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推古天皇の
御代、
上宮太子が
摂政として世を治めておられた飛鳥の頃は、私にとって最も
懐しい歴史の思い出である。私ははじめ史書によってこの時代を学んだのではなかった。
大和への旅、わけても法隆寺から夢殿、中宮寺
界隈へかけての
斑鳩の里の遍歴が、いつしか私の心に飛鳥びとへの思慕をよび起したのである。海岸を思わせる白砂と青松、そのあいだを
明瞭に区ぎっている法隆寺の
土塀、この整然たる秩序を保った風光の
裡に、千三百年のいにしえ、新しい信仰をめぐってどのような
昏迷と苦悩と、また法悦が飛鳥びとをとらえたか。私は法隆寺の
百済観音や中宮寺の
思惟の
菩薩に、幾たびかその
面影をさぐってみた。頬に軽く指先をふれた柔軟な思惟像に彼らの
瞑想の深さを
偲び、
或は百済観音のほのぼのとした清純な姿に法悦の高い調べを思ったりした。これらみ仏そのままの
風貌で、飛鳥びとはこの辺を
逍遥していたのであろうか。そこには永遠の安らいがあったに相違ない。はじめて法隆寺を訪れた頃は、私はこうした思いで心が一杯になり、夢中で斑鳩の
址をめぐって歩いた。私の心にも
漸く新生の
曙が訪れそめた頃であった。
しかしみ仏が次第に私を導いて行ったところは、必ずしも平穏な天国ではなかった。春風
駘蕩たる時代でもなかった。仏像の美にひかれるままに経文を読み、また日本書紀や上宮聖徳法王帝説に接するにおよんで、私の眼ははじめて飛鳥の地獄にひらかれるようになったのである。とくに日本書紀を読んだことは、私にとってよろこびであるとともに非常な驚きでもあった。対外的のことは
暫く
措くとしても、国内的にみれば
欽明朝より推古朝にいたるおよそ五十年のあいだは、眼を
蔽わしむる
凄惨な戦いの日々である。
蘇我・
物部両族の争いにとどまらず、
穴穂部皇子や
宅部皇子の悲しむべき最期があり、物部氏の滅亡についで、
遂には
崇峻天皇に対する
馬子等の大逆すら起っている。しかもこれらの争闘は
悉く親しい骨肉のあいだに起った悲劇であった。上宮太子が御幼少の頃より
眼のあたり見られたことは、すべて同族の
嫉視や陰謀、血で血を洗うがごとき
凄愴な戦いだったのである。一日として安らかな日はなかったと
云っていい。
仏法はいまだ漸く
現世利益か
乃至は迷信の域を脱しない。さもなくば政略の具であった。諸家の仏堂は
徒に血族の
屍の上に
建立されたかにみえる。書紀にしるされた全般をいまここに詳述は出来ないが、現今の斑鳩の里がもたらす
和かな風光からは想像も及ばぬ。
諸々のみ仏の大らかに美しいのが不思議なほどである。百済観音の
虚空に消え行くごとき絶妙の姿も、思惟の像にみらるる微笑も、かの苦悩の日のひそかな
憧れであったのだろうか。凄惨な生の
呻吟から、飛鳥びとの心魂をこめて祈った、祈りのあらわれでもあったろうか。
それにつけてもかかる時代に成長され、難局に処せられた上宮太子の憂苦とはいかばかりのものであったか。書紀をとおして私はまずそのことを思わざるをえなかった。大陸文明の伝来に当って、これを厳正に摂取されたのはむろん大事に相違ないが、そういう外的状勢乃至文化論からのみ太子を論じることに私は同じ難い。最も親しき人々の流血の惨事――この大悲痛からの脱却を身命を
賭して祈念された
勁い信念、何よりもまず私はそこへ参入したいと願うのである。これが書紀を読んだ後の私の感銘であった。
夢殿の地は太子の
御邸だった斑鳩宮の址といわれる。太子
薨去の後、御遺族は悉く
蘇我入鹿のため滅ぼされ、斑鳩宮もむろん
灰燼に帰したのであるが、およそ百年後の奈良朝にいたって再建された夢殿が、幾たびかの補修を経て現在に伝わったのだという。もとは斑鳩宮寝殿の近く、隔絶された太子内観の道場であり、ここにこもって深思されたと伝えられる。いずれにしても太子の
御霊は、いまなお
憩うことなく
在すであろう。夢殿に
佇む
救世観音の
金色の光りは、太子の
息吹を継ぎ宿しているかにみえる。百済観音のほのぼのとした
鷹揚の調べとも、また中宮寺思惟像の幽遠の微笑とも異なり、むしろ野性をさえ思わしむる不思議な生気にみちた像である。慈悲よりは
憤怒を、
諦念よりは荒々しい
捨身を
唆すごとく
佇立している。太子はかの
未曾有の日に、外来の危機を
憂い、また血族の
煩悩や争闘にまみれ行く姿を御覧になって捨身を念じられたのであったが、そういう無限の思いを救世観音は微笑のかげに秘めているのではなかろうか。
今となってみれば、太子の一身をもって具現されたものは大乗の悲心であった。しかし仏法が伝来したが故に太子は大乗を修得されたというだけでは何事も語らぬにひとしい。仏法を宗派的なものに限定したり、乃至は外来の思想体系として知的に対したりするとき、歴史の根本は
歪められるのである。たとい仏法は伝来せずとも、生の凄惨な流れに身を置かれた太子は、おのずから人生苦の深みに思いを傾け、真の救済について祈念せざるをえなかったということが大事なのである。
*
十七条憲法は治世のための律法でもなく、単なる道徳訓でもない。それらの意味をふくめてはいるが、むしろ太子自身の率直な祈りの言葉なのである。私はそう解する。あるいは同族
殺戮の日において民心に宿った悲痛の思いと願いを、一身にうけてあらわされたのだと申してもいいであろう。かくあれかしと衷心より念じ
給うた言葉であって、その一語一語に、太子の苦悩と体験は切に宿っていると拝察される。ここに十七条中でもとくに肝要な最初の三カ条について、私は御祈りの一端になりともふれてみたいと思う。
一に
曰く、
和を以て貴しと
為し、
忤ふこと無きを
宗と為せ。人皆
党有り、
亦達れる者少し。
是を以て、或は
君父に
順はずして
乍た
隣里に
違ふ。
然れども
上和ぎ、
下睦びて、事を
論ふに
諧ふときは、
則ち
事理自らに通ふ、何事か成らざらむ。
二に曰く、
篤く三宝を敬へ、三宝は
仏法僧なり、則ち
四生の
終の
帰、万国の
極宗なり。
何の世何の人か
是の
法を貴ばざる。人
尤だ
悪しきもの
鮮し、
能く教ふるをもて従ひぬ。
其れ三宝に
帰りまつらずば、何を以てか
枉れるを
直さむ。
三に曰く、
詔を承はりては必ず謹め、
君をば則ち
天とす。
臣をば則ち
地とす。天
覆ひ地載せて、
四時順り行き、
万気通ふことを得。地、天を覆はむと
欲るときは、則ち
壊るることを致さむのみ。是を以て君
言ふときは臣承はり、上行ふときは下
靡く。故に詔を承はりては必ず慎め、謹まずんば
自からに敗れなむ。
この三カ条は、熟読すればするほどその思慮と憂いの深さに驚嘆するのである。第一条の「以和為貴」の一句の背後には、前述のごとく蘇我氏の専横や同族間の絶えざる争いがあり、おそらく太子の切なる祈念であったのであろう。――みな仲よくせよ。人は党派を組み
易いもので、ほんとうに達者といえるものは少いのだ。里や隣人と仲たがいせず、上のものが仲よくし、下のものが睦みあって、互に和して事を論ずるなら、一切はおのずから成就するだろう。そうしたならば何事も出来ないことはあるまい。――実に当然の
教であるが、かく述べられた太子の心底には、醜怪な政争や人間の無残な
慾念が、地獄絵のごとく映じていたのでもあろうか。「以和為貴」の一語にこもる万感の思いを推察しなければならぬ。書紀に接した人はこの言葉が血涙をもってかかれたことを悟るであろう。
さればこそ第二条において信仰の問題を示されたのである。大乗の悲心は一切を摂取して捨てない。いかなる凡俗の裡にも
一抹の生命の光りを求めて、これを機縁として高きに導入せんとするのである。「人尤だ悪しきもの鮮し」と観ぜられたところに、太子の博大な悲心が偲ばれるであろう。そしてこの第二条で最も大切な一句は、冒頭の「篤敬三宝」である。太子は「篤く三宝を敬へ」と仰せられたけれど、「必ず三宝を信ぜよ」とは云われなかったのである。
若し律法において、一信仰を強制し、仏法を必ず信ぜよとしたならばどうであろうか。信仰はその自発性を失い、或は政治的党派性を帯びるであろう。蘇我と物部との争いはよき教訓だったに相違ない、然るに太子は「必信」でなく「篤敬」という文字を用いて、信仰をあくまで国民の自発的な
求道心におかれたのであった。深い思慮というべきである。仏教伝来以後、さきには蘇我氏のことあり、また奈良朝における藤原氏の専断、更に下っては
道鏡のごとき僧すら出たのであるが、わが仏法の
黎明を告げた太子の御本心はかくのごときものであった。
ところで次の第三条、
即ち、詔勅に対するときは「承詔必謹」と、はじめて「必ず」という言葉を用いておらるる。詔勅を「篤く敬へ」とは申されなかった。至高の権威を、詔勅におかんとしたのが太子だったのである。当時これはいかなる意味をもっていたであろうか。一言で云うならば、勢力ある氏族の専横を深く
危惧された上での決断であった。蘇我馬子は皇室に対しても、また太子御自身にとっても、最も血肉的に親しい
外戚であり、それだけに彼一統の
暴虐を抑えることは容易ならざることだったに相違ない。太子は日々この危機の上に政事を執られたのである。武力による抑圧が、再び同族間の流血の惨事をもたらすであろうことは、太子の最も憂えられたところと拝察さるる。
即ち、太子の大乗の愛は、人間に関する深き観察、煩悩具足の凡夫の在りのままの姿に発し、しかも必ず仏性をみとめてこれを捨てず、すべての人を抱擁し、この和の根本の教として三宝を敬い、そして最後にこれら一切を傾けて護国のために
捧げられんとしたのであった。飛鳥の精神は、ただ美しい古仏や寺院にのみあらわれているのではない。それを支える根源には想像を絶した苦闘があったのだ。むしろ現世の地獄より、ひそかに祈念し
憧憬したところに、諸々の菩薩像が立ちあらわれたのだといってよかろう。大なる悲痛と、それゆえの慈心は、太子の御心から光りのごとく発したのであった。
*
上宮太子の御歌は今日あまり知られていないようであるが、万葉集巻三
挽歌のはじめに、上宮聖徳皇子出
二遊竹原之井
一之時見
二竜田山死人
一悲傷御作として、次の一首が記載されている。
家に在らば 妹が手枕かむ 草枕 旅に臥せる 此の旅人あはれ
竜田山の死人をみてふとつぶやいた言葉に、おのずから調べが乗ったような御歌である。ただ「妹が手枕かむ」という現世的情感の表現は、太子においては一見めずらしくも思われようが、家庭生活を史について拝するとき、太子もまた古事記から万葉の諸歌にみらるるような鷹揚ないとなみに終始された方であることが了知されよう。死に面して生ま生ましく生の愉悦をふりかえられたところにあの時代の面影がつよく偲ばれる。またそれ故に、死という厳しい運命について深く思索されたことも察せらるる。そういう
悲愍の思いを更につよくあらわされた御歌、並びにそれにまつわる一篇の物語が日本書紀に載っている。
級照る 片岡山に 飯に飢て 臥せる 彼の旅人あはれ 親無に 汝生りけめや 剌竹の 君はや無き 飯に飢て 臥せる 彼の旅人あはれ
日本書紀によれば「十二月
庚午朔、皇太子片岡に
遊行ます。時に飢ゑたる
者道の
埀に
臥せり。
仍りて
姓名を問ひたまふ。而して
言さず。皇太子
視て
飲食を与へたまふ。即ち
衣裳を脱きて飢者に覆ひて
言く、安く
臥せよ。則ち歌よみて曰く」とあってこの御歌が出ているのである。推古天皇二十一年の冬十二月のことであった。太子は片岡山においでになった折、道のほとりに飢えた者が臥しているのを御覧になって、親しく姓名を問われたが、答える気力もない。そこで太子は飲食を与え、また自らの衣をぬがれて、これを飢えた者の上に覆い、安く臥せよと申されて、さきの歌をよまれたというのである。太子の慈心を物語る美しい状景であり、またこの御歌も、古事記の諸歌と同じように
古樸典雅にして、しかもあふるるがごとき慈心が憂いの調べとともに流れ出て美しい。「級照」「剌竹」ともに
枕詞であるが、他は解を要するまでもなかろう。十七条憲法や
義疏の根底にひそむ精神の発露と申していいであろう。
なおこの物語のつづきは次のようにしるされている。
「
辛未、皇太子、使を
遣して飢者を視しむ。使者
還り来て曰く、飢者既に
死りぬ。
爰に皇太子
大に
之を悲しみ、則ち
囚りて以て
当処に
葬埋めしむ。
墓固封む。
数日之後、皇太子
近習者を召して、
謂りて曰く、先の日、道に臥せる飢者は、其れ
凡人に
非じ、必ず
真人ならむ。使を遣して視しめたまふ。是に
於いて、使者還り来て曰く、墓所に到りて視れば、
封埋めるところ動かず。
乃ち開きて
屍骨を見れば、既に
空しくなりたり。
唯だ
衣物畳みて
棺の上に置けり。是に於いて、皇太子
復た使者を返し、其の衣を取らしめ、常の
如く
且た
服たまふ。時の人大に
異しみて曰く、聖の聖を知ること、其れ
実なる哉。
逾惶まる。」
飢えたる者に自らの衣を脱いで親しく掛けられ、更にその者の死後、棺の上に畳みおかれた衣を再び平然と
著されたという。この一節は後に様々の伝説を生んだようであるが、太子の悲心と生死の境なきがごとき挙措が当時の人々にも異様の感動を与えたことはこの文章からも察せらるるであろう。
私は法隆寺から夢殿、夢殿から中宮寺へかけて巡拝するたびごとに、この斑鳩の里に
嘗つて太子の歩まれたことを思い、一木一草すら懐しく、在りし日の面影を慕いつつ佇むのを常とする。春、法隆寺の土塀に沿うて夢殿にまいり、ついで庭つづきともいえる中宮寺を訪れると、その直ぐ後はもう一面の畑地である。法輪寺と法起寺の塔が眼前にみえる。
陽炎のたちのぼる野辺に
坐して、
雲雀の空たかく
囀るのをきいたこともあった。嘗つてここに飛鳥びとが様々の生活を営んでいたであろうが、彼らの風貌や言葉や
粧いはどのようなものであったろうか。
太子の摂政時代は内外ともに多事であったが、それにも
拘らず鷹揚に深い瞑想は、この野辺のあたりにもなされていたのであろうか。いかに昏迷と騒乱があったにせよ、そこには、一つの出来事、一つの問題に向っての、しずかな凝視と
味いと沈思と――かかる
悠久の時間というものはあったに相違ない。嘆きのある折も、その嘆きは虚空の
涯にまで漂い行くような、切に深遠なものだったろうと思う。人間の煩悩を深く省察された太子は、それゆえ人間への悲心と凡夫の自覚とをもって飛鳥の野を
彷徨われたであろうが、その御姿が、そのまま聖者の気高さをおのずから具現していたと想像されないであろうか。
たとえば御著「
維摩経義疏」のなかで「道法を捨てずして凡夫の事を現ずる是を宴坐と為す」という維摩の言葉に対し、次のように感想を述べておらるる。
「道法とは
謂く聖法なり。言ふこころは、聖法を
能くすと
雖も、亦俗法の中に凡夫の事を現じて、機に
随ひて物を化するを乃ち真宴と名づく。
汝凡夫を捨つべく、聖道は取るべしと存せば、則ち分別を
成ず。
那ぞ宴と為すことを得ん。この句は凡聖の二境を
平しくすること
能はざるを
呵するなり。」
この大意を述ぶれば、維摩の
謂う道法とは
聖の道である。維摩の真意はこうだ。たとえ聖の道に熟達しても、また凡俗の道の中に身を投じて、凡夫の事を現じ、そのすべてを機縁として教え導くのがほんとうの
坐禅である。若し凡人は捨て去れ、聖道ならば取れという風に心を用いるならば、
事毎に分別が生ずる。さかしらな分別によって是非判断するなどどうして真の坐禅といえよう。この句は凡聖一如の境に入ることの出来ないのを
叱っているのだ、というほどの意であって、大乗の根本を示された御言葉である。
太子の教が、仏法求道者に
屡々みらるるごとき固くるしい戒律臭を帯びず、大和の春野のように、のびのびとした
相で発揚されたことは、私に限りない感銘と
悦びをもたらすのである。
惨澹たる争いの後、いかばかり切実な祈念が、かかる鷹揚の信仰を開顕したか。そこには太子の心労のみならず、古事記にもみられるような
逞しい原始力があって、それが仏法をも貫いて発揚されて行ったと云えないだろうか。凄愴な悲劇からの脱出、いわば神々から追放された日の苦悩から、再び新生を求めて、ついに
仄かな黎明を招いた、そういう光栄を飛鳥びとは
担っている。
――昭和十七年秋――
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上宮太子の
薨去は、推古天皇の三十年二月二十二日夜半であった。時に御年四十九歳、当時の人々が、太子の薨去をいかに深く
悼んだかは日本書紀にもしるされているとおりである。
即ち「諸王、諸臣、及び天下の百姓、
悉に
長老は愛児を失ふが
如く、
塩酢之昧口に在れども
嘗めず、
少幼者は
慈める
父母を
亡ふが如くて、
哭き
泣つる声、
行路に満てり、
乃ち
耕夫は
耜を止め、
舂女は
杵せず。皆
曰く、日月
輝を失ひて、天地既に崩れぬべし。今より
以後、誰か
恃まむ哉。」――この一節によってみるも、太子の威徳の高きはうかがわれるのであるが、同時にその政事が容易ならぬ危機の上に
為されていたことも推察されるであろう。
幾多血族の悲しむべき
相剋の後、太子は
摂政として立たれた方である。
蘇我家の
擅権と陰謀は、度かさなる流血の惨事をもたらしたのであったが、摂政の位につかれて後は、しばらくはこの争いもおさまったようにみえる。人間
煩悩のすさまじさを幼少の頃より
眼のあたり見られた太子の、衷心祈念されたところは、前述のごとく「以和為貴」であり、「篤敬三宝」であり、「承詔必謹」であった。長い苦難を経て、魂の
憩いは
漸く
飛鳥の野にも訪れたかに思わるる、そういう
仄かな
黎明時代を太子は築かれつつあったのである。
しかし禍根は必ずしも除かれていたわけではない。
外戚として蘇我家の勢力は更に隠然たるものがあり、
何時その野望があらわれるか期し難かった。太子は何故これに徹底的な抑圧を加えなかったか、
馬子の
兇暴を何故黙視しておられたか――後世史家の
