錢形平次捕物控

罠に落ちた女

野村胡堂





「八、丁度宜いところだ。今お前を呼びにやらうと思つて居たが――」
 平次はお勝手口から八五郎の迎へに飛び出さうとして居る女房のお靜を呼び留めて、改めてドブ板を高々とみ鳴らして來る、八五郎の長い影法師を迎へ入れたのでした。
「親分、お早やうございます」
「お早やうぢやないぜ、世間樣はもう晝飯の支度だ」
 やがて江戸のまちも花に埋もれやうといふ三月の中旬、廣重の鞠子まりこの繪を見るやうに、空までが桃色にくんじたある日のことでした。
「何んか御馳走の口でもあるんですか、――尤も先刻朝飯が濟んだばかりだ――」
「あんな野郎だ。あきれてものが言へねえ、――お前路地の入口の邊で五十年配ねんぱいの下男風の男に逢つた筈だが」
「逢ひましたよ。ももんがあ見たいな――あの親爺が施主せしゆなんで?」
「馬鹿だなア、まだ喰ひ氣に取つかれてやがる、――あれはお前駒込の大分限だいぶげんで、大地主の漆原うるしばら重三郎の召使だ」
「へエ?」
「その漆原家に不思議なことがあつたので、娘のお新といふのが、下男の茂吉をそつと俺のところへよこしたのだ。直ぐ來て下さるやうにと、折入つての頼みだが、雲を掴むやうな話で、氣が乘らねえから、お前に瀬踏せぶみをして貰はうと思つたのだよ」
「へエ? あつしも氣が乘らなかつたらどうしませう」
 う言つた遠慮のない八五郎です。
「馬鹿野郎、俺はあの邊に顏を知られ過ぎて居るし、冒頭はなつから人騷がせをしたくないからお前を頼んでゐるんぢやないか」
 平次は到頭癇癪玉かんしやくだまを破裂さしてしまひました。少しでも新しい事件を手掛けさせて、腕も顏もよくさせようといふ親心も知らずに、仕事の選り好みなどする八五郎が齒痒はがゆかつたのでせう。
「だから行きますよ。行かないなんて言やしません。雲だつて霧だつて掴みますとも」
「それに使をよこした漆原うるしばらの主人の妹のお新といふのは駒込一番の良いきりやうで、吉祥寺きちじようじが近いから、語り傳への八百屋お七の生れ變りだらうといふ評判を取つてゐるさうだ」
「行きますとも、そいつは是非あつしをやつて下さい」
「良い娘と聽くと、いきなり乘り出して來るから現金過ぎて腹も立たねえ」
「仕事の張合ひといふものですよ。親分、一體駒込の漆原にどんなことがあつたんで?」
 八五郎は膝をすゝめます。平次のひやかしくらゐでは驚く色もありません。
「漆原の主人重三郎が一と月前に死んだのさ。年は三十五で病氣は三年も前から床に就いて居る長い間の癆咳らうがい。これは壽命で何んの不思議もないが、その後に殘された筈の七八千兩の大金が、何處に隱してあるか小判のかけらも見えない」
「有るやうで無いのは金――と言つた落ちで?」
「いや、金は確かに七八千兩、どうかしたら一萬兩近くもあつた筈なんだ。これは支配人をしてゐる叔父の總兵衞も、手代の春之助も知つて居ることで、死んだ後で調べて見るまで、無くなつたことさへ氣が付かずに居たんだ」
「へエ」
「變な顏をするなよ、八。寶搜たからさがしは俺も嫌ひだ、そんなものを搜しに行けと言つてるわけぢやねえ。實はその寶搜しで人が一人死んだとしたら、どんなものだ」
「――」
「一應は怪我で死んだことにしてとむらひを出すには仔細しさいはないが、その死に樣が不氣味だから、一度見て置いてくれと、亡くなつた主人重三郎の妹で、今では跡取りのお新が、下男の茂吉爺やを使ひによこしたのだよ」
「それぢや兎も角行つて見ませう」
「急にはずみが付きやがつて――嫌な野郎だなお前は」
 平次にからかはれ乍らも、八五郎は絲目の切れたたこのやうに飛び出してしまひました。


 神田明神下から駒込まで、馬のやうに達者な八五郎に取つては、一とあせかくほどの道ではありません。
