悪夢

中村地平




 辺りをはばかる低い声で、山岸花子に呼ばれたやうな気がしたので、文科大学生の根上三吉は机の前から起ちあがり、電燈のコードをひつ張つて窓の外を覗いた。簡単服に足駄といふ花子の姿と、彼女の丈け位ゐある羽鶏頭が庭には照しだされた。いつもは玄関からあがつてくるのに、夜更けのせゐにしても裏木戸から廻つてくるのはおかしい、それに顔いろもわるいやうだが、電燈のせゐかな、などと不審げに、三吉はしばらく花子の顔を見つめてゐたが、あがるやうに合図した。
 花子は部屋に入ると、改つたやうに座敷の隅に坐り、ベソをかいた子供のやうな顔をした。電燈のせいばかりでなく、やつれて醜い顔であつた。
「どうしたの。脚が痛むの」
 訊ねても不機嫌に押し黙つたまま、頭を横にふつてゐるので、側へ行かふとすると
「およりになつちや駄目。およりになつちや駄目」
 花子は身をふるはして叫び、たまり兼ねたやうに畳にうつぶして泣きだした。肩に手をかけると
「あたし梅毒なの。遺伝性の梅毒なの」
 投げだすやうに言つて、泣きわめいた。
 彼女の言葉が信じられないわけでもなかつたが、余りの意外さに、すぐには彼女の悲痛な気持ちにはついてゆけずに、三吉はただ呆然とするばかりであつた。
 花子はひだり脚に結核性のカリエスを病んでゐて、ちよつと跛をひいて歩るく。よほど気をつけてみないとわからない程度で、三吉も花子に注意せられて、始めて彼女が片脚を引摺つて歩るくことに気がついた位ゐであつた。
 病身な少女と友情以上の交際に入ることを、母親はひどく気にやんだが、自分の健康に自信を抱いてゐた三吉は、彼女の病患に愛憐の気持ちを深めこそすれ、一向に平気だつた。
 花子の脚はすこし歩きすぎると忽ち痛み、殊に曇天や雨天の日はひどかつた。
「けふは脚が痛むの。午後から雨になりましてよ」
 冗談を言ふ花子を、三吉は「天文技師」と呼んでゐて、卵の白味のやうに滑べ滑べした彼女の脚に、水薬を塗つてやつたり、繃帯を巻いてやつたりすることもあつた。
 一週間位ゐ前に、花子は軽い風邪にかかつた。大事をとつて附近の小さな私立病院へゆくと、院長は留守で、今年医専をでた代診の若い女医が診てくれた。
「風邪は大したことはありませんが」
 と、女医は仔細げに首をかしげた。
「あなた、血液検査をおやりになつたことがありますか」
 ないことを答へると、女医は若い医者特有の学究的な功名心にそそられたものであらう。
「カリエスは結核性のものと、梅毒からくるものと二つの場合があるのです」
 常識として花子も知り抜いてゐる医学知識を、ノートでも暗誦するやうな口調で言つた。帝大病院の診察に従つて、カリエスは結核性のものとして治療してゐることを答へると、女医はまるで帝大病院に挑戦でもするやうな興奮のしかたで、花子の腕から血液をとつたものであつた。
 その結果がけふ判り、意外にも反応は陽性であつた。しかも、尚いけないことに、カリエスは紛れもなく結核性のものであつたから、花子の体にはつまり、カリエスの原因である結核菌と、それ以外に遺伝性の梅毒菌も巣喰つてゐる、といふわけであつた。まるで予期しなかつた新しい発見に、若い女性二人は一人は稍々得意な感情で、一人は全く絶望的に、各々気持ちをたかぶらせてゐるが、花子のひしがれかたが余りにも甚しいのに気がつくと、善良な女医は慌てて、この気の毒な画学生を慰めにかかつた。
「大丈夫よ、あんた。わたしが引き受けるわよ。注射を一年か二年つづければ、きつと癒るんだから……。人生の首途に(彼女は確にさういふ言葉をつかつた)きつと癒してみせるわよ」
 病気の発見によつて新しく結ばれた若い女二人は、傍らに看護婦がたつてゐるのも忘れて、肩を抱きあつたまま、しばらく泣いてゐた。