屡々問題としたところであるが、太子の憂悩もまたそこにあったと拝察される。それは単に蘇我家の政治軍事力の強大ゆえとのみは断じ難い。作戦の問題ではない。
系譜をみても明らかなごとく、
欽明天皇より太子に至るまでの皇室には、蘇我一族の血統が最も親しくむすばれている。
武内宿禰以来の名門として
稲目が
輔弼の大任を背負ったことも無視出来ない。太子の御父母も、御祖父母も、すべて蘇我家と親密な
間柄にあり、太子の妃たる
刀自古郎女もまた馬子の娘であった。同族をもって戦う悲痛はすでに青年の日に身をもって知っておられた。馬子、
蝦夷、
入鹿等の兇暴を国家のために黙視されなかったとはいえ、彼らの
内奥よりの「和」をまず祈念されたのは当然でなかろうか。信仰が、剣をもって
誅伐することを最後までゆるさなかったのではなかろうか。あるいは「我れ必ずしも聖に
非ず、彼れ必ずしも愚に非ず、共に
是れ凡夫のみ」(憲法十条)という自覚ゆえに、一切の罪禍を自らに
担って、ひたすら耐えられたのであろうか。
剣よりも悲心によって、人為の政略よりも神仏の加護によって、魂の根源からの「和」を祈念された。この
高邁な精神にも
拘らず、薨去後に悲劇は起っている。憂悩を
裡に抱いたまま、太子の
生涯は殉教の生涯だったと申してよい。
「日月輝を失ひて、天地既に崩れぬべし。今より以後、誰か恃まむ哉」――この言葉は、当時の民草の偽らぬ述懐だったに相違ない。太子の強烈な信念が、わずかに時の
静謐を保っていたのであったろう。威徳の前には諸王はむろんのこと外戚たる馬子達もひたすら
畏れ慎しみ、常に翼賛申していたという。だが危機はいたるところにひそんでいたのだ。薨去が、やがて乱世の再来を予測せしむるごとき事情は、誰の
眼にも明らかであったと思われる。薨去の後、なお七年のあいだ推古天皇は皇位に在り、三十六年の春三月に崩御された。蘇我家も馬子は死し、蝦夷入鹿父子の代となった。太子のあれほど祈念された「和」の精神は再び
群卿によって
蹂躪されはじめた。仄かに輝き出た飛鳥の黎明も太子の薨去をもって終ったかにみえる。のみならず太子の遺族の上には大なる悲惨事が起った。
推古天皇崩御の後をうけて
舒明天皇位を継ぎ、ついで
皇極天皇の御代となるのであるが、この間において蘇我入鹿の専横はいよいよ激しくなる。しかも一方においては太子の御遺族たちが父君の精神を
護って厳然と存在していたのであった。
山背大兄王は、太子と刀自古郎女とのあいだに長子として生誕され、よく先王の遺訓をまもられた方である。舒明天皇より皇極天皇にいたる間の行動は、書紀に
詳に示されているとおりである。蘇我入鹿はこの
王を憎んだ。「
蘇我臣入鹿
独り、
上宮の
王等を
廃てて、
古人大兄を立てて、天皇と為さむとすることを
謀る。」「蘇我臣入鹿深く上宮の王等の
威名あり、天下に振ふを
忌みて、独り
僭立を謀る。」等の言葉が書紀にみえる。太子以前の争闘は再びくりかえされる。
遂に皇極天皇の二年十一月、入鹿は軍勢をして
斑鳩宮を襲わしめこれを
灰燼に帰した。山背大兄王は一族とともに
胆駒山に隠れたが、それより更に東国へ逃れ軍を起して
還り戦わんという侍臣
三輪文屋君の進言に対し、山背大兄王の
対えられた次のごとき言葉がある。
「
卿が
道ふ所の如くば、
其の勝たむこと必ず
然らむ。
但だ
吾が
情に
冀ふは、十年百姓を
役はず、一身の故を以て、
豈に
万民を
煩はし
労らしめむや。又後世に於て、民の、吾が故に
由りて、己が
父母を
喪せりと言はむことを欲せじ。豈に其れ戦勝ちての後に、
方に
大夫と言はむ哉。夫れ身を
捐て国を固くせむは、
亦大夫ならざらむや。」
その頃の政情をかえりみるとき、この決断は
未曾有のことであったと
云えよう。外戚の専横に由る皇位の問題は国家の大事である。蘇我馬子はそのため既に一帝二皇子を
弑している。同族の
嫉視陰謀がいかに悲しむべき流血の惨事を招いたか、上宮太子の信仰はその切なる体験に発したものであることはすでに述べた。御父君の心を継いで、山背大兄王は自らその一因たることを拒絶されたのである。万民への配慮も深く、一身の犠牲において忍び難きを忍ばれたのであった。それは信仰の決意であった。
山背大兄王は胆駒を
出で、
従容として
斑鳩寺(法隆寺)に入られる。やがて入鹿の軍勢が寺を包囲したとき、侍臣をして「吾が一身をば入鹿に
賜ふ」と告げられ、一族とともに
自頸されたのである。子弟
妃妾十五人時を同じゅうして悉くこれに殉じた。太子薨去後二十年余にして遺族すべて非運に倒れたのである。「日月輝を失ひて、天地既に崩れぬべし」の予感はかように悲惨な姿となってあらわれた。上宮王家へのひそかな思慕と愛惜の声が、
巷にみちていたであろうことは、書紀にしるされた
童謡によってもうかがわるる。しかもあれほど太子を
讃仰した
筈の諸臣の
殆どすべてが、遺族の全滅に直面してはただ
拱手傍観、入鹿の
暴虐を黙視していたのみであった。人心は無常である。
*
斑鳩宮は灰燼に帰し一片の
廃墟と化してしまった。その後いくばくもなくして蘇我一族も滅亡し、
中大兄皇子と
中臣鎌足によって大化の改新がなされたことは周知のところであろう。しかし太子の祈念は必ずしも
全うされたとは言えない。外戚の弊が除かれ血族相剋の日が
終焉したわけでもない。上宮王家滅びて三十余年にして
壬申の乱起り、漸く平定した後の奈良朝時代には、蘇我に代って藤原一族の擅権がはじまっている。太子生誕の頃より奈良平安朝にいたる歴史をみるとき、それは血族の間に生じた悲痛な犠牲の歴史である。人間の
業の深さ、人心の無常に驚く。しかしかかる
悽惨な生の流れにおいてこそ、はじめて太子の御姿が幾度もふりかえられ、その祈念は人心に復活したといえるのではなかろうか。
荒廃のままに放置された斑鳩宮
址は、
聖武天皇の
天平十一年、
行信法師の
奏聞によって漸く復活した。現存する夢殿は幾度の補修を経てはいるが、このときの創建に成ったものといわれる。私がはじめて夢殿にまいったのは、昭和十二年の秋であったが、その頃夢殿は修理中で、周囲には厳重な
柵がめぐらされ、私はその間から、ちょうどお仕置を見物する昔の人のような
恰好で
眺めなければならなかった。円柱はとり外され、土台は高くもちあげられて、あたかも宙につるされた
骸骨のようであった。御堂の内部はうつろなまま暗黒にとざされてみえない。千三百年の
古、太子が
寵らせ
給うた御姿を想像し、あの
暗澹たる日に美しい黎明を祈念された太子が、長身に剣をしかと握りしめ、
聡明な
眉をあげて
虚な御堂からいまにも立ち現れ給うごとく感じたのであった。
斑鳩宮を夢殿と呼ぶようになったのは、「太子
伝暦」に、「太子斑鳩宮に在って夢殿の内に入りたまふ。
此殿は寝殿の
側に在り。諸経疏を製するに及んで、
若し義に滞る有れば、即ち夢殿に入りたまふに、堂に東方より金人到り、告ぐるに妙義を以つてす。」あるいは「法王帝説」に、「太子問ひたまふ所の義、師(
慧慈)も通ぜざる所有り。太子夜の夢に金人の
来りて不解
之義を教ふるを見たまふ。太子
寤めて後即ち
之を解す。乃ち以て師に伝へたまふに、師も亦領解す。是の如の事、一二に非ず。」等に由る。つまり夢殿は太子の
瞑想と内観の道場であった。ひとたびは灰燼に帰したとはいえ、太子の御思いの永久に
止るところであろう。
いま秘仏としてここに安置されている救世観音は、太子等身の像であるが、それが製作された年代は、飛鳥の頃であるにしても、太子在世の時か或は薨去直後か詳にしえない。私は近来このみ仏を太子の念持仏として、あるいは前にひいた「金人」として拝することを心に
適うものとしていた。
尤も太子に対し後世の仏家が附会した伝説は実に多く、中には仏教徒の自己弁護のためと思われるものも
尠くない。しかし伝説のすべてを
無稽とし迷信とするのは誤りであろう。何故なら、そういう言い伝えの裡に、民心に宿る愛と信仰とは厳存するからである。信仰は過去のものを過去のものとして合理的にあげつらうことをゆるさない。信じる者にとって神仏はつねに現存である。太子への思慕が激しく民心に宿ったとき、その祈念が眼のあたり太子の
御霊にふれ、金人を夢みたとしても不思議はあるまい。
*
ところがそういう私も、はじめて救世観音を拝した頃は、ただ彫刻としてみようとする態度を捨てきれなかった。拝するというのではない。美術品として観察しようという下心で「見物」に行ったのである。むろん救世観音は
一瞥にして私のかかる態度を破砕した。あの深い神秘はどこから由来するのか――美術的鑑賞によって答えられる問題でないことは直ぐわかった。しかし私は戸惑いした。信仰と歴史について思いをいたすことも浅かった。いきおい私は自分の文学的空想に
溺れて行ったようである。
夢殿が修理中のため、その前の礼堂に安置されていた頃の救世観音について、私は
嘗つて次のような印象を述べたことがある。
老僧はしずかに
厨子の
扉をひらいた。立ちあらわれた救世観音は、くすんだ黄金色の肉体をもった
神々しい野人であった。
瞳のない
銀杏形の眼と部厚い
唇、その口辺に浮んだ魅惑的な微笑、人間というよりはむしろ神々しい野獣ともいえるような御姿であった。静謐な姿勢をとっているが、どこかに兇暴な面影を秘めて、何かを懸命に耐えているような趣がある。正面から間近に御顔をみると悟達の静寂さは少く、
攪乱するような魔術者の面影が濃い。山岳や
茫々たる
沙漠や
曠野の大海を
彷徨った原始の血であろうか。
或は南方の強烈な光りによって鍛えられた血であろうか。しかし側面から眺めると、この原始の肉体は
忽ち消え
失せて植物性の柔軟な姿に変ってしまう。胸が平板で
稍々猫背であるため
体躯が柔い感じを帯びてくる。原始の肉体に植物の
陰翳を与えたところに、神々しい中性が生じたのでもあろうか。礼拝はおそらく側面からするのであろう。――これが礼堂で救世観音を拝した折の、私の最初の印象であった。
私はまたこのみ仏に接して、唐突ながらポール・ゴーガンの「タイチ紀行」を
想い出したりした。
数多の夢を失い、数多の努力に疲れ果て、道徳的にも精神的にも疲弊している社会の悪を、長いあいだ運命的に受け継いで来た殆ど老人といってもいい人間――彼は自分をそう語っている。
頽廃して行くヨーロッパを逃れて、彼は南海の孤島に土人の娘とともに原始の生活をつづけた。
赫熱する太陽の光りと強烈な色彩につつまれて裸体の生活に還った。それは十九世紀末葉に一ヨーロッパ人が試みた文明からの悲しい逃亡であった。この病み衰えた人間は、南方の土民の間に混り、彼らの血液を吸うて再生を
希ったのである。次のような記述を私は忘れることが出来ない。
「タイチに於ては、太陽の光線が、男女両性へ同じように光りを投げかけるように、森林や海岸の空気が、皆の肺臓を強健にし、肩や腰、ひいては海浜の砂までも大きくするのである。女たちは、男と同じ仕事をやる。男達は女たちに対して
呑気なものだ。――だから、女たちには男性的な
処があり、男達には女性的な処がある。この両性の近似は彼らの関係を安らかにする。そしてその生涯の裸体生活を清純に保って行くのだ。……この『野蛮人』間における両性の差異の減少は、その男女達をまるで恋人同士のような親しい友達にし、彼らから罪悪の観念さえもなくして
了っているのだ……」
これが頽廃した文明から逃れんとした一ヨーロッパ人が、東洋の孤島で夢みた
涅槃だったのである。そしてゴーガンは
奇しくも
仏陀の
教をひそかに
憧れているのである。観世音がもつ、あの男でもない女でもない不思議な魅惑を、私は東洋の南方にむすびつけて考えたりした。私もまた文明の汚血よりの
恢癒を祈っていたひとりだった
故もあろう。救世観音の
風貌は、最初こんな風に私の空想を
刺戟したのであった。
周知のごとくこのみ仏は、明治時代になってフェノロサによって
見出されるまで、数百年の間、全身に白い布をまかれ、秘仏として
開扉されずにあった。人々はこの観音の
呪いを畏れていたという。フェノロサがいよいよ白布を解くときは、寺僧達は悉く逃げ去ったと伝えられる。それは何故であったろうか。幾千年の
甲羅を経たような怪物じみた
面影の故であろうか。美術の様式論によっても、他の仏像との比較によってもむろん説明は出来ない。ゴーガンの感慨になぞらってみたところで私の心はやはり満ち足りなかった。
その後このみ仏に接するたびに起る不思議な感銘のままに、私はやがて上宮太子の御生涯に思いをいたすようになった。古美術通たることはもとより私の望むところではない。末期文明よりの恢癒の象徴としてみるだけでもむろんもの足りなく思えてきた。救世観音の私に与えた
謎は、
畢竟その背後に遠く深く漂う歴史の
深淵にひそむのではなかろうか。私には歴史への信仰が欠けていたのだ。上宮王家の悲願と無念の思い――私は次第にここへ
辿りついて行ったのである。
*
太子の一生、その事業や著作を折にふれて拝するたびに、太子への讃仰と思慕の念は深く私の心に起った。太子の心労や生涯を通して念願されたところは、必ずしも同時代によって報いられなかった、のみならず上宮王家一族の滅亡は前述のとおりである。云わば太子の信仰は、己が一切を犠牲とし、そうすることによってはじめて不朽の悲願を残すごとき無償の行であった。太子は申すまでもなく、山背大兄王やその若き御子達には、果さんとして果しえなかった無念の思いがあり、
不如意のいのちの嘆きは最後の日まで
止むことはなかったであろう。高貴なる血統に宿った凄惨な悲劇を、御一族は身をもって担い、倒れたのであるが、この重圧からの
呻吟と
歔欷の声は、わが国史に末長く余韻して尽きない。後代人はこれに触れ、
愕然として更に激しく太子を慕うのである。
その後、新装成った夢殿の、新しい八角の厨子に救世観音を拝するたびに、私はそこに陰翳する上宮王家の無念の思いと悲願を感ぜずにはおれないのである。私が前に述べた原始人のごとき不思議な生気は変らないが、金色の
肌の光りは、ほの暗い御堂に在って更に異様であった。たとえば
闇の底に
蹲ってかすかに息づいている
獅子、或は
猛虎の発散するエネルギーと香りを感じさせる。私にはそれが
復讐の息吹のごとくにも思われ、また荒々しい
捨身への
示唆のごとくにもみえた。しかしすべてを超えて、その口辺に浮んだ微笑は太子の御霊の天寿国に安らい給うしるしなのであろうか。永遠の慈心のごとく、同時に無念の情を告ぐる
怨霊のごとく、いずれとも分明し難い。救世観音を拝するにつれて、次第に私はその姿や風貌を正視出来なくなってきた。一切の分別を放下し、ただ
瞑目していて、しかも身にひしと迫ってくるものがある。金色の微光を
被ること、
即ち太子の祈りの息吹にふれることのようにも思われ、御一族の悲願が、いよいよ私の心に刻印されてくるのであった。フェノロサがこの観音の白布を解くとき寺僧達が逃げ去ったというが、逃げ去った寺僧の方にも道理はある。フェノロサがいかに立派な美術史家であり、救世観音に驚嘆の声を放ったにしても、この秘仏の真の無気味さについては、一介の寺僧ほどにも通じていたとはいえまい。すべて古仏にふれるには、あつかましさが必要かもしれない。あつかましさの故に、今は我々も拝観料を払って見物しうるのかもしれぬ。
歴史に対する私の態度は、いつまでも動揺を免れなかったが、次の三原則だけは動かすべからざるもののように思われてきた。
一、廃墟と壊滅――即ち死に対する無限の愛惜の情、死のみが人間の生の意義を
完璧に語る。換言すれば彼が生存のとき、果さんとして果しえなかった
内奥の願、祈念、これを死が明確に語ってくれるのである。灰燼と絶滅から人間の生命は
久遠となるであろう。歴史に参入するものは、まず廃墟に
佇んで己が愛を傾けるべき人間と
邂逅しなければならぬ、それは史実への
智的好奇心によっても、自由選択によっても与えられない。我に
求道の志あり、その労苦の果に、天意のごとく与えられた邂逅でなければならない。
二、言い継ぎ語り継ぐとは歴史の根本心情である。何を言い継ぎ語り継ぐのか。邂逅した人物の悲願を、その無念の思いを察して、これを再び
顕そうとすることである。史上における偉大な人物から、我々の肉親や身近な友人にいたるまで、愛の在るところ、死とともにこの願いは必ず起るであろう。そしてこの願いの在るところ、死者は死者でなく、過去は過去でなく、永久の現存となるであろう。
三、殉ずる決意の
裡にのみ歴史は生命を得る。讃仰と思慕の情は、廃墟の灰からさえ生ける人間を形成するであろう。そしてその思いを、語り継がんとする我が身において具現しなければならぬ。語り継ぐとは、祖先の悲願にわが一身を
捧げることであり、殉じて悔いざるの情である。それが自身を何処へ導くか、再び徒労と灰燼へ導くか、或は現世の栄光へ導くか。自ら問うべき
事柄ではない。史上の悲願が現世において成就するか
否か、その実証性はただその無償性にのみ在る。語り継ぐ人間が、再び彼の死によって一切の意味を語るであろう。
救世観音の作者が何びとであるか明らかではない。またこのみ仏に接するとき作者を
詮索する心など起らぬ。ただ私にとっては歴史の真情と思われる右のような思いを、救世観音は暗黙の裡に示唆してくれたのである。
秋、斑鳩の址を巡り、夢殿に
上宮太子を偲びまつりて詠める。
高光る 日嗣の皇子 厩戸の 聖の王 険し世に 生れましまして はらからと 憑む臣らが 由々しくも 惑へるなかに いかさまに 嘆きませるか 畏くも 斑鳩の里 うち日さす 宮居さだめて 飛ぶ鳥の 明日香のみ代ゆ あかつきの 道うちひらくと 夢殿に ひとりこもらせ 夕されば 法のきはみを 明けくれば 国のかためを 身もあらに 瞑想ひこらしつ 天皇の ま幸く坐せと 臣なべて 和ぐ日をや 民なべて 足らふ時をや いつくしく 祈りたまへる 憲法みれば 尊きろかも 史よめば 涙しながる すべなきは 世のうつろひや 吾はも 偲びまつりて 青によし 奈良山を越え 千年経る 宮居が址に なづさへば 念ひのことごと よろづ代に 念ひ告らすごと 仄暗の 高どのぬちに 霊しくも 光りいませる 救世のみほとけ
