「お早う、親分」
「何んだ八か、今日あたりはお前の大變が舞ひ込みさうな陽氣だと思つたよ。斯う妙に生暖けえのは唯事ぢやねえ」
庭木戸の上から覗く八五郎の長い顎を見付けて、平次は坐つたまゝ聲を掛けました。
松が取れたばかりの或日。
「地震と間違へちやいけません。――本郷一丁目の朝井玄龍、親分も御存じでせう」
「
「その好い男の本道の家で、評判娘のお玉といふのが殺されたんで――」
「殺された?」
「背中を脇差で一と突き――自分の手ぢやあの藝當は出來ません」
「よし、行つて見よう」
平次は直ぐ飛び出しました。本郷一丁目は
「親分は、あの醫者の手に掛つたことがありますか」
途々八五郎は、平次に話しかけました。
「有難いことにろくな風邪も引かないよ。尤も萬一
「親父の玄龍は
「十六や七で色つぽい娘も好きになれないよ。尤も、殺されたとあつちや可哀想だが」
そんな話をしてゐるうちに、二人は本郷一丁目の朝井玄龍の裏口から、内玄關に掛つてをりました。
その頃の朝井玄龍は、全く日の出の勢ひの流行醫者で、一介の町醫者ながら、近く上樣の御脈も取ることになつたといふ噂も立つてをります。言ふまでもなく召されて將軍の脈を取るのは、町醫者の最上の榮譽で、御典醫は表向き民間の診療が出來なかつたのですから、朝井玄龍はまさに名聲富貴
先代は朝井
「おや、錢形の、飛んだ御苦勞だつたね。今度は親分の智慧を拜借するほどのこともなささうだぜ、下手人の當りは付いたつもりだ」
眞砂町の喜三郎は、鬪志滿々たる顏で平次を迎へました。平次より少し年上の三十五六、負けん氣で練り固めた正直者と言つた感じの男です。
「さうか、それは宜い
「宜いとも、斯う來るが宜い」
眞砂町の喜三郎は我がもの顏に先に立ちます。
玄關の宏大さに比べて、中はさして住よささうには見られませんが、さすがに
この騷ぎで稼業はさすがに休み、玄關は重々しく閉ざしたまゝで、薄暗い廊下を少し行くと、
「これは、親分衆、飛んだ御苦勞で」
主人の朝井玄龍は、襟卷を取つて坊主頭を
まだ四十前後の、醫者としては年配の箔は足りませんが、面長の鼻の高い、歌舞伎役者のやうな好い男振りです。一人娘が殺された、悲嘆のドン底に居ても、人の顏さへ見れば、
娘お玉が殺されたのは、建物の横に突き出した四疊半で、南に三尺の椽側があつて、雨戸は嚴重に締つてをり、兩側に一間の腰の低い格子窓、昨夜の生暖かさで、若い娘らしく
娘の死骸はその窓の下に轉がつてゐたのを、悲鳴に驚いて飛んで來た母親の時代が見付けたといふことでした。
殺された娘お玉の死體は、隣りの六疊に
「ね、親分、悲嘆にくれて居るが、二人共たいした年増でせう。
八五郎は廊下に立つて居る平次の耳に囁きます。
お玉の死顏に、最後の化粧をさせて、見よげな
母親の時代は三十四五、もう一つ二つ年を取つてゐるかもわかりませんが、蒼白く
青い地味な
その妹のお近――これは花柳の社會の所謂妹で、
が、その美しさは、時代に
「錢形の親分だよ」
朝井玄龍が聲を掛けると、二人の女はハツと顏を擧げました。わけても母親の
「親分さん――見て下さい。斯んな
美女の唇は、聲のない
平次は默禮して娘の死骸の前に近づき、片膝を折つて、一應の調べにかゝりました。母親と叔母の手で、薄化粧させた娘の死顏は、充分に美しかるべき筈ですが、斷末魔の苦しみと驚きに
十六といふにしては、ひどくませて、八五郎の言つた色つぽさは完成されないまでも、愛嬌者で少し輕薄だつたことは事實らしく、充分可愛らしいうちにも、母親の時代の凄いほど洗練された美しさはありません。
肌を押し脱がせると、父親玄龍の手で
「お孃さんを怨む者でもありましたか、御内儀」
平次は悲嘆に
「こんな娘を、怨む者があるでせうか――でも」
母親は何やら割りきれない疑ひを胸に疊んでゐる樣子です。
「――でも、何にか心當りはあるでせう」
平次はそれを受けて型通りの問ひを進めます。
「さア」
母親時代の態度の煮え切らなさ。
「縁談は?」
「まだ十六になつたばかりですもの」
時代はさう言ひますが、十五、六の嫁は一向珍しくなかつた頃のことです。
平次は併し、娘の死骸を側に置いて、多勢の前で訊くことは、この程度を
四疊半は窓際半分ほど凄まじく血に
窓の敷居は疊から一尺二寸、その邊が一面の血で、格子から障子まで染め、刺した刄物は、
取寄せて見ると、何處にでもある平凡な拵への脇差で、先代の朝井
十何年の歳月は、斑々と
押入をあけて見ると、夜の物もそのまゝ、宵のうちの出來事で、まだ床も敷かなかつたでせう。下の段に積んであつた小道具の中から、紐のかゝつた手箱を出して、
「そいつは見落した、――誰のだえ」
眞砂町の喜三郎は眼を光らせて差し覗きます。
「――戀しきお孃樣へ、新六より、とあるぜ」
「矢つ張りあの野郎だ。昨夜もこの廊下にウロウロしてゐたのを見たものがあるといふから、擧げてやらうと思つたが、兎も角下つ引に見張らせて、暫くは勝手に泳がせてあるんだが――」
喜三郎の鼻は
「そいつを讀ませて下さいよ、親分。後學のためだ」
ヒヨイと出した八五郎の手を、平次は勢ひよく拂ひ退けました。
「馬鹿野郎、人の色文なんか讀んで面白がつて居る時ぢやねえ。隣りには若い娘の死骸があるんだぜ」
「へエ」
「それより家中の者から、隣り近所の噂を手一杯に集めて來い。如才もあるめえが、
「心得てゐますよ。あつしの家の近所には、隣りのお妾の
「無駄を言ふな、馬鹿野郎」
「へエ」
「
「矢張りお臍の胡麻を讀む方で――」
無駄を言ひながらガラツ八は、平次に小言を浴びせられる前に飛んで行つてしまひました。
入れ替りに入つて來たお近は、
「お近さん、いろ/\訊きたいが――」
「え、どんなことでも申し上げます。早く玉ちやんの敵を探して下さい。あの
響きの音に應ずるやうな、いとも
「お玉を殺して誰が一體得をするのだ」
「そんなものはありやしません」
「お玉を怨んでゐる者は、本當になかつたのか」