「御免よ、――俺は向柳原の八五郎といふ者だが、支配人の總兵衞が變な死にやうをしたさうぢやないか、ちよいと見せて貰ひ度えが――」
 懷中ふところの十手をちよいと覗かせると、一も二もありません。
「へエ、へエ、飛んだ御手數をかけます。支配人が空井戸からゐどの中で死んで居るのを、下女のお源が見付けまして先刻さつき漸く入棺したばかりで御座いますが――」
「お前は?」
「手代の春之助と申します。くなつた主人のをひに當りますが、へエ」
 二十八九の、それは腰の低い着實さうな男でした。どちらかと言へば美男型で、肉の薄い青白い顏や、調子の滑らかさなどは、世にふ女好きのする人間でせう。
「死骸は何處にあるんだ」
「此方へ、どうぞ」
 八五郎が案内されたのは、店の隣の六疊でした。
 漆原といふのは江戸開府以前からの舊家で、かつてはうるしの宏大な畠を持つて居たと傳へられ、漆が黄金の如く貴かりし時代、長い世代にわたつて貯へた富は、萬といふ數に上つたのも、決して不思議ではなかつたのです。
 江戸の發展と共に、漆畠は宅地に代へられ、漆長者が駒込の大地主と變つて、さて幾十年經つたことでせう。
 從つて漆原家の屋敷といふのは、小大名の下屋敷ほどの宏大なもので、士分ではないにしても、漆原といふ苗字めうじを堂々と名乘つて通る家柄だつたのです。
「これでございますが――」
 早桶はやをけは吟味したものですが、ふたをあけて覗くと、まことにそれはきもを潰さずには居られない凄まじさです。五十年輩の支配人總兵衞の死骸は、首筋から背中へかけて恐ろしい力で叩き潰され、それはさながら一くわいの肉泥になつて居るではありませんか。
「うむ、これはひどいな」
 念佛氣のない八五郎も、思はず片手拜みに、あわてて蓋をさせたほど、それは慘憺さんたんたるものでした。
「上から二十貫もある石が落ちたのですから、ひとたまりもなかつたことでせう」
 手代の春之助は不氣味さうに後ろへ退すさり乍ら、それでも一と通りの説明はしてくれました。
「空井戸の中で死んだと言つたやうだな」
「へエ」
「その井戸を見たいが――」
 八五郎は春之助の案内で大きい家を貫通する廣い土間に降りて、其處から裏口へ、そして昔の漆畠の名殘りの少しばかりの野菜畠を通つて、やぶの蔭になつて居る空井戸を覗いて居りました。
 灌木くわんぼくの葉と枯葉とに埋め殘されて、空井戸の口は黒々と見えて居りますが、古い御影の井桁ゐげたが崩れたなりに殘つて居るので、さすがに怪我やあやまちで墜ち込む心配はありません。
「支配人はこの底に落ち込んで、大きい石に打たれて死んで居りました」
 無氣味さうに春之助は、眞つ黒な井戸の口を指さすのでした。
「どうしてこの中に死骸があるとわかつたのだ。ちよいと覗いたくらゐぢや、わからないぜ」
 井戸は深くて、中は眞つ暗です。
「下女のお源が見付けました。――今朝何時になく支配人が起きて來ないので、部屋を覗きましたが、床を敷いた樣子もなく、家中さがしても見付からないのに、外へ出た樣子もありません」
「?」
「下駄箱には履物もあり、――着換へをした樣子もなかつたのです。その騷ぎの中で下女のお源が、フト空井戸を覗いて見る氣になつたのでございませう。不斷ふだん危ない/\と言はれて居た井戸ですから」
 春之助の言ふことは一應筋が通ります。
梯子はしごと提灯を貸してくれ」
「へエ」
 春之助が物置の方へ行くと、間もなく下男の茂吉に九つ梯子を持たせ、自分はあかりの入つた提灯を持つて戻つて來ました。
「俺が降りて見る、灯を」
 井戸の中に梯子を入れると、提灯を持つた八五郎は、何んの躊躇ちゆうちよもなく降りて行きました。
 井戸は床までの深さざつと三間くらゐ、石を疊みあげた極めて原始的なものですが、底は乾ききつて水もなく、斑々はん/\たる血潮の飛び散つて居るのも無氣味です。
