「八、丁度宜いところだ。今お前を呼びにやらうと思つて居たが――」
平次はお勝手口から八五郎の迎へに飛び出さうとして居る女房のお靜を呼び留めて、改めてドブ板を高々と
「親分、お早やうございます」
「お早やうぢやないぜ、世間樣はもう晝飯の支度だ」
やがて江戸の
「何んか御馳走の口でもあるんですか、――尤も先刻朝飯が濟んだばかりだ――」
「あんな野郎だ。
「逢ひましたよ。ももんがあ見たいな――あの親爺が
「馬鹿だなア、まだ喰ひ氣に取つ
「へエ?」
「その漆原家に不思議なことがあつたので、娘のお新といふのが、下男の茂吉をそつと俺のところへよこしたのだ。直ぐ來て下さるやうにと、折入つての頼みだが、雲を掴むやうな話で、氣が乘らねえから、お前に
「へエ? あつしも氣が乘らなかつたらどうしませう」
「馬鹿野郎、俺はあの邊に顏を知られ過ぎて居るし、
平次は到頭
「だから行きますよ。行かないなんて言やしません。雲だつて霧だつて掴みますとも」
「それに使をよこした
「行きますとも、そいつは是非あつしをやつて下さい」
「良い娘と聽くと、いきなり乘り出して來るから現金過ぎて腹も立たねえ」
「仕事の張合ひといふものですよ。親分、一體駒込の漆原にどんなことがあつたんで?」
八五郎は膝を
「漆原の主人重三郎が一と月前に死んだのさ。年は三十五で病氣は三年も前から床に就いて居る長い間の
「有るやうで無いのは金――と言つた落ちで?」
「いや、金は確かに七八千兩、どうかしたら一萬兩近くもあつた筈なんだ。これは支配人をしてゐる叔父の總兵衞も、手代の春之助も知つて居ることで、死んだ後で調べて見るまで、無くなつたことさへ氣が付かずに居たんだ」
「へエ」
「變な顏をするなよ、八。
「――」
「一應は怪我で死んだことにして
「それぢや兎も角行つて見ませう」
「急に
平次にからかはれ乍らも、八五郎は絲目の切れた
神田明神下から駒込まで、馬のやうに達者な八五郎に取つては、一と
「御免よ、――俺は向柳原の八五郎といふ者だが、支配人の總兵衞が變な死にやうをしたさうぢやないか、ちよいと見せて貰ひ度えが――」
「へエ、へエ、飛んだ御手數をかけます。支配人が
「お前は?」
「手代の春之助と申します。
二十八九の、それは腰の低い着實さうな男でした。どちらかと言へば美男型で、肉の薄い青白い顏や、調子の滑らかさなどは、世に
「死骸は何處にあるんだ」
「此方へ、どうぞ」
八五郎が案内されたのは、店の隣の六疊でした。
漆原といふのは江戸開府以前からの舊家で、
江戸の發展と共に、漆畠は宅地に代へられ、漆長者が駒込の大地主と變つて、さて幾十年經つたことでせう。
從つて漆原家の屋敷といふのは、小大名の下屋敷ほどの宏大なもので、士分ではないにしても、漆原といふ
「これでございますが――」
「うむ、これはひどいな」
念佛氣のない八五郎も、思はず片手拜みに、あわてて蓋をさせたほど、それは
「上から二十貫もある石が落ちたのですから、ひとたまりもなかつたことでせう」
手代の春之助は不氣味さうに後ろへ
「空井戸の中で死んだと言つたやうだな」
「へエ」
「その井戸を見たいが――」
八五郎は春之助の案内で大きい家を貫通する廣い土間に降りて、其處から裏口へ、そして昔の漆畠の名殘りの少しばかりの野菜畠を通つて、
「支配人はこの底に落ち込んで、大きい石に打たれて死んで居りました」
無氣味さうに春之助は、眞つ黒な井戸の口を指さすのでした。
「どうしてこの中に死骸があるとわかつたのだ。ちよいと覗いたくらゐぢや、わからないぜ」
井戸は深くて、中は眞つ暗です。
「下女のお源が見付けました。――今朝何時になく支配人が起きて來ないので、部屋を覗きましたが、床を敷いた樣子もなく、家中
「?」
「下駄箱には履物もあり、――着換へをした樣子もなかつたのです。その騷ぎの中で下女のお源が、フト空井戸を覗いて見る氣になつたのでございませう。
春之助の言ふことは一應筋が通ります。
「
「へエ」
春之助が物置の方へ行くと、間もなく下男の茂吉に九つ梯子を持たせ、自分は
「俺が降りて見る、灯を」
井戸の中に梯子を入れると、提灯を持つた八五郎は、何んの
