人樣で、今では少しばかりですが、私もほまちも出來ました。有難いことで」
「そいつは豪儀だね。いくら
「へエ、――五、六兩も溜まりましたでせうか、皆な御主人樣にお預けしてあります」
「二十五、六年も奉公をして、たつた五、六兩しか溜まらなかつたのか、少し心細いやうだが」
「若い頃は遊びもし、勝負事もいたしました。それから女房を持つたり、伜に死なれたり、年に一兩の給金では、溜まるわけも御座いません」
「成程、そんな勘定になるかな――ところで、
「いくら八月十五日でも、私は夜の川風は毒でございます。お銀さんと一緒に、飛んだ面白い留守番でございましたよ」
「何をしてゐたんだ」
「鬼の留守で、へツ/\、こんなことを言つちや惡うございますが、お銀さんが腕に
圓三郎はその時のことを思ひ出したか、
「ほかに變つたことはなかつたのか」
「何んにもございませんよ。たゞもう、つまらない昔話で」
「よし/\歸つても宜いよ」
平次はそれを見送ると、もう一度
「八、お前はお銀さんに、昨夜のことを訊いてくれ。下男の圓三郎と何をしてゐたか、それとはなしに訊くんだ、――丁度、お銀さんは、お勝手にゐるやうだ、俺はもう一度庭に引返して、圓三郎に訊いて見ることがある」
「へエ」
八五郎はお勝手の方へ行くと、平次は庭に引返して、まだその邊に愚圖々々してゐる下男の圓三郎をつかまへました。
「なア、
「へエ、へエ」
庭と言つたところで、ほんの
「お絹さんと、仲の良い男はなかつたのか。娘が十九にもなつてあの通り色つぽいんだから」
「そんなことはございませんよ、新六郎さんと、
「先代の板倉屋さんは、矢張り久兵衞と言つたやうだね」
「へエ、新六郎さんの實の親で良い方でございました。人が
「そんな話も、俺は子供心に聽き覺えがあるよ。それから、先代の主人はどうした」
「この店を今の主人に讓つてから一年とも經たないうちに、
下男の圓三郎は涙を呑むのです。
「それからお銀は邪魔物扱ひにされてゐるわけではないのか。あの通り口が惡くて、それに先代の
「あの
「それにしちや、お銀さんは、陽氣で明けつ放しぢやないか」
「
「もう一人、手代の周次郎は?」
「お絹さんをモノにしようと、隨分骨を折つたやうですが、お絹さんは新六郎どんに夢中だつたので、近頃はお
圓三郎の舌は次第に
「一緒に船に乘つた、近藤宇太八さんとかいふ御浪人は」
「四十臺の
「あとは通ひの番頭と男衆だけでも十何人、それは
「出入りの船宿で顏を合せるだけ、この店へは滅多に顏を出したこともありません」
「小奴にお春といふ藝子も乘つてゐたさうだが、――」
「藝者とは縁の遠い旦那ですよ。
圓三郎の舌はなか/\に
平次と八五郎は、御藏前の往來に出ると、銘々の報告を、遠慮のない調子で始めました。
「ひどい目にあつたのは、あの内儀の
「諦めろよ。あれだけの娘を殺された親だもの」
「さう言へばそれに違ひないが」
「ところで、周次郎に逢つたか」
「逢ひましたよ、隨分嫌な野郎で、――お孃さんが、氣が多過ぎたから、あんなことになるんだ――なんて、變なことを言つてゐましたぜ」
「
「その周次郎が、振られた怨みで、お絹をどうかしたんぢやありませんか」
「周次郎は弓も鐵砲もいけないし、それにあの時お絹から遠く
「へエ、それにしても、あの野郎は目を離せない野郎ですね。
「尤も八五郎なんかは、女の子を口説いて損ばかりしてゐる、――ところで、お銀は
平次は漸く問題の焦點に入りました。
「自分の部屋で、お仕事をしたり、ものを考へたり、あの騷ぎのあるまで、人と口をきかなかつたと言ひますよ。尤も、日の暮れる前からお仕事をするまでは、お勝手で働いてゐたといふことですが――」
「下男の圓三郎と一緒ではなかつたのか」
「圓三郎は下男部屋にゐるし、お銀はお勝手と自分の部屋にゐるから、顏も合せなかつたといふことです。それに、あの下男は、妙に
「お銀もその先代の主人の
「それには違ひないが、圓三郎は若い者をつかまへて、妙に意見がましいことを言ふから、お銀とは
「あられがなきや
「何處へでも行きますよ。でも四人の女が、半九郎の
八女郎には、平次の張り切つた動きが呑み込めません。
「さうかも知れないよ。が、
「へエ、あつしなんか腑に落ち過ぎて困つてゐるが――」
「お前の腑なんてものは、お前の
平次は歩きながら考へ込んでしまひました。
「八、俺は妙なことを考へたよ」
平次は急に足を
「何んです、親分」
八五郎はその
「お銀と圓三郎は、仲が惡いと言つたな」
「そんな評判ですね。お銀は明けつ放しで、少し浮氣つぽい上に、若い女のくせに遠慮のない口をきくでせう」
「?」
「圓三郎は、少し氣むづかしくて、意見を言ふのが好きで、口がうるさいと來てゐるでせう」
八五郎は二人の性格の違ひを竝べます。
「ところで、圓三郎は先代の久兵衞のことばかり
「さうですかね」
八五郎には、其處までは眼が屆かなかつたのです。