反歌
秋ふかみ みやの玉がき よりそへて 飛鳥の子らの 徘徊るらし
皇極天皇弐年の秋、入鹿斑鳩の宮を焼く。
太子の御遺族悉く難に殉じたるを悼みて。
いや果の ひたふる念ひ 父王の 垂訓たがはじと 賜ひし身はや
玉きはる いのちのうめき 炎して 彩なす雲と 群立ちにけむ
しぬび哭く 采女が髪の みだれより 飛鳥の月の 冴えわたるかも
歳月は かなしきかなや 麗しの み子らほろびて 蜻蛉ながるる
――昭和十七年秋――
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――古都の友へ――
君とともに
斑鳩の里を巡ってからもう三年の月日が流れた。その後も春と秋には
大和を訪れ、夢殿に
詣でたいと願っていたが、空襲は激しくなり、やがて終戦したものの旅は一層窮屈となって、昨年と今年はとうとう古寺巡礼を中止せざるを得なかった。この間、僕は東京郊外の
茅屋に
蟄居して、息づまる思いで世の激しい転変を
眺めていた。東京はおおかた
廃墟と化した。昨日までは栄華を極めていたものが、
劫火に家を失って
忽ち路頭に迷い、権勢を誇った武将達は、今日は捕われの身となって都大路を引かれて行く有様をみると、さながら平家物語の世界に在るような気がする。終戦後の僕の感想は、「夢かと思ひなさんとすれば
現也、現かと思へば又夢の
如し」という言葉につきる。全く諸行無常だ。しかしさすがに自然は有難い。暴風と豪雨の
呪われた幾日かをすぎて、いま
漸く透明な秋空があらわれてきたところだ。
蜻蛉の飛びかう空を眺めていると、まるで何事もなかったかのように平和である。そぞろ旅を思い、大和がなつかしく回想される。斑鳩の里の刈入は終ったろうか。はるかに君を
偲び、こんなとりとめのない手紙をかくのである。
*
空襲が激化し、朝に夕に我が都市が崩壊して行った頃、奈良も
所詮はこの運命を免れまいと僕は観念していた。夢殿や法隆寺や多くの古寺が、爆撃のもとに忽ち
灰燼と帰す日は間近いと思われた。戦いの終った後、その廃墟に立ち、わずかに残った
礎の上にいかなる涙をそそぐであろうか。そういう日に、何に
拠って悲しみに堪えようか。自分の悲歌の調べを予想し、心の中であれこれと思いめぐらしてさえいたのであった。国宝級の仏像の
疎開は久しい以前から識者の間に要望されていた。東大寺や薬師寺の本尊のごとき大仏は動かしえぬにしても、
救世観音や
百済観音等は疎開可能であろう。しかし僕は仏像の疎開には反対を表明した。災難がふりかかってくるからと
云って疎開するような仏さまが古来あったろうか。
災厄に殉ずるのが仏ではないか。歴史はそれを証明している。仏像を単なる美術品と思いこむから疎開などという迷い言が出るのであろう。そう思ったので僕は反対したのである。
天平の東大寺は
平重衡の兵火にかかって、けなげにも焼けて行った。大仏も観音も
弥勒も劫火に身を投じた。これが仏の運命というものではなかろうか。何を惜しむ必要があろう。惜しむのは人の情であるが、仏は失うべき何ものをも有せざるが故に仏なのだ。夢殿や法隆寺に蔵されている多くの尊い古仏が、爆撃の犠牲になるのは実に痛恨事にちがいないが、だからと云って疎開を考えるのは、信仰にとって感傷的なことではなかろうか。仏の心に反する行為にちがいない。そう思って、僕はただ堪えることを考えていた。
無慙な壊滅に堪えうるかどうか、それはわからない。しかし一心に念じて、惨禍の日を忍ぼうと覚悟していたのである。
今となればこうした思いも
杞憂にすぎなかったが、しかしこの思いを僕はいまなお捨てない。同じ思いで平和の日も貫きたいのである。幸いにして大和の古寺は残った。だが「幸いにして」という言葉はいまの自分にはいささか複雑だ。そこを訪れる僕らの心は、
昔日にもまして重いであろう。敗戦の悲傷は、厳然と残った
伽藍に
却って痛ましいものを感ずるのではなかろうか。祖宗の霊は安らかに眠ることは出来ない。国民の道義はすたれ、信仰の日は去ろうとしている。神々の
黄昏が来て、ただ無信仰の眼に好奇的にさらされるであろう
悄然たる古寺の姿を僕は想像するのである。
戦争は終った。斑鳩の地をはじめ大和一帯は、やがて観光地として世界の客人を招くであろう。観光地としての再生――僕らはかかる再生を喜んでいいのか、悲しむべきであるか。僕は近頃になってハイネの「
伊太利紀行」の一節を再び思い出している。彼はこの古典の地を訪れ、「悲歌的に夢みながら廃墟の上に
坐っている」伊太利人をしきりになつかしんでいる。目は病的に白く、
唇は病的にかよわいが、高貴な
面影を失わぬ伊太利人に、ハイネは近代における真の文明人をみた。というよりはそういう文明人の末路の姿に感傷の思いを寄せたと云った方がよかろう。これに反しここに観光地として訪れる漫遊の客人達は、たとい純白の高価なシャツを身につけ、すべてを現金で景気よく支払っても、廃墟に夢みる伊太利人に比べるなら一個の野蛮人にすぎぬではないかと断じている。成り上り者の「
賎民的な健康」をハイネは
嘲笑したのである。
こうした状景は今日の僕らにとって他人事ではあるまい。観光地としての大和に、飢餓に衰えた無気力な同胞と、満腹の異邦の客人とが、悲しく行きかう有様を想像してぞっとするのだ。たとい高貴な面影を宿そうとも、古寺のほとりに悲歌的に夢みる日本人として
止りたくない。ハイネの同感をえようとも、滅び行くものとしての美しさに安んじているわけにはゆかない。また異邦の客人に劣らず札びらを切って豪遊するのも無風流なことだ。観光地としてではなく、聖地としての再生――これこそ僕らの念願ではなかったろうか。観光地として繁栄する平和の日などは
軽蔑しよう。日本を世界に冠絶する美の国、信仰の国たらしめたい。そのためにはどんな
峻厳な精神の訓練にも堪えねばならぬと僕は思っている。一切を失った今、これだけが僕らの希望であり、生きる道となった。そういう厳しい心と、それに伴う生々した表情を古都にみなぎらすことが大事だ。かかる再生が日本人に可能かどうか、大なる希望と深い
危惧の念をもって僕はいまの祖国を眺める。
*
この一二年というもの、僕は自分の死期の切迫を常に感じて生きてきた。激しい空襲にさらされながら、文字どおり明日知れぬいのちを
憂いつつ生き永らえてきたわけだが、そのとき僕は、
生涯のしるしになるような作品を書き残したいと発願した。いつ死ぬかもしれぬ身であるならば、せめて自分が天職とも信じて選んだ職場で、それも自分の情熱を傾けつくした
刹那に倒れたい。云わば遺言をかくような気持で仕事をしたいと思い立ったのである。こんな気持は、筆にすると大げさではずかしいのであるが、この一二年の僕の仕事中に、こうした気持がいつも底流していたことはたしかだ。僕には年来心にとめてきた二つのテーマがあった。一つは、歴史上自分の最も敬愛する人物の伝記をかくこと、いま一つは自分の精神の自叙伝をかくことであった。僕はまず第一の仕事からはじめた。
即ち聖徳太子伝の執筆である。
十九年の初夏から始めて、終戦の日までつづいたが、その間、自分の身辺にも様々のことが起った。家中に病人が出た。妻の老いた両親は空襲に家を焼かれて、身一つで我が家へ逃れてきた。近くの友人の家が至近弾で倒れかかって、友人は数日間僕の家に避難してきてまるで宿屋のような騒ぎもあった。
或るときは敵機が超低空で機銃掃射を加え、そのガソリンの煙と
香いが室内に流れこんできたこともある。十数発の時限爆弾が近所で爆発して家は地震のようにゆれた日もある。待避の刹那まで、僕は
鉄兜のまま机の前に坐ってもみた。今度こそ家が焼かれるか、死ぬか、そんな思いで暮しつづけた。
原稿はこのあわただしさの
裡に出来あがって行った。出版する
筈の書店はむろん焼失して、出版の予想などは出来ない。僕は印刷術というものから次第に遠ざかって行く自分を感じ、それが著作家として健全な姿であることを改めて思い知った。原稿は厳重に包装して、寝るときは
枕元へ置く。空襲のサイレンとともに背負って
壕へ入る。いざというときはこれだけを持って
火焔の中を逃れようと覚悟していた。むろん最後の場合には、原稿は僕の肉体とともに消え去るであろう。太子伝がどういうものであるか、批評は人々に
委ねよう。ただこれを書いていた日の生き
甲斐に対して、僕は感謝したくなる。太子の御精神が、空襲に堪えさして下さったのである。
*
太子の生涯を書き終えた後の僕の感想を端的に云うならば、恐ろしいの一語につきる。恐怖の念は今もなおつづいている。僕は太子の生涯に何の解決も悟りも求めなかった。ただ悲劇に堪えられた姿だけを出来るかぎり
如実に描きたいと念じたのである。「悲劇からの誕生」という言葉を借りるならば、太子の信仰とはまさにそれであった。のみならずこの時代前後の天皇の博大な信仰は、すべて偉大な悲劇を母胎としていることを改めて痛感したのである。僕は太子の威徳を美しく伝えようとしたが、結果としてあらわれたところは壊滅の歴史であった。
悽愴な殉教の歴史であった。信仰は何故かように果のない血を
喚ぶのか。僕の恐怖感もこの点に発している。言説をもって解明出来ぬ。
深淵を長く
窺えば、深淵もまた
汝を窺うであろうということが恐ろしいのである。
「以和為貴」とは周知のごとく十七条憲法冒頭の言葉である。僕は戦争中この言葉を奉じて生きてきたと云っていい。太平洋戦争が始ったとき、或る雑誌から覚悟を問われたとき、僕は「以和為貴」を
以って回答とした。戦争二年目にして再び同じ問いが発せられたとき、再びこの言葉を以って答えとした。三度問われてもやはり同じように答えたであろう。一国の敗北は、必ずしも外敵のために敗れるのではない。真の敵は常に内部にある。国内同族の
相剋頽廃が致命傷となることは歴史の常識と云ってよい。太子の言葉も切実な体験に発していることは前に述べたとおりである。「以和為貴」とは、国家に対する最大の危険信号であった。
しかし「和」は、政治的平和だけを意味しているのではむろんない。太子の念じ
給える「和」とは超政治的な「和」、
究竟「
涅槃」であったと思う。僕はこの一語に宿る深い夢を思いつづけた。それは万民の祈りを基石としてうち立てらるべき無形の理想国にちがいなかった。「世間虚仮、唯仏是真」と言われたときの「真」の国、浄土であり天寿国であったと申してもよいであろう。「和」とは
菩薩の見果てぬ夢だ。だが太子にとって、「和」は超政治的観念であるとはいえ、それは政治という現実の中の最も
厄介な現実の
只中に実証されねばならぬものであった。涅槃は地上の悪を回避せる彼岸に求めらるべきでなく、地上の酸鼻そのものの裡に念ぜられる云わば誓願なのだ。「以和為貴」とは憲法の条文となる前にまず端的な祈りであり、仏の前、民の前に言い継ぎ語り継ぐべき誓願であったろう。その現実性を失うまいとしたところに、太子の異常な努力があったように思われる。
一切衆生は
悉く仏となる筈だが、しかし悉く仏となる時は来ない。人間の
迷妄は無限、地獄は永遠である。しかもその故にこそ誓願は絶えず、菩薩の夢は永遠なのではないか。これが太子の追究された大乗の急所であったと僕は信じている。太子が救世菩薩として仰がるる
所以は、救いや解決を現世に与え
給うたからではない。現世の
昏迷に身を投じ、救いも解決もなく、ただ不安に身を
横えられたその
捨身故にこそ菩薩として仰がるるのである。死ぬまで地獄と対決し、忍耐した、その救いのない深い憂苦の姿が、即ち後世の僕らにとっては生々とした救いとなるのではなかろうか。「以和為貴」という思想が、太子の心に何らの安心をももたらさなかったということが肝心だ。むしろ時代の
深傷から出た
呻吟の言葉であった。大切なのはその解釈ではない。それを発言された折のあらゆる表情
陰翳を如実に想像する宗教的想像力である。僕は太子時代の歴史をかきながら、かかる想像力のいかに
稀有至難であるかを痛感した。
太子の生涯を
辿りつつ、僕は今の世に生きて行く上での勇気を深く
示唆された。仏教教義や憲法論と云ったものではない。時代に真向からぶつかって、時代に深く傷つくということだ。時代の深傷を生ま生ましく刻印され、その
傷痕をして聖痕たらしめよ。これが太子の示唆されし最大の教訓であった。戦争に深く傷ついた人間は、平和にも同様に傷つくであろう。つねに適当な距離を保っている傍観者ほど憎むべきものはない。「自由」の名のもとに様々の批評が出てきた。他人の罪禍を列挙することも自由だ。あらゆる
誹謗の声を放つことも可能だ。しかし何びとが深傷に
呻いているだろうか。その呻きに僕は真の再生の声を聞きたい。
敗れた者は一切の重荷を背負わされる。この重荷の当否については弁解してみてもはじまらぬ。罰せらるることに小心翼々としているよりは、いっそ世界のあらゆる罪を自発的にひきうけた方がよい。侵略、
残虐、殺人、圧制、強奪――地上の罪禍を悉く背負って、日本は世界一の悪者となり、この自覚において再生の道を求めるがいい。こうした
不逞の決意を僕は欲する。太子の開顕された大乗とは、かかる勇気をもたらすものではなかったろうか。日本人がもし偉大な民族であるならば、偉大な悲劇に堪えらるる筈だ。
*
戦争の最中、僕は宗教的
帰依心について考えっづけてきた。唯一者への全き帰依――この情熱が遺憾ながら僕にあっては不安定なのである。太子
讃仰の念に偽りがあるとは思っていないが、しかしそれを
唯一筋の道として進むことを
阻むものがあるのだ。僕は時々陶器
蒐集家として著名な或る友人を訪れ、様々の陶器をみせて
貰うのだが、僕はそれらを比較し鑑賞する。必ず比較するのだ。この比較癖が
頑固な習性となって、僕らの信仰や愛情を知らず知らずの裡に
歪めているのではなかろうか。一つの
茶碗を熱愛し、この唯一つにいのちを傾けるだけの時間をもたぬ。他の二三の茶碗を手にとって、素早く比較し、比較において
味うという態度には、近代人の致命的な弱点がひそんでいるのではなかろうか。
僕は近頃、博物館について
益々疑惑を抱くようになった。便利といえばこれほど便利なものはない。
僅かの時間で尊い遺品の数々に接することが出来る。しかし僕らは博物館の中で、何かしら不幸ではないか。東京の国立博物館でも、奈良博物館でも、法隆寺宝蔵殿でも、ふっと空虚な
淋しさを感ずることがある。病院の廊下を歩いているような淋しさだ。僕ははじめそれが何に由来するかわからなかった。古仏が本来その在るべき仏殿から離れて、美術品としてガラスのケースに幽閉された時の淋しさはむろんある。だがケースに陳列してそれほど不自然にみえない筈の工芸品にしても、博物館にあると急に白々しくなる。この空虚とは何か。淋しさとは何か。僕は近頃になって、それが愛情の分散であることにはっきり思い当った。つまり博物館とは、愛情の分散を
強いるようにつくられた近代の不幸なのではなかろうか。
僕らはこの不幸を、信仰の上にも思想の上にも、おそらく恋愛の上にも
担っている。比較しつつ信仰する人間の信仰を信用出来るだろうか。比較しつつ愛する人間の愛情を信じうるだろうか。大和に散在する古寺を、僕らはいつのまにか博物館の一種として感じるようになったのである。僕らはもはや昔の人が感じるように古寺を感じてはいない。僕らの感じているのは、実は寺でなくて博物館ではないか。この無意識の
変貌を僕は最も
惧れる。信仰にとっては致命的だ。云わば神と仏の博物館を巡るといったような状態に知らず知らずの間に
堕ちて行くのではなかろうか。僕が戦争中に太子伝をかこうとした気持の中には、この状態に対する意識的な戦いがあった。自分の心中に唯一つ不抜の仏殿を
建立したいと願ったのである。
唯一者への全き帰依を阻むものとして、近代の知性を挙げてもよい。信仰という分別を超えた問題に面すると、僕の知性は猛烈な抵抗を開始するのだ。すべてを割り切ることの不可能はよく知っている。知性の限界を心得ている筈だ。それでいて知的な明快さを極限まで追い、合理的に説明しつくそうという欲求にかられるのである。現代人にとっては、こうした知的動きは
賞讃さるべきものらしいが、僕にとっては「罪」なのだ。比較癖とともにいつも自分を苦しめるのである。太子を仰ぎ、太子の生涯を究めながら、知性はそこに帰依することを妨げ、何かもっといいものが別の
処にたくさんあるように絶えず誘う。
知性は博物館の案内者としては実に適任であろう。だが信仰の導者としては「
無智」が必要だ。「無智にぞありたき。」と述懐した鎌倉時代の念仏宗のお坊さんの苦しみがわかるような気がする。人は
聡明に、幾多の道を分別して進むことが出来る。しかし愚に、唯一筋の道に殉ずることは出来難い。冷徹な批判家たりえても、愚直な殉教者たりえぬ。そういう不幸を僕らも現代人として担っているのではなかろうか。宗教や芸術や教育について、様々に
饒舌する自分の姿に
嫌悪を感ぜざるをえない。「愚」でないことが苦痛だ。それともこんなことを言っている僕が、愚にみえるだろうか。
*
平安末期から鎌倉時代へかけては、太子讃仰の念の
勃興した時代であるが、この頃の人の信心をうかがうと、実に「愚」で熱烈で真直ぐだ。今日からはとうてい信ぜられないような伝説を信じ、そこに一心
帰命して悔いなかった。僕らはいま太子に関する正確な史料を所有している。あらゆる考証はゆきとどいている。太子に関する知識では古人に数倍する筈だが、それに比例して「拝む」ことからは益々遠ざかって行くのは何故だろう。僕は夢殿への道を歩きながら、古人と僕らとの間にあるこの深い相違について
屡々考えた。古人の太子奉讃は、
感謝に始って
帰依に終っているが、僕らの太子奉讃は、
研究に始って
教養に終る。古美術の本を携えて夢殿見物に出かける人は多いが、たとえば
親鸞の太子奉讃の和讃を心に
称えつつ
参詣する人は
稀であろう。