井戸は床までの深さざつと三間くらゐ、石を疊みあげた極めて原始的なものですが、底は乾ききつて水もなく、
一番下に一と抱へほどの大きい石があり、それを
なほもよく
「おや?」
ふと石を拔いた穴の奧に、何やら四角なもののあることに氣がついたのです。
手を入れて見ると、それは
八五郎は一と月前に死んだ主人重三郎の後添ひお豐、妹のお新、下男の茂吉、下女のお源などに一とわたり會つて見ましたが、お豐は豐滿で
「親分、
長火鉢の前にドカリと坐つた八五郎は、
「腑なんてものを、お前は持つて歩くのか」
平次は自若として驚く樣子もありません。粉煙草もお仕舞になつて、
「これを見て下さいよ、親分。こいつが空井戸の中に、小判と一緒に落ちて居たとしたらどんなものです」
八五郎は
「こいつは面白さうだ」
――裏の空井戸の底、大石を拔けば、その奧に――
と、讀めるのです。
「この字は誰の
「聽きましたよ。間違ひもなく亡くなつた主人の筆跡なんださうで」
「成程、主人は
「あつたさうですよ。萬一の時は、店は妹お新に繼がせる、
「金のことは何んにも遺言はなかつたのか」
「忘れたのか、皮肉なのか、金を何處に隱したか、聽いた者は一人もありません」
「ところで、お前はどう思ふ?」
平次は八五郎の智慧のほどを試すといふよりは、自分の推理の
「一度空井戸へ隱したが、ワケあつて取り出し、他の場所へ移したんぢやありませんか。井戸の中には小判が一枚と、空つぽの千兩箱が一つあるだけで、あとは何んにもありませんよ」
「空井戸の中へ、一度千兩箱を八つも隱した樣子があるのか」
「それがないから不思議なんで」
「變なことだらけだな。その
平次の疑問はピタリピタリと急所を押へて行きます。
「尤も井戸の上の方に、その大石の拔け落ちた穴はありますよ」
「下の石を動かしたので、石垣が
「そんなものですかねえ、――尤もあの店中で、人でも殺しさうなのは、死んだ主人の後添ひのお豐くらゐのものですね。妙に色つぽくて、慾が深さうで、氣になる素振りを見せ度がる女ですよ」
「――」
「その上お豐は手代の春之跡と仲が好いんださうで、春之助もまた死んだ主人の
「そんな事を誰から聽いた」
「下女のお源は
「フム」
「主人の重三郎が死んでしまつた上は、支配人の總兵衞さへ居なきや、お豐は勝手に振舞へるわけでせう。妹のお新は十八の小娘だし、あとは下男のモモンガアーの茂吉たつた一人。誰に
「だが、女では二十貫の石を持ち上げて、井戸に落し込む藝當はむづかしからう」
「サア大變ツ」
八五郎の大變が舞ひ込んだのは、それから三日目、櫻
「到頭來やがつた。イヤに
「地震と間違へちやいけません、――到頭駒込の漆原の家に、二度目の間違ひが起りましたよ」
「間違ひといふと、殺しぢやないのか」
「それが變なんで、外に下男の茂吉が居ますから、當人から
「よし/\、妙に彈みが付いて居る樣子ぢや唯事ぢやあるまい、一緒に出かけるとしよう」
手早く支度をし平次が路地へ出ると、其處には下男の茂吉が、ノソリと立つて居りました。五十前後の大きな
「御苦勞樣でごぜえます。錢形の親分樣」
「どんな事があつたのだえ、
平次は氣輕にそれを迎へます。
「どうにも斯うにも、大變なことでごぜえますよ」
「――」
「御新造樣――
「變な死にやう?」
「山國で
茂吉は大きく
「どうして藏の中に居るとわかつたのだ」
平次の問ひは直ちに事件の大事な鍵に觸れて行きます。
「藏の鍵が無くなつて居るし、藏の入口にはお豐さんの下駄が脱ぎ捨ててありましただよ。それから大騷動になつて、錠前屋を呼んで來て、漸く藏の戸を開けて入ると――」
茂吉は其處まで話すと、何うやら禁句に觸れたやうに又ゴクリと固唾を呑むのでした。
話は
駒込の漆原家へ行くと、さすがに大變な騷ぎでした。お豐はきりやう好みで貰はれた後添ひで、もとは山下のいろは茶屋に奉公したことがあり、實家といふ程のこともありませんが、それでも亡くなつた主人の
「親分さん方度々御苦勞樣で」
店に迎へてくれたのは、人付きの良い手代の春之助でした。
「佛樣は?」
「こちらでございますが」