「あの娘は、そりや可愛いゝ娘でしたよ。怨んでゐる者なんか、あるわけはないぢやありませんか、
「離屋の御隱居?」
「先代玄策樣のお
「代脈の新六といふのは、お玉と
平次は問ひを變へました。
「何方も若いんですもの、無理はありませんよ」
「お玉の方が嫌つてゐたのではないか」
「飛んでもない、玉ちやんの方が
血の乾ききらない部屋で、含み笑ひするやうなお近です。
平次はお近を案内に、代脈の新六の部屋へ行つて見ました。店の方に近い六疊、其處には書生兼内弟子で、藥箱持ちを兼ねた、三十男の和助といふのと住んでゐるさうで、男臭い部屋の中は、いぶせきばかりに取亂してあり、代脈の新六は喜三郎の子分に監視されて、神妙に差控へてをります。
二十五六の
「お前は代脈の新六さんといふのだね」
「ハイ」
「この家には長くゐるのか」
「三年ほどになります」
「昨夜お孃さんが殺された頃、奧の廊下でウロウロしてゐたさうだが、用事があつたのかえ」
「ハ、ハイ」
「夜分、奧には用事がない筈だと思ふが――」
「――」
新六の眼は何やら訴へてをりますが、口を堅く閉ぢて、この大事な
平次はこれ以上問ひ詰めても無駄と見たのか、庭下駄を突つかけて外へ出て見ました。八五郎も何處へ行つたか姿を見せず、平次の活動が熱を帶びて來るのを見ると、野心的な喜三郎は其處にヂツとして居られなくなつたものか、これも前後して姿を隱してしまひました。
庭はさして廣くはありませんでしたが、その中に
お玉が死んで居た四疊半の外は、長い間の冬の日照りに乾いて、灰を蒔いたやうになつてをりますが、誰のたしなみか美しく
「親分、誂え向きの大年増が見つかりましたよ」
八五郎が何處かの物蔭からヒヨイと出て來ました。
「どんな事を聞き出したんだ」
「朝井玄龍先生の藥箱の中から、掛り人のお近の
「まだ臍の胡麻に
「まア、さう言つたやうな次第で」
「一席やるが宜い、この邊で聽かう」
「朝井玄龍先生は、先代の朝井玄策先生の養子だ」
「それは知つてゐる」
「先代は洒落れた人で、貧乏人を助けた數だけでもたいしたものだが、金持からは存分の藥禮を取つたさうで、この家を建てた外に、何千兩とも知れぬ金を拵へ、地所持、家作持でも本郷の指折りといふから大變ぢやありませんか」
「俺達とは大變な違ひだな」
「先代の玄策先生が生きて居るうちに、内弟子の玄龍先生を娘の
「――」
「その後へ玄龍先生は、
「何んだその臍胡麻てえのは?」
「隣りのお神、――亭主は芝居者で、四十がらみのちよいとした中婆さんだが、いやその口ときたら、まるで
「それからどうした」
「先の内儀のお直さんは半病人で氣が少し變と來てる上、母親のお市婆さんは六十近くなつて、中氣の氣味で足が不自由だ。お市婆さんの末の子――つまり亡くなつた玄策先生の末子で、お直さんの弟の孝吉は、十四になつたばかり、これは
「その小僧は、
「まだ宵のうちで、店で藥研を使つてゐたさうですよ。離屋へ歸るのは毎晩
「いや、その小僧を怪しいといふわけではない。そんな悧發な子なら、何にか見てゐるかも知れないと思つたのだよ」
平次の足は、自然にその
中の暗いのは、何んとなく陰慘な感じを與へますが、平次と八五郎を迎へた老女の、たしなみ深い明るい姿は、その先入感をすつかり拂ひのけてくれます。
「錢形の親分さん、御苦勞で――」
折かゞみの美しい、五十五六の老女は、敷居際に兩手を突きました。色の白い、いかにも品の良い老女で、清らかな眼には、若さと聰明さが殘つてをりますが、氣の毒なことに輕い中氣にやられて、右足が下自由らしく、ズルリズルリと引摺つて歩くのが痛々しい姿です。
「不自由なことはありませんか、御隱居さん」
平次の眼は、この清潔な老女を
「もう馴れてしまひました。十年近く過して來ましたので」
「玄龍先生は」
「大層よくしてくれます。月々の手當ても勿體ないほどで、娘とこの年寄りでは一兩のお金が費ひきれません」
「どうして
「それでは娘が可哀想でございます。氣が變になつたと申しても、何彼と見聞きしては、良いことばかりはございません」
それは尤も至極な心づかひでした。
「で、その御病人は、休んだきりで?」
「可哀想に、去年あたりからは、外へも出られない容體でございます。――お玉さんが殺されたさうで、親分さん方に、何んかのお疑念が殘つてはいけません、むさ苦しい姿ですが、一と目御覽下さいますやうに」
老女はさう言つて、暗い土藏の片隅に立てた、二枚
「――」
その中には、粗末ながら小綺麗な布團を敷いて、中年の女が寢てをります。明りを恐れるやうに、向うを見詰めたまゝ、振り向かうともしませんが、蒼白い頬から、骨張つた肩のあたり、この世のものとも思へぬ淺ましさが、平次の感傷をそゝらずにはをりません。
それは死にまで
平次はもう一度家の外を一と廻りして、裏木戸のところへ出て來ると、木戸を境ひにして、何やら激しく言ひ爭つてゐる聲が聽えます。
「そんな馬鹿なことがあるもんか。新六さんが下手人だなんて、飛んでもねえことだ」
それは十四五の、少し
「あれはお市の伜の孝吉ですよ。十四とか五とかいふけれど、小柄だから十二三にしか見えませんね」
八五郎がさゝやきます。
「何をツ、この喜三郎のすることに、誰が文句を言ふんだ。證據があればこそ、繩を打つて引つ立てるんぢやないか。
それは眞砂町の喜三郎の聲でした。平次と八五郎は、氣まづい思ひをするよりはと言つた遠慮で、あわてて建物の袖に姿を隱します。
「人間が玉子から生れると思つてゐるから、親分も甘めえものだ――そんなことは本草學にもねえ事だよ」
「何んだと」
「兎も角も、新六さんを
「言つたな小僧」
孝吉の生意氣なのが癪に障つた樣子で、喜三郎大人氣なくも
「その代り言ひ解けなかつたら、おいらも一緒に縛られて行つて上げようよ。一人生捕るよりは、二人生捕る方が手柄になるぜ」
「言やがつたな小僧、――昨夜、お玉さんが殺された時、この男が廊下でウロウロしてゐたのは何んのためだ」
「ね、眞砂町の親分。親分は色をしたことがあるかえ」
