「親分、お願ひ、一つ出かけて下さい。このまゝぢや、あつしの男が立たねえことになります」
相變らず調子外れな八五郎でした。飛び込んで來るといきなり、錢形平次の手でも取つて引立てさうにするのです。
「何を
平次は朝飯が濟んだばかり、秋の陽のさす六疊にとぐろを卷いて、のんびりと煙草の
「そんな氣の利いた話ぢやありませんよ。今朝鎌倉河岸の三國屋で變死人があると聽いて驅けつけ、死骸を見ると
八五郎は勢ひ込んで一氣に
「尤もお前の髷節は俺が見ても氣になつてならねえよ。
「つまらねえことを」
そんな事を言ひ乍らも、平次は手早く支度をして、張りきつた八五郎を先に立てて、鎌倉河岸の三國屋に向ひました。
「ところで三國屋で一體誰が死んだんだ」
道々平次は事件の
「親分も御存じでせう、三國屋の二人娘といはれた、お
「聽いたやうでもあるな」
鎌倉河岸の横町に、狹くはあるが立派な店を構へた
「二人とも大したきりやうですよ。尤も二人は
「どつちの方だ」
「お縫ですよ、――
「フ――ム」
「小僧榮吉が、あつしと大の仲良しで」
「向柳原から、鎌倉河岸までわざ/\
八五郎の思ひの外なるお
「そんな事はどうでも構やしません、――その榮吉の使ひが今朝あつしのところへ飛んで來て、お孃さんが殺されたに違ひないから直ぐ來るやうにと言ふ
「それから何うした」
「一議に及ばず飛んで行きましたよ、すると思つた通り三國屋は八方に渡りをつけて、朝のうちから葬ひの支度だ。あつしは飛び込むといきなりそれを止め、現場へは指も差させないやうに、榮吉に見張らせて親分を迎ひに來たといふわけで――」
「それは宜かつた。が、
そんな事を考へて居る平次です。
鎌倉河岸の三國屋は、ひつそり
表掛りはさして宏大ではなく、どちらかと言へば狹く
中の間には、駈け付けた近親の人々と、主人の伊兵衞、内儀のお定。それに十軒店の徳次郎が加はつて、白々と平次を迎へました。
「御苦勞だね、錢形の親分」
主人の伊兵衞はそれでもさすがに濟まないと思つた樣子で、立つて來てホロ苦い愛想笑ひを見せます。
「八五郎
十軒
「八の言ふことなどは當てにもならねえが、兎も角鎌倉河岸ぢや後日おとがめでもあつた時、存じませんでは濟まされねえ。一と通り見て置かうと思つてやつて來たまでだよ」
平次は確かにそれを受け流しました。
「でもね、親分。自分の喉を突いて、手へ血が附かないといふ筈はありませんよ」
「馬鹿野郎、袖か何にかに刄物を卷いて刺せば、手に血が附かずに濟むぢやないか」
平次は八五郎を叱り飛ばして、兎も角も現場に案内させました。
三國屋の店と續いて
表の梯子段の下、つまり店の方に近い部屋には主人伊兵衞夫婦が休んで居り、奧の狹い梯子段の下の長四疊には、養子の民彌が寢て居るのですから、夜中二階へ忍んで行つた者があつたとすれば、主人夫婦か民彌か、何方かが氣の付かない筈はないと見るべきです。
主人夫婦の部屋と養子民彌の部屋の間には、滅多に使はない六疊と板敷の納戸があり、此處から直接二階に行く工夫はありません。
二階の二た間のうち、表梯子に近い六疊には、若い方のお萬が休んで居り、奧の四疊半は、一つ年上の死んだお縫の部屋になつて居ります。つまり養子民彌の頭の上に、お縫が住んで居るわけで、若い二人が
今朝も現にお縫の命を斷つた血潮が、疊の間から床板の隙間を漏れ、下に寢て居る民彌の顏に
平次はこれだけ外部的な條件を見極めると、
その二階の正面は三尺の縁が通り、雨戸の内には嚴重な
「今朝の戸締りは?」
平次は手代の丈太郎を顧みました。
「何處にも變つたところは御座いませんでした」
丈太郎の答へは事務的で冷たくさへあります。
奧の四疊半――お縫の死んで居る部屋の前には、小僧の榮吉が神妙に張番をして居りました。
「御苦勞/\、何んにも變つたことはあるまいな」
「――」
小僧はうなづいて見せます。あまり緊張し續けて居たために、
「あとで訊き度いことがある。此處で待つて居てくれ」
「へエ」