 それだけのことをとぎれとぎれに語ると、花子は一度ふりほどいた三吉の体に猛然たる勢ひでしがみついてきた。
「お捨てになつちや厭。お捨てになつちや嫌」
 しかし、すぐに、狂気から醒めたやうに、三吉の体をとび離れると、空虚な声でつぶやくのであつた。
「いいわ、いいわ、お捨てになつていいことよ。お捨てにならなきや、いけないわ。あんなにお嫌ひだつた病気なんですもの。あたし死んでしまふからいいの」
 黄昏時に眼醒めた午睡のあとのやうな、捕へどころのない暗欝さに、三吉はしばらく心を沈めてゐたが、少女を愛しきつてゐる、といふ自信が彼の心を全く占領してしまふと、どんな困難でも踏み破つてみせるといふ勇気が腹の底から湧きあがつてきた。自分とのことは気にかける必要はないこと、二人心を合はして治療につとめることなどを、彼は自分の寛厚さに一種快い興奮さへ意識しながら、力強い口調ですすめた。
「大抵の人は、注射を途中でやめるから駄目なんですつて。でもあたしは大丈夫ねえ。あなたがついてゐて下さるんですもの」
 病気自体よりも、寧ろ病気による三吉との破綻を恐れてゐた花子は、彼の言葉を聞くと、幾らか安堵の色を見せた。溢れるやうな三吉への感謝で、彼女は心の病苦を幾らか忘れてさへきはじめた。
「問題は治療費を確実に郷里から送つて貰ふことと、君の姉弟きようだいにも病気はないか、を調べることだね。兎に角、すぐに手紙をださないといけないね」
 無義道に吝嗇な父親と、幼い弟とのことを想ひだして、花子はしばらく、又暗澹とした気持ちに沈んでゐたが、そのうち心の衝激による疲労と、衝激から放たれた安心とで、いつ知らず三吉の膝の上に寝てしまつた。午前三時近かつた。すべてを男に托しきつた安心から、まるで風呂敷包みのやうな無雑作な格好で、既に寝息きさへたてはじめた少女を、三吉は胸に応へる哀れさで眺めた。
 花子にすすめられて、その日の午後、三吉は病院に伴はれ、血液検査をすることになつた。女医の私室と思はれる小さな部屋に、鼻白んだ気持ちで三吉は足を踏み入れたが、窓によつて洋書を読んでゐる部屋の主が、いぢけた体と醜い顔をしてゐるのに気がついた時、なぜかほつとした。
「それでどの程度に」
「いや、唇だけです」
 まご/\しながら三吉は答へた。
「ぢや、大丈夫ですわ。伝染力が弱いんだから」
 部屋の表にまつてゐる花子の姿を想ひ浮かべて、なんとはなしに三吉が赤い顔をしてゐると、女医はそれが癖の、眉の間に小皺を寄せて、微笑した。わたしお二人のお味方ですのよ、安心してゐらつしやい、と、さういふ笑ひ方であつた。三吉の結果は蔭性だつた。
 一日置きに花子は注射に通つた。
 畳針のやうに大きな注射針が、女医の黒い指の間に光つてゐるのを始めて見た時、花子は目暈がしさうになつた。針は脊中に触れると、プスリと鈍い音をたて、錐もみされるやうな痛さが体に応へる。さういふ時、花子は眼をつぶつて「三吉さま、三吉さま」とお念仏のやうに唱へることにしてゐた。さうすると、痛みはいくらか軽くなる。
 三ヶ月ばかり花子は病院に通つたが、病気の性質上、結果は一向にはかばかしくなかつた。一日置きの水銀注射は、弱い花子の体には耐えられさうにもなかつた。徹底的な治療が完成がするまでに、体の方が参つてしまひさうな気がした。ただ、三吉への思慕だけに生きてゐる瀬があり 彼との結婚への期待だけが病院へ通ふ気持ちに駆りたてる。
 若い女医に任して置くことが、心もとない気がしだしたので、三吉は花子に病院を変へるやうにすゝめた。花子が女医に相談すると、彼女も「人生の首途」にしては荷が勝ち過ぎることを悟つたのであらう。花子の申し出に快く賛成して、すぐに帝大病院の某教授に紹介してくれた。銀杏の落ち葉を踏みながら、病院への送り迎へをしたり、気持ちを慰めるために、画集を送つてやつたり、三吉も花子の治療を一心に激励してゐたが、彼女は憔悴してゆくばかりであつた。三吉の胸にもたれてさめざめと泣き「死にたい」と口にするやうになつた。