仏智不思議の誓願を、聖徳皇のめぐみにて、正定聚に帰入して、補処の弥勒のごとくなり。
救世観音大菩薩、聖徳皇と示現して、多々のごとくすてずして、阿摩のごとくそひたまふ。
無始よりこのかたこの世まで、聖徳皇のあはれみに、多々の如くにそひたまひ、阿摩の如くにおはします。
聖徳皇のあはれみて、仏智不思議の誓願に、すすめいれしめたまひてぞ、住正定聚の身となれる。
他力の信をえんひとは、仏恩報ぜんためにとて、如来二種の廻向を、十方にひとしくひろむべし。
大慈救世聖徳皇、父のごとくにおはします、大悲救世観世音、母のごとくにおはします。
久遠劫よりこの世まで、あはれみましますしるしには、仏智不思議につけしめて、善悪・浄穢もなかりけり。
和国の教主聖徳皇、広大恩徳謝しがたし、一心に帰命したてまつり、奉讃不退ならしめよ。
上宮皇子方便し、和国の有情あはれみて、如来の悲願を弘宣せり、慶喜奉讃せしむべし。
多生曠劫この世まで、あはれみかぶれるこの身なり、一心帰命たえずして、奉讃ひまなくこのむべし。
聖徳皇のおあはれみに、護持養育たえずして、如来二種の廻向に、すすめいれしめおはします。
この十一首は親鸞の太子奉讃和讃として伝えられるものだが、感謝と帰依を一心に述べている以外何もない。むろん今日の「理智」を満足せしめる
底のものではない。正直なところ、僕にしてもこの和讃を馬鹿らしく思ったことがある。しかし僕は、ここにかかれた言葉よりも、こういう思いを述べざるをえなかった親鸞の気持や
人柄について、考えてみないわけにゆかなかった。愚に熱烈に、何が彼をしてかかる一筋の道を歩ましめたか。
この和讃を読んでいると、人世を渡るに
拙い人の深い苦悩が浮び上ってくるようである。僕は現代人を
対蹠的に考えてみた。保身術にかけては、現代人ほど巧みに素早いものはおそらく過去になかったであろう。時代苦や人生苦から、素早く身をかわす術に、実に熟達しているようにみえる。しかし鎌倉人は鈍重であった。時代苦に打ちひしがれつつ、滅びるかにみえて滅びず、苦痛の底を無器用に
這いずり廻って、やがてのそのそと立ちあがる、おそろしくのろまでしかも
強靱な力があったようだ。苦悩に対する持続的な忍耐力をもって、云わば心ゆくまで時代に傷ついたのだ。決して器用な世渡りなぞ出来なかった。堕ちたるものの呻きが、はじめて
邂逅をよび、感謝と帰依に一切を
見出すのは当然ではなかろうか。親鸞の和讃のごとき一種の
相聞と云ってよい。「
遇ひ難くして今遇ふことを得たり、聞き難くして
已に聞くことを得たり。」(
教行信証)といった邂逅の歓喜は、苦悩の長い漂泊なくては得られないであろう。美術の本をかかえて夢殿へ行くためには何の苦悩もいるまい。
――昭和二十年秋――
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この数年のあいだ幾たびとなく法隆寺を訪れたが、はじめての日の印象ほど感銘ふかいことはなかったようだ。私はいつもその日を
想い起す。昭和十二年の晩秋、夕暮近く、木津川の奔流に沿うて奈良へ
辿りついたが、これが
大和への私の初旅であった。それまで大和の風光や古寺の美は聞いていたけれど、容易に訪れようとはしなかった。北国に育った私は東北地方や津軽海峡を渡るのをさして
億劫に思わぬが、まだみぬ南の古都は、
遥かにとおく雲に
隔った異郷のように感ぜられ、また早い青年時代の自分にとっては、古仏などあまり心にとめなかったのである。むしろ西欧の古典美術に
憧れ、
伊太利へだけは是非とも行きたいと思っていた。
希臘やルネッサンスの彫刻の方がはるかに私の心をひいたのである。
尤もそれらの彫刻や像は、写真で知っているのみだったから、判断も
曖昧なものには相違なかったが、正直なところ、私は仏像にどうしても親しみえなかったのである。その主な理由は、仏像は人間を行為に誘う
溌剌たる魅力にとぼしいということであった。仏像に対していると、彼は自らは語らず、私にのみ多くを語らせようと欲する。私は自分の生存について、環境について、苦悩について、限りなく彼に訴え問うことが出来るが、仏像の表情は何事も答えない。半眼にみひらいたこのものは、大をみているのか、人の背後の
漠々たる空間をみているのか不分明である。人間を無視したような腹だたしいまでの沈黙が私を
疎遠にさせた。仏は人間の行為をすべて無為に誘うのであろうか、その眼を見ていると、私はそこに
屡々人間の神秘よりも野獣の神秘を見るのであったが、たとえばアポロ像に比して、これがより原始に、より自然に、母なる大地にむすびついている
所以なのでもあろうか。対自然的ではなく、即自然的に、行為よりは直観に依存して自得した人間の着座でもあろうか。希臘彫刻には対自然的に争闘し、行為し、時に敗北した人間の悲哀が宿っているように思われる。我々は彼と
偕に肩を組んでオリムポスの峰々を歩むことが出来る。そういう親しさが仏像にはない。あまりの沈黙と
静謐、
尨大で奇怪な生命力――それに対すると、私は抱擁せずむしろ
狐疑逡巡し警戒するのを常とした。生の
讃歌を否定するのではないか――これが私の仏像への
危惧であった。
奈良へ来てはじめてわかったことであるが、自分のこの感じは主として座像に関係していたようである。はじめどのような座像にも心をひかれなかった。
殊に巨大であればあるほど。しかし立像と
半倚像の美しさは言語に絶した魅力をもって私を圧倒した。わけても法隆寺金堂に
佇立する
百済観音は、仏像に対する自分の偏見を一挙にふきとばしてくれた。このみ仏の導きによって、私は一歩一歩多くの古仏にふれて行くことが出来たと
云ってもいい。
はじめて法隆寺を訪れた日は、
俄雨の時折襲ってくる日で、奈良の郊外は見物人も少くひっそりと静まりかえっていた。雨の晴間には、透明に高い秋空があらわれ、それに向って五重の塔は鮮かな輪郭を示していた。金堂の内も外もこの日は落着いてみえた。私は塔をみあげながら金堂の後を
廻って、案内人に導かれつつ慎んで
扉の内へ入ったのである。
仄暗い堂内には
諸々の仏像が佇立し、
天蓋には無数の天人が奏楽し、周囲には
剥脱した壁画があった。私はその一つ一つを丁寧にみようともせず、いきなり百済観音の前に立ったのである。
橘夫人念持仏の
厨子を中心にして、左側に百済観音、右側に
天平の
聖観音が佇立していたが、それを比べるともなく比べて
眺めながら、しかし結局私は百済観音ただ一
躯に
茫然としていたようである。
仄暗い堂内に、その白味がかった体躯が
焔のように真直ぐ立っているのをみた
刹那、観察よりもまず合掌したい気持になる。大地から燃えあがった永遠の焔のようであった。人間像というよりも人間塔――いのちの火の生動している塔であった。胸にも胴体にも
四肢にも写実的なふくらみというものはない。筋肉もむろんない。しかしそれらのすべてを通った彼岸の、イデアリスティクな体躯、人間の最も美しい夢と云っていいか。殊に胴体から胸・顔面にかけて剥脱した白色が、
光背の
尖端に残った朱のくすんだ色と
融けあっている状態は無比であった。全体としてやはり焔とよぶのが一番ふさわしいようだ。
これを仰いでいると、遠く
飛鳥の世に、はじめて仏道にふれ信仰を求めようとした人々の清らかな
直ぐな
憧憬を感じる。思索的で観念的であるが、それが
未だ内攻せず、ほのぼのと夢みているさまがおおらかである。他の推古仏と同じように、その顔も
稍々下ぶくれで、
古樸端麗、少しばかり陽気で、天蓋の天人にもみらるる一種の童話的
面影を宿している。顔面の剥脱して表情を失っているのも
茫乎として
神々しい。同時に無邪気であり、生のみちあふれた
悦びと夢想の純潔を示す。
静に佇立しているようだが、体躯は絶えず上へ上へとのびあがり、今にも歌い出さんばかりである。飛鳥びとの心に宿った信仰の焔を、そのまま結晶せしめたのだろうか。――私が長い間失っていた合掌の気持を、このみ仏がしずかによび
醒ましてくれたのであった。
私はまた千三百年前の民たちが、かような仏像をどんな心で拝したかを想像しないわけにはゆかなかった。
建立された当時の金堂は、目を奪うばかり
絢爛たる光彩を放っていたであろう。壁画も鮮かな色彩のままに浄土の
荘厳を現出していたであろうし、百済観音も天蓋の天人も、おそらく極彩色で塗られ、ことによるとしつこいほど華麗なものだったかもしれぬ。民たちは新しい
教に驚異し、
畏敬と恐怖と、あるいは懐疑の念をもってこの堂内にぬかずいたであろう。しかし、ふと頭をもたげて、
燈明と香煙のたちのぼる間に、あのすばらしい観音の姿を
見出したときの驚きはどんなであったろうか。彼らは我々のように無遠慮な批評がましい観察などしなかったにちがいない。合掌のあいまに、彼らもまた
仏陀のごとく半眼にひらいて陶酔したのではなかろうか。すべてが剥落し崩れて行くこの御堂に在って、
古のそういう荘厳を私は幾たびも心に描いてみた。今はすべてが寂しく崩れようとしているが、後代に附与された一切の解説は
空しい。
*
初めて奈良へ旅し、多くの古寺を巡り、諸々の仏像にもふれた
筈なのに、結局私の心に鮮かに残ったのは百済観音の姿だけであった。云わばこのみ仏を中心として、他の多くが群像としておぼろげながら眼に浮んでくる、そういう状態であった。私の初旅の思い出はつまりは百済観音の思い出となるのである。その頃夢殿は修理中であり、折あしく
救世観音は拝することが出来なかったが、中宮寺の
思惟像も、薬師寺の聖観音も、三月堂も、高畑の道も、香薬師もみた。いずれも美しく、驚嘆と悦びの連続ではあったが、何故か初旅の後に、筆をとればつい百済観音の讃歌のみをかいてしまうような有様だった。その後、屡々大和を訪れるようになってから、次第に自覚してきたことであるが、多くの古寺、諸々の仏像を同じような態度で見て廻り観察することは、つまり自分の心にそぐわぬのだ。一度の旅には、ただ一つのみ仏を。そこへ祈念のために一直線にまいるという気持、私はいつのまにかそれを正しいとするようになった。尤もついでに(ついでにと申しては他のみ仏に失礼であるが)多くをみるけれど、その旅に念ずるものは
唯一つ。現在の私はそうである。
初旅の思い出を百済観音の思い出とする私は、また次のような感想をかいたこともある。昭和十三年の春、雪に埋れた自分の故郷で、前年はじめてみたこのみ仏を思い出しながら。
*
百済観音の前に立った刹那、
深淵を
彷徨うような不思議な旋律がよみがえってくる。仄暗い御堂の中に、
白焔がゆらめき立ち昇って、それがそのまま永遠に凝結したような姿に接するとき、我々は沈黙する以外にないのだ。その白焔のゆらめきは、おそらく飛鳥びとの苦悩の旋律でもあったろう。美術研究のために大和を訪れるなどは末のことで、仏像は拝みに行くものだと、そのときはじめてこの単純な理を悟った。私は信仰あつい仏教徒ではない。しかし茫然と立って、心の中ではつい拝んでしまうのである。
私は小さい時からカソリック教会堂の隣りで育った。長崎や下田とともに日本で一番古い開港場だった北方の私の故郷は、早くから雑多な外人の居留地であった。したがって様々の教会がいまなお残っている。隣りがローマ・カソリックで、その隣りがロシア系のハリストス正教会、その前に英国系の聖公会があり、少し坂を下るとアメリカ系のメソジスト教会があると云った風で、私は幼少年時代をかような環境で過した。それで屡々近隣の教会へ遊びに行った。カソリック教会堂の裏庭は
崖になっていて、そこに
洞窟があり、等身より稍々小さいマリアの像が安置されていた。
所謂受苦聖母という像で、
双手をあわせながら眼を天へ向けて祈っている姿である。そのすらりとした姿態や、
裾の長くのびた衣のひだの美しさなどは、子供心にも神々しく感じたものである。
百済観音を眺めながら、私はふとこの受苦聖母を想い出した。肩から腕、胸から胴へかけての清らかさや、下肢に添うて柔かに垂れている絹布のひだなどは、
頗るよく似ていた。しかし百済観音は何ものにも祈っていなかった。これは受苦観音ではない。おおらかな微笑を
湛えて地上を
闊歩しそうな姿態である。神韻
渺茫たる一の精神が、人間像に近接しながら、しかも離れて何処へとなくふらふらと歩いて行くような姿だ。天蓋の天人にもみられる童話的挙措である。顔の
面長な天人が、
琵琶をかかえている姿をみると、「行く春やおもたき琵琶の抱きごころ」という
蕪村の句を思い出す。有難く近よりがたいが、同時に春風
駘蕩として楽しいのである。
マリアの像にはかような
雰囲気は絶無だ。
基督教徒は、受苦聖母の前でどんな祈りを
捧げるのであろうか。文学の上で私の知っているところでは、「ファウスト」第一部にグレエトヘンのささげる美しい祈りの言葉がある。「
痛おおきマリア様、どうぞお
恵深く、お顔をこちらへお向け遊ばして、わたくしの悩みを御覧なされて下さいまし」という句に始まる
祈祷は哀調にみちた美しい祈りであると思う。実際、洞窟の中に天を仰いで佇立しているマリアを眺めると、何かしら心が痛んでくる。受苦聖母はその運命のゆえに、人間を
懺悔と悲哀に誘うのだろうか。
磔刑になったキリストの像はみていて気持のいいものではない。ああいう激烈さ、残酷さ、あらわな受難の表情を和げるために、中世はマリア像を
専ら礼拝し、マリアを通してキリストを
偲んだと、
或る本で読んだことがある。磔刑を眺める人間は祈りを忘れて殺気だつのかもしれぬ。そうした危険は、
或はマリアによって悲しく静められたのでもあろう。しかしその代り、マリア像は、人間に内攻する精神をもたらしたのではなかろうか。
百済観音をみて心
愉しくなる理由のひとつは、近代に激しい内攻症を根絶してくれる点にある。私はそう思う。これを忘却の精神と呼んでもいい。百済観音は、異邦の神々にもましてレエテの河の水浴に通達していたのかもしれぬ。私の勝手な空想ではあるが、ともあれこのみ仏は一切を忘れさせる力をもっている。マリアは一切を思い出させる力をもっている。既に
恢癒したはずの傷までがまた
疼き出しそうだ。言うまでもなく私にとっては忘却の方が有難かった。
若しこの世に大慈大悲というものがあるならば、それはすべての苦悩を、罪禍を、いな人生そのものをさえ忘れさせてくれる力にちがいあるまいと思う。
はじめて法隆寺にまゐり、
百済観音を拝して詠める。
いづくより 来ませし仏か 敷島の 大和の国に 廬して 千年へにける けふ日まで 微笑たまふなり 床しくも 立ちたまふなり ほのぼのと 見とれてあれば 長き日に 思ひ積みこし 憂さり 安けくなりぬ 草枕 旅のおもひぞ ふるさとの わぎ妹に告げむ 青によし 奈良の都ゆ 玉づさの 文しおくらむ 朝戸出の 旅の門出に 送りこし わがみどり児も 花咲ける 乙女とならば 友禅の 振袖着せて 率ゐ行かむぞ このみ仏に
反歌
現世は めでたきみ代ぞ 平けく 微笑て在はせな 百済みほとけ
――昭和十二年秋――
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旅に出ると、自分や周囲のものの生命が平生にもまして不安に感ぜらるる。旅の前には様々の計画もたてるが、いざ
大和へ行って古仏に接すると、美術の対象として
詳に観察しようという
慾など消えてしまって、ただ黙ってその前に礼拝してしまう。拝んで一瞬すべてを忘却出来れば、それでいいではないか――私はそう思うことが多い。そうしている間だけ生の
漠然たる不安から逃れられるような気がするのだ。しかしこの
刹那がすぎると、今度は際限のない怠惰な気持におちいり、古寺巡りなどもう
億劫になってしまう。その折の自分に、好ましく思われた野辺や、一
躯の
菩薩像の前に
坐して、ただわけもなく、うつらうつらと一日を遊び過していたい――そういう気持になる。身のおきどころもないような春の大和では、とくにこんな状態になる。
この春、ちょうど夕方であったが、木津川へさしかかる前、菜の花の咲き乱れた遠い
涯に、伊賀の古城が
夕映をうけて紫色に燃えているのを見た。それは人の心を無限の虚無に誘うような状景であった。私は観世音菩薩の姿をぼんやり心に浮べてみたり、信仰のことなど考えていたが、それを押しのけるように、この風景は残忍な寂しさをもって迫って来た。夕暮の一きわ鮮かな色彩は、いまはいのちの燃焼のようにみえ、長く私の心に
止った。
翌日法隆寺を訪れたときは、風がつよく金堂の
扉は
悉く閉ざされ、うす暗い堂内は一層暗くて壁画などは
殆どみえないような状態であった。私は一番先に
百済観音の前に立ってみた。妙に白っぽい姿が
薄闇のなかにすらりと立っていて、昨年の秋感じたようなほのぼのとした暖さがみられない。私は全く無感動のまま、これはどうしたことだろうと自分の心を疑ってみた。春のけだるさのためかもしれない。私の心は空虚であった。何かの信念を求め、過去から脱却しようとしてこの御堂に急ぎまいるときの心にのみ、百済観音が最初の救いとなるのであろうか。
或る情熱にとらわれているとき、はじめてあの漂うような精神の
焔は、そのまま天啓ともなるのであろうか。だがきょうの私は怠けものであった。
ところがそういう私にとって、念持仏
厨子の右側に立つ天平の聖観音像が、何となく親しみふかくみえてきたのである。百済観音に比すれば、天平のこのみ仏は、成熟した女体をうつしたように生ま生ましく人間に近い。顔は推古仏の
面長に比しまる昧を帯びているし、眼ははっきりと
透んだ
瞳をもつ。胸も胴も腰部も、
現身のようになまめいて、薄闇のなかに
艶麗な姿で立っている。あたかも金堂の壁画から抜け出してきたようにもみえる。この作者は、天平の美女に遠い
涅槃を祈念したのでもあろうか。信仰の心において
創りつつも、ふとそれを離れて、思わず美へ
惑溺した人のひそかな愉悦を、また
戦慄を、私は思わないわけにゆかなかった。夕暮の菜の花の色と、紫色に燃える伊賀の古城が再び思い出された。それがもたらす無気味な生の
懈怠と