「何んだと、小僧」
「逢引てえのを知つてるかてんだ。――そんな怖い顏をするやうぢや、逢引の味は知るまいが。新六さんは好い男だから、毎晩人目を忍んで、お玉さんと逢引して居たんだよ」
「?」
「驚いたらう、親分。お玉さんはたつた十六さ、このあつしより二つしか年上ぢやねえが、暮から新六さんと親しくなつて、近頃毎晩の逢引だよ。親は甘めえから何んにも知らねえが、お近さんくらゐは知つて居るだらうよ。訊いて見ねえ、あの人はもと
「――」
喜三郎は苦い顏をしました。十四の小僧に思ひも寄らぬ世界を覗かされたのです。
「だから、どう間違つたつて、新六さんはお玉さんを殺すわけはないぢやないか。先生も新六さんを可愛がつてたから、行く/\はお玉さんと一緒にする氣だつたかも知れないし、何が不足でお玉さんを殺すんだ」
「お玉さんが新六に愛想盡しでもしたら何んとする」
喜三郎は最後の線に踏み留りました。
「昨日も店の薄暗いところで、そつと手紙を渡して居たよ。行つて見ねえ、新六さんの
「本當か」
「まだあるよ」
「?」
「お玉さんの傷を、親分も見たことだらうが、ありや下から突き上げてゐるんだぜ。醫者の心得がないから、さう言つても解るまいが、脇差は
喜三郎も默つてしまひました。小僧孝吉の説明はいかにも理につんでをります。
「宜いか、親分。お玉さんは
「――」
「廊下でウロウロしてゐる新六さんは、皆んなの前に姿をさらしたが、返り血なんか一つも浴びちやゐなかつたよ。嘘だと思ふなら新六さんの着物を一枚々々調べて見ねえ」
斯うまで説破されると、眞砂町の喜三郎の強引でも、新六を縛つて行く筋が立ちません。
「よし、お前の言ふ事にも道理はある。暫らく新六の繩は許してやらう、――その代り變なことをしちやならねえよ。逃げ隱れすると、その場で縛られるものと思へ」
喜三郎は大舌打ちをしながら、新六の繩を解いてやりました。
「新六さん、良かつたね」
「有難う孝吉さん、私はどうなる事かと思つたが」
大きいのと小さいのが、仲よく家の中へ入つて行くのを見送つて、眞砂町の喜三郎も、
「驚いたね、親分」
その後ろ姿の消えるのを合圖のやうに、八五郎は乘出します。
「悧巧な小僧だな、――あんまりませ過ぎて憎らしくはあるが、――あのくらゐの年頃だから、若い男と女の逢引を食ひ付くやうな一生懸命さで見張つてゐるんだね」
と、平次も甚だ
「どうかしたら、下手人はあの小僧ぢやないでせうか、――木場の
「いや、そんな事はあるまいよ。昨夜
「さうでせうか、藥研だけ音をさせて、自分は脱け出して
「いや、それより俺は今朝庭を掃いたのが誰だか知りたい」
「そんなことならわけはありませんよ。ちよいと訊いて來ませう」
驅けて行つた八五郎は、間もなく歸つて來ました。庭を
これは併し、事件のほんの發端に過ぎません。續いて起る第二、第三の凄慘事の裏には、果してどんな謎が潜んでゐるでせうか。
「八、
「へツ、欠伸も出ますよ。陽氣は良いし、御用は暇だし」
「錢はなしと來るだらう」
錢形平次と八五郎は、椽側に乘出して、春の陽を浴びながら、相變らずの調子で話を運んでをりました。
「御用と言へば、本郷一丁目の朝井
「あれから一と月も經つが、一向眼鼻がつかないやうだな。下手人も
平次は妙に諦らめた口振りでした。一つは眞砂町の喜三郎の向うを張つて、厄介な事件に捲き込まれる
江戸の空は
その八五郎が、近頃は
「眞砂町の喜三郎親分が――」
平次の女房お靜が取次いだのが、この事件のきつかけでした。
「眞砂町の
平次は
「今度は玄龍先生の内儀の時代さんが殺されたんだ。すまねえがちよいと行つて見てやつてくれまいか」
入口に突つ立つたまゝ、喜三郎の調子は火のつくやうです。恐らく一ヶ月前の娘のお玉殺しが、まだ
「成程そいつは大變だ。直ぐ行つて見よう、話は歩きながら聞くとして」
平次は手早く支度をして、眞砂町の喜三郎と連れ立ちました。その後から八五郎が、自分の彌造を追つ驅けるやうな
「死んだのは昨夜だが、稼業が稼業だから、助かるものなら助けようと、一と晩手を盡したらしいよ。叶はないとなつても、娘の變死の後で、世間の評判がうるさいから、何んとか誤魔化して、
「あの小僧がね」
「それにもワケがありさうだよ。ところでさう聞くと放つちや置けないから、飛んで行つて嫌がる玄龍先生を拂ひ退け、内儀の死骸を見ると、こいつは
「フム」
「毒は何んだか、素人のこちとらにはわからねえが、顏から胸へ
喜三郎と平次と八五郎は、裏へ廻つてお勝手口から、朝井玄龍の家へ入りました。奧の一と間には、内儀の時代の死骸を見張つて、喜三郎の子分の音松が、
それは主人の玄龍夫妻の寢部屋らしく、かなり
内儀の時代の死體は、
眉の跡も新鮮な青さを失つて、落ちた小鼻、苦悶に
毒死の證據は喜三郎が言つた通り、たつた一と眼で素人にもわかります。口中も胸も改めて見るまでもないほどです。
「親分方、濟まないが、私のお願ひも聞いて頂きたい」
主人の朝井玄龍は、平次と喜三郎を別室に案内すると、折入つての膝を
内證話のために用意されたやうな小部屋で、同じ四疊半でも、茶よりは酒に
「お願ひとおつしやるのは?」
「實はな、親分方、私も何んとか言はれて、門戸を張つてゐる醫者だが、續け樣に二人の變死人を出しては、世間の思惑は兎も角、近く上樣御脈も拜見することになつてゐる御内意に對しても相濟まない」
四十前後の好い男、不斷の微笑を忘れない
「?」
平次と喜三郎は、お互ひの氣を測り兼ねて、默つて顏を見合せました。
「で、何んとか、この儘何事もなかつたとして家内の葬ひを出さしちや貰へまいか、――その代り決してたゞとは言はない、輕少だが此處に十兩づつ、これで一杯呑んで、何も彼も忘れたことにして下されば、朝井玄龍本當に恩に着るが――」
今を時めく流行醫者の朝井玄龍、將軍樣の御脈まで見ようといふ、言はゞ醫者としての權勢並ぶ者なき中年男が、膝から疊へ、手を滑らしての懇願です。
「どうだえ、錢形の」
十兩に
