「親分、あつしはもう
ガラツ八の八五郎は、
江戸の町が青葉で
「八の野郎がまた朝つぱらから癪の種なんか持込んで來やがつたぜ。落着いて飯も食へやしねえ」
平次は大きな
「親分、聽いて下さいよ。あつしはもう、癪にさはつて――」
「わかつたよ、又角の酒屋の親爺に先月の
「酒屋に借りなんか
「あんな罰の當つた野郎だ」
「癪にさはつたのはりやんこですよ」
八五郎は大きな指を二本、腰のあたりに當てて見せました。
「惡い癖だ、
「それがその、放つちや置けなかつたんで――これを見て下さいよ、親分」
八五郎は懷ろ深く探つて、
「恐しく
「これでも、あつしの字よりは少し筋が良い」
「字のことになると、自慢がないから、八も可愛らしいよ、――それにしても、こいつは
半紙一枚へ、
「こいつは讀むのにコツがありますよ。お弓町の多良井
八五郎が辨慶讀みにした手紙の文句から、事件の重大さと、この手紙を書いた者の、燒きつやうな熱意を感じないわけに行きません。
「それでお前は行つたのか」
「今朝此手紙を投り込まれた時、あつしはまだ寢て居たが、宜いあんべえに雨戸は隙間だらけだ。枕元へ紙片が舞ひ込んだから、夢心地で拾ひ上げると――あの
「思ひきや――と來たね」
「學があるとツイ斯んな言葉が出て來ますよ、――惡い癖でね」
「無駄が多いな、先を急げよ」
「殺されるのは良い女にきまつて居るから、兎も角お弓町へ飛びましたよ。相手は八百五十石取の旗本屋敷だ、
「で?」
「裏から入つて、御用人を呼出して、お女中の死骸を見せて貰ひ度いと言ふと、味噌摺用人の山岸作内、大眼玉を剥いて人斬庖丁をひねくり廻した、――其方は何者だ此處を何んと心得る――とね」
「――」
「町方の御用を
「それでお前は尻尾を卷いて歸つて來たのか」
「癪にさはるが仕樣がありませんよ。相手は八百五十石の武家屋敷だ、切り込んだところで勝目はないし」
「間拔けだなア」
「あつしはどうせ間拔けですがね、親分」
「まア、腹を立てるなよ八。お前は手順を間違へたんだ」
「ぢや、どんな手順があるんです」
八五郎はまだ
「お前は、そのお玉といふ腰元の親元を聽かなかつたか。
「いゝえ」
「それが手順だよ。その腰元の親があるなら親、遠國のものなら請人が、死骸を引取りに行くだらう」
「成程ね」
「いや、お前には少し荷が重過ぎるだらう。俺が行つて見るとしようか」
「有難てえ、親分が乘り出して下されば」
八五郎はすつかり有頂天になりました。錢形平次が一緒に行きさへすれば、まさかあの味噌摺用人に怒鳴られたり、若黨風情に手籠にされるやうな間拔けなことはあり得ません。
腰元お玉の實家、駒込追分のささやかな絲屋を訪ね當てたのは、やがて晝近い頃でした。平次が行つた時、丁度お弓町の多良井家から『お玉の死骸を引取るやうに』といふ使が來たといふことで、お玉の兄の清三郎が、これから出かけようといふところでした。
平次はそれを引留めて、お玉の父親清吉に逢つて見ました。これは五十五六の中老人ですが、輕い
「娘が死んだといふ知らせは、今朝早く、お屋敷の若黨の友吉さんが飛んで來て教へてくれましたが、支度や手續きがあるので、佛を引取るのは追つての
父親清吉の話は、愚痴
「これには深い仔細がありさうだ。遠い親類といふことにして、あつしも一緒に多良井の屋敷まで行つて見よう」
「さうでせうか、お屋敷で嫌な顏をしませんかね」
清三郎は二の足を踏みます。妹の死骸を引取りに行くのに、岡つ引をつれて行くのは、相手に濟まないと言つた、町人らしい
それに構はず、平次は清三郎と一緒に、空駕籠を釣らせて、お弓町へ行つたことは言ふ迄もありません。
清三郎を迎へた用人の山岸作内は、
「これは/\お玉の兄さんか、いや飛んだことでな」
まことにお世辭たら/\です。五十年輩の
「お前は?」
などと
「絲屋の親類でございますよ、へエ」
と言ふ平次の空とぼけた顏も、狐と狸の應待です。
お玉の死骸は、お勝手に近い女中部屋に置いてありました。薄汚く古びた布團に寢かして、