 一番下に一と抱へほどの大きい石があり、それを金梃かなてこか何にかで動かした樣子で、見事に石垣からかれて居ります。支配人の總兵衞が、そんな作業をして居る時、上から二十貫近い石を投げ落したのかも知れず、さういふことになれば、これは明かに殺しでなければなりません。
 なほもよくさがして居ると、上から落ちたらしい大石の下から、一枚の小判と何やら書いた紙片を見つけました。紙片は懷中深くしまひ込み、小判だけは手代の春之助に見せるつもりで、手に持つたまゝ梯子に足をかけましたが、
「おや?」
 ふと石を拔いた穴の奧に、何やら四角なもののあることに氣がついたのです。
 手を入れて見ると、それはまぎれもなく木の箱で、大骨折りで拔き出すと土に塗れた千兩箱とわかりました。もつとも錠前は開いたまゝ、中には一枚の小判も入つては居りません。


 八五郎は一と月前に死んだ主人重三郎の後添ひお豐、妹のお新、下男の茂吉、下女のお源などに一とわたり會つて見ましたが、お豐は豐滿であだつぽい年増で、お新はあどけない可愛らしい娘。そして下女のお源は達者で依怙地いこぢな中年女といふ印象を受けた外に、何んの手掛りも手繰たぐれず、その日の夕刻にぼんやり明神下の錢形平次の家へ歸つて來ました。
「親分、に落ちないことばかりですよ」
 長火鉢の前にドカリと坐つた八五郎は、懷手ふところでも拔かずに、鼻の穴を擴げるのです。
「腑なんてものを、お前は持つて歩くのか」
 平次は自若として驚く樣子もありません。粉煙草もお仕舞になつて、欠伸あくびを噛みしめ乍ら八五郎の歸りを待つて居たのです。
「これを見て下さいよ、親分。こいつが空井戸の中に、小判と一緒に落ちて居たとしたらどんなものです」
 八五郎は懷中ふところから出した紙片のしわを伸ばして、猫板の上に擴げました。
「こいつは面白さうだ」
 紙片かみきれにはかなり達者な文字で、
 ――裏の空井戸の底、大石を拔けば、その奧に――
 と、讀めるのです。
「この字は誰の筆跡なんだ。かなかつたのか――お前のことだから」
「聽きましたよ。間違ひもなく亡くなつた主人の筆跡なんださうで」
「成程、主人は長患ながわづらひで死んだといふが、遺言のやうなものはなかつたのか」
「あつたさうですよ。萬一の時は、店は妹お新に繼がせる、婿むこはお新の氣に入つた男で、親類方の苦情さへなければ誰でも構はない、――それに世間のことばかりだつたと言ひますが――尤もそんな事は皆んな主人の四十九日が過ぎてから親類共が寄つて決めることになつて居たさうで」
「金のことは何んにも遺言はなかつたのか」
「忘れたのか、皮肉なのか、金を何處に隱したか、聽いた者は一人もありません」
「ところで、お前はどう思ふ?」
 平次は八五郎の智慧のほどを試すといふよりは、自分の推理の基礎きそを堅め度い樣子でした。
「一度空井戸へ隱したが、ワケあつて取り出し、他の場所へ移したんぢやありませんか。井戸の中には小判が一枚と、空つぽの千兩箱が一つあるだけで、あとは何んにもありませんよ」
「空井戸の中へ、一度千兩箱を八つも隱した樣子があるのか」
「それがないから不思議なんで」
「變なことだらけだな。その紙片かみきれに書いてある文句も不思議なら、小判一枚だけ落ちて居たのも判じ物だ。それに二十貫あまりの石を上から落したのが、支配人を殺す氣でやつたこととしても、大の男二人がかりでなきや出來ないことぢやないか」
 平次の疑問はピタリピタリと急所を押へて行きます。
「尤も井戸の上の方に、その大石の拔け落ちた穴はありますよ」
「下の石を動かしたので、石垣がゆるんで上の大石が落ちたのなら、話はそれつきりだ。殺し手がなくなれば十手にも捕繩にも及ばねえ」