「お氣の毒だが、そいつはなりませんよ。お醫者にはお醫者の仕事も見識もあるやうに、御用聞にはまた、御用聞の顏も勤めもあります。――上樣御脈を拜する矢先となれば、隨分口を
平次はさう言つて、二つの十兩包みを押し返すのでした。その頃の十兩は金の目方にしてざつと四十匁、容易ならぬ一と
「すると、錢形の親分?」
「早まつちやいけません。世間の噂にならねえやうに、精一杯氣はつけて上げるが、調べを打ち切ることは、こちとらの一量見には行きませんよ。第一、下手人を放つて置いた日にや、お膝元が切捨御免になりますぜ」
「――」
「お孃さんを刺したのも、御内儀に毒を盛つたのも、どうせ同じ人間の仕業でせう。そいつが三人目を殺さないとは、一體誰が請合つてくれるでせう?」
「三人、――そんな事があるだらうか、親分」
「人でも殺さうといふ野郎は、横着で馬鹿に決まつてゐまさア。二人迄殺して一向露見しさうもないとなると、
「――」
平次の豫言は猛烈で容赦がありませんでした。あはよくば事
「此處で下手人を擧げるのは、十手捕繩の意地ばかりぢやありません。ね、玄龍先生。あつしのお尋ねすることに、一々お
「それはもう」
「では第一に、昨夜は御内儀一人だけで、飮むとか食ふとかなすつた物はありませんか」
平次の問ひは一
「晩飯の後で、家内一人でやつたものといふと、いつもの寢酒くらゐのもので」
「寢酒?」
女だてらの寢酒はひどく耳障りです。
「御存じの通り、家内は昔勤めをしてゐた、――恥を言はなきやわからないが――そんな事で酒が身に沁みたものか、夜床に就く前に少しばかりの寢酒――と言つてもほんの五勺か一合だが、それをやらないと寢付けないやうになつてゐたのだよ」
それは輕度のアルコール中毒でもあつたのでせう。長く遊里に暮したもの――酒と不眠と
「で、先生は?」
「私は生得の下戸で、酒は嫌ひな方だ」
さう言へばそれつきりのことですが、内儀の時代一人で呑む酒に、猛毒を仕込んだのは言ふ迄もなくお勝手の事情に通じた者でなければなりません。
「ところで、あの毒は何んでせう。あつしも隨分いろ/\の毒死は見ましたが、お内儀のやうなのは始めてです。
「さア」
平次はもう一歩突つ込みます。
「南蠻物の新しい毒と見ましたが、どんなものでせう。先生のところには、あんな毒藥がなきやならないわけだが――」
「――」
朝井玄龍はすつかり默つてしまひました。醫者の藥局にはそんな猛毒を
「錢形の親分、――毒も少し用ひれば藥になり、藥も澤山服めば毒になるといふことは知つて居なさるだらうな」
「よくそんな事も申しますが」
「毒も藥も、考へやうでは同じものだ。私の藥戸棚の中に、少しは南蠻渡來の毒藥があつたところで、それは別に不思議でも何んでもないことだ」
朝井玄龍の辯解は苦しさうですが、悧巧な人間だけに、兎にも角にも筋になります。
「その藥戸棚には、錠前があることでせうな」
「ある」
「鍵は何處にあります」
「私の部屋の手箱の中に入れてあるが」
「その鍵を持ち出せば、誰にでも毒藥は取出せるわけでせうな」
「いや、そんなわけには行かない。私の部屋から鍵を持ち出せるのは、家内と私だけだ」
「すると――?」
「
「その先生の部屋へそつと入つて、鍵を持ち出すわけには行かないものでせうか」
「そつと入ると言つても、女共は大ぴらに入つて居るが――お近とか、下女のお兼とか」
「ところで話は變りますが、御内儀は若い頃――勤めをしてゐられた頃の掛り合ひで、今以てひどく怨んでゐる者などはなかつたでせうか――これは飛んだ失禮なお訊ねですが」
平次はもう一歩突つ込んだのです。
「いや、それは知らない。私のところへ來てもう十年にもなるが、ツイそんな話は聽いたこともないくらいだ。まさか十年前の怨みを、今を持ち續けてゐる者もなからうと思ふが――」
これは成程、夫の朝井玄龍の言ふのが本當かもわかりません。
「昨夜、來られたお客は?」
「それもなかつた筈だ。珍しく靜かな晩で、急病人もなく、藥取りも來ず、
その時の事を思ひ出したらしく、朝井玄龍はさすがに暗然として
併し訊くことはもうそれで盡きました。眞砂町の喜三郎が、お義理だけのことを二つ三つ訊いて、主人玄龍と別れ、第二段の調べに入るために、二人は椽側へ出て來ると――、
「親分、いろ/\面白いことを聽きましたよ」
ガラツ八の八五郎が、長んがい
「何んだえ、大層らしく」
「ちよいとお耳を」
平次と喜三郎は庭下駄を突つかけて、それでも八五郎に誘はるゝまゝ、植込みの蔭、土藏の横に首を
「――驚くでせう、近頃は主人の玄龍先生お近と親しくなつて、内儀の
「相變らず口が惡いな、お前は」
「勘辨して下さいよ。斯んな具合に話さないと、
「まア宜い、それから何うした」
「二人はこの二た月三月は口もきかなかつたさうですよ。内儀はお近を追ひ出さうとしたが、お近の方は主人の首根つこに
「?」
「代脈の新六が、一と月前に殺された、娘のお玉に夢中になつてゐたやうに、藥箱持の和助が、お近に思召しがあるらしく、影のやうに附き
「フム、厄介な家風だな」
「面白がつてゐるのは、あの小僧の孝吉ですよ。あれは十四になつたばかりだが、大人のやうに氣が廻りますね」
「それつきりか」
「まア、そんな事で、――でも何んかの足しにはなるでせう」
八五郎はまことに宜い心持さうです。
「おや、
平次は
「ツイ今しがた、向うの方へ行きましたよ、又何んか拔け驅けの功名でも思ひ付いたんでせう。そんな事が大好きな方だから」
八五郎は心得たことを言つてニヤリとしてをります。
お勝手へ廻ると、下女のお兼は忙しさうにお仕舞などをしてをりました。四十二、三の中年者で、亭主に死に別れて、二度の奉公をして居るといふ、
「ちよいと訊き度いが――」
「へエ、私かえ」
少し
「毎晩、御内儀さんの寢酒の支度は誰がするんだ」
「お内儀さん御自分でやりなさるだよ、私やお近さんには手も付けさせねえ」
「酒は何處に置いてあるんだ」
「戸棚の中に、
お兼は戸棚をあけて中の
「道具は?
