この頃の皇太子殿下

小泉信三




 今の東宮仮御所のある渋谷常盤松の辺は、土地がゆるやかに起伏し、道路が不整な線をなしてその間にうねっている。幾つかの凸凹の一凸部の端に仮御所はある。もと東伏見大妃殿下のおられた天井の高い旧式の洋館である。
 食堂に下りて来られる以外、皇太子殿下は主にその二階にお住居になっている。東に面して三つの部屋が並んでいる。御進講堂、御座所(書斎)、そうして「ピアノの間」である。ピアノの間といっても別に音楽室ではない。ただ壁に寄せて直立ピアノが置いてあるところから、内舎人うどねりたちが便宜上そう呼びならわしただけで、実質は客間または談話室である。両陛下がお出でになったときもここへお通りになるし、殿下が外国使臣にお会いになるのも、ここである。私が毎週殿下と御一緒に本を読んだり、様々のお話をするのも、何時かこの御部屋でする慣わしになった。
 部屋の大きさは二十畳位であろうか。格別に大きな安楽椅子や長椅子が置いてあるので、割合狭く見える。入って右(南)側の壁に寄せて電蓄とレコードの函、そのレコードの函の上にモーニングの陛下、和服の皇后陛下の何れも七分身ほどの御写真が立てられ、斜めにそれに対する位置に、王冠を着け、笏を手にした英女皇の署名入りのお写真、その上の壁に、女皇からの贈り物である、新様式で庭園を描いた油絵がかかっている。また、電蓄の方の函の上には熱帯魚のガラス水槽が置かれ、水藻が青く電光に輝いている。更に一つの壁は書棚で、大部の和洋の全集叢書事典類が収められている。私はお許しを得て時々そこで「ブリタニカ」を開く。この部屋の特色は、その東南隅から突き出した二坪ばかりの一角で、そこは二方の窓から、日光が入り過ぎるほど入る。殿下とご一緒に本を読んだり、お話をしたりするのも、何時かこの一隅でするようになった。元はお部屋の中央で机をへだてて相対し、私の後ろに黒板を持ち込んだようなこともあったが、もっと楽な姿勢で、ノンビリお話し致しましょう、ということで、この一隅の安楽椅子または長椅子に座を占めるようになったのであった。
 読む本で一番長く続いているのは、英人サア・ハロルド・ニコルソンの「ジョージ五世伝」だが、福沢諭吉の「帝室論」を読むために、殿下も私も、それぞれ福沢全集の一冊をこの一隅に持ち込んだこともある。露伴の「運命」を、岩波文庫本で読んだこともある。近頃は、新聞の日曜版に出る週間サムマリイをテキストにして、前週の時事についてお話しし合うことになり、私は定日である毎火曜日の午後、自宅から、必要な新聞紙一枚を携えて行くことにしているが、殿下は、御自分で常侍官候所に往き、そこの新聞掛けから必要の綴じ込みを片手に提げてお出でになるのが、常になった。さて、各々明るい窓ぎわに座を占めて膝の上に本を開くのであるが、何時か私は、殿下がサックごと読書眼鏡を取り出して前の小卓に置き、眼鏡を一寸ぬぐってかけ、さて、卓上の本を取り上げられるのに、心づくようになった。このことは、年月の経過を思わせる。お部屋のこの一隅で、毎週こうして御一緒に本を読むことも、もう何年になるだろうというようなことを、考えさせられるのである。窓から眺める景色も変った。麻布青山方面の小高い丘が視界を限っているのであるが、この幾年の間に、ほとんど週毎といって好いほどにそこに新しい家屋が建築される。見渡す限り、戦火は、もはや全くその跡をとどめないのである。
 御一緒に読んだ本のことをいえば、福沢の「帝室論」と露伴の「運命」とは、殿下と私とで、交る交る音読した。(殿下が、喉が痛い、とて途中でおやめになったこともあった)音読して見て、今更のように感じたのは、この二大文豪の文章が、いかに格調正しく、いかに音読に適しているかということである。西洋の平和な家庭で、暖炉の前で、夫は妻のために本を朗読し、それを聞きつつ妻は編み物をするというような場面がよく文学にも描かれるが、そういう場合、今日の日本では一体誰の作品を読んだら好かろうか、というようなことを考え、殿下にもお話ししたことがあったと思う。こういう情景は「ジョージ五世伝」中にも描かれているのである。