「お銀は先代の久兵衞の
「氣がつきませんでしたね」
「そんな心掛けだから、何時まで經つても、お前は良い御用聞になれないのだよ」
「相濟みません」
八五郎は
「
「あつしもそれを變だと思ひましたよ」
「兩國橋の上で、半弓の半九郎を刺し殺したのは女だ、――フト俺は、その曲者は、お銀ぢやあるまいかと思つたが、若しお銀が曲者で、圓三郎と相談してやつたことなら、二人は
「なるほどね」
「二人の口の合はないのは、――兩國橋の上で半九郎が女に刺されたと聽いて、圓三郎は日頃のお銀の氣性も知つてゐるし、今の主人の久兵衞とその娘のお絹をよく思つてゐないから、半九郎殺しの疑ひが、お銀にかゝつては氣の毒だと思ひ、餘計な
「待つて下さい、親分、あんまり話がこんがらかつて、あつしは頭がモヤモヤして來ました。こんな時は、一杯飮んで景氣をつけなきや結構な智惠が浮かびませんよ」
八五郎は到頭
「話が少し
「へエ」
八五郎は顏中に引つ掛つた
「そこで、お前と俺が相談したところで始まらねえ、大事な
「あ、成る程」
「お前は、り組の
「そんなことなら、わけもありませんや」
「たつたそれだけのことだが、お銀に覺られないやうに、うまくやるんだよ」
「へエ」
「それから、
「親分は?」
「俺は横川町の伊豆屋から、本郷丸山の本田樣まで廻つてみる」
平次の
横川町の伊豆屋は、かなりの呉服問屋で、主人の勘六は六十近い年輩、その伜は二十五、六の働き者で、嫁のお菊といふのは二十二、平次が訪ねて行つた時は、まだ奧に寢かしてありました。
「親分、御苦勞樣で」
「飛んだ災難でしたね。怪我の樣子は?」
「もう元氣で、起き出さうとするのを、寢かして置くのに骨が折れます。もう
嫁の
「暫らくの間、はづして貰ひたいが」
嫁の口から言ひにくいこともあらうかと、
「
「ハイ」
お菊は半元服の美しい眉をあげて
「誰かに、こんなことをされる心當りはないだらうか」
平次の問ひは無遠慮ですが、かう言つて、正直さうなお菊の顏に往來する表情を讀みます。
「私には何んにもわかりませんが」
お菊の顏には、何んの動きもありません。
聽いて見ると、このお菊といふ嫁は、この五月に下田から嫁に來たばかり、
江戸と下田では、あまり近いところではなく、何んか
平次はこの美しくはあるが、何んとなく
横川町から本郷の丸山へ、割り切れない心持で
本郷丸山の本田傳右衞門は、千石取りの旗本で、申分のない立派な武家でした。今度お役付になつたので、その心祝ひに呼んだ同僚や
「大したことはあるまいが、嫁入前の娘に怪我をさしては捨て置き難い。聽けば半九郎とやら言ふ男が、半弓で射たといふことだが、その半九郎も殺されたさうではないか。その半九郎が誰かに
主人の本田傳右衞門は、平次を庭先から通して、縁側に腰を掛けたまゝ、かう言ふのです。
「恐れ入りますが、ちよつとお孃樣にお目に掛つて、
「無駄だらうよ、拙者でさへ
さう言ひながらも、手を拍つて内儀を呼び寄せ、それに申しつけて、娘のお節を呼び出させました。
言葉少なに
親は家柄のよい、出世にも無理のない本田傳右衞門、内儀は五十近く、娘が少々
「では、御大事に、お怪我の方ももう大丈夫と存じますが」
平次は氣休めを言つて引下がるほかはなかつたのです。
「幸ひ、大した
と、本田傳右衞門は尚も念を入れるのでした。
その晩、明神下の平次の家へ、八五郎がやつて來たのは、もう
「大層な機嫌ぢやねえか。何處でお
平次は眼顏でその邊を片付けさせて、それでも機嫌よく迎へると、
「相濟みません、飛んだ勸め上手な女につかまつて、尻込みしながら、到頭盛りつぶされてしまひました」
他愛、他愛、――八五郎は泳ぐやうな手つきで、ドカリと尻餅をつくのです。
「仕樣がねえなア、仕事の途中で呑んではいけないと、あれほど言つてゐるのに」
「大丈夫で、醉つてはゐるが、親分に言ひつけられた仕事はちやんと――へツ、へツ、
念入りにシヤツクリの合の手の入るほどの報告です。
「それぢや、先づ聽かうか、り組の磯吉とお銀を引合せたのか」
平次はお
「へツ、こいつは大笑ひだ。日本一の大笑ひでしたよ」
「何が大笑ひだ」
「り組の若い者が、御藏前のお銀を知らないと思つたのが大笑ひで、――何んにも言はずに
「お銀はさう言つたのか」
「その通りで、――手拭を取らないけれど、私はまだ髮が生え揃はないんだから、勘辨しておくれ――といふわけ」
「フーム」
「二人は前から知つてゐるのか――と訊くと」
「下谷淺草の若い者で、お銀さんを知らなきや――男の
「兩國橋の上の話は出なかつたのか」
「出ましたよ、お銀の方から、――磯吉さんは、半九郎の殺されるのを見たんだつてね。下手人は
「すると?」
「磯吉も負けちやゐないや、――毛が生え揃つてゐるだけでも、人殺し女の方が良かつたかも知れない。
「よし/\、それでよくわかつたよ。下手人は矢張りお銀ぢやあるまい。
平次は八五郎の