「さ、清三郎さん。お玉さんがどんな死に顏をして居るかお前さんの眼でよく見て置かなきやなりませんよ」
平次は死骸の側に
「傷は?」
平次は側に突つ立つて居る用人に訊ねました。
「胸だよ」
「清三郎さん、お玉さんの胸を開けて見て下さい」
平次が遠慮して手を引くと、代つて兄の清三郎は、強い意志に引ずられるやうに、妹の胸をはだけてやりました。
白蝋のやうに、圓い胸、美しい陰影を描いた
「可哀想だと思つてな、よく清めて着換へさしてやつたよ」
山岸作内は辯解らしく言ふのです。
「お玉は自害したと仰しやいましたな」
平次は、さり氣ない調子で訊ねました。
「何にか、死ななきやならないワケでもあつたのでせうか」
平次は訊き返しました。
「ワケといふほどのこともあるまい。奧で何にかお小言でも言はれたのを、娘心に突き詰めたものであらうか」
「何にか、不首尾でもあつて?」
「いや、不首尾も間違ひもある筈はない。大層可愛がられて居たのだから」
「自害と申すと、刄物があつた筈と思ひますが」
「お玉の荷物の中に、たしなみの短刀があつた筈ぢや」
作内が
拔いて見ると、よく拭き込まれて、一點の曇もない刄金が、薄寒く人の顏を映すのです。
「この短刀には血曇りがありませんね」
「――」
用人作内はギヨツとした樣子です。
「それに傷口に
平次は少し開き直りました。
「いや、それは私が惡かつた。お玉が自害したのはその短刀ではなかつた。待つてくれ」
用人の山岸作内は、ソハソハと部屋を出て行くと、やがて奧の方で、何やらゴトゴトやつて居る樣子でしたが、暫らく經つと、細身の刀を一とふり、怖いもののやうに持つて來ました。
「これぢや、――お玉は此刀でやつたのだ」
平次は受取つて打ち返し打ち返し眺めました。細身の
拔いて見るとベツトリ
「こんな長い物で自害をしたと仰しやるので?」
平次は作内のとぼけた顏を見上げました。
「左樣」
「十九や
「それがどうしたといふのだ」
山岸作内も氣色ばみました。それほど平次の調子には妥協的なものがなくなつて居たのです。
「お手打ならお手討で、何んの爲の御成敗と仰しやつて頂けば、親兄弟も
平次は眼の前に突つ立つて居る用人を見上げ乍ら、急所々々を押へて、ヒタヒタと改めて行くのです。
「無禮だらう、此處を何んと心得る」
作内は日頃の調子を取戻して
「無禮が聞いて
「え、もう我慢のならぬ奴だ」
「我慢がならなきや、何んとでもして貰ひませうか。
「何んだと?」
「此處へ來てこんな口を利くからには、調べるだけの事は調べてあります。御係りの御目付へ申上げて、――」
平次は立ち上りかけたのです。このまゝ龍の口評定所に驅け込み、多良井家の内幕の
美しいお腰元を手討にするやうな、大旗本の内輪を洗へば、ボロが出て來るに決つて居ります。その頃大小名から大旗本まで、取潰し政策に夢中になつて居た幕府は、何にか知ら
徳川幕府も天下を取つた當時などは、權力を確立することに急で、創業早々大小名を取り立て過ぎ、
「ま、お玉の身寄の方ださうで、飛んだ氣の毒なことをしました。いづれ使の者を差し遣はす筈でしたが
品の良い四十二三歳の内儀でした。靜かに入つて來ると、尊大な――がひどく
「飛んでもねえ、
平次はツイ
「強請――ホ、ホ、そんなつもりで差上げるのではない。これはお玉の兄さんに差上げる世間並の手當と
お内儀の顏は冷たくて、空笑ひさへ
「親分、もう宜いぢやありませんか。こんなことで歸りませう。お玉の
お玉――殺されたに違ひない、あの美しいお玉の兄の清三郎が斯んな氣になつては、武家の『斬捨御免』を、とつちめる氣で來た平次も、陣の立て直しやうはありません。旗本は若年寄の支配で、一たびその門を潜ると、町方の役人も岡つ引も何んの權力もなく、もとより十手捕繩などは物の役にも立たなかつたのです。
「山岸、何時まで手間取るのだ、――奧も宜い加減にせい。町人共をのさ張らせるのも程があるぞ」