 ある時、アパートの狭い部屋で、三吉は花子の描いた油絵を眺めてゐて、背筋が寒くなるやうな気持ちになつたことがあつた。グレイの背景をもつた十二号の百合の絵であつたが、花はまるで障子紙のやうな白けた色をして居り、茎は腐つたやうな悪臭を放つ感じで不吉であつた。
 花子の郷家は東北筋にある小さな市の、老舗の質屋である。父親は人づきがわるく、一日ぢゆう黙りこくつて暗い帳場に坐りこみ、算盤ばかりはじいてゐるが、ただ、金か女かのこととなると、忽ち小さな眼を底光らせて動きだす。妻は元同家の女中をしてゐた女だが、財産を警戒してか、まだ籍にも入れてない。だから、花子は勿論やさしい気質と、愛嬌のある容貌をもちながら三十歳の今日まで独身をつづけてゐる姉と、脊髄カリエスで寝たきりの十になる弟と、三人の姉弟は凡て私生児になつてゐる。「脊中が痛い痛い」始めてカリエスの徴候が現れた弟が泣き叫んだ時、肉が石榴のやうに割れて、膿がでるまでは医者にも見せなかつた、といふ父親である。
 尤も、さういふ父親も家族のなかで花子だけは愛してゐた。それも、さる宮様がその町に行啓になつた時、その御歓迎展に出品した彼女の油絵が素晴しい出来栄えで、土地の新聞が「天才女学生」と書きたてて以来のことであつた。子供の成長も投資の利潤としか考へられない父親は、だからいつも口癖のやうに言つてゐる「花子が男だつたらなあ」
 さういふ暗い家庭の事情に就ては、花子は三吉には一言も語らなかつた。ただ、始めに二人が愛し合つた頃、
「もし、いい絵描きになれなかつたら、あたしは姉と二人でブラジルにでも行くつもりだつたのよ」
 泣き笑ひのやうな表情で洩したことがあつた。さういふ言葉の端しや、華やいだ齢頃の少女のくせに好んで暗い絵具ばかりを使ふことから、なにか生活的な悲嘆を花子が胸に抱いてゐることを、三吉ははつきり感じてはゐたが、宿命的な暗さを、一種芸術的なニユアンスとして作品に漂はすのを、寧ろ彼女の才能として高く買つてゐた。しかし、作者の不健康な心象が、作品になにか不吉な相を帯びさせてゐるその百合の絵を眺めた時、三吉はうす汚れた靄に心の底までも冷たく濡らされたやうな気がして、「どう」無邪気に覗きこんでくる花子の視線を、さりげなく外さずには居れなかつた。年齢に相応しい明るい希望を、なに一つもたない花子の情操を、この時ほど彼はうとましく感じたことはなかつた。
 花子は間もなく頬骨が高くなり、眼はとげ/\しくなつた。
 まるで刑事に尾行されでもしてゐるやうに、セカ/\と三吉は花子を訪ねることがあつた。さういふ三吉を、神経のたかぶつてゐる花子が、反射的に自分の病気と結びつけて考へるのは当然であつたが、落ちつきのない彼の態度には、他に理由がないわけでもなかつた。
 三吉は母一人子一人の生活をしてゐたが、父が残してくれた僅かばかりの遺産もその頃では殆んど残り少なになつてゐた。大学を卒業しても職業にもつかない息子の気持ちを、理解できない母親が「お勤めがあればねえ」気の弱い口調で言ひ出さう、とすると、三吉はわかつたわかつた、といふ表情で彼女の言葉を圧へ、ぷいと花子のアパートへ足をむけるのが習慣になつてゐた。
 生きてゐることだけに漸くな花子に、さういふ三吉の生活的な不安が理解できる筈はなく、キヨトキヨトと落ちつきのない三吉を眺めては、彼女は自分が捨てられるのではないかと脅へるやうになつた。
 二人は面とむかふたびに、オド/\してゐる相手の顔に気がついては、まるで自分の影に、自分で脅へるやうにギヨツとしあふのが常であつた。
 けれどもその頃では、歯ぐきがくろずんで、口も水銀臭くなつてきたけれども花子が可愛想になつて、三吉は言ふことがある。