階下へ降りかけた榮吉はもう一度部屋の前に引返しました。
お縫の部屋の中は、豫想以上に
夜の
その床の上から引拔かれたやうに、
顏を起してやると、ハツと錢形平次も息を呑んだほどの美しさです。
これが若し人に刺されたものであつたならば、間違ひもなく戀人に抱かれて居る時か、友情と愛とを滿喫して居る時――しかも瞬間的に命を
髮にも
刄物は少し長目な短刀で、これは後に八五郎の説明で養子の民彌が武家の出であつた爲に、祖先から傳はつた品の一つとして、日頃大事にして持つて居たものとわかりました。その短刀を首へ三寸あまり――今日の言葉で言へば見事に
血潮は一面ですが、わけても娘の膝を浸した大量の血が、やゝ
「ね、親分。短刀の柄が
八五郎の鼻は
「もう一つ、喉を刺されて膝も崩さずに
「――」
「あれだけやられると、
平次が氣の付いたのは、斯う言つた極めて
「夜中に床の上にキチンと坐つて殺されるのは變ですね」
八五郎にもそれくらゐのことは氣が付きます。が、外にも平次の腑に落ちないことは幾つもある樣子でした。
「八、娘の身體を調べて見度い。障子を閉めてくれ」
窓と縁側の障子を閉めさせると、八五郎に手傳はせて、血潮の汚れを
「何を調べるんです、親分」
「正面から喉へ短刀を突つ立てられる若い娘が、膝も崩さず、斯んな
「さう言へばさうですね」
「だがな八、――若い娘の檢屍は罪が深いぜ――ことにお前なんか獨り者だから目の毒だ。眼をつぶつて有難い念佛でも
「驚いたね、どうも」
そんな事を言ひ乍らも、
神聖な處女の肌は、血の氣を
「これは何んだ、八」
「毒害ぢやありませんか」
娘の死體に殘された腹部の
「いや、違ふ、――後で見立ての良い醫者に訊く外はあるまい」
死體の胸をかき合せ、床の上にそつと寢かすと、平次はその前にお詫び心の
「面白いものがあるぜ、八」
平次は部屋の隅から、一端にS字型の
「變なものですね。――小僧に訊いて見ませうか」
「それが宜からう」
八五郎は早速縁側から榮吉を呼び入れると、平次は默つてその扱帶を見せました。
小僧の榮吉は、それを一と眼見ると、ひどくあわてた樣子で、救ひを求めるやうに、平次と八五郎の顏を見比べましたが、やがて觀念したものか、
「お孃さんは今朝、その
恐る/\斯う言ひきるのです。
「何? それは本當か、――大事なことだが」
「嘘ぢやありません。皆んな知つて居ることです」
「その時のことを、もつと
平次は榮吉の心持を落着かせるつもりでせう、疊の上に
「若旦那が、顏へ血が落ちて來たと言つて騷ぎ出したのは、まだ
「その時お縫さんは縛られて死んで居たに相違ないのだな」
「え、その
「扱帶は誰が切つたのだ」
「若旦那が切りました、――
「それから?」
「兎も角變死だから、十軒店の徳次郎親分に知らせろと言はれて私は飛んで行きましたが、八五郎親分のことを思ひ出して、途中で逢つた角のお酒屋の源吉どんに頼んで、向柳原の親分のところへお知らせしました」
榮吉は
「八五郎を思ひ出したのは何ういふわけだ」
近頃大いに賣り込んだとは言つても、平次の腰巾着のやうな八五郎の名が、どうしてこの小僧の念頭にあつたか、平次はそれが不思議だつたのです。
「お孃さんに言ひつけられて居りました。お孃さんは一と月ばかり前から、――私は殺されるかも知れない。萬一私が死んだら、どんな死樣をして居ても、必ず向柳原の八五郎親分に知らせるやうに、八五郎親分は時々お店へ來るから、お前もよく知つて居るだらう――と、何べんも何んべんも繰り返して言つて居りました。そんな
「お縫さんは、格別お前とは親しかつたのかい」
「え」
榮吉はサツと顏を染めます。十五になつた大柄の少年は、年上の主人筋の娘、――世にも
そして、その純情を見拔いたお縫は、自分の命を
「もう一つ訊くが――今朝お前がこの部屋の前に駈け付けた時、障子の外で若旦那の民彌ともう一人のお孃さんのお萬に逢つたと言つたな」
「え、鉢合せしさうになりました。表の梯子段を登つた私と、裏梯子を登つた若旦那と、隣の部屋から飛び出したお萬さんと」