「それもお内儀さんが御自身で始末なさるだが」
「何處にあるんだ、――その徳利の中には昨夜の飮み殘りの酒があつた筈だが」
「今朝はお内儀さんが死んだことだし、私が始末しようと思つたら、綺麗に洗つて、流しの向うに伏せてあつたよ――あの通り」
お兼の指した流しの向うに、物に凭れさせて洗つた徳利が一本、
「誰がそれを洗つたんだ――お兼は知つてるだらう」
平次はさすがに氣色ばみます。
「知つてるわけぢやねえだが、――私が朝早くお勝手へ來ると、あわててお勝手から飛び出した者があるだよ。水でも呑みに來たのかと思つたら、昨夜の騷ぎの後で、奧から下げて置いた徳利と
けろりとして斯んな事を言ふお兼です。この女は全く馬鹿か悧巧か見當もつきません。
「よし/\、その猪口と徳利を洗つたのは幽靈として、今朝お前が來た時、お勝手から飛び出したといふのは誰だえ」
「和助さんですよ」
「藥箱持の和助か」
「あの人は近頃どうかしてゐるから、水で顏でも洗ひに來たことだんべいと思つてね」
お兼の言葉は相變らず人を喰つてをります。
「ところで、昨夜お内儀が、酒の徳利を用意して、暫らく此處へ置いたことだらうな」
「昨夜だけぢやねえ、何時でもさうなさるだよ。晩の支度のとき、白丁から一合くらゐの酒を徳利に移して、猪口を添へてこの臺の上へ置いて、晩飯が濟んで暫らく經つて、部屋へ引取るとき、自分で持つて行きなさるだ」
「その間にお勝手へ來るのは?」
「家中の者は毎晩一度づつは來ますだよ。先生も、お内儀さんも、お近さんも、新六さんも、和助さんも、孝吉さんも、それから
「離屋の御隱居は何んの用事でこのお勝手へ來るんだ」
「お
併しこれはお兼の口から引出せる話の全部でした。この上は店の方へでも行つて見ようとフト
丁度それと氣の付いた時、店の方では大變な騷ぎが始まつたのです。
「野郎ツ、
それは八五郎の聲でした。
「親分、私ぢやありません、――私は何んにも知りやしません」
悲鳴をあげるのは、藥箱持ちの和助の樣子です。
平次は飛んで行きました。と、出合ひ頭、和助の襟髮を掴んだ八五郎と、危ふく鉢合はせしさうになつて、廊下の薄暗がりに立ち止つたのです。
「八、騷々しいぢやないか、どうしたんだ」
「この野郎ですよ、親分。内儀に毒を盛つたのは?」
八五郎の得意さ。
「私は何んにも知りません。錢形の親分さんどうぞ、お助けを願ひます。お願ひ」
それは三十前後の背の低い不景氣な男でした。丈夫さうで
「何んにも知らねえものが、今朝薄暗い臺所に忍び込んで、肝腎の徳利と猪口を洗つたのはどういふわけだ。あの中には呑み殘りの毒酒が、馬でも殺せるほど入つて居たんだぞ、やい」
八五郎はすつかり好い心持さうです。
「そん事は知りやしません。唯
「嘘をつきやがれ、夜の明けきらないうちに臺所を覗いて、徳利や猪口を眼障りにする柄かよ、お前は。サア、眞つ直ぐに白状しろ、誰に頼まれて内儀に毒を呑ませた」
「飛んでもない親分」
それは果てしもない爭ひでした。が、平次は默つてその爭ひを見てゐるばかり、八五郎の手柄を褒めもせず、和助のためにも辯じてやらうともしません。
「親分、こいつは繩を打つたものでせうね」
八五郎はもう自分の手柄に
「八、それより、ちよいと振り返つて、あれを見るが宜い」
平次は靜かにうしろの方を指しました。
「あツ」
其處には眞砂町の喜三郎が、お近に腰繩を打つて、ニヤリニヤリと突つ立つて居るではありませんか。
「八
喜三郎の得意な
「あ、何をするのさ、痛いぢやないか。何んだつてこの私を縛るんだえ、後で繩を解かうたつて、無事には解かしやしないよ。安岡つ引の癖にしやがつて、畜生ツ」
お近はさう言つた女でした。勝氣で剛情で、豊滿で色つぽくて、そして長い間泥水に浸つた揚句、人を人とも思はないやうな、
「默れツ、女、お前が内儀を毒害した動きのとれない證據が擧つてゐるんだ。大きなことを言ひたかつたら、
喜三郎も素より負けては居ません。
「内儀を殺した證據?――馬鹿におしでない。私はいかにも、あの女を殺さうと思つたよ。幾度その氣になつたか知れやしないが、昨夜といふ昨夜、誰か知らないが、先を潜つて殺してしまつたんだよ」
「馬鹿ツ、それが白状ぢやないか――殺し手はお前だ」
「解らない
「何んといふ
「チエツ、無實の罪で首を切られて御慈悲が聞いて呆れらア」
此處にもまた、際限もない爭ひが展開するのです。
「それぢや自分のした事を思ひ出させるやうに、此處で
喜三郎はそれを平次に聽いて貰ひ度かつたのでせう。
「宜いとも、承はらうぢやないか」
「お前は近頃主人と
「啀んだのは内儀の時代の方だよ」
「お前はツイ十日ばかり前に、毒藥の入つてゐる藥戸棚をそつと開けて、中から南蠻物の恐しい毒藥を、盜み出したといふぢやないか」
「――」
「それを見てゐた人は二人も三人もあるんだ。どうだ女、南蠻祕法大毒藥は、七味
それは致命的な證據らしく見えました。
「畜生ツ、代診野郎の
「馬、馬鹿なことを言へツ」
「本當だよ、銀と紺の
「――」
それは滿更の
「その財布は今でも私の手文庫の中にあるし、家中に吹聽したから、誰でも知つてゐる話だよ。聽いて見るが宜い」
「毒藥を巾着の中から盜まれた話もか」
「そんな事を言ふものか、馬鹿々々しい」
「そんな言ひ譯は暗いぞ。來やがれ、お
喜三郎は又繩尻を鳴らすのです。
「親分――眞砂町の親分、お待ちよ、その人は下手人なんかぢやないぜ」
後ろから呼び留めたのは、小僧の孝吉――主人玄龍のもとの内儀の弟の、あの
「何んだ小僧、又變な事を言やがると承知しねえぞ」
「おつかねえ顏をして睨んだつて、驚くもんか、――お近さんを縛つて行くと、親分が飛んだ恥を掻かなきやならないから教へてゐるんだぜ」