「なにも考へないで、君は注射をつづけて居ればいいんだよ」
 口先きだけの慰めにも拘らず、さういふ言葉を聞くと、忽ち彼女は救はれたやうに晴々とした顔つきになる。
「御免なさいね。いぢ/\ばかりして」
 頼むべからざる男の言葉に安堵しきつた花子をみると、三吉は又慌て、なにかに追ひたてられるやうな気持ちに次第になつてしまふ。
 三吉の心は花子から遠のいて行つた。
「どんなに小さな点でもいい。愛情を注ぎ得る点が残つてさへゐてくれれば」
 三吉は自分の心を煽りたててみるのだが、不吉の百合の絵と、黒ずんだ歯ぐきとを思ひ浮かべるともう駄目であつた。彼は又、不幸な結婚を強ひられた、知つてゐる限りの先輩たちの家庭を空想しては、自分自身をそのカテゴリーのなかにちぢめてみるのだが、さういふ努力をすればするだけ、逆に彼女との距離が次第に遠のいてゆくのを知らねばならなかつた。
 ある夜、三吉と花子は暗い夜の海で溺れかかつてゐた。
 乗船が難破したのか、身投げをしたのかわからなかつた。ただ、浪しぶきが頭から覆ひかぶさつてくるたびに、幾度か塩からひ水を飲む自分だけを、三吉は知つてゐた。花子のあがいてゐる姿が、苦しい視界を掠める。高い浪を蹴つて漁船が近づいてくる。救助にきたものらしい。渾身の力をふるつて、三吉は漁船へ近づくと、漸く両手で船ばたをつかまへた。漁夫の一人が手をさしのべて、三吉の腕を引きあげようとした瞬間であつた。浪のなかにある彼の片脚に、花子が両腕でしがみついてきた。
 三吉は力いつぱいに花子の顔を足蹴にした。花子は暗い海のなかに沈み、三吉だけが救はれた。誰も花子に気がつく者はなかつた。
 眼が醒めて、それが夢であることに気がついた時、三吉は救はれたやうにほつとした。しかし、すぐに夢だつたことに深い失望を感じはじめた――
 一日でも顔を見せないと、花子からは忽ち速達が届く。
「明日来て下さらないと、私は死んでゐるかもしれません。お気持ちを乱したくないために、随分我慢はしてゐるのですけど、独りでぢつと考へこんでゐると、まるで氷室のなかにでも坐つてゐるやうな。つらい心になつてくるのです。」
 就職を依頼するための不愉快な訪問を終つて、三吉が自分の部屋へ戻つてみると、影のやうに生気のない姿で、彼女が部屋の隅にちぢこまつてゐることもある。
「くどいけれど、末永く見捨てないでね」
 しらずしらず、三吉の顔は嶮しくなる。
「末永くつてそんな……」
「でも、あなたは始めはさういふ風に仰言つたぢやありませんか」
 とげ/\しい眼で、花子は三吉の顔を睨みすへてくるが、声は涙声になつてゐる。
「それは、そんなことを言つた覚へはないが、いや言つたかもしれないが、それはどつちでもいいが、その時はさういふ気持ちが絶対なんで……」
「今は気持ちが変つた、と仰言るの」
 なぐりつけたくなるのを、漸く心のなかに圧へて三吉は溜息をつく。三吉が黙念としてゐると、花子は急にうちしをれ、それから少女とは思へない力で、彼の体にしがみついてくる。
「ね捨てないでね。どんなことでもするから」――
 いつかみた夢の話を、三吉はある夜、大学時代の同窓で美術研究家の山名勘介に語つた。齢に似ず薄く髪の毛の禿げあがつた山名は、老成な態度で三吉の話を聞いてゐたが、
「いや、それに似たことは夢ばかりではなく、現実にだつてあるもんだよ。学生時分、左翼運動に僕が敗れた頃だつた」と、有名な左翼理論家小野俊太郎を偽名することによつてものにした酒場の女と心中した経緯を話し始めた。その頃の彼は生活的にも観念的にも行詰りのどん底にゐたが、精神的な遊戯から口にした偽名を、名士好きの女に信じこまれ、夢中になられてみると動きがとれなくなり、それに女にも複雑な家庭の事情があつたところから、愈々、こんな心中しようといふことに話がまとまつたのであつた。