「その時、二人はどんな樣子をして居た」
「お二人とも寢卷でした、――お萬さんなどはひどく取亂して居たので、氣が付いてあわてて隣の部屋へ歸つてお
「隣の部屋――お萬さんが飛び出した部屋の中をお前は見なかつたか」
「床を敷いてあつたやうです」
榮吉の答へはそれで盡きました。
「八、縁側に居るのは誰だえ」
「手代の丈太郎ですよ」
「呼んでくれ」
縁側にブラブラして居るのは、平次と八五郎を案内した若い手代の丈太郎ですが、恐らくそれとはなしに、榮吉の調べの模樣などを立ち聽きして居たのでせう。
「何にか、御用で――」
丈太郎は青白い細面で、
「お前は此家に何年くらゐ奉公して居るんだ」
「丁度十五年になります」
「大層長いことだな。店を持つとか
「年季を無事につとめて、お禮奉公もすんだとき、そんな話も御座いましたが、何んと申しても
この男には、外に何にか望みがありさうにも見えましたが、平次は深くも追及せずに問ひを變へました。
「それではお前はいろ/\の事を知つて居るだらう、――先づ第一に二人の
「私も深いことは存じませんが、――まア知つて居るだけのことは申上げます。お二人の姪御さんは、負けず
「――」
平次はあとを
「ところが、近頃になつて、何うしたことか若旦那のお心持が、陰氣なお縫さんを離れて、可愛らしくて陽氣なお萬さんに向いて行く樣子でございました。――御主人御夫婦は、そんな事などは考へてもゐらつしやらなかつたことでせう。若い者の心持の少しばかりの動きやうなどは、中年過ぎの御夫婦にわかる筈もございません」
「――」
「そんな事で、お縫さんは近頃すつかり沈んで居りました。常日頃陰氣の方が尚更暗くなると、益々若旦那の心持が離れて行つたことでございませう」
丈太郎は
「ところで、あの死骸の首に突つ立つて居た短刀は若旦那の民彌の物だといふことだな」
平次は八五郎から聽いたことを確めました。
「左樣でございます。若旦那は武家の出ださうで、自慢の短刀でございました。
「
「へエ、最初からこの部屋にはございませんでした」
「お縫の手を後ろに持つて居たといふ
「お萬さんのもので御座います。大層品も染も良いさうで、これも自慢の品でございました」
平次は丈太郎の話をこれだけで打ちきつてしまひました。この男は
小僧の榮吉と手代の丈太郎が立ち去つた後平次は八五郎と力を
「なア、八。二階の窓も雨戸も異状がないとすると、下手人は隣の部屋のお萬か、裏梯子の下に寢て居た民彌か、表梯子の下に居た主人夫婦の外にはないことになるわけだ」
「その通りですよ、親分」
平次は先づ隣のお萬の部屋の搜査から始めて、獨り言葉もなく、自分の頭腦の中の考へを整理して行くのです。
「主人夫婦には、
「――」
「すると下手人は若旦那の民彌か、
「おや/\、八、これは何んだえ」
平次はお萬の部屋の
平次は隣の部屋から、お縫の手を縛つた扱帶を持つて來て比べて見ました。が、果してその方は眞新しく、その上、改めて調べて見ると、
つまり斯んな具合に縛られて、
裏梯子を降りると若旦那の民彌の部屋で、平次はそこで短刀の
それからの平次の行動は、八五郎の豫想を全く裏切つたもので、どちらかと言へば、奇怪至極でさへあつたのです。
八五郎の考へでは、お縫殺しの下手人として、當然お萬か民彌を縛るべき筈ですが、平次はそんな氣振りもなく至つて
「お孃さん。死んだお縫さんとは、仲が良かつたのだね」
「え、それはもう――一緒に三年も暮したんですもの、まるで姉妹のやうでした」
お萬は愛想の良い娘でした。クリーム色の丸ぽちやで明るくて、笑顏の滅法可愛らしい――自分もまたそれを意識して、
「お孃さんの鬱金の扱帶と同じものを、お縫さんが持つて居たことを知つて居なさるのかえ」
「いえ――お縫さんは、あればかりは
「お縫さんの手を後ろで縛つて居た扱帶を、見たことだらうな」
「えゝ、見ました、――私のとよく似てゐるけれど、違つて居ます。私が見れば一と眼でわかるのです」
