銭形平次の住居は――
神田明神下のケチな長屋、町名をはっきり申上げると、神田お台所町、もう少し詳しくいえば
恋女房のお静は、両国の水茶屋の茶汲女をしたこともあるが、二十三になっても、娘気の失せない内気な
そのくせ、年がら年中、ピイピイの暮らし向き、
実際は元禄以前、寛文万治までさかのぼった時代の人として書き起こされたものであるが御存知の通り、それは挿絵の勝手、風俗の問題――衣裳から小道具まで、はなはだ読物の世界に不便であるために作者の我がままで幕末――化政(文化・文政〈一八〇四―三〇年〉)度の風景として書かれ、特別な考証を要するもの以外は、はなはだ済まないことではあるが、頬冠りのままで押し通している。
芝居道でいえば、「寺子屋」の
銭形平次の物語を書き始めてから二十年になるが、平次はどうして年をとらないのだという小言をひっきりなしに頂戴している。
それについて、いつか「週刊朝日」の誌上で辰野隆博士の質問に答えているが、連続小説の主人公の年齢を読物の経過する年月と共に老い込ませていくのはおよそ愚劣なことで、モーリス・ルブランのルパンがその馬鹿馬鹿しい例を示していると私は答えておいた。小説の主人公は何時までも若くてそれでよいのだ。大衆文芸の面白さはそのコツだといってもよい。
平次の女房のお静は、両国の水茶屋時分、平次と親しくいい交わすようになって、平次のために不思議な事件のうずの中に飛び込み、危うく命をかけた大手柄は、二十三年(昭和六年)前「オール読物」に書いた、銭形平次の第一話「金色の処女」に詳しく書いてある。しかしそんな事はどうでもよい。お静は何時までも若くて愛嬌があってそして、フレッシュであればいいというと、辰野隆博士は面白そうにカラカラと笑った。
ところで、その銭形平次は実在の人間か――ということをよく訊かれる。大岡越前守や、遠山左衛門尉と同じように、『武鑑』に載っている人間ではないが、江戸時代の記録が散逸して、
吉川英治氏が『江戸三国志』が映画化されたとき、最早二十五六年も前のことだが――新聞社の試写会で挨拶をさせられたことがある。それに先だって、吉川氏が「今晩は一つ種あかしをして、主人公以下
熱海にお宮の松があり、
京都、大阪には、東京以上に、小説、
明治中頃に
歴史上の人物らしく思われている人でさえ、洗って見ると、架空の人物は少なくない。まして職業作家が、踊らせ、話させ、心中したり、切り合いまでさせる人間が、全部実在の人間であり得ようはずはないのである。もっとも昔の人はこれを一つの
シェクスピーアの場合、史劇あるいは悲劇は大概粉本があるらしく、ハムレットも、オセロも、マクベスも、リア王も、恐らく実在したことであろう。だが、実在の王子ハムレットは、シェクスピーアの描いたハムレット程は偉人でなく「在るべきか、在るべきでないか、それは疑問である」などと、六つかしいことはいわなかったに違いない。これは余事に
亡くなった菅忠雄君が、新聞社の応接間に私を訪ねて「雑誌を
昔から、長い小説は随分ある。『源氏物語』『アラビアン・ナイト』『南総里見八犬伝』『戦争と平和』『水滸伝』『大菩薩峠』と。だが、その多くは一つの筋の発展で、起承転結のある、幾百の小説の集積はあまりない。探偵小説にはフランスの『ファントマ』や、イギリスの『セキストン・ブレーク』があるが、それは多勢の作者が力を
こういうと、大層自慢らしく聴こえるが、誰もやったことのない事をやり遂げるというのは、誰にしてもなかなか楽しいものである。ビルからビルへ針金を渡して綱渡りするのも一升何合の大飯を食うのも、私が
申すまでもなく、二十三年の間には、実にいろいろのことがあった。どうにもこうにも書けそうもなくなったことも三度や五度ではない。幾度かはお辞儀をしてしまったこともあるはずである。が、眼が悪くなって、原稿紙の
「鼻唄を歌いながら書く」と、某新聞に書いたのは、無闇に芸術がる人達、名匠苦心談の製造に憂身をやつす人達に対する、私のささやかな反語であったが、最近作家の某氏が三十年振りに私を訪ねて「鼻唄を歌いながら小説を書くというのは、あれは羨ましい境地だ」と褒めてくれたには胆をつぶした。どこの世界に鼻唄を歌いながら小説を書ける化物があるだろう。
「名匠苦心談」というものを、私は何より嫌いである。満足に三度のものにあり付いて、一つの芸事を仕上げるものに、おろそかな心掛けはないはずである。芸事に対してあえて芸術とはいわない――俺だけが