「晴れた春の日に、僕たちは房州海岸の大きな岩の上にゐたが、その時、女の言つた言葉を僕は今でもはつきり覚へてゐる。曰く、小野俊太郎と死ねてあたし嬉しいわ、とね」
 始め、二人は用意の催眠剤を飲んだが、常用してゐるせいか眠れないままに、山名はぐつたり膝にもたれてゐる女の腕を引張るやうにして、一緒に岩の上からとび降りた。海へとびこむと、女は苦しまぎれに山名の腰にからむやうに抱きついてくる。その時、どういふわけか「女を生かして置くわけにはゆかぬ」さういふ考へが、まるで天の啓示のごとく、山名の頭にはひらめいてきた。からみついてくる女をふりほどき、つきとばし――してゐるうちに、山名は全く意識がなくなつてしまつた。
 気がついてみると、まぶしい位ゐ明るい病室のベツトの上に彼はゐた。あ、生きてゐた。よかつた! さういふ想念につづいて、彼の頭を掠めたのは、勿論、女がどうなつたかと、いふことであつた。
 死んだ、といふことを知らされたのは、その県立病院一室で、警察の取調べがすんだ翌日だつた。(警察の取調べでは無理心中の疑ひで、随分油をしぼられた)女が死んだと聞いた時、山名は救はれたやうに安堵した――。
「それはね。浅ましいもんでねそんなどたん場になつても、女が生きてゐたら、偽名がばれて醜態だと、びく/\ものだつたが…………」
 山名はここまで語つて、猶さらににやりと笑つた。
「そんなケチな量見が全部でないことは勿論なんだ。なんといふか、一応のカタがついた(この生活にカタをつけたい気持ち、といふのは人生のなかで、なか/\馬鹿にならん要素をもつもんだと、俺は思ふんだが)とにかく、俺は独りになれる。女の桎梏からはなたれて自由人になれる。さういふ喜びで有頂天になつたわけなんだね」
「とにかく」
 と、三吉は山名の話を聞き終つた時、独り腹のなかで考へた。
「花子と別れる工夫をしなければいかん。徐々に。慎重に。相手になるべく傷を与へない方法で」――
 以前ならば、すぐにでも三吉のところへとんでゆき、愛情を確めることができたのが、花子は今はそれもはばかられるやうになつた。さういふ気持ちで三吉を訪ねた時、彼はきつとこわい顔をして、黙りこんでしまふからだ。さういふ時の彼の眼位ゐ、冷酷で取りつきばのないものはない。
「さういふ時、あの人の眼を見てゐると、あたしが死ぬ、と言へば死んでしまへ! と言はれさうだ。でも、あの人はまだあたしに死ね、とは言はない。あたしをはつきり捨てる、とあの人が言つた時あたしは死んだつて遅くはない」
 独り花子は考へる。
「あの人と別れたのち、あたしはなぜ生きてゆかねばならないか。芸術のために! それもなんだか白白しい。それに――この頃では幾らきれいな絵具をカンバスに塗りつけても、どうしても色が澄んでくれない。やつぱり体が汚れてゐるせいだ」
 さういふことを考へてゐると、花子は脚がズキ/\痛んでくる。心に衝激を受けると、必ず脚に影響してくるのである。義足のやうに重たい脚を、畳の上に投げだして、花子はいつまでも黙然としてゐた。
 しかし、一方では花子も三吉も病気の治療に必死になりはじめた。花子は三吉の心を繋ぎとめたいばかりに、三吉はひたすらに彼女と別れる機会をねらつて。
 背中にも、腕にも、股にも花子は体ぢゆう醜い注射の針跡ができた。病院からの帰り途、往来を歩きながら花子は目暈がし、時折りぶつ倒れさうになることがあつた。このまま、気狂ひになつてしまふのではないか、といふ気がした。三吉は三吉で、往来や電車のなかで血色のいい頬や、イキイキした動作をもつ健康な少女に遭ふと、うつとりと羨望的に眺めるやうになつてゐた。そして、そのあとでは、決つていつも激げしい憤懣が心の底から湧きあがつてくる「健康で華やいだ少女を、愛する資格は僕にだつてある」