「これからが大變で」
「何が大變なんだ」
「近藤宇太八といふ浪人者、ありや大變な二本差ですね。もう四十近いでせうが、金のある町人のところを、渡り用人棒で歩きながら、
江戸時代の武家は、
中には大阪の陣以來、祖先傳來の浪人で
「あの近藤といふ浪人には驚きましたよ。あつしが、鳥越の浪宅を訪ねて行くと待つてましたとばかりに直ぐ酒だ。御用聞のあつしを、
八五郎にはまた八五郎の哲學があるのです。それを承知の上で、便々と
「それで、あの浪人者には、大したこともないのか」
「ありやしません。四十過ぎの
「それつ切りか」
「それつ切りですよ。
「フーン」
「あの坊主は、氣のふれた
「――」
「
「あの坊主に娘があるのか」
「元柳橋のお幾、――踊の師匠で良い女ですぜ。親分は御存じありませんか」
「知つてるよ、――あれが豊年坊主の娘とは知らなかつた」
「あつしも初めて知つたんで。
「――」
「あつしが搜し出して行くと、――まア、八五郎さん、珍らしいぢやないか。どんな風の吹き廻しで、こんなところへやつて來たの。私が三年越し
八五郎はまた、フラフラと手を泳がせて仕方話になるのです。
「それつ切りか」
平次は何やら考込みながら、八五郎を
「それで總仕舞で、へツ」
兩手をパツと開いて、肩をすくめます。
「お幾の顏ばかり眺めて來たんだらう」
「さうでもありませんがね」
「例へば、お幾に男があるかないか、大事なことをお前は聽き
「そんな間拔けなことは訊かれませんよ。散々油を掛けられてるあつしが、面と向つて、師匠にいゝ人があるかえ――なんて」
かう言つた八五郎です。
「だから間拔けだと言ふんだよ、――家にヂツとしてゐても、俺の方は調べが屆いてゐるんだから、恐れ入つたらう」
「へエ、誰です、そのお幾の男といふのは?」
「八五郎でないことは確かだ」
「あつしもそんな氣はしませんがね。尤も
「馬鹿だな、――お幾は人をそらさないで評判を取つた女だ。踊よりお世辭がうまいと言はれてゐるのを、お前も聽いたことがあるだらう」
「すると、あつしをつかまへていきなり――三年越しの
「まだあんなことを言つてやがる。少し顏の寸法を詰めな、
「ところで、そのお幾の良い人といふのは誰です、親分」
「まだそんなことに
「え、本當ですか、親分」
「お前が働いてゐるうち、俺は晝寢でもしてゐたと思ふのか。兩國から御藏前、柳橋から濱町河岸へかけて、精一杯訊いて廻つたよ」
「へエ、成る程ね。そんなことがあつたんですか、へエ」
「何を感心してゐるんだ。尤も近頃では新六郎も、板倉屋の
「へエ」
「ところで、もう一つ、半九郎を殺した片袖――と言つても、半分
「へエ、そいつは、良い證據になりますね。誰の着た浴衣なんで?」
「去年の盆に、御藏前の板藏屋から、お中元に出た浴衣だ」
「えツ」
「五十反は出てゐるさうだ。出入りの者は大抵貰つてゐるだらう――元柳橋のお幾も一反貰つた筈だと、板倉屋の店の者はさう言つてゐる、――明日はお幾の家へ俺が行つて見よう」
これは少し厄介なことになります。
その翌る日でした。相變らずまだ朝飯も濟ぬうちから、明神下の平次の家を、八五郎が
「お早やう、親分、今日は何處へ行きませう」
「大層寢起きが良いな、昨夜は大層醉つてゐたが、何んともないのか」
「やけに眼がよく覺めましたよ。尤も、仕事があると、寢ちやゐられない性分ですがね」
八五郎は長んがい顎を撫でます。
「
「へツ、口が惡いな、――行く先が先だから、今日は鹽磨きでさ」
「あんまり鹽をきかせると、お前の顏は段々ヒネ
無駄を言ひながら、平次は仕度をしました。
「さア、出かけませう」
「どつこい、――お前は兩國へ行つてくれ。半九郎を刺した
「冗談ぢやありませんよ。
「ハツハツ、むきになりやがつたな。まア宜い、
「さう來なくちや」
と言つた八五郎の
尤も、八五郎がさう言ふだけのことはありました。平次と二人、つながつて元柳橋の家へ行くと、師匠のお幾はまだ起きたばかり。二人の内弟子は、
「おや、まア、錢形の親分。私はこんな風をして極りが惡い。いらつしやるならいらつしやると、八五郎さんでも
お幾は髮を掻き撫でたり、居住ひを直したり、まことにいそ/\として二人を迎へました。
「濟まなかつたな、朝つぱら飛込んで。
「いえ、そんなこと構やしません。朝だつて夜だつて、三年越しの私の
お幾はさう言つて、押入から座布團を出して、それを赤ん坊のやうに抱いて、ちよいと見えないやうに頬ずりして、平次の方へ滑らせるのです。踊で
それを聽くと、平次の
だが、その齒の浮くやうなお世辭にも
「豊年師匠はちよいと大川の景色でも見て來てくれないか」
「へエ?」
「八も俺も、三年越しの
平次にさう言はれると、
「相濟みません。私も藝人の端くれですが、娘のこととなると、
豊年坊主は、二つ、三つ、火鉢の角にまでお辭儀をして、秋の
「怖いねえ、何を訊く氣? 親分」
お幾は少し顏を