「そのわけを言つて見ろ」
眞砂町の喜三郎もさすがに無理には立ち去り兼ねました。小僧孝吉の悧巧さに引付けられたのと、妙にその自信あり氣な調子に、一脈の
「お近さんが藥戸棚を開けて、毒藥を盜んだことは、和助どんも新六さんも、おいらも見てゐたんだ。銀紙と紺紙に包んで、あの戸棚の中にあるのが、南蠻物の大毒藥と、この家中で知らない者は一人もないよ」
「――」
孝吉の話の眞實性に引摺られて、妙にシーンとしてしまひました。
「お近さんと來たら横着な癖に呑氣で、だらしがないんだ。物を盜むところを多勢の人に見られても御本人は一向氣が付かないんだよ。その上、毒藥を入れた巾着を落した事も本當なら、その巾着が三日目に藥だけ拔いて返された事も本當さ。それにこいつは一番大事なことだが――」
「?」
「昨夜お内儀さんが寢酒の支度をして、それを自分の部屋へ持つて行く迄のざつと一
「そいつは本當か」
喜三郎もさすがに驚きました。それを聽いてゐる多勢の人の顏には、孝吉の言葉を
「誰が嘘なんか吐くものか。おいらはお近さんを好きぢやないんだ。そのジヤラジヤラした
「生意氣を言ふな」
「お勝手の戸棚の
それは實に凄いほどの少年の智慧です。喜三郎もさすがにそれを反駁する材料はありません。
「和助があの徳利と猪口を、そつと洗つたことをお前は知つてゐるか」
今まで默つて聽いてゐた平次は、この時
「知つて居るよ。錢形の親分がそいつを
「それがどうした?」
八五郎は眼を剥きます。
「どうもしないよ、――和助どんはお近さんに惚れてゐるだけの事さ。お近さんの方では相手にしないが、そりや大變だよ」
「で?」
「お近さんが毒藥を盜み出したのを見て居るから、お内儀さんが毒害されたとなると、誰でも一應はお近さんを
それはまことに
二つ目の死も斯うして
「親分、やられましたよ。到頭三人目が」
飛び込んで來たのは八五郎でした。それは本郷一丁目の流行醫者、朝井玄龍の内儀が殺されてから五日目、二月も漸く半ば過ぎになつたある朝のことです。
「今度は誰だ」
錢形平次はまだ
朝井玄龍の家の
「あれ、お前さん」
追ひすがるやうに、お盆を持つたまゝ立ち上がる女房のお靜を押へて、
「飯なんか、後で宜いよ、――まさか主人がやられたんぢやあるまいネ」
もう入口へ顏を出してをりました。
「その主人の玄龍先生が手もなく締め殺されてゐるのを、今朝になつて見付けたんで」
八五郎はハア/\白い息を吐きながら、
「そんな事になるだらうと思つたよ。だからお前に見張らせて置いたんだが――」
「相濟みません。二日二た晩までは見張りましたが、醫者の家に御用聞が頑張つてゐられちや體裁が惡いとか何んとか言つて、良い顏をしないんで三日目からは朝夕たゞ見廻つて、向柳原の巣へ歸ることにしましたよ」
「仕樣がないなア、誰が一體お前を邪魔にしたんだ」
「あの、ヂヤラヂヤラお近の
「そんなにヂヤラヂヤラするのか」
「あつしなんかには白い眼を見せるだけで――相手は獨り者になつた好い男の主人玄龍ですよ。イヤな女ですね」
そんな問答のうちに、平次は支度を
「そいつは誰が見付けたんだ」
「下女のお兼ですよ。今朝明るくなつてから雨戸を開けに行くと、主人の玄龍が自分の部屋で平常着のまゝ首を女の
「あの丈夫な男がね」
「好い男だが、
「それの出來るのは誰だらう」
「和助か新六の外にはありませんね」
そんな事を言ふうちに、二人は本郷の朝の人通りの中を、朝井玄龍の門に飛び込みました。
「おや、錢形の親分」
出合ひ頭、鉢合せをしさうに聲を掛けたのは
「眞砂町の親分か、大變なことになつたね」
「錢形の親分の言つた通りだ。到頭三人目がやられた」
眞砂町の喜三郎は事件の重大性に轉倒して、平次を迎ひに行くつもりで出かけたところだつたのです。
主人玄龍の部屋は、いつぞや内儀の
「家中の者は姿を見せないやうだが」
「奉公人は店に、お近は自分の部屋に追ひ込んであるよ、――それからあの高慢な小僧の孝吉は、
「あの女が死んだのか――可哀想に」
土藏の離屋に、骨と皮の青白い身體を横たへてゐたお直は、到頭死ぬまでヒステリーを昂じさせたのでせう。平次はいつぞやの事を思ひ出して、ぞつとした心持になります。
主人の朝井玄龍の死骸は、まだ始末もせずに、今朝のまゝに疊の上に轉がしてありました。
四十そこ/\の好い男で、少し
着物は晝のまゝの好みの黄八丈、大柄の襟の掛つた
「主人は
平次は一寸首を捻ります。
「お兼に訊いて見よう」
眞砂町の喜三郎は、お勝手に飛んで行くと、其處から引つ立てるやうに、
「主人は酒を呑むのか、――下戸だと言つてゐたが――」
それは平次の最初の問ひでした。
「滅多に召し上がりません。――でも
「それは何刻だ」
「
「お前はそれからどうした」
「妙に淋しかつたんで、お玄關の次の間へ行つて暫らく和助さんや新六さんと無駄話をしました。あすこには大火鉢があるんです。一刻ほど經つてから火の始末をして、玄關とお勝手を閉めて、自分の部屋へ歸つて休みました」
「主人の部屋を覗かなかつたのか」
「もう來なくても宜いと仰つしやるんです。それに宵過ぎには全く何があるか判りやしません。二三日前からお近さんの
「お近が何をやつたんだ」
お兼の何やら言ひた氣な語氣を迎へて、平次は問ひを
「お内儀さんが亡くなると、その翌る日からもう、後釜に据ゑてくれといふ強談でしたよ」
「へエ、達者な女だね」
「私はどうせお近さんに嫌はれてゐるから、斯うなればこの家にゐる氣もありませんから皆んな言つてしまひますが――」
お兼は四十女の強かさを存分に
「ウン、良い心掛けだ」
八五郎は相の手を入れてをります。
「先のお内儀さん(
「――」