ノツシノツシと廊下を鳴らして來て、開けてある障子から、ヌツと顏を出したのは、八百五十石の當主多良井藏人でせう。四十五六の酒肥りのした
此處で開き直る
平次は怨みを呑んで引揚げました。せめて、お玉の死骸を駕籠へ乘せてやる手傳ひをしたのを心やりに。
「あれは?」
駕籠が上がるのを、縁側から見送つて居る若い男が、平次の注意をひきました。
「若樣――有馬之助樣で」
清三郎は
「野郎、氣をつけやがれ」
裏門のところで、危ふく駕籠の棒鼻に突つかゝりさうになつて、ポンポン言つたのは、二十五六の
色の淺黒い、眼鼻立ちのキリリとした、なか/\良い男ですが、妙に押へきれない忿怒を
「へ、相濟みません」
清三郎は素直に謝まりました。
門を出ると平次は、其處に突つ立つて居る八五郎を呼びました。
「お前はこの屋敷の中のことを洗ひざらひ探つて見てくれ。出入り商人は、飛んだ突つ込んだことを知つて居るものだ」
「へエ、――ところで、お腰元はやつぱり」
「立派な殺しよ、――お前の言ひ草ぢやねえが、殺しとわかつても手が出せねえ。
「ね、矢つ張り親分だつて癪にさはるでせう」
八五郎は鼻の下を長くして居ります。
「宜いてことよ――ところで清三郎さん」
「へエ、へエ」
「あのにきびの化物が、お玉さんにうるさくはしなかつたのかな」
「そんな樣子でございました。妹がお暇を頂き度いと言つたのは、若樣がうるさいからだつたさうで」
「それが――」
「今年になつてから、ふつゝりそんな事を言はなくなりました。こればかりは私にもわかりませんが――」
「娘心は
平次はそんな心得たことを言ふのです。
それから二た月あまり、無事な――が
多良井家から絲屋清三郎にやつた金は二十兩、清三郎はそれを商賣に廻して、いくらかの
神田祭が過ぎて、兩國の川開きも遠い噂になつた或日。
「御免」
平次の家に思ひも寄らぬ人が訪ねて來ました。五十年輩の四角な顏、表情といふものを持たない眼鼻。
「これは、山岸樣ぢやありませんか」
女房は留守、自分で客を迎へた平次も、さすがに驚きました。旗本多良井家の用人、山岸作内が其處に立つて居るのです。
「錢形の親分、いつぞやは飛んだ無禮をいたしたな。いや、實を申すと奧樣がお氣が付かれないのでな、もつと早く出すものを出せば宜いのに――」
この味噌摺用人は、二十兩の小判の餘徳に預りでもして平次は
「いや、飛んでもない。ところで御用は?」
平次は早くこの用人に歸つて貰ひ度さで一ぱいでした。
「火急の用事ぢや。實は多良井家の若樣が、飛んだ間違ひで
「えツ」
あのにきびだらけの大馬
「昨日若黨の友吉をつれて、雜司ヶ谷へ遠乘りに行かれたが、
山岸作内は、さすがに眼をしばたゝきます。
「それは、それは」
平次もまさに二の句が繼げません。
「旦那樣が
山岸作内は額の脂汗を拭くのです。
平次は丁度來合せた八五郎と一緒に、即刻お弓町に向つたことは言ふ迄もありません。
平次の氣持も知つてか知らないでか、多良井家の待遇は
奧へ通されると、入棺するばかりになつて居る、有馬之助の死骸を挾んで、主人の
「平次殿か、伜は此有樣だ。見てくれ」
藏人は有馬之肋の死骸を指さして、平次に席を讓ります。
「御免下さい」
死骸の側に進んだ平次は、その
割られたこめかみには明らかに徑二寸五分ほどの圓い跡がありました。馬の
「どうであらう、平次殿」
主人の多良井藏人は、緊張した顏をのぞかせます。
「何んとも申上げられません。お
平次は用意周到でした。其處から直ぐ裏の厩へ行つて見ると、無愛想な若黨の友吉は、一生懸命馬の手入れをして居ります。
「お、錢形の親分」
友吉の眼にも、いつぞやとは違つたものがありました。
「若主人を蹴殺した馬を、そんなに丁寧に世話するのか」
平次の言葉は妙に皮肉でした。
「畜生は何んにも知りやしない」
友吉は相變らずブツ切ら棒です。
「その馬は人を
「飛んでもない、猫の子よりおとなしいぜ。それよりもう十二歳だ、遠乘りには無理さ」