「親のゐないところで話すのは
「まア?」
「師匠と板倉屋の新六郎とは、人の噂に上つた仲ださうだが、近頃はどうだえ」
「そんな事を打ち明けなきやならないでせうか」
「板倉屋の娘――あのお絹さんが殺された今となつては、板倉屋のことは、根こそぎ調べなきやなるまい。惡く思はないでくれ」
「――」
「先づ第一番に、近頃の板倉屋の新六郎の身持ちだ」
「諦めてゐましたよ。私は、もう」
お幾はさう言つて、ドツと
「何を諦めるんだ」
「板倉屋さんの跡取りに、私などが、何をしたところで――でもお絹さんが殺されたところで、私のせゐぢやない。あの晩私は、
「その通りさ。ところで、新六郎が此家へ來たのは、近いところで、
「二、三日前でした――確かなところは、お絹さんが殺される二日前」
「その時、どんな話があつた」
「皆んな申上げてしまひます。隣の部屋で子供達が聽いてゐたし、あの年頃の娘に、
「――」
「あの人は、――お絹さんとの祝言は、節分が過ぎれば直ぐだし、私は店が忙しくて、
「それからは、來ないのだな」
「あの騷ぎの後では、直ぐには出られないでせう」
「ところで、お前は、三十三間堂前の半九郎を知つてゐるのか」
「よく知つてゐます」
「どんな掛り合ひで?」
「一としきり、藝者さん達の間に、
「それから、板倉屋の先代の
「知つてるどころの沙汰ぢやありません――浪人者に
「何? それは初耳だが」
「その
「フーム」
錢形平次も
「お銀さんは、――うつかりしてゐると、命がたまらない。女一人で逃げたと言はれちや耻だから、白井權八とでも、小栗判官とでも、誰とでも構はないから、手頃な男と逃げたと言つてくれ、――そんな事を言ひ
「待つてくれ。すると、お銀さんは、新六郎と仲がよくなつて、板倉屋にゐたゝまれなかつたと言ふのか」
「さア、其處までは」
「成程、お前の口からは言ひにくいだらうが、――すると、新六郎といふのは、思ひのほかの
平次は噛んで吐き出すやうでした。
「でも、あの通りの好い男だし、女は、あんな人を憎めないんですもの、
世の女たらし、色魔といふたぐひの男が、どんな
「そのお銀が、どうして板倉屋に戻る氣になつたんだ」
「あれだけの
「――」
「今の主人の久兵衞さんが、一度飛出したものを、どうしても入れないといふのを、髮まで切つて
お幾の口調には、何んとなくお銀を怖れもし、非難もするやうな氣持があります。
「ところで、變なことを訊くやうだが、お前も常日頃、板倉屋には出入りしてゐるだらうな」
「何にかあると呼出されます。凉みとか、花見とか、――」
「踊らせてくれるのか」
「そんなことで」
「一昨夜の凉み船には出なかつたぢやないか」
「お使ひはあつたけれど、氣分が惡くて、前からお斷わりして休んでしまひました、――
「板倉屋に出入りすれば、盆暮れの挨拶はあるだらうな」
「――」
「例へば、
「毎年頂いてをります。堅いやうでも、
お幾は何んのこだはりもなくスラスラと言ふのです。
「その
平次は到頭、言ふべきことを言つてしまひました。
「今年のは、さう言つちや惡いけれど
「いや、反物で結構だよ」
お幾は浴衣地を二反、押入から出して見せました。成程さう言へば、鯉の瀧上りが、金魚が
「二反づつくれるのか、さすがに豪勢だね」
「いえ、一反は父が頂いたので」
「成程――ところで、去年のは」
「これでございます」
取出したのは、秋草を染め出した浴衣、その頃の好みでは、まことに
引つくり返して見ましたが、兩の袖も滿足で、何んの穴も
「昨年は豊年師匠のを貰はなかつたのか」
「親父は
娘の口から、こんなことをヌケヌケと言はれるのです。
平次の訊きたいことは、これで皆んなになつたやうです。煙草入を仕舞つて起ちかけると、
「あれ、八五郎親分は? 少し早いけれど、お晝を差上げたいと思ふのに」
お幾は氣がついたやうに
「その邊にゐるだらうよ、放つて置いてくれ」
宜い
「おや、こんなところにゐたのか、追ひ出して氣の毒だつたな。もう用は濟んだよ」
「――」
さう言はれると、平次の袖の下を潜つて、お幾の家へ引返さうとするのを、平次は呼び止めました。
「ちよいと待つてくれ、――近ごろ師匠のところへ來る男の人は、どんな人だえ」
「――」
二人は、マジマジと顏を見合せてをります。十三と十五くらゐ、十分に物好きさうです。
「板倉屋の若旦那が來るだらう」
「――」
二人は顏を見合せて頭を振りました。
「すると、男の人は誰も來ないといふのか」
「――」
二人は揃つたやうに頭を振ります。
「それは新六郎ぢやないのか」
「誰だい、誰が來るのだ」
「豊年師匠よ」
「あつ、成程、こいつは參つた、――もう一つ、
「――」
「それぢや、橋の上で、半九郎といふ男の人が刺されたことを知つてゐるだらう」
平次の問ひは次第に
二人の小娘の顏から、平次は重大なものを讀んでゐたのです。廣い兩國橋の上、萬といふ群衆の押し合ふなかで、この二人の小娘が、何にかを見てゐたとしら[#「としら」はママ]、これは實に有難過ぎるほどの