頽唐とを。そういう感じをどうあらわしたらいいものか。私の最も愛する東洋の詩人オーマア・カイアムの
箴言がこのみ仏にも余韻しているのではなかろうか。
「右手に
聖典をとり、左手に
酒盃を持ち、正と邪との間に戦慄せよ。そのごとく我らは全く信仰の徒ともまた全く不信仰の徒ともならずして
蒼穹の下に坐すべきなり」
「我らは無窮を追ふ無益の探究を捨てなむ。
而うして我らの身を現在の歓楽に
委ねむ。
竪琴のこころよき音にふるふ長き黒髪に触れつつ」
「
汝は地の上を
逍遥ひ歩きぬ。されどすべて汝の知りしところのものは無なり。すべて汝の見たるもの、すべて汝の聞きたるものは無なり。たとへ汝は世界の涯より涯まで歩めばとて、すべてのものは無なり。たとへ汝の家の
隅に止まりたればとて、すべて在るものはみな無なり」
堂内はひっそりしていて、私以外には拝観者もいなかった。紫衣をまとった一人の老僧が、厨子にはたきをかけていたが、ぼんやり立っている私を見て、壇の上にあがってもいいという。私ははじめて多くの古仏を、その背後から触るるばかりに
眺めることが出来た。聖観音の背から胴体にかけてのなめらかな美しさは、指でさわるとそこがはじけそうに思われるほど
如実であった。
嘗つて光悦作と伝えらるる船橋
蒔絵硯筥をみたときも、私はそれを指で押してみたい誘惑を禁じえなかった。あの漆黒のふっくらともりあがった硯筥が
羊羹のように柔くへこむ、その触感をためしてみたかったのであるが、いまもそうであった。木彫のくすんだ色彩は生身の肉体を感じさせる。そして永遠の沈黙がある。
老僧は壇の上をゆっくり歩みながら、私に色々説明してくれるのである。私は自分を囲む古代の像に
茫然としているのみだった。ふいに老僧は、「汝の敵もまた汝の恩人であると申しましてな」と言い出した。老僧は玉虫の厨子に描かれた「捨身飼虎図」を指さしているのだった。その言葉が私の心をときめかした。私の敵は私の恩人であったろうか。何が私をいまこの御堂へひきよせているのだろうか。自分の過ぎし方を一つ一つ
辿って行けば、苦りきってしまうより他にないのであるが、いまは何も考えたくなかった。昨年ここへ来た折は一つの願いがあった。自分は自分を忘れる必要があったのである。一切忘却の果にくる無上歓喜を百済観音は私に与えてくれた。私はそのことを感謝の念をもっていつも思い出す。しかし今日の私には何の願いもない。春のけだるさのままに、いささか億劫な気持で金堂へやって来たのである。怠惰な旅人には百済観音は何の恵みも与え
給わぬのであろうか。だが天平の聖観音は、怠惰の日の私にとって、怠惰そのものが一つのふしぎな生命であることを語ったように思う。
――昭和十三年春――
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古寺を巡るごとに、諸仏に対する私の感慨も次第に変ってくる。はじめての日のような素直な感動は少くなって、へんにいらだたしくなったり、
或は不安を覚ゆるようなことが多い。どれほど美しく尊いものも、度重ねてみているうちには日常茶飯事になってしまうのだろうか。いつの間にか慣れてしまって、自分の感受性も鈍くなるのだろうか。しかしそうとばかり言えないものが私の心にわだかまってきた。古寺とはそもそも何だろう。たとえば大和の古仏が、
畢竟自分の心にもたらした感銘とは一体何であったか。私は何のために古典の地をうろつき
廻っているのか。秋晴れの
斑鳩の里を歩みながら、ふと私はかような疑念にとらえられるのである。
嘗つては悦びであったものが何故私に不安な気持を抱かせたりするのだろうか。
はじめて古寺を巡ろうとしていた頃の自分には、かなり明らかな目的があった。
即ち日本的教養を身につけたいという願いがあった。長いあいだ芸術上の日本を
蔑にしていたことへの
懺悔に似た気持もあって、改めて美術史をよみ、
希臘・
羅馬からルネッサンスへかけての西洋美術とどう違うかということや、仏像の様式の変化とか、そういうことに心を労していたのである。仏像は何よりもまず美術品であった。そして必ず希臘彫刻と対比され、対比することによって己の教養の量的増加をもくろんでいたのである。私においては、日本への回帰――転身のプログラムの一つに「教養」の蓄積ということが加えられていた。己の再生は、未知の、そして今まで顧みることのなかった古典の地で行われねばならなかった。古美術に関する教養は自分を救ってくれるであろうと。
だがはじめてみた
諸々の古仏は、「教養」を欲する乞食に見向きもしなかったということ――これは私のつねに感謝して想起するところである。美術品を鑑賞すべく出かけた私にとって、仏像は一挙にして
唯仏であった。半眼にひらいた
眼差と深い微笑と、悲心の挙措は、一切を放下せよというただ一事のみを語っていたにすぎなかったのである。教養の蓄積というさもしい性根を、一挙にして打ち砕くような
勁さをもって
佇立していた。本来人間は
悉く仏性をもつはずだ。
迷妄やまず罪禍にまみれようとも、むしろそれを縁として、本来具有する仏性を自覚することに一大事因縁がある。――何事も
畏怖する
勿れ。――この深い秘義を身にひそめた仏像は、私にとってもはや美術品でなく、礼拝の対象となった。拝むということが見るということなのだ。かような思い出は他にも
屡々記したところである。
*
この秋法隆寺へ行って新たに完成した大宝蔵殿を拝観した。金堂の壁画は模写中であり、修理もはじまるとみえて、堂内の諸仏は多く宝蔵殿に移され、その他の仏像とともに
漸く整備陳列された頃だった。しかしこの宝蔵殿ほど現代人の古仏に対する心理状態をあらわに示しているものはないように思われる。そこにまず看取されたことは、
仏と美術品との妥協であった。美術品として鑑賞出来るように、つまり博物館式に陳列してあるが、同時に仏としての尊厳も無視しえないとみえて、まさに仏として拝することの出来るようにも並べられてある。この妥協から実にぎごちない構想が生れる。
たとえば
百済観音は仕切った一室にただひとり安置されてある。新しい
天蓋と
蓮台もつくられた。すべては美々しく
粧われ、花も
捧げられてある。このみ仏の崇高を思うものは、これほど手をつくして大切に保存されているのを当然と思うだろう。しかし
仄暗い金堂の
裡に佇立して、
白焔の燃え立ったまま結晶したようなあの時の
面影はみられない。金堂の内部では何の手も加えられず、実にそっけなく諸仏のあいだに安置されてあった。ただ一体安置されるにしても、おそらく一切の装飾を去って、
薄闇の中にすらりと立たしめるのが最もふさわしいであろうと私は考えていた。かような構想はむろんむずかしい。とくに宝蔵殿のような場所では
尚更である。それにしても、いまのこの
祀り方は、あまりに人工的に過ぎはしないだろうか。尊ぶ気持はわかる。しかしそれが露骨に
蕪雑で、つまりは見てくれという示威的な要素が多分にふくまれているようだ。現在の法隆寺は自己の伝統にうぬぼれて、何事にも
勿体をつけようとするあさましい寺になっている。その半面には見物人に
阿ねる卑屈な根性もみられる。これは法隆寺を訪れるたびに私のいつも感じる
雰囲気だ。
百済観音のみならず、ガラスのケースの中にも多くの古仏は並べられ、造花が添えられ、
崇められているようにみえるが、また見世物式であることも否定出来ない。寺僧は必ずやこれらみ仏の前に礼拝するだろう。心から保存を念じているかもしれぬ。礼拝しつつ、だが一方では、古仏を美術品として鑑賞に来る「教養ある人々」の勿体ぶった顔にながし眼を使っているのだろう。これは私の邪推だろうか。「古典の復活」時代であるから、誰しも法隆寺を口にする。法隆寺は当代の人気を得ている。法隆寺の方では、その声に応じるがごとくすべてがアトラクション的になる。おそらく無意識の裡に異邦人の、
乃至は異邦人的な眼をもった教養ある日本人の好奇心と鑑賞を予定しているのだ。法隆寺は寺であるかショウであるか、私は疑わざるをえなかった。
宝蔵殿は新築されたばかりで木の香りも高い。設備も実に至れり尽せりである。そういう新しさが、千年を経た金堂の
陰翳になずんだ私にこんな思いをさせたのかもしれない。しかし根本は、仏像をそれが本来在るがままのものとして拝せんとする心を失った点に在るのではなかろうか、私にはそうとしか思えなかった。たとい宝蔵殿であっても、金堂や講堂におけるとひとしい雰囲気を努めて保存しなければならぬ。法隆寺が次第に見世物化して行く罪は誰にあるのか。私は自分も経過した一時期を悲しく思い浮べた。
古寺の美しさは、それが荒廃のまままさに崩れんとして行くところにあるというのは真実だ。荒廃を悲しむ心は誰にでもある。保存や再建を思うのは当然であろう。だがそれに手を加えることの重大さを我々はつい忘れ
易い。崩れゆく文物を、崩れるままにしておくべきか、或は補修を加え博物館に陳列すべきか、私にはそういう経験がないが、いつも迷う。これはむずかしい問題である。崩れるままにしておけばやがて朽ち去るであろう。再び人の眼にふれることもない。しかし、掘り出して近代的設備の全き宝蔵や博物館に陳列保存されると、
忽ちガラス張の
牢屋にとじこめられ、名札を添えられ、写真をとられ、批評され、胴上げされて見世物になり易い。やむをえぬことではあろうけれど、名もない荒寺の奥に千年の
塵をかぶってひそむ
風情は失われる。そういう風情を失わずに、何げなく保存するには
篤い信仰と繊細な心が必要なのだが、そういう心もいまは途絶えがちである。これは当今すべての古典の扱い方について言いうるところではなかろうか。ひとり法隆寺のみの問題ではない。古仏を語ることすらいかに至難であるか。私は宝蔵殿の見世物式陳列ぶりをみて内心
疑懼たるものがあった。
*
大和の古仏に接してから、経文をよみ、信仰について思いめぐらすようになったのも事実である。私はそれを有難いことと感謝している。
生涯いくたびもこの地を訪れるであろう。だが一方において、信仰が、この美しい古典の地に遊ぶことによって深められるかという疑念が起ってきた。つまり私にとってそこが天国であるということが、何となく不安に感ぜらるるようになったのだ。崇高なものに絶えずふれておれば、おのずから人の心も崇高になるではあろう。古典を学ぶことによって、我々の心もひらかれるであろう。しかし、そのひらかれた
筈の心が、自らを高しと感じ、古典の権威を自己の権威と錯覚するようになったらどうか。遺憾ながらこの錯覚から免れている人は
尠い。古典や古仏を語る人間の口調をみよ。
傲慢であるか、感傷的であるか、勿体ぶっているか、わけもなく甘いか。これら一切を自分の心から放下すること、換言すれば古典によって与えられた自己への幻想を
根柢から打ち破ること、私の心はそういう方へ傾いて行ったのである。
私は今まで大和の古寺を巡りながら、追放された自己を感じたことなぞ一度もなかった。いつも何かによって救いあげられ、高められる己だけしか感じなかったのであるが、これは仏恩というものなのか、それとも仏に対する私の
阿諛であるのか。後者の心がなかったとはいえない。古典が救いになる、などとはかりそめに
云えぬことだ。人間は出来るだけ早く安心や救いがほしい。そういう人間自身の弱さに古典が
恰好の化粧となり、しかも徹底してこの惑いから
脱れるのは至難なのである。誰しも古典の
峻厳について言う。だがその峻厳さはつねに無言である。かりそめの世評には気も転倒せんばかりの我々も、古典の無言の峻厳さには、つい
畏れを忘れて甘えがちなのである。
この秋の大和の旅で、真実のところ私の心から離れなかったものはシベリアの
流刑人達の姿であった。或はサガレンまで行ったチェーホフや、奥の細道という殺風景きわまる
処を歩いて行った
芭蕉の姿や、また越後に流された
親鸞のことなどであった。私は政治的意味で云うのではないが、彼らは追放された人々であった。自分で自分を追放した人と云ってもよかろう。云うまでもなく彼らは古典を極めた人々であったが、何故
殊更に極北の地へ向ったのであるか。心の旅として考えれば、人間の業の極まる処へ自ら求めて行った人のごとくにも思える。つまり天国をとらず地獄へ赴いたのだ嘗つては斑鳩の里も「極北の地」であった。そこに流された人生苦の血はいまいずくぞ。――
明媚な風光と新式の宝蔵殿は一切を居心地のよい観覧地と化してしまった。これが人生の常なのかもしれないが、私にとっては何となく不安なのである。
大和古寺を巡るにしたがって、私の心に起った
憂いとはつまりこうだ。代々の祖先が流血の
址を見て廻るものの不安と云ったらいいか。何故こんなに多くの仏像が存在するのだろう。三千年のあいだ、諸々の神仏あらわれて、人々の祈りに答え、また美しい祈願の果の姿となって佇立している。かくも見事な崇高な古仏がたくさん
列んでいて、しかも人間はいつまでも救われぬ存在としてつづいてきた。どちらを向いても仏像の山、万巻の経典である。古来幾百人の聖賢は人間のため道を説き血を流した。いま我々はその墓場を訪れ、どうかしてこの現世の大苦難を
脱けきる道を示し
給えと祈るのであるが、そして素晴しい啓示や
教に接し、日々その言葉を用いるのであるが、苦難は更に倍加し人間は何処へ行くべきかを知らない。古典を
承け継ぐとは、つまりは地獄を承け継ぐことなのか。はじめ古典はその甘美と夢によって我らを誘うであろう。だが、汝等固有の宿命に殉ぜよという追放の宣言がその最後の言葉となるのではなかろうか。
かくも無数の仏像を祀って、幾千万の人間が祈って、更にまた苦しんで行く。仏さまの数が多いだけ、それだけ人間の苦しみも多かったのであろう。一
躯の像、一基の塔、その
礎にはすべて人間の悲痛が白骨と化して埋れているのであろう。久しい歳月を経た後、大和古寺を巡り、結構な美術品であるなどと見物して歩いているのは実に
呑気なことである。
――昭和十六年秋――
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法隆寺の金堂の本尊は
云うまでもなく正面に安置せられてある
釈迦像であって、作者が
鞍作鳥(又は
止利)なることは
光背銘文によって明らかである。現在その右方に
在す薬師
如来像も鳥の作と推定されているが、元来このみ仏が本尊であったのを、
上宮太子への思慕と釈迦像の荘厳の故に後世置きかえられたと云われる。しかしいずれにしてもこの二体は、
飛鳥仏の典型たるのみならず、法隆寺創建の由来と太子
薨去を正確に伝える無比の記念として、光背銘文とともに
周く認められているところである。
薬師像の銘文は次のごとくである(訓読及び主旨は高島米峰氏に
拠る)。
池辺大宮
ニ治二天下ヲ一天皇。
大御身労賜
フ時。
歳次丙午
ノ年
ニ。召
シテ三於大王天皇
与二太子
ヲ一而誓願
シ賜
ハク。我
ガ大御病
ヲ太平
ニ欲
スレ坐
サント。故
ニ将
二造
リレ寺
ヲ薬師像
ヲ作
リ仕
ヘ奉
ラント一詔
ス。然
ルニ当時崩
ジ賜
ヒ。造
ルニ不
レバレ堪
ヘ者。
小治田ノ大宮
ニ治
メス二天下
ヲ一大王天皇及
ビ東宮
ノ聖王
ハ。大命
ヲ受
ケ賜
ハリテ而。歳次丁卯
ノ年
ニ仕
へ奉
ル。
〔池辺天皇、
即ち太子の御父用明天皇が御悩重らせ
給いしとき、それは
丙午の年、天皇の元年(紀元一二四六、太子十三歳)のことであったが、大王天皇即ち推古天皇と、太子すなわち聖徳太子とを親しく召されて「我が大御病の太平ならんことを
希うために、寺と薬師如来の像とを造り奉仕せよ」と仰せられたが、その翌年崩御あり、
遂に造立することが出来なかったので、小治田の大王即ち推古天皇と東宮の聖徳太子とが、この大命を奉じて、
丁卯の年、即ち推古天皇の十五年に至って、造立の御志を果された。〕
釈迦像の銘文は次のごとくである。(同上)
法興元卅一年。歳次辛巳
ノ十二月。鬼前大后崩
ズ。明年正月廿二日。上宮法王枕
フシレ病
ニ弗レ念二干食
ヲ一。王后仍
チ以労疾
ミ。並
ニ着
ク二於床
ニ一。時王后王子等及
ビ与諸臣。深懐愁毒。共相発願
ス。仰
デ依
リ二三宝
ニ一当
ニレ造
ル二釈像寸王
身一。蒙
リ二此
ノ願力
ヲ一。転
ジテレ病
ヲ延
ベレ寿
ヲ。安
二住
セン世間
ニ一。若
シ是
レ定業
ニシテ。背
クトキハレ世
ニ者。往
イテ登
リ二浄土
ニ一。早
ク昇
ラセタマヘト二妙果
ニ一。二月廿一日癸酉。王后即世
シ。翌日法王登遐
ス。癸未三月中。如
クレ願
ノ敬
ンデ造
リ二釈迦尊像並
ニ挟持及荘厳
ノ具
ヲ一竟
ル。乗
セバ二斯
ノ微福
ニ一。信道
ノ知識
ハ。現在安穏。出
デテレ生
ヲ入
ルレ死
ニ。随
ヒ二奉三主
一。紹
二隆
シ三宝
ヲ一。遂
ニ共
ニセバ二彼岸
ヲ一。普
二遍
スル六道
ニ一。法界
ノ含識
ハ。得
二脱
シ苦縁
ヲ一。同
ジク趣
ツカン二菩提
一。使
シテ二司馬鞍首止利仏師
ヲ一造
ラシム。
〔法興元三十一年、即ち推古天皇の二十九年十二月の某日に、太子の御母
間人太后が崩御になり、その明年即ち推古天皇の三十年正月二十二日に、太子が御病気になられて、食事を
念び給わず、太子の正妃、
膳大刀自(
菩岐々美郎女)が心労のあまりまた同じく重い病の床につかれた。重ねがさねの悲しむべき御事情に、他の三人の太子妃や諸王子達が、国の臣等と
倶に深い哀愁を
懐き、諸共に発願して、三宝に祈念し、一
躯の釈迦如来の像――太子と等身なるを作り、その
功徳を以て、御病
平癒、長寿安泰なるよう
若しまた
定業止むなく薨去遊ばされるとしても、
速に仏の浄土に往生せられ、無上の仏果
菩提に登られるようにと願った。しかし御二人とも御回春を見ずして、一カ月後の二月二十一日に膳大刀自が
亡くなられ、その翌二十二日には太子が薨去せられたのである。そして越えて三月中に、発願の如く釈迦
牟尼如来とその
脇士(薬王、薬上の二菩薩)と、三尊の像が完成し
荘厳安置せられた。この功徳に乗じて、「信道知識」即ち同信同行の一類
眷属も、現世安穏、来世には生死を
解脱して三尊に