「そんなものですかねえ、――尤もあの店中で、人でも殺しさうなのは、死んだ主人の後添ひのお豐くらゐのものですね。妙に色つぽくて、慾が深さうで、氣になる素振りを見せ度がる女ですよ」
「――」
「その上お豐は手代の春之跡と仲が好いんださうで、春之助もまた死んだ主人のをひの癖に、後家と何んとか噂を立てられるのは、褒めたことぢやありませんね」
「そんな事を誰から聽いた」
「下女のお源はりのある柄杓ひしやくのやうな女で、腹にあることは一ときとも持ち堪へられない性分ですよ」
「フム」
「主人の重三郎が死んでしまつた上は、支配人の總兵衞さへ居なきや、お豐は勝手に振舞へるわけでせう。妹のお新は十八の小娘だし、あとは下男のモモンガアーの茂吉たつた一人。誰にはゞかる者もありやしません」
「だが、女では二十貫の石を持ち上げて、井戸に落し込む藝當はむづかしからう」


「サア大變ツ」
 八五郎の大變が舞ひ込んだのは、それから三日目、櫻日和びよりの美しい朝でした。
「到頭來やがつた。イヤに生暖なまあつたけえから、今日あたりはお前の大變が來るだらうと思つて居たよ」
「地震と間違へちやいけません、――到頭駒込の漆原の家に、二度目の間違ひが起りましたよ」
「間違ひといふと、殺しぢやないのか」
「それが變なんで、外に下男の茂吉が居ますから、當人からいて下さい」
「よし/\、妙に彈みが付いて居る樣子ぢや唯事ぢやあるまい、一緒に出かけるとしよう」
 手早く支度をし平次が路地へ出ると、其處には下男の茂吉が、ノソリと立つて居りました。五十前後の大きな老爺おやぢで、顏の道具の荒い、生涯江戸の水を呑ませても、なまりあかも拔けさうもない仁體です。
「御苦勞樣でごぜえます。錢形の親分樣」
「どんな事があつたのだえ、とつさん」
 平次は氣輕にそれを迎へます。
「どうにも斯うにも、大變なことでごぜえますよ」
「――」
「御新造樣――くなつた主人のお連れ合ひのお豊さんでごぜえますよ。その方が昨夜から姿を見せないので、知合ひの人をやつて訊いたり、空井戸を覗いたりして居ると、今朝になつてそれが、内から締めきつた藏の中で、變な死にやうをして居るぢやございませんか」
「變な死にやう?」
「山國でしゝおほかみを捕る虎挾とらばさみといふわなに首を突つ込んで山猫のやうな顏をして、もがきじにに死んで居たのを、今朝になつて見付けましただ」
 茂吉は大きく固唾かたづを呑みました。このむくつけき庭男は、色つぽい後家のお豐に對して、あまり好感は持つて居なかつた樣子です。
「どうして藏の中に居るとわかつたのだ」
 平次の問ひは直ちに事件の大事な鍵に觸れて行きます。
「藏の鍵が無くなつて居るし、藏の入口にはお豐さんの下駄が脱ぎ捨ててありましただよ。それから大騷動になつて、錠前屋を呼んで來て、漸く藏の戸を開けて入ると――」
 茂吉は其處まで話すと、何うやら禁句に觸れたやうに又ゴクリと固唾を呑むのでした。
 話はしかしそれつきりで、茂吉の口からは、それ以上何んにも引出せさうもありません。
 駒込の漆原家へ行くと、さすがに大變な騷ぎでした。お豐はきりやう好みで貰はれた後添ひで、もとは山下のいろは茶屋に奉公したことがあり、實家といふ程のこともありませんが、それでも亡くなつた主人の配偶つれあひには相違なく、舊家だけに、いざとなると驅けつけて來る親類だけでも大變な數になります。
「親分さん方度々御苦勞樣で」
 店に迎へてくれたのは、人付きの良い手代の春之助でした。
「佛樣は?」
「こちらでございますが」
 土間をずつと奧へ入つて、離屋はなれになつた十二疊の廣間に、お豐の死骸は寢かしてありました。
 膝行ゐざり寄つて一と眼、平次もさすがに顏を反けたほどです。息の通つて居るうちは、それは美しくも色つぽくもあつたことでせうが、猪や熊を捕る虎挾みで絞め殺されたお豐の死に顏は、醜怪しうくわいで不氣味で、二た眼とは見られぬ物凄い有樣だつたのです。