「でも、何んにも見えなかつたんですもの、大變な人混みだつたし」
娘の一人、大きい方が言ひました。そして、十手を持つた怖い小父さんの
「いや、橋の上は、お役人と
平次は言葉を
「――」
それにも
「心配することはない。どんなことを言つても、お前達に迷惑のかゝるやうなことはしないから――」
平次の調子は、いかにも柔かでした。二人の娘はまだほんの子供ですが、境遇の關係で
「でも、私達は橋の
一人の娘の口は
「秋草の浴衣を着て、右の
「その袂を、胸に抱いてゐたので、よくわからなかつたんです」
「髮は?」
「毛の多い人でした」
「そして、顏は、お師匠のお幾さんに似てはゐなかつたか」
平次は漸く此處まで
「――」
二人は默つて顏を見合せて、何やらうなづき合つてをります。
「お前達は見てゐた筈だ。お師匠さんに似てゐたか、似てゐないか、わからない筈はないと思ふが」
平次は精一杯に突つ込むのです。
「似てゐると思ひました。
「どこが違つてゐたのだ」
「顏は青過ぎました、氣味が惡いほど青かつたんですもの。そして、髮の毛もお師匠さんより多かつたし、背も少し高いやうな――」
二人の娘はまた顏を見合せて、場所柄も構はずクスリと笑ふのです。多分二人は今までも、師匠か師匠でないかを、くり返して爭つたことでせう。
「それから?」
「その女の人は、橋の上の人混みをわけて、私達の側をすり拔けるやうに、左の方へ折れて姿を隱してしまひました」
二人の娘の話を聽くと、平次の
「それからどうした?」
ほぐれた娘の
「氣味が惡くなつて、家へ戻ると、お師匠さんはのぼせていけないからと、顏を洗つてゐました、――そして二人が外へ出てゐるうちに、お勝手から
娘は不服さうにいふのです。お幾はあの調子で、二人の娘を、空巣狙ひの手引きでもしたやうに、
「近頃このあたりに空巣狙ひがはやるのか」
「え、あの晩だけでも、五、六軒やられたさうです、――町内だけで」
やがて平次は、この娘達を解放して、お幾の家の裏の方に廻りました。其處には
グルリと一と廻りして、丁度裏の路地へ出ると、
「やい、この野郎、何を隱すんだ」
「何んにも隱しやしません」
少し先に、豊年坊主と八五郎が、ドブ板の上で
「どうした八?」
平次が近づくと、
「見て下さい、この野郎が下水の中へ何んか突つ込んでゐるから、棒を引つたくつて取出すと、この浴衣ぢやありませんか」
八五郎は
「隱したわけぢやありません。變なものが出てゐるんで、
豊年坊主は、相手が二人になると、
「ね、親分、こいつは秋草を染めた浴衣ぢやありませんか。その上右の片袖が千切れてゐれば、面白いことになりますね、――どつこい、泥が飛ぶから、
八五郎は充分に面白さうです。
「ひどい泥だが、矢張り片袖は千切れてゐるやうだ。橋の下へ持つて行つて洗つて見てくれ」
平次に言はれると、棒の先へ引つかけた浴衣を、高々と
「さア、退いた/\、泥がはねたつて知らないよ」
などと、寄つて來る彌次馬を掻きわけて、元柳橋の方へ飛んで行きます。
「親分、
八五郎は秋草の浴衣を洗つて持つて來ると、もうこんなことを言ふのです。
「待ちなよ、縛るのはわけもないが、縛つたのを解くのがむづかしい、――あの晩、この邊へ
この時も平次は、大變な後悔を
その晩、遲くまで、八五郎は平次の家に上がり込んで、
「親分、惜しいことをしましたよ。あつしはどうも、半九郎を殺したのは、お幾に違げえねえと思ひますが」
八五郎は、手の
「あのお幾といふ女は、浮氣で飛上がりで、少し調子つ外れだが、大の男の半九郎を刺し殺すほどの膽つ玉はないよ。もう少し樣子を見なきや」
平次は相變らず用心深く構へて容易に動きさうもありません。
「すると、下手人は誰なんです親分」
「待つてくれ、俺にもよくわからないんだ。半九郎を殺したのはお幾かも知れないが、板倉屋のお絹を殺したのは誰だ」
「それはわかつてゐるぢやありませんか、半九郎の半弓で射殺されたと――」
「いや、軍談本にどうあるか知らないが、半弓では容易に人を殺せないよ。現に四人もの若い女が狙はれたが、本田樣のお孃さんも、伊豆屋の嫁も、佐奈屋の娘も、引つ掻きほどの傷を
「すると」
「まア、宜い。もう少し樣子を見よう」
さう言つてる時でした。平次の女房のお靜がお勝手からそつと覗いて、
「あの、今、こんなものを、お勝手へ
と小さく疊んだ手紙を差出すのです。
「その
「逃げるやうに行つてしまひました」
「仕樣がねえなア。大さな聲でも出して、俺を呼べば宜いのに」
これは
――最早 隱し立ても無用と存じ、私の口から萬事を申上げます。元柳橋の娘の家までお出でを願上げます。
と書いてあるではありませんか。豊年
「豊年坊主ぢやありませんか」
「何を言ふつもりだらう。行つて見ようか」
「あの坊主は
「でも、何にか知つてるに違ひない」