随いまつり、不生不死なる
涅槃の彼岸に
逍遥せられ、しかも尽きざる功徳により、
普く六道三界の衆生も諸共に苦縁を脱し、共に菩提に転向せしめられるであろう。この尊像は、司馬
鞍の
首、止利仏師をして造らしめたのである。〕
即ちこの二つの銘文によって、法隆寺が用明天皇勅願の寺であり、その御心を継いで推古天皇と太子の
建立されたところであることが明白となるとともに、太子薨去前後の事情も正確に知らるるわけである。わが国最古の金石文字として、歴史的に重要なことはむろんである。しかし同時に、造仏の動機はただ悲願あるのみという根本を告ぐる点で更に重大ではなかろうか。造仏における第一義の道はここに確定しているのである。
美的関心あるいは様式技術論のみをもって仏像に対することの不可は、誰しも一応認むるのであるが、悲願を体得するという困難のゆえに、つい我々は美術品としてのみこれをあげつらい
易い。そこに一見学問的にしてしかも無意味な比較研究が起る。
白鳳天平の諸仏に比して、飛鳥仏の稚拙と固定性は美術家のすべてが論ずるところである。釈迦像にしても薬師像にしても、形式から云えば
北魏の
磨崖の像に起源していることは今日の定説と云っていい。浮彫であるから彫刻として未だ完全な立体性をもたず、ただ正面からのみ拝されるよう限定され、そこに堅くるしい制約の生じたことも
尤もであろう。この磨崖から抜け出したものが、多くの歳月と国土を経て、わが国に伝わり、鳥によって多少の変更を加えられたのが本像であるという。後世の
謂う彫刻性あるいは写実性を固執すれば、この二像のごとき決して
完璧とはいえないのかもしれぬ。
しかし私は仏像における彫刻性あるいは写実性とは何か――今日美術家の説くところに対して多大の疑問をもつ。白鳳天平となれば、仏像は完全に立体性をもち、つまりは人体に近くなる。人体に近いほど我々に親しさをもたらすのも事実である。飛鳥の釈迦像よりも天平の聖観音の方が我々を喜ばしてくれる。更に三月堂や戒壇院の四天王像となれば益々面白い。この面白さとは、結局彫刻としての面白さであり、そこに写実性
乃至人間性に立脚する古美術論が成立つ。これに接したときの我々の情感も、体躯の柔軟なくねりに応じて自由になるように思われる。これは仏像の進歩というものなのだろうか。信仰の発展というものなのだろうか。
だが私は最も始源の意味に――即ち第一義の道に
還りたい。仏師が仏を彫る
所以のものは、さきに述べた人間の悲願に発するのである。まずその根本へ還りたい。写実といったときの「実」とは即ち「仏」であって「像」ではない。仏像とは彫刻ではなく、一挙にただ仏である。これは大事な根本でなかろうか。
然るに現在用いられている写実という言葉は、人間性と
聯関した、言わば人間の「実」を写すという意味が非常につよい。人間の「実」を求めて、遂にそれを超えた仏の「実」に達したところを見るならば私も一応納得するけれど、古人が「仏」の「実」として写したものを、人体にひきおろして鑑賞する態度は果して正しいだろうか。「私」の美的
恣意に
基く鑑賞によって仏像を解しうるだろうか。信仰の上から云って
冒涜であるのみならず、あらゆる点から云ってそれは虚偽ではなかろうか。造仏本来の意味に反する。現代の古美術論の多くはこの虚偽の上に成立っているように思われてならない。
正直なところ私も長いあいた金堂の本尊に親しみをもてなかった。同じ飛鳥仏でも
百済観音や中宮寺の
思惟像のごとく、人体に近づいてくる仏像ほど心をひかれた。しかし仏が人体に近づくということは、我々人間が仏に近づくための一機縁であって、人体に落着くためではない。この自覚が
曖昧なとき、私は文学的空想に
溺れて行ったようである。つまり人体の彫刻というものは、それのみでは実に甘いものにすぎず、また自分も甘え易いのである。仏像をここまでひきおろして
眺める危険――要するに私はこれと戦ってきたようなもので、今でもそうである。金堂の本尊に親しみを感じえなかったのは、本尊の美的稚拙に
由るのではなく、自分の信心の幼稚に基くのであることが最近
漸くわかった。厳粛なものは避けてとおりたかったのである。
鳥仏師は決して独創的な仏師ではなかったし、飛鳥時代の代表的彫刻家というような意識で造仏したのでもなかった。彼は驚くほど誠実に勅願を
承け、また太子の御心に服従した人である。御悲願を正しく心にとめて、北魏伝来の形式にそれを刻まんとしたのである。鳥の偉大さは、彼の全き
畏敬と服従にあると私は思っている。像においてはひたすら先人の作を模倣した。厳格に一つの手本を学び、自己の何ものをもつけ加えようとしなかった。彼はただ御悲願の完璧に盛られることを念じつつ
創ったのであって、あらゆる点で絶対服従のみが彼の最大美徳だったのである。法隆寺金堂釈迦像はそういう心情を見事に示しているのではなかろうか。
銘文にみらるる諸王諸臣の祈念に、おそらく鳥は全責任を感じたに違いない。その驚くべき緊張と畏敬と臣従と――「無私」が彼の名を不朽ならしめたと私は思っている。今日謂う彫刻性とか写実性とかいう言葉には全く無縁だったのだ。そういう純潔と厳しさは彼において頂点を示している。即ち造仏の根本動機における純粋性が彼のすべてであったのだ。信仰に段階はない。むろん進歩もない。それはいついかなる時代でも、一挙に頂点を示すものなのである。
鳥がこうした仏像をつくるに至った所以は、極めて明らかである。彼がいかに皇室の親任を
蒙っていたかは日本書紀からもうかがわれるのであるが、そこに一切の
鍵がある。
推古天皇の十四年五月、天皇親しく鳥に
賜わった次のような
詔がある。
「
朕れ
内典を
興隆さむと
欲ふ。
方将に
寺刹を建てむときに、
肇めて舎利を求めき、時に、汝が祖父
司馬達等便ち舎利を
献りき。又国に
僧尼無し、是に於いて汝が父
多須那、
橘豊日天皇(用明天皇)の為に
出家し、仏法を
恭み
敬ひたり、又汝が
姨島女初めて出家して、諸尼の
導者として、
釈教を
修行ふ。今、朕れ、丈六の仏を造りまつらむが
為に、
好き仏の像を求む。汝が
所献仏の
本、即ち朕が心に
合へり。又仏の像を造ること既に
訖りて、堂に入るることを得ず、
諸々の
工人計ること
能はず、
将に堂の戸を
破たむとせり。然るに汝、戸を
破たずして入るることを得つ。此れ皆汝が
功なり。」
これによって明らかなように、鳥は帰化人司馬達等の孫にあたるが、祖父より代々朝廷に仕えて仏法のためにつくした
家柄である。その臣従を
嘉し、鳥の功を賞して、この詔とともに
大仁の位を賜わり、また
近江国坂田郡の水田二十町を下された。鳥はその田を私せず、天皇のために更に金剛寺を建立したと伝えられている。金堂の釈迦像もかような心情を無視しては真に解することは出来ないであろう。推古天皇と上宮太子、及び鳥仏師との間の信仰に結ばれた君臣の情が、あの無比の畏敬となってあらわれたのであろう。しかし、釈迦像には感傷的な何ものもない。おそらく鳥の、「私」を滅却した全き帰依が然らしめたのである。
――昭和十七年秋――
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夢殿をめぐって中宮寺の庭へさしかかると、あたりが一層森閑としてくる。法隆寺に群る
参詣人達もここまでは足をのばさぬのであろう。
陽炎のたちのぼる暖かい春の日で、何をみてもけだるく疲れ
易かったが、ひっそりしたこの庭に行ったとき、はじめて心のひきしまるのを覚えた。中宮寺はもと太子の御母君
間人穴穂部皇后の宮であり、皇后崩じ
給いし後尼寺にしたという。今に残る中宮寺は古建築物一つなく、寺というよりは高貴な方の邸宅にも似た新しい御堂があるばかりである。遠い
飛鳥時代に、四天王寺や法隆寺が
建立されるまでは、おそらく仏像は各氏族の邸内にこのようにして
祀られたのであったろうと
懐しく思われた。玄関までの玉砂利も
綺麗に掃き清められて、尼寺にふさわしく、
楚々たる感じにあふれていた。
玄関の呼鈴を押すと、ずっと奥の方から娘らしい
可憐な声がつたわってきた。
暫く待っていたけれどなかなか出てこない。耳をすますと、ずっと奥の方で鈴をふるような音が聞えるので、
勤行の最中でもあろうかと思ったが、それは中宮寺の後の野辺から立ちのぼって頭上はるかに
囀っている
雲雀の声であった。空高くかすかに鈴を振るような
啼き声をきいていると、ふと童話の国へ来たように思う。やがて十六・七のずんぐり太った尼僧があらわれ、
脇のくぐり戸をあけて本堂の方へ導いてくれた。白砂を敷きつめた堂前の庭は、春の光りを一杯に吸って美しく輝いていた。冷酷なほどの静けさのなかに、
木蓮の花が白く咲き乱れている。私ははじめて有名な
如意輪観音の思惟の御姿をみたのであった。
深い
瞑想の姿である。半眼の
眼差は夢みるように前方にむけられていた。
稍々うつむき加減に腰かけて右足を左の
膝の上にのせ、更にそれをしずかに抑えるごとく左手がその上におかれているが、このきっちりと締った安定感が我々の心を一挙に
鎮めてくれる。厳しい法則を柔かい線で表現した技巧の見事さにも驚いた。右腕の方はゆるやかにまげて、指先は軽く
頬にふれている。指の一つ一つが
花弁のごとく繊細であるが、手全体はふっくらして豊かな感じにあふれていた。そして頬に浮ぶ微笑は指先がふれた
刹那おのずから
湧き出たように自然そのものであった。飛鳥時代の生んだ最も美しい思惟の姿といわれる。五尺二寸の像のすべてが比類なき柔かい線で出来あがっているけれど、弱々しいところは
微塵もない。指のそりかえった
頑丈な足をみると、生存を歓喜しつつ大地をかけ
廻った古代の娘を
彷彿せしむる。その瞑想と微笑にはいかなる苦衷の
痕跡もなかった。
一切の惨苦を征服したのちの永遠の微笑でもあろうか。いま春の光りが
燦爛とこの姿を照らして、漆黒の全身がもえあがらんばかりに輝いてみえる。私は飛鳥より大化改新を経て
壬申の乱にいたる
暗澹たる時代を顧み、その頃の人のひそかな祈念と
憧憬をこのみ仏に思わないわけにゆかなかった。この微笑に伏して悔いることなかったものこそ、或る意味で真の勝利者ではなかったろうか。
*
中宮寺の如意輪観音は、実は
弥勒菩薩であろうという説を読んだことがある。その有力な根拠として、たとえば
野中寺の同じ形式の
半跏像に「奉弥勒菩薩也」と銘記されていることが指摘されている。また
太秦広隆寺の同じ形式の像も、寺の旧記には弥勒菩薩とあるそうで、中宮寺のこの本尊もしたがって同じ名で呼ばれはじめているようだ。この問題は美術史家にとっては常識なのだが、私は植田寿蔵博士が「夢殿」第十七
輯に発表された研究を面白く思っている。菩薩像の姿態は、その菩薩の説く
教の意義を何らかの形であらわそうとしていることは当然であって、弥勒の頬に指先をふれている挙措はむろんこの菩薩の願を語る。しかし如意輪観音にもまた同じような挙措があり、博士は「第一手思惟、
愍念有情故」という如意輪菩薩観門義注秘訳の一句をあげ、中宮寺の像が必ずしも弥勒と断定し難い
所以を述べておらるるのである。如意輪観音本来の姿は、
六臂如意というとおり腕が六本あるが、そのうちの一手が軽く頬にふれていることは観心寺の像をみたとき私もはじめて知った。この頬にふれた一手の意味を、本質的なものとして含め強調したのが中宮寺の思惟像だという。そう断定する確実な資料はないが、精神においてはそうに違いないと博士はいう。私が博士の研究文に感心したのは、この間の考証自体よりも、考証をとおして語られたこの像への
讃嘆がいかにも柔軟に美しかったからであるが、私自身は観音さまが大好きであるという単純な理由のもとに、なおさら同感したのであった。
野中寺の弥勒菩薩も一度拝観したいと思っていたが、その後偶然の機会にみることが出来た。しかしこの像には感心しなかった。頬にふれた指が、中宮寺の如意輪観音のごとくつつましく内側にむかっているのではなく、ぎごちなく外面にむいている。したがって
掌全体がむきだしになり、そのため思惟の心が浅いものにみえるのである。作者の信仰が粗放であることを語っているように思えた。また観心寺の如意輪観音も拝観したけれど、その奇怪さには、面白くは感じたが、有難いとは思わなかった。六臂如意の意味をそのまま忠実に具体化して、六本の腕を与え、各々の威神力を示そうとした結果
却って感銘が薄くなったのではなかろうか。成程
均斉はとれているが、なまめかしい
章魚をみるようで尊厳さがない。この像を拝した人の心理は私には不可解である。ところが中宮寺の像は、かような観音のもつ一つの面だけを美しく柔軟に理想化したのであろう。そこに輝いた作者の
叡智を、私も植田博士と同じく讃美したい。
私はまた奈良帝室博物館でみた岡寺の小さな如意輪観音像を思い出した。豊かな頬と、夢みるような
眉や
唇をもったこのみ仏は、実に可憐で、小仏中の傑作と
云わるるのも当然であろう。瞑想をとおり越して、あどけなく眠っているようにみえる。その前に伏して念ずるよりも、平生机の上にでも安置して、時々頬を
撫でてあげたい――そう思うほど親しい印象をうけた。そうしているうちに童心を与え給うのが、このみ仏の慈悲なのかもしれない。だが思惟の像としては、あまりに
可愛くて、いまにも絶えいるばかりのはかなさを感じさせる。
中宮寺の像は、その大いさにもよるが、うける感じが
勁く
逞しいのである。つまり思惟は眠れるごとくみえても、直ちにそれを実践に移しうるような頑丈な
下肢によって支えられていること、逆にいえば、大地に根をおろして、その上で
虚空の果までも漂い行かんとする思惟、この調和が私にはすばらしく思われたのだ。前にも述べた下半身の安定感――これがなかったならば思惟の挙措は決してその深みをあらわすことが出来なかったであろう。広隆寺の同じ形式の像が実に美しいことは私も認めるが、あの思惟にどこか弱さが感ぜられるのは、下半身の安定感に欠くるところがあるからではなかろうか。とくに右足を左の膝の上にのせ、更にそれを抑えるように置かれた左手がぎごちなく思われる。抑える力――静かだが
然もきっちりと締める微妙な一点――あの大事な左手を刻みそこなったのである。信仰ではなく、却って彫刻家意識がこの誤りを招いたのかもしれない。
私は様々の仏像を
拉し
来って品さだめするなどは、実に堕落であり恐縮であると思っているが、中宮寺思惟像の無比なる所以を語ろうとしてついこんなことになってしまった。
*
ところで西洋人がつくった様々の彫刻のなかで、とくに思惟の像とも云いうるのは何か。それは比較しうべきものなのであろうか。私はふとロダンの「考える人」を思い出した。そしてこの二つをいつとはなく比べて考えるようになった。如意輪観音が「男にも
非ず女にも非ざる」一切諸法を具現しつつ、なお清純な乙女を彷彿せしむるのに対し、ロダンの「考える人」は男性中の男性である。中宮寺の思惟像はわずかにうつむいているが、「考える人」は
殆ど倒れるばかりに面を伏せて、頑健な右腕が
顎をぐっと支えている。身もだえするごとく右肩を内側にひきしめ、全身の筋肉がふしくれだってそのまま凝結したようにみえる。あの写真をみて私のうけた感じを一口に云えば、思惟の
苛烈さということだった。これが思想というもののもつ受難の相であろうか。顔面は極度に緊張し、思惟の重圧に額が破れるかと思われるばかりだ。右のこぶしで下からぐっと抑えられた顎の二重の筋肉には、何か強烈な苦悩が宿っているように思われる。これが西洋の思索する姿の典型というものだろうか。ほのぼのと
匂うがごとき瞑想の
面影はどこにもみられぬ。
峻厳な論理を追求して身も世もあらぬ苦しみの
態だ。しかし飛鳥の思惟像には、思惟することによる受難の表情は微塵もない。
豊頬をもつ美少女のごとく、口辺には微笑すら浮べている。この差異はどこから来るのだろうか。思惟の対象に深浅があるわけではない。どちらもその眼差の前方に
流転しているのは
凄惨な地獄である
筈だ。
「我を過ぎて憂愁の都へ、我を過ぎて
永劫の憂苦へ、我を過ぎて滅亡の民へ……一切の希望を
棄てよ、
汝等ここに入る者」――この地獄篇の歌が「考える人」に余韻しているとすれば、わが如意輪観音の
裡にも「
諸々の子等は
火宅の内に
嬉戯に楽み
著みて、覚らず、知らず、驚かず、怖れず。
火来りて身に
逼り、苦痛
己を
切むれども、心に
厭ひ
患へず、
出でんことを求むる
意無し」という火宅無常の
憂いの声はひそんでいる筈である。しかも西洋は、その思索に全身を焼く
人間をそのままに追求するのに対し、わが古人は、むしろこれを内に抑えて、人間を超えた
悲愍の微笑をもって有情の救いの手をさしのべる仏を念じたのである。この像を拝したであろう飛鳥人が必ずしも幸福でなかったことを思うとき、私は東洋の
深淵を感嘆せずにおれない。
天平末期から鎌倉へかけては、ロダンのごとき名手がわが仏師の中に幾人も輩出したことは明らかである。三月堂や戒壇院の四天王、あるいは興福寺の八部衆、傑僧の諸像、また
仏弟子の像や鎌倉の諸像をみるとき、私はこの方が比較に都合よいように思う。とくに彫刻という観念の確立したのは鎌倉である。運慶の
世親、
無著像に至ってはじめてルネッサンス以来の巨匠が対比されると言っていいのではあるまいか。しかし
仏陀と菩薩像の深さは、飛鳥
白鳳天平前期において世界に冠絶すると考えないわけにゆかないのである。彫刻という観念では律しられないのである。
中宮寺思惟像の思惟は、思索という言葉を用いるよりも、瞑想あるいは夢
三昧と云った方がふさわしい。ロダンの「考える人」には論理のきびしさが感ぜらるる。精密な分析力や体系を組織する力が、あの筋肉の一つ一つに宿っているようだ。如意輪観音の思惟にはそうした面影はない。ではこのみ仏は現世の地獄を
確とみず、
徒らに夢三昧に
耽っていたのだろうか。
否、この菩薩にとっては見るということは直ちに
捨身を意味した。地獄のあらゆるものの身に即して