 顏はたるのやうにむくんで、眼はクワツと見開いたまゝ、少し眼球が飛び出し加減になつて居るのも、この命を斷つた道具の恐ろしさを物語つて居ります。
 首筋は紫色にれ上がつて居りますが、多分首の骨を折つた上に喉佛をくだいて居ることでせう。いろ/\の死顏を見て居る錢形平次もわなに陷ちて死んだ人間の恐ろしさは始めて見るのでした。


 藏の中に入つた平次と八五郎は、豫期したことではあつたにしても世にも恐しい道具を其處に發見したのです。
「これでございますが、親分」
 手代の春之助が指さしたのは、土藏の突き當りの窓の下、嚴重な腰張板の中に造られた、秘密の金櫃かねびつでした。それは銀行制度のなかつた徳川時代に、多額の現金を持つて居る金持が、人目をけるために造つた倉庫の一種で、決して珍らしいものではありませんが、漆原の土藏の隱し戸は、さすがに世間並のものよりは大きく、そして嚴重でもあつたのです。
 つまり土藏の漆喰しつくひの外壁と、内側に張つたかしの厚板の腰張との間隙を利用したもので、はめ込みになつた腰板を取ると、その奧に千兩箱が幾つも/\積んであるといふ、至つて簡單な仕掛ですが、そのふたになつて居る腰張の中に、山國で、しゝや熊を捕る恐しい虎挾とらばさみといふわなを仕掛け、不心得な者が奧に積んである千兩箱に手を掛けると、上から虎挾みの齒が恐ろしい力で落ちて來て、腰張の中に突つ込んだ首を挾むやうに出來て居るのでした。
 内儀のお豐はまさにその犧牲ぎせいになつたのです。女一人それも主人の死んだ後では、この漆原家の女主人のお豐が、たつた一人藏の中に忍び込み、自分のものになる筈の金に誘惑されて、こんな恐ろしい罠にち、惡獸のやうに死んでしまつたといふのは、何んといふ淺ましい皮肉でせう。
「死骸の側にはこの紙片が落ちて居りました」
 春之助はツイ側の臺の上に載せてある紙片を指さしました。八五郎が取上げて、しわを伸ばして平次に見せると、それはかつて支配人の總兵衞を殺した空井戸の中に落ちて居たものと、全く同じ紙、同じ筆跡で、
藏の窓の下の腰張が一枚、輕く叩いて上へ押上げると開くやうになつてゐる。その中へ首を突つ込んで見るが宜い、奧には千兩箱が八つ積んである。
 斯う讀めるのでした。
「これも亡くなつた主人重三郎の筆跡に間違ひあるまいな」
「へエ、確かに主人の筆跡でございます」
 春之助の證言は自信に滿ちて居ります。
「皆んな呼んでくれ、八。家中の者を一人殘らず此處へ呼び入れるのだ」
「よしツ」
 八五郎は飛んで行きましたが、やがて妹娘のお新、下男の茂吉、下女のお源の三人を追ひ立てるやうに連れて來ました。
「これで家中の者が皆んなか」
「へエ」
 春之助は代つて答へました。
「今朝この藏の中に内儀が入つて居るかも知れないと、誰が一番先に氣が付いたのだ」
 平次の問ひは極めて平凡です。
「私でございました。内儀おかみさんが昨夜から居ないといふのに、藏の戸前の外に、内儀さんの履物はきものがキチンと揃へて脱いでありましたので」
 春之助の答へは行屆きます。
「錠前屋を呼んで、藏の戸を開けさせて入つたと言つたね」
「へエ」
「その時藏の中へ入つたのは誰と誰だ」
「此處に居る者が皆んなでございます。四人一緒に雪崩なだれ込んだわけで」
「その時内儀が藏の中に持込んだ鍵は何處にあつた」
「入口近くに投り出してありました。丁度其邊で――」
 春之助は入口の側に今でも置いてある、たくまましい[#「たくまましい」はママ]木の柄の附いた、稻妻形いなづまがたの土藏の鍵を指さします。
「いえ、番頭さん、そいつは違ひますだ。皆んな藏の中へ飛び込んだ時は、鍵は窓の下のあたりに落ちて居ましただよ。そいつを誰か入口の方へ移したやうで」