「娘のお幾が疑はれてると知つて、何んか
そんな
「お前は豊年坊主の
平次はその手紙から眼を離して、八五郎に
「見たこともありませんよ。あの坊主が字なんか書いたら、夜な/\ゲヂゲヂになつて化けて出るでせう。尤も豊年坊主のお
「無駄は宜いかげんにして、兎も角も覗いて見よう。娘のお幾に人殺しの
「それにしても、恐ろしく下手な字ぢやありませんか」
「さう言ふな、お互に人樣に
二人が元柳橋の、お幾の家に着いたのはもう
「おや、中は眞つ暗ですね。人を呼んで置いて、こいつは變ぢやありませんか」
八五郎はさう言ひながら、少し荒つぽく格子戸を叩きましたが、中からは何んの返事もなく、シーンとして靜まり返つてをります。
「裏へ廻つて見よう。もう寢たのかも知れない」
さう言つて、狹い路地を裏へ廻ると、其處は開けつ放し、少し
「變ですね、裏口は開けつ放しだ」
「間違ひがあつたかも知れない――
「待つて下さい。幸ひ
八五郎は裏口を開け放したまゝ四つん
言ふまでもないことですが、電燈もマツチも懷中電燈もない時代に生活してゐた人は、
「氣をつけろ、八」
平次は裏口に
「わツ、
いきなり家の中で、ドタン、バタンが始まりました。八五郎が曲者と
「どうした、八」
平次は聲を掛けましたが、八五郎はそれどころの沙汰ではないらしく、物をも言はずにやり合つてをります。
「あ、畜生ツ、待ちやがれツ」
その間に曲者は、表口を開けて、パツと外に飛出しました。後から追つて出た八五郎は、眼の前で戸を閉められて、鼻の顏をしたゝかにやられた樣子。
「親分、
と怒鳴り續けてをります。
尤も曲者はこの時早くも外へ飛出して、町の闇の中に姿を隱し、
その間に、平次は手燭を見つけて、
「あ、これはどうだ」
お勝手も次の間も、疊も唐紙も
「八、何處も怪我はないのか」
「
「そいつは變だぜ」
手燭を持つて中に入ると、次の六疊の長火鉢の前に、お幾の父親の豊年坊主は、背中から
死骸の前には、
「恐ろしい
「馴れた手際だ――お前は濟まないが、町役人を呼んで來てくれ」
「へエ」
「それから淺草橋の自身番に聲をかけて、御藏前の板倉屋へ行つて見るんだ」
「へエ、何をやりや宜いんで」
「板倉屋に、誰と誰がゐるか、それを見るだけのことだ。それから――」
「でもこの
「俺は暫らく
「へエ」
「かうしようぢやないか。幸ひまだ時候は寒くねえ、手足の
「親分は?」
「お前が戻つて來るまで、裸でゐる分のことさ、凉しくて飛んだ宜い心持だぜ」
町役人達が、ドカドカとやつて來た時は、八五郎は平次の
それから暫らくすると、豊年の娘のお幾が、二人の内弟子をつれて戻つて來ました。
「何んかあつたんですか、――まア」
入口の高張、家の中の物々しさ、疊と唐紙を染めた血潮を見て、お幾は
「師匠、驚いちやいけないよ。大變な間違ひがあつたんだ」
「どうしたんでせう、こんなに血が」
お幾は不安に
「お幾師匠、氣の毒だが、お前の父さんは、誰かの手に掛つて殺されたのだよ」
「まア」
お幾はあまりのことに涙も出ず、たゞ
「なア、師匠、父親がこんなことになるのは、ワケのあることだらう。誰がこんな
平次はお幾が少し氣持の落着いたところを見て、靜かに訊ねました。
「誰がこんなことをしたんでせう。私には
暫らくすると、動亂する氣持を整理して、お幾は
「
平次はお幾の心持をかき亂さないやうに、充分に氣を配りながらその問ひを進めました。
「別に、變つたことも、何んにもありませんが、たゞ、今日になつて急に――俺は大變なことを知つてるのだ。これを錢形の親分にでも言つてしまへば、板倉屋のお孃さんを殺した下手人もわかるに違ひないと思ふが、こんな稼業の
「それだよ、師匠、俺はツイ
「父さんは、それを言ふのが、餘程辛かつたと見えて、私が家を出る前に、酒の用意をして、――
「それを惡者に嗅ぎつけられてこんなことになつたのだらう。師匠はそれから
「兩國の凉みも花火も、この二十八日でお
「曲者はそれも知つてゐたのだらう」
平次も其處までは氣がつきますが、四人の若い女を傷つけ、
「それから、もう一つ、これは申上げにくいけれど」
師匠のお幾は、何やら言ひにくさうに
「氣のついたことがあつたら、皆んな話してくれ。親の敵を討てるか討てないかの
「では申しませう。氣を惡くしないで下さい、親分」
「そんな
「では申しませう、父さんはかう言つてゐました『たつたこれくらゐのことがわからないやうぢや、錢形の親分も、大したものぢやない』つて」
「それに違ひないよ」
「――どうして錢形の親分は、あの船を
「フン、其處までは手が廻らなかつたよ」
「父さんは、あの晩、殺された板倉屋のお孃さんの側にゐたんですつてね」
「――」
平次は默つてしまひました。これは實に、恐ろしくも痛い
間もなく八五郎が歸つて來ました。平次がひどく
「親分、行つて來ましたよ。
「何んだ、明神下まで行つて來たのか。餘計なことをする奴だ」