化身する。化身即捨身即観世音であることは
普門品をみるとき明らかであろう。したがって苦悩の表情は当然予想される。だがそういう表情は、即身化身捨身を通して貫通する永遠の法身の裡に吸収され摂取されてしまうのだ。そして摂取の上で、むしろ摂取の刹那に、間髪をいれずあの幽遠の微笑が頬に浮びあがるのである。しかもなお救いつくされぬ悲心をもこめて。かかる摂取の微妙さはいかなる西洋彫刻にもみられない。ルネッサンス以来、人間に終始した西洋彫刻のついに及ばなかった大事の一点でなかろうか。
わが国人がかような仏像を拝し念じたとすれば、おそらくここにちがいない。経文によっても証明される。法悦の至境はおのずからなる摂取にある。摂取不捨の姿に身も心も投げすててぬかずいたのだ。仏陀の哲学をはじめてうけとったときの飛鳥人を私は想像しないわけにゆかなかった。彼らは
直ぐな心でこの
教に陶酔したのであろう。理詰の思索よりも、
一瞥して彼らはこの仏体に抱擁される自己を感じたに違いない。殉教者らしく悽惨な面影も、狂信者のもつ独善的姿もない。あたかも春の丘に腰をおろして雲雀をききながら、恋人を
偲ぶように遠い
印度の聖者を偲んでいるかのようだ。多くの悲劇のうちに在って、なおこのうららかな心を失わしめない、思惟像はそういう
風情において成立つ。現世の悲哀を思惟する眼差が、同時に浄土のはるけさへの郷愁を語るのである。私はロダンを退けようというのではない。西洋の彫刻をつまらぬとは思わない。ただ比較を絶したものがあるのだ。このみ仏に接していると、おのずから故郷へ
還ったような安らいを覚ゆるのである。尼寺の本尊であることも意味深い。
このみ仏は元来木彫であるから、広隆寺の思惟像のように、いまよりもっと柔かく美しい姿を現わしていたであろう。後になって保存のため漆で真黒に塗りつぶしたので、いまは鋼鉄のような感じを与える。これは私の想像であるが、今より百年あるいは二・三百年経った後、この漆が
剥脱して、もとの木肌があらわれたとき、その色彩と
陰翳はいかばかりすばらしいであろう。私はこのみ仏に、そういう将来を期待しているのだ。そうなる頃はむろん私は生きていない。拝することが出来ないのは残念であるが、その代り私自身も仏さまになっている。
――昭和十四年春――
いにしへの 飛鳥をとめと 慕ばるる 尼のみ寺の みほとけや 幾世へにけむ 玉の手の 光りふふみて 幽けくも 微笑せたまへる 頬にふれつ 朝な夕なに 念はすは 昨の嘆きか うつし世の 常なき愁か 頬にふるる 指のあはひに 春ならば くれなゐの薔薇 秋日には 白菊一枝 ささげなば 君がおもひぞ いや清に 薫りめでたく 深まりぬらむ
――昭和十七年秋――
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諸王諸臣の厚い御看護と祈願にも
拘らず、
上宮太子は推古天皇の三十年二月二十二日夜半
薨去された。その前日には太子の正妃
膳大刀自が
亡くなられ、前年の暮には母后が崩御されたのであるから、上宮一家の悲嘆は申すまでもない。一般民草に与えた深甚の影響についてはすでに述べたとおりである。いま中宮寺
思惟像の傍に断片のまま残っている天寿国曼荼羅は、太子の御
冥福を祈って、妃のひとりである
多至波奈大郎女が侍臣や
采女とともに
刺繍された繍帳銘である。原形は全く散逸してしまってうかがうべくもない。
真紅の布片や金色の刺繍の跡に、わずかに往時の荘厳な美しさが
偲ばるるのみである。
総じて古い布片の
類は、古仏とちがって何かしら
悽愴な感じを与えるものだが、天寿国曼荼羅も、華麗な
面影にも拘らずよく
眺めていると次第に薄気味わるくなる。つまりそこへ懸けた思いが、古仏のごとく吸収摂取されず、いつまでも生ま生ましく残っているのだ。
血痕のついた古い布を思わせる。金銅や木材に比べて一番弱そうな布地に、
却って人間の執念は消え難く
止るのであろうか。おそらく太子の妃や侍女達が、日夜念じつつ縫ったのであろうが、その一針一針に女の愛情と信仰が
執拗にこもっているようにみえる。執念のこまやかなあらわれには、一種のもの狂わしささえ宿って薄気味がわるい。悲哀のために透きとおるように細く鋭くなった指が、この刺繍にまつわりついていたのであろう。真紅の布地の上を、白い炎のごとく
這う指を私はいつも想像するのである。
天寿国曼荼羅の由来については、「上宮聖徳法王帝説」に次のごとく記載されてある。
「
(前略)歳辛巳十二月廿一日
癸酉の日、
穴穂部間人の母后崩じ、明年二月廿二日
甲戌の夜半に太子
薨ず。時に、
多至波奈大郎女、悲哀嘆息し、
畏みて、天皇の前に
白して
曰く、
之を
啓さむは
恐しと
雖も、
懐ふ心
止み難し。我が
大王が母王と
期するが
如く従遊したまひ、
痛酷しきこと
比無し。我が大王の告げたまふところに、世間は
虚仮、
唯だ仏のみ
是れ真なりと。
其の法を
玩味するに、我が大王は
応に天寿国に生れまさむ。
而も彼の国の形は眼に
看き所なり。
はくは図像に
因りて大王が往生の状を
観むと欲すと。天皇之を聞こしめして、
悽然として告げて曰く、
一へに我が子の啓す所有り、誠に以て然りと
為すと、
諸の
采女等に勅して
繍帷二
張を造らしめ
給ふ。
(後略)」
曼荼羅には
亀甲形が縫いつけられているが、そのひとつ
毎に、この文章(原文は四字ずつの漢文)をあらわしたのだという。母后についで背の君を
喪った多至波奈姫が、太子生前の教を思い、推古天皇の御ゆるしを得て、太子の
御霊の赴くであろうパラダイスを悲しみつつ描いたのである。天寿国とは、「法王帝説」証註(
狩谷望之)によれば「
即ち無量寿国にして、釈氏の
謂はゆる無量寿仏の国なり、又
阿弥陀浄土と称す。」――即ち太子の説かれたという「世間虚仮、唯仏是真」の「真」の世界に入り
給うた御姿を図像によって追慕されたのである。太子近親の悲しみを伝えた尊いしるしである。
なお太子薨去のとき
巨勢三杖大夫の奉ったという
挽歌三首が「法王帝説」に載っている。
斑鳩の富の小川の絶えばこそ我が大王の御名忘らえめ
みかみをすたばさみ山のあぢかげに人の申しし我が大王はも
斑鳩のこのかき山のさかる樹のそらなることを君に申さな
巨勢三杖大夫の伝はもとより
詳にしえないのであるが、「法王帝説」註記に、
扶桑略記の
欽明天皇十三年条に「或記云、信濃国善光寺阿弥陀仏像則此仏也。
小治田天皇御時
壬戊年四月八日令
二秦巨勢大夫奉
一レ請
二送信乃国
一云々」と。
欽明天皇の十三年、仏像を難波の堀江に
棄てたことは書紀に明らかであるが、その後、推古天皇のみ代になって、巨勢大夫をしてその仏像を
請わしめ、善光寺に安置した様子がうかがわれる。巨勢大夫の身分や人物はむろん不明だが、太子側近の侍臣というよりは、御威徳を
遥かに慕い
奉った信仰の厚い民草としてみた方が、右の歌から
云ってもふさわしいのではなかろうか。当時の人々が太子の御面影を思慕し、ひそかに語り伝えた様が歌から感ぜらるるのである。最初の一首は、「斑鳩宮」に述べた片岡山の餓人の詠という伝説もあるが、後代の附会といわれる。しかしかかる伝説の生じたところから考えると、巨勢大夫の歌にみらるる
畏敬と哀惜の情は、当時のすべての民草の抱いたところだったのであろう。誰の歌であってもよかったのだ。天寿国曼荼羅とともに、太子薨去当時の悲痛をいまに伝えた記念としてここに述べたのである。
――昭和十七年秋――
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中宮寺の庭は、誰にもかえりみられない平凡な庭だが、私はいつも不思議に心をひかれる。造園術と
云ったものからはおよそ縁遠いように思われる無造作な庭で、何の奇もないが、あの清浄で柔軟な感じはどこから出てくるのだろう。法隆寺境内と同じ地つづきであるから、砂まじりの地質に相違ないが、その上に改めて白砂を敷きつめたのである。この効果が大きい。
塵ひとつ
止めぬ、掃き目の正しい白砂の庭は、尼寺の純潔と優しさに
一入と輝きを添えているようだ。誰の思いつきか知らないが、日光をこれほど適切に、柔かくうける方法は他にあるまい。海岸の砂地ならば日光は強烈すぎる。また大庭園ならば
徒らにきらきらして下品な感じを与えるだろう。しかし中宮寺のような狭く薄暗いほどの庭では、実によく調和して、春の夜明のような
仄かでおっとりした光線を生み出してくる。これは期せずして得られた無類の芸術的光線だ。
砂の光りと日の光りが、ゆるやかにもつれあって遊戯しているようにみえる。だから砂の上を歩むのがためらわれる。つい忍び足になる。足跡を残すのは罪悪のように感ぜられるのだ。翼がほしい。光りの
戯れの中を軽く飛んで
思惟菩薩のもとにまいりたい。こんな思いを抱かせる庭はおそらく他にないであろう。しかし人々は平凡な庭として気にもとめないでいるのだ。だから
益々いい。
私はこの庭をどう形容したらいいか考えてきたが、結局、「微笑の庭」と呼ぶのが最もふさわしいようだ。中宮寺の庭はたしかに微笑している。微笑なるがゆえに誰も気づかない。それは思惟菩薩の口辺に浮ぶ、有るか無きかの微笑の余韻かもしれない。
恩寵かもしれない。また白砂の庭にふりそそぐ日光が、ほどよく中和され、それが堂内に反射して思惟の姿に一層の柔軟性を与えていることも考えられる。思惟像はおそらくこの光りを滋養として吸収してきたであろう。
屡々中宮寺を訪れているうちに、私はこんな感想を抱くようになったが、しかし遠く離れて、心の中でこの尼寺を思い浮べるとき、とくに微笑のことが一番つよく思い出される。菩薩像も庭もすべてをふくめて、中宮寺全体が微笑の光りのなかに浮びあがってくる。そしてそれが次第に一つの思想に結晶して行くのである。私は戦争の終った秋この文章をかいている。二年間というもの
大和を訪れる機会はなかった。硝煙と飢餓の都に住んで、最も
憧憬したものは何かと問われるならば、私は微笑だと答えよう。それは戦争の現実の中で得られたかと問われるならば、遺憾ながら
否と答えねばならぬ。更に日本の敗戦の理由を問われるならば、微笑の喪失にあったと答えたいのだ。私はこの言葉によって何を求めていたか。必ずしも口辺に浮んだ微笑のみではない。精神の
或る健全な姿を求めていたのだ。おのずから、繊細な心、深い思いやり、隠れた愛情、慈悲、柔軟性、様々の表現を微笑という一語にふくめて、これを戦乱の
巷に求めていたのであった。そういう日の自分の念頭には常に中宮寺の思惟像があり、光りの庭が夢幻のように浮びあがっていた。私にとってそれは微笑の泉のごときものであった。
*
古仏の微笑は云うまでもなく慈悲心をあらわしたものにちがいないが、これほど世に至難なものはあるまい。微妙な危機の上に花ひらいたもので、私はいつもはらはらしながら
眺めざるをえない。菩薩は一切
衆生をあわれみ救わねばならぬ。だがこの自意識が実に危険なのだ。もし慈悲と救いをあからさまに意識し、おまえ達をあわれみ導いてやるぞと云った思いが
微塵でもあったならばどうか。表情は
忽ち誇示的になるか教説的になるか、さもなくば
媚態と化すであろう。大陸や南方の仏像には時々この種の表情がみうけられる。大げさで奇怪で、奥床しいところは少しもない。これは仏師の罪のみでなく、根本を云えば大乗の
教の至らざるところからくる。思想の不消化に関連しているようである。
我が思惟像が、あの幽遠な微笑を浮べるまでには、どれほどの難行苦行があったか。そこには思想消化の長い時間があり、また生硬で露骨な表情に対する激しい
嫌悪があったにちがいない。古人のそうした戦いを、私は思惟像の背後に察せざるをえないのだ。美的感覚の問題もむろんあるが、その成長の根には信仰の戦いが必ずあったであろうと思う。微笑は必ずしも心和かな時の所産でなく、
却って
憤怒に憤怒をかさねた後の孤独な夢であったかもしれない。
私は戦時中それをつぶさに感じた。粗野な感覚、誇示的な表情の横行に対して、つねに武装していなければ精神は死滅するかに思われた。真勇は必ず微笑をもって事を断ずる。真の勇猛心は必ず柔軟心を伴う。だがこれは求めて得られざるところであった。常に正しいことだけを形式的に言う人、絶対に非難の余地のないような説教を垂れる人、
所謂指導者なるものが現われたが、これは特定の個人というよりは、強制された精神の
畸形的なすがたであったと言った方がよい。精神は極度に動脈硬化の症状を呈したのである。言論も文章も微笑を失った。正しい言説、正しい情愛といえども、微笑を失えば不正となる。正しいことを言ったからとて、正しいとはいえないという微妙な道理をいやになるほど痛感したのである。
*
微笑はおのずから
湧く泉のごときもの、「我」ならぬもの、そして根源に必ず
なつかしさがなければならぬ。なつかしさの感情はいかに自ら人工しても出てこない。在りのままの飾らざる人間に、ふとあらわれる後光のようなものだ。人と別れた後、もしそこになつかしさがあるなら必ずふりかえって別れを惜しむであろう。そうさせる力が後光なのだ。人間の心は、眼や表情にもあらわれるが、後姿にはっきりあらわれることを忘れてはならぬ。人は後姿について全く無意識だ。そして何げなくそこに全自己をあらわすものだ。後姿は悲しいものである。無常の世に生きるものの悲哀、生の疲れ、無限の嘆きを宿しているように思われる。例外なく、何かしら人生の重荷を背負っているからであろう。だからこそなつかしいのではなかろうか。微笑をもって別れるものは美しい。
菩薩とは、かかるなつかしさに常住するものにちがいない。慈悲とは、高所よりの同情心や博愛ではなく、もっと身につまされた生の嘆きであろう。善をのみなつかしむのではない。悪をもなつかしむのだ。いっそ善悪を分別せぬ人間の在りのままの相に身を沈めて行くのだと云った方がよい。
即ち
化身の所作である。化身とは
捨身である。苦痛にちがいない。慈悲の根底にある無限の忍耐、云わば人生を耐えに耐えたあげく、ふとあの微笑が湧くのかもしれぬ。
救世観音や中宮寺思惟像の微笑は極度に内面化されたものだ。あの口辺をみていると、何かを言おうとして口ごもっているように感ぜらるる。それは微笑の寸前であるとともに、
慟哭の寸前でもあるようにみうけられる。菩薩の微笑とは、
或は慟哭と一つなのかもしれない。
凄惨な人生に向って、思わずわっと泣くほんの少し前に浮び出る微笑であるかもしれない。
我々はただ口辺に気をとられているが、口辺の微笑とは、おそらく余韻だ。菩薩の
心奥には七転八倒の苦悩があり、言うに言われぬ思いがあり、どうにも致し方がなくて、あたかも波紋のように浮べてみたのが微笑なのかもしれない。それは瞬時にして憤怒の相ともなり、慟哭の表情とも変るであろう。救世観音や思惟像の微笑は永遠なるものとして刻まれているが、それは同時に
刹那だ。有るか無きかに、忽ち消え
失せるかもしれぬほんの一瞬を止めたのだ。人間のこうした力はどこから出てくるのであろうか。微妙で至難な刹那を、よくぞ菩薩像の口辺に止めたものだ。実に
畏ろしい驚嘆すべきことである。
*
芸術は常に恐るべき危さに生きるものだ。この恐怖を自覚したとき、芸術の使徒は宗教の使徒ともならざるをえないだろう。思惟像の微笑をみていると、そのことがはっきり感ぜらるる。仏師は実に危いところに生きている。一手のわずかの狂いが、微笑を忽ち醜怪の極へ転落さしてしまうだろう。その一手はいのちがけだ。空前にして絶後なのだ。仏師はおそらく満足というものを知らなかったであろう。一
躯の像を刻むことは、一つの悔恨を残すことだったかもしれぬ。多くの古仏の背後には、どれほどの恨みが宿っているか。微笑のために死んだ仏師を私は思わないわけにはゆかない。
*
日本人はみな職業によって様々の守護神や守り本尊をもっている。たとえば船乗は
船魂神社を
祀り、大工左官は聖徳太子を
崇め、魚屋は
恵比須を、裁縫師は
伎芸天を、三味線や琴の師匠は
吉祥天を祭ると云ったように、それぞれの職域を神聖なものとして、自分の芸や仕事を
磨いてきた。これは世界に例のない床しい習慣だと思う。芸の危さを本能的に知っている職人
気質の
然らしむるところだ。ただ不思議なことに、近代の作家と評論家にこの風習が欠けていた。或る意味で近代の性格を示す興味ふかい現象ともいえる。私は評論を業とする自分にも当然守り神があっていい
筈だ、いや必ずなくてはならぬと考えたのはつい二、三年前からであった。文学全体の守り神としては、はじめて歌をおよみになった
須佐之男命など最もふさわしいであろうが、評論の神さまとなるとちょっと気づかない。そのとき自分の念頭に浮んだのが、古事記にあらわるる
思兼神と、中宮寺の思惟菩薩だったのである。
思兼神というのは、
天照大御神が岩戸へ隠れたとき、岩戸開きの総計画をお考えになった神様で、「数人の
思慮る
智を一つの心に兼
持る意なり」といわれる智の神である。岩戸の前に集った
八百万神が、「思兼神に思はしめて」、はじめて岩戸開きも可能であったわけで、光りを仰ぐにはこの神の力が絶対に必要だったのである。私は自分の思想にもまたかかる力を授けたまえと祈り、評論の守り神として仰ぐのである。
中宮寺の菩薩には、思想の芸について念ずる。微笑に宿る至難微妙の芸、体躯にみなぎるあの無類の柔軟性を念じつつ、私は仕事にたずさわるのである。ただ一字の置き方、てにをはのほんのわずかの差異、そんなことが思想を根本的に変えてしまう。思想の美醜を決定する。同じ主義を
抱いている故に、表現されたものも同じであると考えるのは
甚しい
迷妄である。芸術にあっては、党派というものは最も拙劣な空想だ。人は身をもたせかけるところもなく、暗黒の橋をただひとり渡らねばならぬ。危さに生き、いつでも転落の可能性を有し、絶えず転落し、七転八倒し、或る刹那に、
辛うじて或る均衡を保って美は生れる。その地獄とも
醍醐味ともいえるところに静かにあぐらをかき、守り本尊を念じつつ微笑を