「ジョージ五世伝」のことは別に書いたこともあるが、五百三十ページの本が、何時かあと四五十ページをあますのみとなった。この伝記は、そのもの自体が十分読むに値するものであるばかりでなく、書中の記述が政治外交、また、国王と皇后、皇室と国民、皇族相互の関係等について、殿下とお話をする端緒をたびたび与えるので、私にはまことに好都合な本である。多分殿下もそれをお認めになることであろう。
 皇太子殿下がこの「ジョージ五世伝」を注意深く読んでお出でになることは、色々の事実によって示されている。或るとき私は殿下に、この伝記についてのレポート御提出を課したことがある。そのレポートの一節は、特に印象を与えたので、今も私の記憶にのこっている。殿下は英国近年の名君といわれたジョージ五世及びジョージ六世が、ともに第二皇子として、比較的目立たぬ皇子時代を送ったことに注目せられ、このことが、この両王の成長によい影響を与えたのではなかろうかといわれるのである。殿下の御見解は大体次のようなものであった。
 ジョージ五世はエドワード七世、当時の皇太子の第二皇子で、彼の兄クラレンス公は一つ年上であったが、クラレンス公は一八九二年二十八歳でなくなり、ジョージ親王は一九〇一年ヴィクトリア女王の崩御後、皇太子となったのである。このように親王が、二十七歳迄はただの皇族で、海軍生活に専心していたということは、彼の将来に少からぬ影響を与えていると思う。最近の英国で、ジョージ五世、ジョージ六世と、つづいて第二皇子から国民に敬愛される国王を出しているが、これは決して理由のないことではない。第一皇子はとかく人目を引き、はでな存在となり弊害も起り易い。ジョージ親王が第一皇子の陰にかくれて地味な海軍軍人生活をつづけ、多くの社会的経験を得たことが、将来に利するところ多かったことと信ずる。
 かくいう殿下御自身は自ら第一皇子として世のスポットライトを浴びてお出でになる方である。この人にしてこの言あり。殿下のレポートは、この問題そのものについても、殿下の御性格についても、或る光線を投射するものであると思い、当時宮内庁要路の人々ともこのことを語り合ったことであった。殿下の御婚約の発表された今日また自然とそれを憶い出した。
「ジョージ五世伝」には王(当時は親王)の結婚のことも書かれている。一八九三年、五月三日、親王は二十八のときテック公爵の息女メリイ姫と婚約が出来、七月六日に結婚式を挙げられた。このメリイ息女は、前に親王の亡くなった兄クラレンス公と婚約のあった人である。クラレンス公には、前に別に縁談があったが、まとまらず、漸くメリイとの婚約が出来たが、一月あまりしてインフルエンザで亡くなった。弟親王の方にも縁談はあったが、進行せずにいる中に、兄君が亡くなったので、祖母のヴィクトリア女王は、親王とメリイとが婚約してくれれば都合が好い、と思うようになり、それを親王自身にもいい、父の皇太子も賛成した。
 それで、親王は一八九三年の五月二日、すぐ下の妹であるファイフ公爵夫人を、田舎の邸宅に尋ねて、そこに泊り、その家にメリイ息女も来るよう手配されてあったのであろう。翌日は晴れて、夏のように暑い日であったというが、この邸宅の庭で、親王は息女にプロポーズし、息女はこれを受けた。
 これがジョージ五世の生涯の幸福であった。こうして彼は智的刺戟と家庭の和楽とを与え、すべての重荷を分かち、すべての歓びを高める妻を得た、と著者は書いている。王は妻の助けということを、日記にも記し、践祚の告辞のようなおおやけの言葉の中にも、わが人民の幸福のためにする、すべての努力に当り、常にわが妻の在ってわれを輔けることを思い、力づけられる、というようなことをいった。父エドワード七世とちがい、家庭的の人であった王は、前記のように、暖炉の前で編み物をする妻に朗読をしてきかせるというような、多くの宵も過ごしたのである。