 下男の茂吉は口を出しました。
「お前は默つて居ろ。話がこんがらかつていけない」
 それをそつとたしなめたのは春之助です。
「窓は開いて居たことだらうな」
 平次は嚴重な格子を打つた窓を見上げました。外の扉は八文字に開いたまゝですが、窓には障子があつて、それは閉つて居ります。
「窓の障子は閉つて居りました。格子があの通り頑固なので、漆喰しつくひの扉は滅多に閉めたことはございません」
 春之助は靜かに説明して居ります。
「藏の中にはあかりがあつた樣だ、――内儀はまさか眞つ暗な藏の中へ一人で入るわけはないと思ふが」
「これでございますよ、親分」
 茂吉は例の空樽あきだるの上から、手燭を持つて來ました。手頃な蝋燭らふそくが一本立つて居りますが、それは三分の二ほど殘して吹き消されて居ります。
「八、外へ廻つて見ようか」
 藏の中の調べが一段落になると、平次は八五郎をうながして藏の外側を一と廻りしました。
 入口の反對側、丁度窓の下のあたりへ來ると、平次は一生懸命大地の上を調べて居ります。が、散々に踏み荒した足跡の外には別に變つたこともありません。
「八、お前この足跡を少し多過ぎるとは思はないか」
「お勝手から物干場ものほしばへ行くには、此處を通ることになりますよ」
「それにしても窓の下だけが無暗に足跡が多いだらう。何にかを踏み消すとうなるが」
 生濕りの土の上に、一方だけ向いた水下駄の齒の跡が行儀よく揃つて居るのを平次は指摘してきするのです。


 續いて平次は下男の茂吉に梯子はしごを持たせて裏の空井戸――いつぞや支配人の總兵衞が石に打たれて死んで居た場所――へ行つて見ました。
「井戸へ梯子をおろすんだ」
「中にはもう何んにもありませんよ」
「いや、少し見て置き度いことがある」
 平次は梯子を傳はつて下へ降りて行きましたが、暫らくすると、何やら會心の微笑を浮べて、上で待つて居る八五郎と茂吉のところへ登つて來ました。
「何んか變つたことがありましたか、親分」
「いろ/\面白いことがあるよ」
「へエ」
 平次は手の泥を拂ひ乍ら續けました。
「下の石――あつ空つぽの千兩箱を隱してあつたふたの石を拔くと、石垣がゆるんで上の大石が拔け落ちるやうな仕掛になつて居たんだよ」
「へエ、すると」
「待て/\、早合點をしちやいけねえ、――井戸の底に居た支配人の總兵衞は、その石に打たれて死んだに違ひないが、上の大石は思つたより堅く喰ひ込んで、てこでコヅキ落さなきや、首尾よく下へ落ちてくれなかつたに違ひない。見るが宜い、この通り大石の拔けて落ちた穴のあたりは、梃を入れた跡が殘つて居るぢやないか」
「――」
「それに井戸へなゝめにおろした梯子が邪魔をするから、投つて置いたんでは、大石は井戸の底に居る人間の顏の上へ眞つ直ぐに落ちてくれないよ」
「すると」
「茂吉、――お前の知つて居ることを言ふのだ」
「へエ」
 平次は不意に、側にぼんやり突つ立つて居る、下男の茂吉の胸を指さしたのです。
「三年もとこに就いて居た大病人の主人が、こんな細工をする筈はない」
「――」
「その上、虎挾みなどといふ、飛んでもないわなを拵へるのは、山國生れのお前の外にはない筈だ」
「――」
「此處で言はなきやお白洲で石を抱かされるかも知れないぞ。どうだ茂吉」
 平次の顏色を察すると、八五郎は早くも老下男の背後に廻つて、腰から十手を拔いたりするのです。
「申上げます、――皆んなブチまけてしまひますだよ、――この仕掛は亡くなつた主人の申付けで、この私がこさへたに違ひありません。斯うして置かなきや、あの番頭手代の熊鷹共くまたかどもは、漆原うるしばらの何千兩といふ有金をさらつて、逃げ出すにきまつてますだ」