「蔭性になつたの。病気がよくなつたの」
 帝大病院に通ひはじめて、丁度、一年半目のある日、花子は泣きながら三吉の部屋へ駈けこんできた。困難を押し切つて、なにか壮絶な仕事をやり抜いた人間を仰ほぎみるやうな感動で、三吉も晴々と花子の顔を眺めた。愛憎を超へた気持ちであつた。
 二回、三回とつづけた検査は、結果は、何れも蔭性であつた。体から病菌が完全に駆逐されたことが実証されると、花子は間もなく頬には肉がつき、血色もよくなつてきた。しかし、一度ヒビの入つた三吉の心は、再び花子に近づくことはできなかつた。
 別れることを、三吉が言ひだしたのは、それから間もなくであつた。
 風のない静かな晩秋の午後、郊外の草原で、三吉はまるで無感動な調子にそのことを話しかけると
「やつぱりさうだつたのねえ」
 予期してゐたもののやうに、花子は案外落ちついた口調で答へた。
 紫陽花いろの空には、白いちぎれ雲が浮かんで居り、郊外電車の響は時をり潮ざひのやうに、林の奥をよぎつてゐたが 三吉の心には風景は無意味であつた。
「明日からどうして暮さうかな」
 やけな口調で花子はつぶやいたが、三吉はまるで感情の機能が停止した人間のやうに黙りこくつてゐた。二人のことに疲れきつてゐた彼は、花子も自分もどうともなれ、といふ投げやりな気持ちに、自分を追ひこんでゐた。それに死なれては困るが、どうしても死ぬものなら、自分だつてできるだけの心の努力はしてきたのだから致し方がない、といふ自己弁護が腹の底にできあがつてゐた。
「いよ/\死にますかねえ」
 おどけたやうに花子は独り言をいつたがあとは涙声にかわり、突然、三吉の膝を両腕で抱きしめてくると
「いやだあ、いやだあ」
 手離しのまま泣きだした。しかし、三吉はまるで木偶の棒のやうにぽつねんとしてゐた。
 愈々花子と別れることはできたが、三吉は一向セイセイもしなかつたし、幸福にもなれなかつた。
 独り部屋にゐると、庭さきをうろつく花子の足音が聞へる。ギヨツとして窓をあけてみるが誰もゐない。さういふ夜が幾晩もつづいた――が良心の苛責に耐え得ない、といふわけでは勿論なかつた。そのくせ人に会ふと、顔いろばかり伺つてゐた。なにかを、弁解しないでは居れない気持ちであつた。それも、なにを弁解せねばならないのか、それは自分にもわからなかつた。
 人生的といふ言葉が現すあの莫然たるものに対して、三吉はまるで自信を喪つてしまつてゐた。
 山名勘介を誘つては、毎夜のやうに飲みあるいた。
 その夜は実に変な夜であつた。ある、三業地のカフエーで飲んだあと、人通りの少い待合の通りへ、足を踏み入れた時であつた。初老に近い詩人の町野柳華が、初々しいセルの着物にお下げの髪を垂した清楚な小娘を、無理強ひに待合のなかへ誘ひこむのを二人は見た。いかつい柳華のインバネスの肩のうしろから、すご/\と軒燈の下をくぐつて行つた娘の後ろ姿は丁度、倒れさうな足どりで郊外の野径に消へて行つた花子の後ろ姿に似て痛々しく、三吉の心を全く暗欝にしてしまつた。
 それから、二人は小料理屋にあがつた。電燈の笠にも、障子の桟にも、埃のたまつた薄汚い店であつたが、係りの女が、顔が蒼ぶくれ、化物じみてゐたところから酒の酔ひも醒めさうな、うそ寒い雰囲気をそそりたてた。
 女の言葉に山陰の訛りがあるので、小学時代彼が三年ばかり過したことのある市のことを話しかけると
「M市にお住ひになつたことがあるのなら、根上惣之助さんの御名前を御存知でせう」女は畳みかけるやうに訊ねてきた。
 意外なところに亡父の名前がでて、三吉がぎよつとすると、山名が意地のわるい調子で口をいれた。
「それはこいつの親父だよ」
「ほほんたう、ほんたうですか」