さう言ふ平次は、さすがに初秋の夜風が肌寒く、八五郎に
「だつて親分に
「お前が吸ふ氣でなきや、煙草入が二つ
「相濟みません。ところで、どうなりました、豊年坊主を殺した下手人は――?」
「まだ、そんなことがわかるものか。お幾師匠の前だ、氣をつけて口をきけ」
「へエ、相濟みません」
「よくもさう手輕にお辭儀が出來たものだ。それよりお前は、何をしに出かけたか、とくと思ひ出して見ろ」
「さう/\淺草橋の自身番と、御藏前の板倉屋」
「その板倉屋に變りはないのか」
「何んにも變つたことはありませんよ。腹の立つほど無事で」
八五郎は
「皆んな揃つてゐるのか?」
「主人と女達は休んださうで――尤も、あつしの聲を聽くと、お銀は起き出して來ましたがね。相變らずの調子で、つかまへて放さないから弱りましたよ。あれで髮が生え揃つたら、大した色氣でせうね」
「男達は?」
「下男の圓三郎は、自分の部屋で、
その頃は武家でさへ町湯に入る人が多く、内湯を持つてゐるなどは、全く
「その新六郎に逢つて來たのか」
「逢つて來るつもりでしたが――男のくせに恐ろしく長い湯で、あつしなんか
「馬鹿野郎」
「へエ?」
「新六郎は、いつでも湯が長いか、それとも今晩に限つたことか、それも訊かなかつたらう」
「相濟みません」
「
八五郎はまことに散々の
「お前は、いろ/\のことを知つてる筈だ。一つ教へてくれると百文づつ褒美を出すが、どうだ」
こんな調子に氣を引いて見ました。少年はせい/″\十四、五、あまり
少年は
「――」
「どうだ。それ、先づ百文」
平次は
「おいらは何んにも知らないぜ」
丑松は
「師匠のところへ、この間空巣狙ひが入つたが、お前は知つてるだらう」
「うーん」
「知つてるなら、先づそれを教へてくれ。近所の者に違ひないと思ふが」
「知つてるけど言へないや、――おいらが言つたとわかると、怖いから」
果して、丑松は知つてゐたのです。空巣狙ひでもやらうといふ太い人間でも、丑松の存在には氣がつかなかつたのでせう。この少年は、野良犬のやうなもので、どんな人の
「何が怖いんだ」
「だつて
到頭これは話るに落ちてしまひました。
「よし/\、そいつは訊かずに置かうよ。お前が毆られちや可哀さうだから」
平次はさう言つて後ろを振り向くと、何やら合圖をしました。それを見た八五郎が、すつ飛んだことは言ふまでもありません。
「もう宜いかい、歸つても」
丑松は
「もう一つ、お前が豊年さんの手紙を頼まれた時、誰か見てゐた人はなかつたのか」
「覺えちやゐないよ。多勢人が通つたから」
丑松の答は一向につかまへどころもありません。
「無理もないな、――ところでもう一つ、これを知つてゐたら、今度は穴のあいたのぢやない、ピカリと
「へ、一
「
平次は
「あ、知つてるとも、こいつはしやべつても毆られつこはねえや」
丑松は物欲しさうに手を出すのです。
「どんな人間が、下水の中に
「年を取つた人だよ。男さ、
丑松の言ふのは、板倉屋の下男圓三郎に間違ひもありません。
平次はそのまゝ飛んで行かうとしましたが、まだ、
が、宜いあんばいに、八五郎が戻つて來ました。
「親分、
襟髮をつかまれた、小柄の男は八五郎の馬鹿力に壓倒されて、グウとも言へません。
「お
「へ、相濟みません。盜んだ品は、皆んな仲間のところに預けてありますから、お目こぼしを願ひます。今度突出されると、水汲み人足にされます」
「佐渡へ行つて、お前の好きな
「たしかに家にゐましたよ。でも、
「よし/\それだけのことを見屆けて、お前は飛んだ人助けをしたよ。盜んだ品をそつくり返せば今度のところは、俺は知らないことにしてやらう」
「有難うございます」
「八、お前にも
平次はゴールに近づいた緊張で、夜の
「それなら、わかつてますよ、親分」
「何處の船だ」
「船頭は、吾妻屋の若い衆でした、――行つて見ませう、眼と鼻の間だ」
「よしツ、夜の明けないうちに片付けよう」
平次と八五郎はそのまゝ元柳橋の軒並び、吾妻屋を叩き起しました。
「お
八五郎が無遠慮に取次ぐと、
「ま、八五郎親分、錢形の親分もご一緒で、――あの船は、あのまゝにしてあります。一應洗ひましたが、念入りにお
「氣の毒だがちよいと見せて貰ひたいが」
「へエ、へエ、お
「凉みに出る前、誰か、あの船に乘つたものはないのか」
「前の晩、板倉屋の若旦那の新六郎さんが入りなすつて、船を改めると仰しやつて――」
内儀は二人を川へ案内しながら説明します。
お
夜更けの大川はさすがに鎭まり返つて、最早
「八、船は上手を向いて、殺されたお絹は此方の
平次は船の中に降りて、念入りに調べてをります。
「さうですよ、その後ろが豊年師匠、隣が新六郎、二人は若いから、灯をよけ/\、
「すると、
「ヒヨイと振り返つた時やつたのかも知れませんね」
「そんなうまい具合に行けば宜いが、――あの時大川の上は船だらけで、隨分灯もあつたし、時々は花火も揚がつたが、何んといつても夜のことだ」