「先生はせめて四十九日が過ぎてからと仰つしやつてゐた樣子でしたが、お近さんが聽きやしません。昨夜は到頭先生も腹をお立てになつて、大變な騷ぎでしたよ。それに離屋にゐる先のお内儀のお直さんも死んだことだし、少しはたしなめと言つたのが、ひどくお近さんの
「お直さんの
「え、本當にお氣の毒でした。十年前捨てたか捨てられたか、先生と別れてからは、あの土藏を離屋に直して、母親のお市さんと弟の孝吉さんと一緒に暮し、ツイこの間まではフラフラと起き出して外を歩いたり、どうかするとこの
「玄龍先生はその
平次は急所の問ひを挾みました。
「急の
「――」
あの柔和さうな女隱居のお市に、それだけの
「それから御隱居さんが孝吉さんと二人で取りさばいて、
「――」
「そんな事で氣がムシヤクシヤなすつたのでせう。
「それから」
「私はあんまり淋しいから、玄關の次の間の店へ行つて、新六さん和助さんを相手に話し込み、
「その間に、奧から何にか物音が聽えなかつたのか」
平次が又訊ねます。
「こんなに店とは離れてゐるんですもの、少しくらゐのことでは聞える道理はありません。御主人は御用のときは、いつでも手を打ちなさることになつてをります」
下女のお兼の話はなか/\よく行屆きます。どうかしたらお近の
平次はもう一度朝井玄龍の死骸を調べました。
「八、不思議なことがある、見ろ」
「へエ?」
八五郎には殘念ながらその不思議といふ意味がよくわかりません。
「死骸の首筋には、細引の跡が殘つてゐるが、不思議なことにそれは前の方だけで、
「?」
「紅い
「へエ?」
「柱を見てくれ、疊から三尺ほどの高さだ、其處にも傷がある筈だが」
「さう言へば後ろ側に傷らしいものがありますね」
「ところで、これだけの事で、お前はどんな事があつたと思ふ」
「新六か和助が夜中に忍んで來て、締めたんぢやありませんか」
八五郎は一つの假定に
「いや、玄龍は晝のまゝの姿だ、――着換へもして居ない。隣りの部屋に敷いた床を見るが宜い、其處には寢た樣子もないだらう」
「へエ」
「燭臺の
「では下手人は此處へ宵のうちに自由に出入りの出來るものですね。下女のお兼が店へ行つて、新六と和助と三人、
「――」
「小僧の孝吉は姉が死んで土藏の離屋へ行つてゐた、あとは――」
八五郎の推理が其處まで
「あツ、何をするのさ、又私をどうしようと言ふのだえ。――安岡つ引の癖にしやがつて、
幾間か隔てて、お近の聲が
「えツ、太い
それは眞砂町の喜三郎の叱の聲でした。
「眞砂町の親分が、又拔け驅けだ」
八五郎が大舌打ちを一つ高々と鳴らします。下手人が十の十までお近と見當をつけると、平次が動き出す前に、一と足お先にその手柄をさらつて行くつもりでせう。
「あれツ、助けて、――私ぢやないよ、私は何んにも知りやしない。大事の亭主を殺してなるものか」
お近は
「錢形の親分、下手人は間違ひなくその女だ。逃がさないやうに頼むぜ」
それに追ひすがる喜三郎は、まさに山を見ざる
その時、
「あ、眞砂町の親分、またやつてゐるのか。――氣の毒だが先生を殺した下手人はその女ぢやないよ」
孝吉は後ろ手を腰へためて、高慢な――が滅法可愛らしくさへある顏を擧げて、斯う言ふのです。
「何んだと小僧、又餘計な口をきくと、勘辨しねえぞ」
喜三郎は重ね/″\のことに腹を据ゑ兼ねて、お近を押へたまゝ眼を
「餘計な事ぢやないよ。親分につまらない
「何んだと」
「まア、心持を落着けて聽いておくれよ。眞砂町の親分」
「――」
「先生の死骸をよく調べて見るが宜い。首にはお近さんの紅い
「?」
「下手人は細引で絞めた後で、お近さんの扱帶を卷き附けたんだ、――そんな事は誰が見たつてわかるが、大の男の喉物が
「――」
「それによ、先生が殺されたのは、
「何んだと?」
それは思ひも寄らぬことでした。お近が離屋の佛――狂死したお直に好意を持つたことは、想像を絶したことだつたのです。
「お近さんは變な人さ、おいらは大嫌ひだよ。でも、この間殺された
「――」
「
「――」
「その間お近さんだけが、皆んなに
少年孝吉の辯解はあまりにも
「小僧、それは本當か。本當にお近は離屋に行つてゐたのか」
「お母さんも知つて居るよ、呼んで來るから訊いて見るが宜い」
「待て/\孝吉」
平次は少しあわて氣味に飛び出さうとする少年を呼び留めました。
「孝吉の言ふのは皆んな本當だよ。お近には罪はない」
平次は思ひも寄らぬことを言ふのです。
「それは本氣で言ふのか、錢形の親分」
喜三郎の手は
「玄龍を殺したのは、新六でも和助でもお兼でもお近でもない」
「だが、女や子供ぢやあるめえ。
喜三郎は今頃漸く孝吉の指摘した點に
「いや、下手人は至つて非力な者だよ、――多分女だらう。主人の玄龍が少し自棄氣味で、
「――」
皆んな口を
「三人殺しの下手人は女だ。――最初娘のお玉が殺された時、窓の外を綺麗に掃いてあつたが、あの乾いた土の上に、女下駄の足跡があつたに違ひない。一ヶ月も前のことだが、その窓の下を掃いたのは、御隱居のお市さんと、下女のお兼だといふことであつた――お兼を呼んで來るが宜い、八」
「へエ」
八五郎はスツ飛んで行きました。
「お玉の傷は下から突き上げて、
平次の明察は絲を繰るやうに、
「親分、あの時窓の外には確かに女下駄らしい足跡があつたさうですよ。朝になつて庭を掃く者がないから、お兼が
八五郎の先走つた報告の後から、下女のお兼も同じことを言つて從いて來るのでした。
「お兼、もう一つ訊くが、――内儀の殺された晩、お勝手へ女が入らなかつたか、――内からでも外からでも宜い」
平次の問ひはヒタヒタと
「來ましたよ、さう言へば離屋の御隱居が、――お直が見えなかつたか――つて、あの人は氣が變になつて居るから、時々フラフラと飛び出すんです」