 茂吉の話は奇つ怪でした。が、平次はそれを豫期して居たらしく、大して驚く樣子もなく聽いて居ります。
 それによると、亡くなつた主人の重三郎は、雇人達の忠實さに疑ひを抱き。たつた[#「抱き。たつた」はママ]一人の腹心の下男、正直者で頑固一てつな茂吉に言ひ付けて、空井戸の仕掛けと、土藏の虎挾みを造らせ、拔け驅けして八千兩の大金を獨り占めしようとする者に思ひ知らせる手段を講じたのでした。
「主人が疑つて居たのは誰だ。總兵衞か、春之助か、それとも内儀のお豐か」
「皆んな疑つて居ましただよ。どいつもこいつも泥棒だ、わしが病んでゐるうちに、勝手なことばかりして居る、――わしが死んで四十九日經つたら、親類の人達に集つて貰つて、隱した場所から金を引出し、妹のお新を跡取りにして、改めて披露ひろうしてくれ、――と斯う言つて居ましただよ。その四十九日を待ち兼ねて、八千兩の金を獨占ひとりじめにしようとするから、番頭さんも内儀さんもあんな眼に逢はされたでねえか、皆んな天罰てんばつといふものだ」
 下男の茂吉は斯う信じて居るのでせう。
「ところで、あの遺書は何處にあつたのだ」
「其處までは解らねえが、多分死んだ主人の手箱の中にでもあつたことだんべえ」
 それを誰が發見し、どんな經路で二人迄死にみちびかれたか、平次はそれをヂツと考へる樣子でしたが、やがて、
「もう宜い。お前は家へ行つて、下女のお源を此處へ呼んで來てくれ」
「へエ」
 茂吉が立去ると、やがて下女のお源がやつて來ました。四十近い金棒曳かなぼうひき、聞いたことを言はずに居ると、氣鬱症きうつしやうになりさうな中年者です。
「お源、大事なことだ、隱さず言ふのだよ」
「へエ」
「一番先に聞き度いのは、死んだ内儀のお豐の身持だ――手代の春之助とどうかしては居なかつたか」
「それですよ、親分。旦那樣は三年もの大患おほわづらひでせう、若くて綺麗で、浮氣つぽい内儀かみさんが、無理もないことかも知れませんが、同じ屋根の下で、人もあらうに旦那の甥の春之助さんと、人の居ないところをつて――」
「もう宜い、――ところでその春之助と内儀は、近頃でも仲が良かつたのか」
「見ちや居られませんでしたよ。尤も旦那が死んでから暫らくの間は神妙にして、喧嘩をしたのか、仲違ひしたのか、二十日ばかり口もきゝませんでしたが、番頭さんが死んでからは、すつかりよりが戻つて、ことにこの一日二日は大變ないちやつきで――」
「そんな事で宜からう、――ところで亡くなつた主人の妹のお新さんには、縁談の口でもあつたのか」
「そりやあのきりやうですもの、降るほどありましたよ。でも旦那が亡くなつてまだ五七日も經つて居ないので、暫らくは遠慮して居る樣子で、そんな話も遠退いて居ります」
「そのお新さんに逢ひ度いが、此處へ來るやうに、さう言つてくれ」
「へエ」
「ところでもう一つ、支配人總兵衞が見えなくなつた時、空井戸を覗くことに氣の付いたのは、お前だと言つたな」
「覗いたのは私ですが、――若しか、空井戸ぢやないかな、――と教へてくれたのは春之助さんですよ」
 さう言ひ捨てて、お源は母家おもやの方に急ぎました。
「八、段々わかつて來るだらう」
あつしには何んにもわかりませんが」
 平次の胸に何うやら解決の緒口いとぐちが見付かつた樣子です。


 お新は十八、まだ幼々しさの殘る、清らかな娘でした。八百屋お七の生れ變りと言つたのは錢形平次の作で、本人はそんな暗い蔭などの微塵みぢんもない、明けつ放しで、無邪氣で、誰にでも好感を持つて居さうな、世にもすぐれた生ひ立ちらしく見えるのです。
「變なことを訊くやうだが、極り惡がらずに、正直に返事をしてくれるだらうな、お新さん」
「え」
 お新はうなづきました。