平次は何やら新しい疑ひにさいなまれてゐる樣子です。
「豊年坊主が、船を調べろ――と言つたのは、死に際の
「いや、わけのあることだらう――お内儀さん、船を洗つたとき、何にか變つたことがなかつたかな」
平次は岸に立つてゐる内儀に聲をかけました。
「ざつと血を洗つただけで、――何んにもなかつたやうですが」
「待つてくれ、八、お前は灯を差出すんだ」
「へエ」
平次は
「それは何んだ、八」
「
「何んのためだ」
「?」
平次は内儀を呼んで見せましたが、何に使つたものか、少しもわからない樣子です。
「わかつたよ、八」
平次は
「何んです、親分」
「前の晩、凉み船を調べに來たのは新六郎だと言つたね」
「?」
「その時、
「何んだつて、そんなことをしたんでせう」
八五郎には、何が何やら少しもわかりません。
「曲者は、板倉屋のお絹が
「?」
「橋の下の船の、三人の若い女が半弓でやられるのを切つかけに、曲者はすぐ側にゐる板倉屋の娘のお絹の喉笛を、隱し持つた
平次の推理は、最早一點の疑ひもありません。三人の若い女は、半弓の矢で傷つけられたでせうが、板倉屋のお絹だけは、間違ひもなく鋭い
若しこの時、半九郎が橋の上に逃出したり、その半九郎が刺されるやうなことがなかつたら、お絹も三人の若い女と同樣、半弓で射られて殺されたものと、簡單に片付けられて、
「すると、下手人は、あの?」
「
「
二人は兩國から
が、一と足遲れました。
板倉屋の店は不氣味なほどシーンとしてをりました。日頃
「錢形の親分が心得て下さるなら、こいつは打ち壞しても入るほかはあるまい」
「いづれにしても、たゞ事ではないやうだ」
かうなると
いざとなると、簡單に
幸ひ町役人達は提灯を用意したので、家の中は簡單に
「あツ、これだツ」
奧の主人夫婦の居間に飛込んだ八五郎は、
「どうした、八」
「この通り、――ひどい事をするぢやありませんか」
主人の久兵衞は、
「若旦那の新六郎さんはどうした?」
「
八方を手をわけて搜しましたが、若い二人は影も形もありません。
「ほかの者は兎も角、下男の圓三郎がゐなきやならない。下男部屋を搜してくれ、八」
平次にさう言はれて、飛んで行つた八五郎は、間もなく、藏前中に響かせます。
「親分、此處にゐますよ。早く來て見て下さい」
下男部屋は母家に續いた物置の一部で、其處へ飛込んだ八五郎は下男圓三郎の容易ならぬ姿に手を下し兼ねてワメキ立てるのです。
それは
「どうした、圓三郎。若旦那とお銀さんは何處へ行つた」
平次は靜かにその肩に手を置きました。
「錢形の親分、若旦那の新六郎樣と、お銀さんは、死にましたよ」
圓三郎は僅かに顏を擧げて、かう應へました。
「何を言ふんだ。何處へ行つたか、それを言へツ。四人まで人を殺し、ほかに若い女多勢に怪我をさして、逃れようといふのは、
平次は激しく追求しました。落つき拂つた圓三郎の
「最初から若旦那もお銀さんも助かる氣はなかつたんです、――
「フーム、それでは聽かう。皆んな話せ」
平次は
「先代の久兵衞樣は、良い旦那樣でしたが、義理の弟の久三郎樣――それは今の旦那久兵衞樣ですが――この方夫婦を信用したばかりに板倉屋の
「――」
圓三郎の話はなか/\の
「その後暫らく經つて、先代の旦那樣の獨り
「――」
「それが知れると、お銀さんは近所に住んでゐたタチの惡い浪人者と戀仲になつたと、ありもしない惡名をつけて追ひ出されました。お銀さんは
「――」
「お銀さんが、新六郎を怨んだり
「ほかの三人の女に怪我をさしたのは?」
「あれはやり過ぎだつた、――とあとで新六郎樣も後悔してをりました。半弓の名人の半九郎は先代からの
こんな關係で、
「お銀が、半九郎を刺し殺したのは」
平次は問ひました。
「半九郎が捕まつてしまへば、皆んなわかるにきまつてゐます」
「半九郎はどうして、橋の下に隱れてゐなかつたのだ」
「半九郎は、花火の揚がつた時、人の眼を
「一つの罪は次から次へと、幾つも罪を作つて行く。恐ろしいことだな」
平次は
「錢形の親分に訊かれた時、――私とお銀さんの言ふことはすつかり違つてをりました。二人はあまりの事に
「?」
「新六郎樣も心配して、すぐ片袖を千切つたお銀さんの血染の
圓三郎までが
「
「あの豊年坊主は、凉み船で若旦那の側にゐて、一から十まで見てしまつたのです、それも、默つて知らん顏をしてゐれば無事だつたのを、翌る日はもう、若旦那を
「――」
「豊年坊主が『船を調べろ』と言つたと、お幾の家の横の路地に隱れた若旦那が聽いてしまひ、錢形の親分が川へ出かけたと知つて、すつかり諦めて歸つて來ました。そして、お銀さんと私とに
圓三郎の話はこれで終りました。
× × ×
言ひ落しましたが、二番目の娘のお鳥と手代の周次郎は、一人は親類へ泊りに行つて留守、一人はぼんやり朝歸りをして來てこの事件を知りました。若旦那の新六郎と