「お前が勝手に居る時、御隱居がお勝手口へ顏を出したのか」
「いえ、店へ行つて無駄話をして、お勝手へ歸つて來ると、御隱居さんがお勝手でウロウロしてをりました」
お兼の話は恐しい暗示でした。あらゆる機會を狙つて居た眞砂町の喜三郎は、此處まで聽くと、もうソロソロ出動の用意をしてゐるのです。その時不意に、
「待つて下さい、眞砂町の親分、――お玉さん始め三人を殺した
喜三郎の袖へバツタのやうに飛び付いたのは、新六を救ひ和助を救ひ、そして二度迄もお近を救つた少年孝吉ではありませんか。
「何を小僧奴。邪魔だ、退かないか、下手人は女だ。お前なんかの知つたことぢやねえ」
喜三郎はそれを、一ぺんにはね飛ばさうとしましたが、孝吉の腕は、
「いや、おいらだ。三人を殺したのはおいらに違ひない――お玉さんを窓の外から突き上げたのも、徳利へ毒を投り込んだのも、先生の首を柱の後ろから締めたのも」
「本當か、野郎」
さすがに喜三郎も迷つた樣子です。
「誰が
孝吉は泥と涙に、斑々たる顏を振りあげて、喜三郎の脚に絡みつくのです。
「よし/\、それ程縛られたきや、縛つてやらう」
懷ろから繰り出す捕繩、孝吉の腕に卷きつくのを、後ろからそつと押へたのは女の手でした。
「親分、私を縛つて下さい――その子は私を助けたさに、そんな事を言つてるのです。三人を殺したのはこの私の外にあるわけはありません」
喜三郎は驚いて振り向きました。其處には近々と寄る、老女お市の涙に濡れた深刻な顏があつたのです。
「何んだと?」
八五郎もツイ
お市の顏は恐しい悲歎と、突き詰めた諦らめに、蒼白く引締つてをりましたが、さすがに昔の美しさが匂つて、五十六歳とは思へぬ確かりしたものでした。
木綿物らしい貧しい
「娘のお直も昨夜息を引取りました。十三年の長い/\苦勞、
「――」
「玄龍は評判の良い
「――」
「でも、それはもう十何年前のことでございますが、自分の正妻――私の娘のお直を氣違ひにした仕打ちは、どうにも
「――」
老女の涙は、
「その上この子――朝井家の一粒種の男の子孝吉は、
「――」
「それを見せつけられてゐる母の私が、
お市は大地に膝を突いたまゝ、喜三郎の足許に
「待つた、
平次は椽側の上から聲を掛けました。
「何んだえ、錢形の親分」
「縛つちやいけない、皆んな間違ひだらけだ」
「?」
「三人を殺したのは、孝吉でもなきや、その御隱居でもないよ」
平次の言葉は、あまりにも意外でした。
「誰だえ、外に三人を殺しさうなのは居ないぢやないか」
「俺もそれで迷つてゐたんだ、――が、
「お兼の言つたこと?」
「死んだお直さんは、時々フラフラ歩くと言つた、――この
「?」
「お直さんは氣狂ひの一心で、脇差を持ち出して、窓の外からお玉を突いたに相違あるまい、――翌る朝、乾いた土の上に女の足跡らしいのを見付けて、御隱居はびつくりしてそれを掃いたのだ。自分の足跡なら、夜のうちに始末をするし、朝になつてやるにしても、お兼などに見付けられる前に掃く筈だ」
「?」
女隱居のお市は顏を擧げました。感謝とも疑惑とも、不滿とも、言ひやうのない表情です。
「毒藥のことも、先の内儀のお直さんが一番よく知つてゐたことだらう。お近の紙入を拾つてその中から毒藥を取り出し、あの晩そつとお勝手に忍び込んで、時代の
「――」
喜三郎と八五郎の顏には、妙に割りきれない不滿がありました。
「氣違ひがそんな行屆いたことをする筈はないと思ふだらうが、氣違ひだからこそ、そんな細かいことが、何んの怖れもなく出來たのだ――死ぬほどの
それは正にその通りでした。ヒステリーのひどい女の洞察力と、大膽さと、その細心の計畫力は、此處に改めて證明する迄もないことです。
「だが、――主人の玄龍を殺したのは誰だ。あの時刻には離屋の病人はもう死んでゐたんだぜ」
喜三郎は突如として、最後のそして一番重大な疑ひを投げかけたのです。
「それは尤もだ――が、幽靈だつて人を殺すよ。――それほど思ひ詰めた
「幽靈、かい、錢形の?」
「俺はさう思ふよ。嘘だと思つたら死體を縛つてお白洲へ据ゑて見るか、――いや、それより
「――」
驚き呆れる喜三郎や、涙にくるゝお市母子を殘して、錢形平次はサツサと引揚げて行くのです。
「親分、親分たら。それで宜いんですか、親分」
それを追つて八五郎、長んがい
× × ×
「親分、あの朝井玄龍一家の三人殺しは、本當に先妻のお直の仕業ですか」
事件が落着して、女隱居のお市とその子の孝吉は朝井家の
「多分さうだらうよ。お直でなきや母親のお市だが、お市は悧巧な女だから、そんな事はしなかつたらう」
「孝吉は?」
「あれは賢い小僧だよ。でもまだ分別が足りないから、自分の姉や母親に
平次は事件を振り返つて見て、細々と
「その玄龍を殺したのは、本當に幽靈で?」
「馬鹿だなア」
「でも親分はさう言つたぢやありませんか」
「あの晩のことをもう一度思ひ出して見るが宜い。お直が死んだのは
「へエ」
「娘お直が怨みを呑んで死んだ――母親はその後で、誰も世話をする者もなく、娘の
「――」
「その隱居が、何にか――燭臺か
「?」
八五郎の鼻の下は長くなります。
「お市は年は取つて居るが悧巧で勝氣な女だ。フトそれを見ると、あんなにこの男を怨んで、十年氣違ひにされた上、たつた今死んだ娘のことを思ひ出して、フラフラと――」
「もう宜い、親分、解つた。幽靈が朝井玄龍といふ、薄情な
いきなり立ち上がつた八五郎は兩手を胸のあたりに泳がせて、『怨めしや』の型をして見るのでした。
「よし/\、其處までわかれば結構だ。が、
平次はさう言つて、例の貧しい煙草盆を引寄せるのです。