「昨日間違ひのあつた時、馬の氣が立つて居る樣子がなかつたのか」
「そんな事があるものか、若い馬ぢやあるまいし」
友吉の答へには何んの
八五郎に何やら言ひ
無口で無愛想な友吉は、平次がどんな水を向けても打ち解けませんが、斯う一緒に歩いて居ると、人と人との接觸から、平次は異樣なものを感じて居たのです。
それは、この友吉といふ若黨は、ブツ切ら棒で無愛想な癖に、何んとも言へない良いところのある男で、若黨
「此處だよ、――俺がお茶を貰ひに來た茶店は」
友吉は
平次はその茶店に立ち寄る氣もないらしく、友吉を
「馬を繋いだのは此處で、若樣が
一本の柱、その側の草にこぼれた血潮。平次はそれも見ようとせずに、物置の中に入つて何やら熱心に搜して居りましたが、やがて、
「これだ、――これが見付けたかつたのだ」
さう言ひ乍ら、お百姓が、
「――」
友吉はけゞんさうにそれを眺めて居りましたが、一言も口をきかうとはしません。
「あのこめかみの傷跡は、馬の
平次は棒秤の
「この通り」
恐しい勢ひで風を
「若樣のこめかみは、松の柱よりはヤハだ。これを喰つちや一とたまりもあるまいよ」
「――」
「ところで、――お弓町では八五郎が、お前の荷物を搜して居る筈だ。女の物――お玉の形見が一つや二つはあるだらうし、あのお玉の殺された時、八五郎の家へ投り込んだ手紙と同じ
「――」
平次の論告は
「お玉が殺された時、八五郎のところへあの手紙を投り込んだお前が、有馬之助を殺したのは仔細があらう。――言ひ度くなきや、俺が言つてやつても宜い。お玉は最初若樣の有馬之助に附き
「――」
「お前とお玉の仲がよくなると、若樣の有馬之助がお玉を殺す氣になつた。あの刀は
「あの野郎がお玉を手籠にしたのだよ。二度や三度ぢやない、あの晩も言ひ寄つて手ひどく
友吉は始めて口をきりました。思ひなしかその健康な頬は
「それから?」
平次は靜かに誘ひました。
「お玉が可哀想だ。あのにきび野郎に手籠にされた上、
「――」
「お玉は俺の女房だ。忘れもしない暮の二十八日に二人は夫婦約束をしたんだ――それを蟲けらのやうに殺されて默つて居なきやならないと言ふのか。八五郎親分のところへ手紙を投り込んだのは、間違ひもなくこの俺さ、――駒込のお玉の親許へ行く時、向柳原まで一と足伸したんだ」
「――」
「
「――」
平次も眼を伏せました。まさに一言もありません。
「二た月俺は辛棒したぜ。ヨボヨボの年寄馬に乘つて、一かど遠乘りのつもりで來たこの物置で手頃の
「――」
「さあ、縛つて貰はうか、錢形の親分。故郷の佐倉へ飛んで行つて、たつた三日でも、年を取つた母親に孝行をしてから、立派に名乘つて出ようと思つたのが、俺の未練だ」
若黨の友吉はさう言ふと、青草の上にドツカと腰をおろして、自分の手を後ろに廻すのです。
「よし、解つた。そんな氣でゐるのなら、俺は
「――」
友吉はパツチリ眼を開いて平次の顏を見上げました。
「若樣有馬之助は、ヨボヨボの年寄馬に
「――」
「俺は町方の岡つ引さ、旗本屋敷の奧に何んな事があらうと知るものか。それぢや友吉さん、達者で暮すが宜い」
平次はクルリと背を向けると、何んのこだはりもなく歸つて行くのです。
「親分、有難い」
その後ろ姿を伏し拜む友吉は、平手で拂ひきれぬ涙を拂ひ乍ら、この恩人の後ろ姿を、自分の眼に燒付けて居るのでした。
× × ×
「おや、親分」
目白坂で逢つたのは、汗みどろになつて驅けて來た八五郎でした。
「何處へ行くんだ、八」
「心細いな、親分。あの若黨友吉の
八五郎の鼻は
「そんな物はもう要らないよ、――有馬之助は矢つ張り馬に蹴られて死んだんだ」
「へエ?」
「だが、一つ頼みがある。お前の早い足で行つて見るが宜い、
「――へエ――」
「それから歸りは明神下の俺の家へ寄つて見るが宜い、――今日は嬉しい事があつたんだ。一本つけて待つて居るぜ」
平次はさう言ひ捨ててスタスタと目白坂を降りて、戀女房のお靜の待つて居る明神下の長屋へ急ぐのでした。