お萬から訊き出せることは、これが精一杯です。昨夜のことは、よく眠つて居て何んにも知らず、今朝民彌と榮吉の聲に驚かされて飛び起き、お縫の部屋を覗いて
若旦那の民彌は武家の出といふだけで、態度にも言葉にも武家風のところは少しもなく、全く大町人の典型的な若旦那です。
「お縫は氣の毒なことをしました、――人に
そんな調子で腑に落ちない顏をするのを、
「近頃若旦那に嫌はれて、沈んでゐたといふことだが、そんな事もあつたのですかえ」
平次は無遠慮に突つ込んで行きます。
「誰がそんな事を言ひました、――丈太郎の奴でせう。あれはお萬に附き
民彌は
「お縫さんを殺した短刀は、お前さんのだといふことだが、氣が付いたのは何時で」
「すぐ氣が付きましたよ、――でも隱し立てをしては惡からうと思つて、わざと其儘にして置きました」
「
「さア、私の
これは又恐るべき無頓着さです。
「お縫さんを後ろ手に縛つた
「それは私がやりました。死んだ者にしても、後ろ手に縛つたまゝにして置いては痛々しいし、それにあの鬱金の扱帶を最初はお萬の品だと思つたので、解くのももどかしく
若旦那民彌は斯う言つた男でした。
平次は八五郎を
「同じことを三月ばかり前に若い町人の息子が訪ねて來たことがあるよ、――そいつは氣の毒で明ら樣には言へなかつたが、錢形の親分には話しても差支へあるまい。それは
梁庵老はさう言つて首を振るのです。
「親分、大變。十軒
ガラツ八が飛び込んで來たのはその翌る日でした。
「仕樣のない徳次郎親分だな。俺は荒立てずに、うやむやに濟まさうと思つて居たのに、――仕方がない、斯うなれば放つても置けまい。十軒店の親分にさう言つて、腰繩のまゝでも宜い、若旦那の身柄を借りて三國屋へ連れて行くが宜い。俺も後から行く、――十軒店の親分が言ふ事を聽かなかつたら平次がさう言つたと、笹野の旦那にお願ひするのだ」
八五郎はこのむづかしい掛け合ひを言ひつけられて飛び出しましたが、矢つ張り一たん繩を打つた民彌を借り出すのはむづかしく、散々掛け合つた末、徳次郎と二人で繩付を見張り乍ら、三國屋へ行つたのはその日の夜でした。
「錢形の親分、何んか文句があるさうだね。笹野の旦那が仰しやるから、兎も角も繩付をつれて來たが――」
待ち受けて居る平次の顏を見て、十軒店の徳次郎は
「さう言ふのも無理はないが、まア、俺の考へも一と通り聽いてくれ。それでも若旦那の民彌が怪しいといふなら、器用に手を引くから――」
平次は穩かに
「――何から話さう。先づお縫さんが人に殺されたと決れば、下手人は若旦那かお萬さんの二人の他にはないことになる、――それがお縫の
「――」
皆んな顏を見合せて默つてしまひました。わけても民彌とお萬はゾツと背筋を寒氣が走つた樣子です。
「お縫さんは自分の床の上で、膝も崩さずに晝の着物のまゝで死んで居る。これが第一の不審だ、――前から
「――」
「よく調べて見ると、あの後ろに手を縛つた
「――」
「それから
「――」
それは實に前代未聞の恐ろしい死に方です。第二の戰慄が、ザワザワと一座の者の背を撫でて去りました。
「死んだだけではいけない、――お縫は早くからその用意をした。日頃眼をかけて居る小僧の榮吉に、一と月も前から自分は誰かに殺されさうだと話し、死んだら直ぐ八五郎のところへ知らせるやうに頼んで置いた」
「――」
八五郎はポリポリと首筋を
「あつしも一度は若旦那を疑つて見たが、切つた
「――」
「――いよ/\お縫は自害に相違ないとわかつたが、念のために
平次の説明は火の如く明かでした。
お縫の苦衷や、痛々しい
「お縫は自害した、――それは少しの疑ひもない。が、死んでまで怨まうとした若旦那とお萬に罪はないとは言へない。病氣で捨てられた若い女が、眼の前で以前の戀人が新しい女とイチヤイチヤするのを、ヂツと我慢して見て居られるだらうか、――俺は今更お縫の細工を
平次はそんな年寄り臭い事を言つて、呆然たる人々を見捨てて歸つて行くのでした。