土間をずつと奧へ入つて、
顏は
首筋は紫色に
藏の中に入つた平次と八五郎は、豫期したことではあつたにしても世にも恐しい道具を其處に發見したのです。
「これでございますが、親分」
手代の春之助が指さしたのは、土藏の突き當りの窓の下、嚴重な腰張板の中に造られた、秘密の
つまり土藏の
内儀のお豐はまさにその
「死骸の側にはこの紙片が落ちて居りました」
春之助はツイ側の臺の上に載せてある紙片を指さしました。八五郎が取上げて、
藏の窓の下の腰張が一枚、輕く叩いて上へ押上げると開くやうになつてゐる。その中へ首を突つ込んで見るが宜い、奧には千兩箱が八つ積んである。
斯う讀めるのでした。「これも亡くなつた主人重三郎の
「へエ、確かに主人の筆跡でございます」
春之助の證言は自信に滿ちて居ります。
「皆んな呼んでくれ、八。家中の者を一人殘らず此處へ呼び入れるのだ」
「よしツ」
八五郎は飛んで行きましたが、やがて妹娘のお新、下男の茂吉、下女のお源の三人を追ひ立てるやうに連れて來ました。
「これで家中の者が皆んなか」
「へエ」
春之助は代つて答へました。
「今朝この藏の中に内儀が入つて居るかも知れないと、誰が一番先に氣が付いたのだ」
平次の問ひは極めて平凡です。
「私でございました。
春之助の答へは行屆きます。
「錠前屋を呼んで、藏の戸を開けさせて入つたと言つたね」
「へエ」
「その時藏の中へ入つたのは誰と誰だ」
「此處に居る者が皆んなでございます。四人一緒に
「その時内儀が藏の中に持込んだ鍵は何處にあつた」
「入口近くに投り出してありました。丁度其邊で――」
春之助は入口の側に今でも置いてある、
「いえ、番頭さん、そいつは違ひますだ。皆んな藏の中へ飛び込んだ時は、鍵は窓の下のあたりに落ちて居ましただよ。そいつを誰か入口の方へ移したやうで」
下男の茂吉は口を出しました。
「お前は默つて居ろ。話がこんがらかつていけない」
それをそつとたしなめたのは春之助です。
「窓は開いて居たことだらうな」
平次は嚴重な格子を打つた窓を見上げました。外の扉は八文字に開いたまゝですが、窓には障子があつて、それは閉つて居ります。
「窓の障子は閉つて居りました。格子があの通り頑固なので、
春之助は靜かに説明して居ります。
「藏の中には
「これでございますよ、親分」
茂吉は例の
「八、外へ廻つて見ようか」
藏の中の調べが一段落になると、平次は八五郎を
入口の反對側、丁度窓の下のあたりへ來ると、平次は一生懸命大地の上を調べて居ります。が、散々に踏み荒した足跡の外には別に變つたこともありません。
「八、お前この足跡を少し多過ぎるとは思はないか」
「お勝手から
「それにしても窓の下だけが無暗に足跡が多いだらう。何にかを踏み消すと
生濕りの土の上に、一方だけ向いた水下駄の齒の跡が行儀よく揃つて居るのを平次は
續いて平次は下男の茂吉に
「井戸へ梯子をおろすんだ」
「中にはもう何んにもありませんよ」
「いや、少し見て置き度いことがある」
平次は梯子を傳はつて下へ降りて行きましたが、暫らくすると、何やら會心の微笑を浮べて、上で待つて居る八五郎と茂吉のところへ登つて來ました。
「何んか變つたことがありましたか、親分」
「いろ/\面白いことがあるよ」
「へエ」
平次は手の泥を拂ひ乍ら續けました。
「下の石――あつ空つぽの千兩箱を隱してあつた
「へエ、すると」
「待て/\、早合點をしちやいけねえ、――井戸の底に居た支配人の總兵衞は、その石に打たれて死んだに違ひないが、上の大石は思つたより堅く喰ひ込んで、
「――」
「それに井戸へ
「すると」
「茂吉、――お前の知つて居ることを言ふのだ」
「へエ」
平次は不意に、側にぼんやり突つ立つて居る、下男の茂吉の胸を指さしたのです。
「三年も
「――」
「その上、虎挾みなどといふ、飛んでもない
「――」
「此處で言はなきやお白洲で石を抱かされるかも知れないぞ。どうだ茂吉」
平次の顏色を察すると、八五郎は早くも老下男の背後に廻つて、腰から十手を拔いたりするのです。
「申上げます、――皆んなブチまけてしまひますだよ、――この仕掛は亡くなつた主人の申付けで、この私が