 英米人はよく、整えられた結婚アレンジド・マリッジと愛の結婚ということをいう。そうして、後者をよしとするような風がある。けれども、前記の通りジョージ親王のそれは、明かに整えられた結婚であった。しかもそれによって王は凡そこれ以上を望みようのない妻を得たのである。
 このあたりの記述を、私は皇太子殿下と御一緒に、深い興味を以て読んだ。殿下は勿論、年来ご自身の結婚問題に強い関心をお持ちであった。読書の間に、あるいは本はそっちのけにして、御結婚問題について縷々お語りになることもたびたびあった。当時心理学に興味を持ち始められた殿下は、しきりに、私の未だ知らない術語を使って、結婚観女性観をお述べになったこともある。そのあるものを独断的であるとしてご批判したこともあったが、概して殿下のお考えは堅実で周到で、お年よりも老成の風があったといって好いと思う。
 そういう折りの或るときであった。私は殿下がいわれたお言葉を、よく憶えている。それはこういう意味のものであった。
 自分は生れからも、環境からも、世間の事情にうとく、人に対する思いやりの足りない心配がある。どうしても人情に通じて、そういう深い思いやりのある人に助けてもらわなければならぬ。
 それは二、三年前のことであった。正田美智子嬢とのご婚約の定まった今、私はしきりにその時のことを思う。
 顧みると、殿下のご婚約は、幾年来人々の待ち望んだところであった。殿下の師ヴァイニング夫人が日本を去ったのは、八年前の一九五〇年の暮であったが、夫人の滞在中、吾々(夫人と私)はすでに東宮妃たるべき淑女の資格について語り合ったことが夫人の著「皇太子の窓」の一章に記されている。ある日、夫人は私と語り、いう。皇太子妃たるべき方は、容姿がすぐれていなければならぬ、知性に富んでいなければならぬ、気力がしっかりしていなければならぬ、ユーモアを解する人であって欲しい、云々と。それに対して私はこういったという。「理論上全然同感です。ただ、その人の名を指して下さい。」「マケマシタ」と私(夫人)はいった。それは日本語で「まいった」という意味である。そうしてわれわれ二人は大笑いした。
 とある。
 それは八年前の会話であるが、殿下のご婚約が定まったので、私は夫人に、正田美智子嬢こそ正しくあの時君が列挙した条件を、すべて備えた淑女だと、いい送ろうとしているところへ、十一月二十日付の夫人の手紙が来た。アメリカの新聞雑誌は、自由に殿下のご結婚について報道しているので、夫人はそれを読み、また正田嬢の写真も見たのである。夫人は私がその手紙の一節を、無断で引用することを許すであろう。彼女はいう。
「……私は彼女の顔にゆたかな知性と優しさスイートネスとユーモアと勇気とを見た。この方なら大丈夫だと思った。」写真は無論すべてを語らない。しかし、十分多くを語る、と私は思った。
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底本:「「文藝春秋」にみる昭和史 第二巻」文藝春秋
   1988(昭和63)年2月25日第1刷
   1988(昭和63)年3月15日第3刷
底本の親本:「文藝春秋」文藝春秋新社
   1959(昭和34)年1月号
初出:「文藝春秋」文藝春秋新社
   1959(昭和34)年1月号
※「御部屋」と「お部屋」、「御写真」と「お写真」、「御一緒」と「ご一緒」の混在は、底本通りです。
入力:sogo
校正:富田晶子
2017年1月1日作成
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