また「消耗品の芸術論」になりそうであるが、私はいつでも、いかなる世界でも、職業と、それに打ち込む労作を尊む、俺だけが芸術家だと思う人間は、消えて無くなった方がよろしい。昔から、そんな者はろくな仕事をした例はないのである。
木村名人は私に訊ねたことがある。「あの平次の
余事はさておき、私はこの問に対して、「それはなんでもないことだ、将棋さしが詰将棋の手を考えるのと同じことだ、木村名人が生涯に三百題の詰将棋を考えたところで、少しの不思議もないではないか」――と。
捕物又は探偵小説のトリックは、もう一つの例を挙げると、数学の教科書の問題を作るのと同じことだともいえるだろう。解くものにとっては、神妙不可思議の手段があるように思えるだろうが、拵えるものにとっては、それは大した六つかしいものではない。
碁や将棋のうまい人は、夥しい定石を研究し、それを体得して、自分の手を生み出す。探偵小説又は捕物作家も、夥しい型を記憶しておいて、その古い型を土台に、新しい手を考える外はないのである。
江戸川乱歩氏は、古今東西の探偵小説を読破し、その幾百、幾千のトリックを分類し、幾つかの型を作って、その上に、前人未踏のトリックを発見しようとしているということである。これは仲間人の単なる噂で、江戸川氏本人から聴いたことでないから、真偽のほどは定かでないが、江戸川氏のような
探偵、捕物小説のトリックの世界にあっては、古い手は絶対にいけない。換言すれば、誰かが使ったトリックを、二度と用いることは許されないのである。私はかつて現代探偵小説に、低圧電気による殺人を書いたことがあったが、それは専門医にたしかめて書いたものであったにかかわらず、前後して故
もっとも、トリックの新奇を競う結果、探偵又は捕物小説は、神経が繊細になり、怪奇になり、現代人の生活や常識から、かけ離れていく傾向のあることもまた
生前の正岡子規が、明治三十二三年の頃、後輩の俳人に教えてこういったことがある。
「俳句に上達したければ、少なくとも一万句は作り捨てるがよい、君達の思想にコビリ付いている先人の
私は捕物小説を書き始めた頃、時々翻案ではないかという疑いを受けた。評論家の高田某、作家の奥村君はその代表的な人達であった。奥村五十嵐君は、後に捕物小説を書くようになってから「いや済まないことした、あれは翻案などであるべきはずはない」と素直に詫びてくれたが、惜しいことに五年前に世を早くした。
捕物又は探偵小説に種本は無い。それは筋やトリックを生命としているからである。古典文学に、こういった物語の粉本の少ないのは、背景になる社会生活が単純で、人々はことごとく割り切った暮らしをしていたためであろう。
もっとも旧約時代のソロモンの伝説が、大岡政談に採り用いられた例もあり、仏説にも『古事記』以後の史書にも、淡い探偵的な話はある。謡曲の「草紙洗」は唯一の探偵物語であるが浄瑠璃には非常に夥しい。忠臣蔵の勘平などは、なかなかの探偵劇だといってよい――だが、そんなものは一つも利用されるものではない。
中国には、詐術又は裁判小説は夥しく、『
我々の範とするのは、やはりボアゴベ、ガボリオ、ポー以後の外国探偵小説であるが、これは、コナン・ドイル以前の古典に属するものほど面白く、精緻巧妙にはなっても、近代のものに私は心
新しい探偵小説には、謎解きとしての面白さはあっても、打ち込んで読む気になれないものが多い。化学方程式のない毒薬、変幻怪奇な仕掛け、製造工程を無視したレコード、それでは困るのである。
その意味において、
叱られ、罵られ、時には恥ずかしめられながらも捕物小説が、民衆の間に浸透していくのは、この特色のためではあるまいか。捕物小説をチャンバラと解し、時代思想への逆行と考えるのは、捕物小説を読まざるものの
捕物小説――とあえていわない、私の平次物を、勧善懲悪と
ところが、わが銭形平次は十中七八までは罪人を許し、あべこべに偽善者を罰したりする。近代法の精神は「行為を罰して動機を罰しない」が、銭形平次はその動機にまで立ち入って、偽善と不義を罰する。こんな勝手な勧善懲悪は無いはずである。ヴィクトル・ユーゴーは、『レ・ミゼラブル』を書いて、法の不備とその酷薄さを非難し、古今の名作を生んだ。私は銭形の平次に投げ銭を飛ばさして、「法の
私は貧しい百姓の子で、三代前の祖先は南部藩の百姓一揆に加わっているはずである。子供の時から、侍の世界の、虚偽と
私は徹底的に江戸の庶民を書く。とりわけ
江戸という時代は、制度の上には、誠に悪い時代であった、が、隠された良い面が数限りなく存在する。私はそれを掘りさげていきたい。捕物小説という、変わったゲームに便乗して。