茂吉の話は奇つ怪でした。が、平次はそれを豫期して居たらしく、大して驚く樣子もなく聽いて居ります。
それによると、亡くなつた主人の重三郎は、雇人達の忠實さに疑ひを抱き。たつた[#「抱き。たつた」はママ]一人の腹心の下男、正直者で頑固一
「主人が疑つて居たのは誰だ。總兵衞か、春之助か、それとも内儀のお豐か」
「皆んな疑つて居ましただよ。どいつもこいつも泥棒だ、わしが病んでゐるうちに、勝手なことばかりして居る、――わしが死んで四十九日經つたら、親類の人達に集つて貰つて、隱した場所から金を引出し、妹のお新を跡取りにして、改めて
下男の茂吉は斯う信じて居るのでせう。
「ところで、あの遺書は何處にあつたのだ」
「其處までは解らねえが、多分死んだ主人の手箱の中にでもあつたことだんべえ」
それを誰が發見し、どんな經路で二人迄死に
「もう宜い。お前は家へ行つて、下女のお源を此處へ呼んで來てくれ」
「へエ」
茂吉が立去ると、やがて下女のお源がやつて來ました。四十近い
「お源、大事なことだ、隱さず言ふのだよ」
「へエ」
「一番先に聞き度いのは、死んだ内儀のお豐の身持だ――手代の春之助とどうかしては居なかつたか」
「それですよ、親分。旦那樣は三年もの
「もう宜い、――ところでその春之助と内儀は、近頃でも仲が良かつたのか」
「見ちや居られませんでしたよ。尤も旦那が死んでから暫らくの間は神妙にして、喧嘩をしたのか、仲違ひしたのか、二十日ばかり口もきゝませんでしたが、番頭さんが死んでからは、すつかり
「そんな事で宜からう、――ところで亡くなつた主人の妹のお新さんには、縁談の口でもあつたのか」
「そりやあのきりやうですもの、降るほどありましたよ。でも旦那が亡くなつてまだ五七日も經つて居ないので、暫らくは遠慮して居る樣子で、そんな話も遠退いて居ります」
「そのお新さんに逢ひ度いが、此處へ來るやうに、さう言つてくれ」
「へエ」
「ところでもう一つ、支配人總兵衞が見えなくなつた時、空井戸を覗くことに氣の付いたのは、お前だと言つたな」
「覗いたのは私ですが、――若しか、空井戸ぢやないかな、――と教へてくれたのは春之助さんですよ」
さう言ひ捨てて、お源は
「八、段々わかつて來るだらう」
「あつしには何んにもわかりませんが」
平次の胸に何うやら解決の
お新は十八、まだ幼々しさの殘る、清らかな娘でした。八百屋お七の生れ變りと言つたのは錢形平次の作で、本人はそんな暗い蔭などの
「變なことを訊くやうだが、極り惡がらずに、正直に返事をしてくれるだらうな、お新さん」
「え」
お新はうなづきました。
「これは人の命にも
「――」
お新はさすがに眞つ赤になつてしまひました。この答へを
「夫婦になれとか何んとか、そんな事を言つたことだらうと思ふが――」
「あの人は近頃そりや變なんです、嫌らしいことばかり言つて」
これがお新の口から引出した
「どうだ、八。今度はお前にも解るだらう」
「親分、あの手代の野郎が總兵衞とお豐を殺したのですね」
「その通りだよ、主人の遺書を見付けた上、あの男は智慧が廻るから、空井戸と藏の中の仕掛けを見破り、最初は空井戸の中に千兩箱があるからと總兵衞を
「でも藏は内から閉つて居たでせう」
「いや、お豐の死ぬのを見定めてから、藏を出て外から戸を閉め、鍵は裏へ廻つて、窓から投り込んだのだ。窓の下に梯子を置いた跡のあつたのを、自分の下駄で踏み消したのだよ」
「へエ」
「藏を出る時、うつかり外へ
「惡い野郎ですね、何んだつて、そんな事をやつたんでせう」
「總兵衞が居ると、この家を乘取るのに邪魔だ。あの支配人も決して甘い人間ではないから、春之助の儘にはさせなかつたことだらう。それからお豐は浮氣者で、前から春之助と
さう説明されると手代の春之助が下手人として明瞭に浮び上がつて來るのでした。
「ぢや早くあの野郎を擧げませう。萬一氣が付いて逃げ出さないものでもありません」
八五郎は勢ひ込んで立ち上がりました。
「いや、心配はあるまい、あの春之助といふ男は自分の智慧に慢じて居る、――主人重三郎の拵へた
さう言ひ乍ら平次と八五郎は、