 真剣になつて女は詰めよせてきたが、三吉も山名も空とぼけた薄ら笑ひをつゞけてゐるので、半信半疑の面もちをはじめた。すかさず三吉が、
「名前は聞いたことがあるが、会つたことはないさ」
 巧みに女の視線を外してしまふと、女は力抜けしたやうな模様であつたが、すぐに根上惣之助が地方官としてその地方に如何に功績があつたかを、まるで自分の恋人のことでも語るやうな惚々とした口調でしやべりはじめた。
「でも、あんなえらい人の蔭には、きつと多くさんの女が泣かされてゐるに違ひありませんわ」
 相手の関心の度とは無関係に、女は自分の話に自分で陶酔してゐる感じであつたが、そのうち片袖で眼頭を拭ひ始めた。
「娘の頃、あの方にひどい目に会はされさへしなければ、あたくしだつて今頃こんなところで……」
 女の言葉をそのまま信ずる気持ちにはなれなかつたが、彼女の顔を眺めてゐるうちに三吉はだんだん気がめいつてきた。酒の酔ひも醒めはて、三吉が味気ない顔をしてゐるのに気がつくと、女は慌てて、銚子をとり、階下へ降りた。
「よくある奴さ。勝手に幻覚をつくつて、自分を甘やかしてゐるのに過ぎんよ」
 山名の慰めにも拘らず、亡父の行状から、女の言葉が一途に幻覚だとは思へないものも三吉にはあつた。それにしても病的に醜い顔や、無神経な話しぶりから、女に対して同情の念は一向に湧いてこず、寧ろ、さういふ不潔な話題に供された父親が気の毒な気がした位ゐであつた。
 しかし、それからはいくら盃を重ねても、酔ひが廻つてこず、山名が話しかけてくるのにも上の空の返事しかできなかつた。男の悪徳によつて女は永久に救はれない、そして、女が救はれないことによつて、男も亦永久に救はれない、三吉は独りでさういふことを考へてゐた。
 二年ばかりたつて、花子との傷が漸く癒えた頃、三吉は又一人の女と恋におちた。女は異性への愛情ににがい経験をもつ所謂「大人」であつたが、三吉もその頃では全く「大人」になりきつてゐた。
「人間てなんて性懲りがないんでしよう」
 始めて気持を打ちあけあつた時、二人はまるで言ひ合はせでもしたもののやうに、苦が笑ひをした。
 その頃、わが国で最も権威のある某美術展に、花子が入選したことを三吉は知つた。今は断髪にして居り、健康さうな姿を質素なスポーテイに包んだ花子が、あどけなく微笑んでゐる写真を、新聞で眺めると、三吉は独りで上野の美術館へ行つた。
 青葉を洩る明るい陽光を浴びながら、庭園の椅子にかけてゐる悩しい裸婦の五十号が、彼女の作品であつたが、色彩は透明に澄んでゐて、カンバスの隅々にまで健康な筆力が溢れきつてゐる。幸福に違ひない花子の現在を想ひながら、三吉は溢れるやうな喜びで、なにか眼には見へないものに感謝したい気持ちでいつぱいであつた。
 会場から帰つた夜、明るい気持ちで三吉は新しい恋人に遭ふと、さりげない調子で話しかけた。
「時だけが救ひだね、時が人間のどんな深い傷手でも癒やしてくれる」
「その時が……」
彼女は脅へたやうな眼つきをして答へた。
「いちばんこはいわ。時があたしたちを、どんな不幸につき落すかもしれないんですもの」





底本:「近代浪漫派文庫 33 「日本浪曼派」集」新学社
   2007(平成19)年1月17日第1刷発行
初出:「日本浪曼派」
   1936(昭和11)年12月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「脊中」と「背中」の混在は、底本通りです。
入力:日根敏晶
校正:良本典代
2017年1月12日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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