「これは人の命にもかゝはる大事なことだ、――外でもない、手代の春之助、お前とは從兄妹いとこ同士ださうだが、あの男が近頃變な素振りを見せなかつたか」
「――」
 お新はさすがに眞つ赤になつてしまひました。この答へを生娘きむすめの口から引出すのは、錢形平次といへども容易のことではありません。
「夫婦になれとか何んとか、そんな事を言つたことだらうと思ふが――」
「あの人は近頃そりや變なんです、嫌らしいことばかり言つて」
 これがお新の口から引出した肯定こうていの言葉でした。そして、斯う言つたのを後悔でもするやうに、お新は顏をたもとに埋めて、母屋の方に驅け出してしまひました。
「どうだ、八。今度はお前にも解るだらう」
「親分、あの手代の野郎が總兵衞とお豐を殺したのですね」
「その通りだよ、主人の遺書を見付けた上、あの男は智慧が廻るから、空井戸と藏の中の仕掛けを見破り、最初は空井戸の中に千兩箱があるからと總兵衞をさそつて上から石を落して殺し、次には土藏の腰張りの中に大金があるからと、お豐を誘つて虎挾とらばさみに首を突つ込ませて殺したのだ」
「でも藏は内から閉つて居たでせう」
「いや、お豐の死ぬのを見定めてから、藏を出て外から戸を閉め、鍵は裏へ廻つて、窓から投り込んだのだ。窓の下に梯子を置いた跡のあつたのを、自分の下駄で踏み消したのだよ」
「へエ」
「藏を出る時、うつかり外へあかりの漏れるのを心配して、蝋燭らふそくを吹き消したのが手ぬかりだつた、お豐が一人死んだのなら蝋燭は燃え盡きて居なきやならない。それから窓の下に落ちてあつた鍵を、藏の入口にうつしたのも細工過ぎたよ」
「惡い野郎ですね、何んだつて、そんな事をやつたんでせう」
「總兵衞が居ると、この家を乘取るのに邪魔だ。あの支配人も決して甘い人間ではないから、春之助の儘にはさせなかつたことだらう。それからお豐は浮氣者で、前から春之助とねんごろにして居たが、春之助は近頃お新に眼をつけて、それと一緒になつて漆原うるしばらの家を乘取るにはお豐は邪魔で仕樣がない。そこで、うまくだまし込んで、――この家の身上はいづれお新のものになるに違ひない、さうなれば内儀のお前は放り出されるに決つて居るから、今のうちに土藏の壁の中に隱してある八千兩の金を持出し、俺と一緒に逃げ出さう――とでも言つたことだらう」
 さう説明されると手代の春之助が下手人として明瞭に浮び上がつて來るのでした。
「ぢや早くあの野郎を擧げませう。萬一氣が付いて逃げ出さないものでもありません」
 八五郎は勢ひ込んで立ち上がりました。
「いや、心配はあるまい、あの春之助といふ男は自分の智慧に慢じて居る、――主人重三郎の拵へたわなに陷ちて、總兵衞もお豐も死んだとまでは解つても、それから先は解る道理はないと、この平次を見くびつて居るだらう。それに漆原の身代と八千兩の大金と、もう一つ可愛らしいお新を諦めて、此處から身一つで逃げ出すやうな、そんな慾のない男ではない」
 さう言ひ乍ら平次と八五郎は、寛々ゆる/\として母家へ歸つて行くのです。其處では手代の春之助が、我物顏に帳場に坐つて、何やら狸算用に餘念もありません。





底本:「錢形平次捕物全集第二十六卷 お長屋碁會」同光社
   1954(昭和29)年6月1日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1949(昭和24)年4月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
※「豐」と「豊」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2017年1月12日作成
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