以って仕事する、そういう職人気質こそ私の理想とする人格なのだ。思惟像の微笑は、それを刻んだ仏師にとっては
奇蹟であったろう。しかし奇蹟とは職業的なものだ。長い歳月の、正確に熟達した修練のみがよく奇蹟を生む。それは突然変異的なものと正反対の現象であって、目にみえぬ努力のうちにつみかさねられ、自他容易に気づかぬゆえに、突然変異的なものにみえる。思惟像の微笑もそうしてあらわれたであろう。仏師も菩薩であった。そして菩薩とは一種の職人気質にちがいない。
*
微笑は肉体の奥深く根を張り、そこからほころびそめようとする花のようなものだ。言論や文章が微笑を失うのは、たしかに思想の消化不良に基因している。肉体化された思想というものは今日では益々
稀になった。現代人は、思想でなく思想の
鑵詰を食って生きているようにみうけられる。国産の配給品もあれば、外国製のもある。急いで鑵詰を食いちらしている状景は、戦前も戦後も変らない。自分で畑を耕し、種子をまき、あらゆる風雨に堪えて、やっと収穫したというような思想に出会うことは稀だ。たとい貧しく拙劣でも、自ら額に汗してえた思想を私はほしい。そういう勤労の観念がいまどこにあるだろうか。勤労者の味方をもって自任する政党の思想が、最も鑵詰臭いのは不思議なことである。私はそういう
贅沢を好まない。自分が耕した思想の菜園から得た収穫を、我が守り本尊の前に
捧げて、ささやかながら収穫の祭りを祝いたい。
*
微笑を失った菩薩というものは本質的には存在しない。飛鳥仏にみらるる微笑は、
白鳳天平となるにしたがって消え去って行くが、これは何故だろうか。微笑は更に内面化し、菩薩の姿態そのものに
弥漫して行ったのだと私は思う。白鳳天平の仏像が次第に人体に近づき、柔軟性を帯びてきたのは、ただ彫刻家意識の発達に
由るのみではあるまい。微笑を肉体化し、菩薩の口辺のみならず全姿に宿すまでに信仰は消化されたのだとみなすべきではなかろうか。菩薩とは人心の機微のあわいを遊行してゆくもの、云わば微妙さに身を
横えているものだ。信仰にとって最重大事は、微妙な心に精通することである。生硬な信仰は無信仰よりも罪悪的だ。人に
懺悔を
強い、告白を聞いて裁断し、触るべからざる悲しみに触れて、一層人の心を傷つけるような信仰者がある。たとえば中宮寺の庭を
泥足で歩むようなものだ。人間の心に粗暴な足跡を印することは最大の罪悪だ。
信仰の敵はいつでも信仰そのものの
裡にある。外からの迫害は決して恐るべきものではない。法難とは信仰の拙劣な自己弁解にすぎない。自由とは、何ものをもっても抑圧すべからざるものなるがゆえに、自由なのではなかろうか。いかなる圧制の下にも自由はある。あたかも恋愛と同じように。いかなる権力も恋愛を奪うことは出来ない。そして自由とは本質的に孤独なものだ。自由が与えられた故に、何事でも自由に表現出来ると思うのは、人間の
儚ない空想であろう。私は政治的な意味で云っているのではない。宗教や芸術のごとく精神を追究する仕事においては、政治的自由の有無などは問題にならない。表現の困惑について、芸の至難について、言葉のもどかしさについて、私は悲しいほど思い迷うのである。
何事でも自由に表現出来るか。たとえば信仰や恋愛のように、人間の最も微妙な心に属することを、我々は滞りなくあらわすことが出来るか。はっきり言いきってしまうことが可能か。たとい言いきっても、なお万感の思いが残るのが信仰や恋愛の実相であろう。我々はここで表現の不自由を感ぜざるをえないのだ。人間の限界と云ってもいい。これを感じたところに、祈りの微妙な世界が始る。人間の言説絶えたところに、神仏の世界がある。誰にも理解して
貰えないが、なお我独り生きて行かむという孤独者の強烈な祈りがある。菩薩のもつ微妙心はそこに通うにちがいない。
*
菩薩は群衆を拒否する。群衆として
詣でても、菩薩はそれを一人一人に切り離し、孤独者としてのみ迎えるであろう。孤独者のみが微笑の真義を知る。そして孤独者を微笑せしむるものこそ菩薩と云える。
――昭和二十年秋――
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中宮寺
界隈の小さな村落を過ぎて北へ二丁ほど歩いて行くと、広々とした田野がひらけはじめる。法隆寺の北裏に連なる丘陵を背にして、
遥かに
三笠山の
麓にいたる、
古の平城京をもふくめた大和平原の一端が展望される。
大和国原という言葉のもつ豊かな感じは、この辺りまで来てはじめて実感されるように思う。往時の状景はうかがうべくもないが、田野に働く農夫の姿は、古の奈良の時代とさして変ってもいないだろう。春は処々に菜の花が咲き乱れて、それが
霞んだ三笠連山の麓までつづいているのが望見される。
畔道に咲く紫色の
菫、淡紅色の
蓮華草なども美しい。おそらく
飛鳥や
天平の人たちも、この道を
逍遥したことであろう。
陽炎のたち昇る春の日に、
雲雀の
囀りをききつつ、私のいつも思い出すのは、「春の野に菫摘まむと来し
吾ぞ野をなつかしみ一夜
宿にける」という万葉の歌である。この歌の気分がここで一番しっくりあうように思う。
しかし大和国原の豊かさを
偲ぶという点では秋の方が更にふさわしい。今年はとくに豊作の故でもあったろうが、眼のとどくかぎり一面に実った稲の波である。透明な秋空の下に、寸分の
隙もなく充実していて、黄金の脂肪のような濃厚な光りを放っていた。稲穂が畔道に深々と垂れさがって、それが私の足もとにふれる
爽かな音をききながら幾たびもこの辺りを
徘徊した。豊作というものがこんなに見事なものとは知らなかったのである。心からの
悦びが
湧きあがってくる。
舒明天皇が
香具山に登り国見された折の御製の末尾に、「うまし国ぞ あきつ島 大和の国は」という御満悦の言葉が拝されるが、その言葉がふと思い出され、何となく心浮き立ちながらこの道を歩いたのであった。
夢殿や中宮寺へまいる折は、私はいつもここまで来て春秋の景色を
眺める。平原の豊かさもいいが、しかし法隆寺の北裏から東方へきれぎれに連なる丘陵の側も、また別の趣があって捨て難い。丘陵の間には白壁の映ゆる古風な人家が散在し、それをめぐって小さな森が点々としている。法輪寺と法起寺の三重の塔がその森のあいだに望見される。大和国原を右手に眺めつつ、この丘陵の間をつたわって次第に平城京
址へ近づいて行く途中の風光は実に和やかで美しい。法隆寺から夢殿へ、それから中宮寺を巡って法輪寺へ、法起寺を過ぎて慈光院に至り、石州の茶室でお茶を
御馳走になってから小泉の駅へ出る道は、西の京から薬師寺と
唐招提寺へ行く道とともに、私の最も好ましく思ったところである。
屡々法輪寺を訪れるようになったのも、一つにはこうした道筋の美しさのためであるらしい。法隆寺に群る
参詣人たちも、中宮寺を過ぎると全く途絶えて、ここばかりは
斑鳩の址にふさわしくひっそりと静まりかえっている。
*
だが私には法輪寺を訪れるもう一つの理由がある。それはこの寺がいかにもみすぼらしく荒廃の状景を呈しているからである。私は荒廃に心をひかれるのだ。まずこの寺の沿革について述べよう。法輪寺大鏡に
拠る案内抄をみると、法輪寺は法琳寺あるいは法林寺ともかき、また
生駒郡富郷村三井の土地名に
因んで三井寺、御井寺ともいうそうである。草創に関しては二つの説があって、「聖徳太子伝暦」及び「太子伝
補闕記」によると
百済開法師、
円明師、
下氷新物等三人合力して
建立したことになっているが、「御井寺勘録寺家財雑物等事」及び「古今目録抄」によれば太子の
御子山背大兄王と由義王の創建されしところと伝えられる。そのいずれであるかはいまなお決し難いという。しかし
伽藍の配置は法隆寺式であり、飛鳥の原形をとどめる三重塔をはじめ、鳥仏師作と伝えらるる薬師
如来坐像及び
虚空蔵菩薩の二体が現存し、発掘品にも飛鳥の
古瓦が
見出されるので、草創が飛鳥時代であることはたしかだ。平安朝から室町時代へかけて寺運隆盛を極めたらしいが、徳川の
正保二年、大風のため堂宇
悉く倒壊し、およそ百年後の元文二年再建補修されたものが現在の伽藍であるという。この再建補修も決して
堅牢なものでなく、伽藍の配置だけを往時に復して、他はすべて小ぢんまりと
安普請したことはいまの法輪寺をみれば明らかであろう。伽藍というよりは仮の
廬と
云った方がふさわしいくらいだ。三重塔のみがわずかに飛鳥の
面影をとどめる。
中宮寺から北へ三丁、前述の風光を眺めながら行くと、松の大樹の間にささやかな山門と三重塔がみえる。法隆寺の堂々たる威容と、その至れり尽せりの修理保存ぶりをみた眼には、この寺はあまりに痛々しい。金堂も講堂も天井は破れ、壁は
剥落し、
扉は傾いたまま風雨にさらされている。昼間でも
鼠が走りまわっている。法隆寺のすぐ近くにあるだけ、その対照がきわだって一層貧しくみえるのである。朽ち果てて惜しむべき建物ではないかもしれぬが、しかしこの置き忘れられたような
蕭条たる
風情のゆえに、大和古寺のなかでも異彩を放っていると私は思うのだ。いかにも古寺らしい古寺である。つまり在るがままなのだ。古寺の運命を如実に語っているような姿に私は心ひかれるのである。
嘗つては法隆寺も東大寺もかくのごとくであったろう。わずかに心ある人のみが荒廃の址に
佇み、涙しつつ往時の壮麗を偲び拝して立ち去ったのであろう。すべて古典に対する真の愛情は
廃墟への感傷に始まる。世の中から忘れ去られて、なかば埋れたまま荒廃しているところへ赴き、人しれずその生命を求める――そういう労苦と
寂寥に耐えてはじめて古典の復活はあるであろう。神社仏閣のみならず、文献もまたそうだ。現在あまねく
流布している万葉集も、今日のごとく整備されるまでにはどれほど先人の孤独な労苦を経たか云うまでもなかろう。
殆ど一生を
賭して復興をはかったのだ。信仰が彼らを導いたのだ。我々はいま簡便に入手出来て読み
易くなっているので、ついそういう先人の労苦を忘れがちだ。法隆寺にしても、一切が整備保存されて居心地のいい観光地となり、美術研究が容易に出来るような現在になると、愛惜の情に深く身を
委ねることは
益々むずかしい。仏像も宝物も、堂宇もいまの我々は悉く見物出来る。拝観料を払った当然の権利のように思って見物する。しかし荒廃の法隆寺を
訪うた
昔日の人は、一
躯の仏像さえみることは出来なかったのだ。堂前に佇んで拝する以外のことはしなかったのである。しかもそういう人々の方が、我々よりも
却ってみるべきものをみていたと云えないだろうか。愛惜の情と信心とが、荒廃の
裡にひそむ
久遠のいのちを一挙に感得したといえないだろうか。
荒廃の
遺址を補修再興していつまでも保存しておきたいという願いを私は
尤ものことと思うし、そういう人の信心も疑わないけれど、これは前にも述べたごとく至難の業である。「技術の進歩」といううぬぼれが、屡々古人の精神を忘却しかねない。復興のつもりで却って
冒涜するような結果を招く例は、今日の古典取扱いの中にいくらでも指摘出来るだろう。
法隆寺金堂の壁画は朝に夕に一片ずつ崩れて行く。模写してみたところで
所詮ははかない希望にすぎまい。今更どうにも補修出来かねるらしい。
拱手傍観してその崩壊を眺めているより他に
術はないのだ。しかしこれが壁画の運命であろう。この運命を直視したとき、はじめて念仏の声がおのずから心に湧くのではなかろうか。人間の死と同じである、人は死によって生の意義を
完璧に語るごとく、壁画も崩壊しつつ全
生涯の壮麗をあきらかに我々に刻印するのではなかろうか。その生命は死をとおして我々につたわるのではなかろうか。だが一方では、崩壊をどうかして止めようとする願いも否定出来かねる。やがて消滅するであろうが、消滅の日を一日なりとものばしたいと念ずる。つまり我々は称名しながら
瀕死の壁画と格闘しているようなものだ。保存とはかかる格闘を意味するのかもしれない。
ところで法輪寺の御堂をみてまわると、かような格闘の跡さえ殆どみあたらぬ。気力を失ったごとく敗残の姿である。案内の寺僧に問うと、「いずれ何とかしなくてはなるまいと思っては居りますけれども、どうも……」という返事であった。この寺の住職も懸命であるらしい。今の言葉で
謂う「宣伝」も大いに心がけているようで、格式の高い法隆寺や東大寺に比べて、
所謂経営の心労のほどが察せられる。しかし私のひそかな願いは、この寺はこのままで静かに荒廃して行ってほしいということである。寺僧の立場に立てば、かかる願いは実に身勝手なことに違いない。荒廃して廃寺となることはまずあるまいが、徐々に崩れて行くのを寺僧は傍観しているわけにゆくまい。そうかと云って華美な改修はふさわしくない。全く崩壊しない程度で、しかし崩壊して行くようないまの姿をそのままとどめてほしい――これは無理な言い草かもしれぬ。危きに遊んでいてほしい――これも至難の業である。いっそ
乾坤一擲の壮麗な復活を願ってはと思うが、所詮は夢に終るだろう。――私はこんなことを考えながら法輪寺を巡るのである。
荒廃に対するこうした思いは、感傷にちがいないが、しかし古寺を巡る最初の心はこれを経なければならぬのではなかろうか。完備された美術館や仏閣で仏像をみるのは、初心にとって邪道であろう。古寺を訪れる初心とは、つまりは
発心であり、祈りの心の湧きおこるときでなければならぬ。荒廃という死に近き
刹那の
裡に、千年の
塵に
蔽われた
端厳のみ仏を拝し、愛惜の情に身を委ねるにしくはない。
法隆寺へまいるたびに、年々この寺が見世物式に整備され、
勿体ぶっている様を眺め、またそれゆえについ安易な気持で見物しがちな自分を省みて、私は
殊更法輪寺の貧しい荒廃を慕うのである。法隆寺も東大寺も、明治維新の頃に比すれば、たしかに復活したといえるかもしれない。しかし私にとって大事なのは建造物の復活ではなく、荒廃を前にして涙した人の祈念の復活なのである。私はこれを願いとし、これを初心としたいと思っているので、いつも不断に初心に
還ることを努めるのである。古寺巡礼の
玄人にはなりたくないものだ。法輪寺をみることが、
即ち私に初心を思い出させるというわけである。
――昭和十七年秋――
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南にひらいた山門を入ると、右に重層の金堂があり、左に三重の塔を仰ぐ。塔と金堂の間を北へすすむと講堂があり、講堂の右側には鐘楼がある。
廻廊こそないがこの配置は法隆寺と全く同一である。しかし寺域は法隆寺の十分ノ一ぐらいのものであろうか。前述のごとく、金堂も講堂も名ばかりと云っていいほど荒れ果てている。寺域を囲む
築地もむろんわずかしか残っていない。松の大樹と雑草につつまれて
蒼然たる有様である。
金堂の内部には本尊の薬師如来
坐像を中心に、
弥勒、
吉祥天、
毘沙門、地蔵の仏体が並んでいるが、四
躯とも平安時代の木造である。装飾らしいものは何もない。冷い石畳の台座の上に、わずかに風雨をしのぐと
云った有様でそっけなく安置されてある。本尊の薬師如来は、
飛鳥時代の
鳥仏師作と伝えらるる木造のみ仏であるが、その両眼が真白い。
瞳もなくただ真白い眼というものは不思議だ。彩色が
剥脱して、底の白い色のみが残ったのだという。法隆寺金堂の
釈迦三尊とちがって、木造の故か、鳥の作としても柔い感じを与えられる。いかなる人の念願がこのみ仏に宿っているのであろうか。病気
平癒の願に発したものに相違ないが、私ははじめその純白の眼のゆえに、眼病平癒の祈りをこめたみ仏であろうかと想像していたのであった。むろんそうではない。しかし私はやはり眼から離れられない。薄暗く荒廃した堂内に、その白い眼だけがくっきり浮びあかっているのは異様である。金堂の本尊とは、仏体ではなくこのたった二つの眼だけであるようにさえ思える。千三百年のあいだ、何を見、何に耐えてこの白眼を現出したのであろうか。如来自ら眼を病んでおいでになるのか。
法輪寺というところには、荒廃のゆえか不思議な仏体がある。たとえば三重塔の
裡に、平安時代の釈迦如来像一躯が安置されているが、
衆生に向って挙げたその右の御手は中指が一本残っているだけで、他の指は
悉く
腐蝕剥落してしまっている。指を一本だけたてているようにみえる。指が一本だけになってもなお衆生に悲心を垂れ給うことを
止めないのか。また同じ塔内に天平の原体を補修した
夢違観音立像が一躯
佇立しているが、原体はもはやうかがうことは出来ない。殆ど崩壊しているのであろう。粘土をもって遠慮なく全身を固めてしまった。粘土のギプス
繃帯を全身にはめているようにみえる。また講堂の本尊たる十一面観音立像は、おそらく一丈余もあろうが、
大和古寺の諸仏のうちでもこれほど大きな眼をもっている菩薩像を私は知らない。どうしてあんなに大きい眼玉なのであろう。その他多くの諸仏が安置されているけれど、いずれも
塵にまみれ、気のせいかがっかりしているようにみうけられる。長い歳月における負傷そのままに、荒廃の堂宇に風雨を
凌いでいるのである。
ところで飛鳥仏の裡でも最も風格をそなえた美しい虚空蔵菩薩立像は、いまはこの寺にはない。奈良帝室博物館に出張して留守中なのである。このみ仏を往時のごとく荒れ果てた金堂に安置してみたいというのが私の願いなのだ。何処より伝来したみ仏かむろんわからない。印度仏ともいう。
或は
聖観音ともいわれる。すべての飛鳥仏のごとく下ぶくれのゆったりした
風貌、
茫漠とした表情のまま左手に
壺をさげて
悠然直立している。不動のみ姿ではあるが、いまにも浮々と遊び出るような春風
駘蕩たる風格も
偲ばれる。そういう
懐しさがあって、たとえば法隆寺金堂
天蓋に奏楽する天人達の
面影に近い。しかし不動である。つまり動くようで動かない。そういう微妙をこの仏体はあらわしているのだ。このみ仏について志賀直哉氏の「早春の旅」にしるされた次のような感想がある。
「……推古朝といえば今から千三百年前、この像はその時から日本の歴史のあらゆる
嵐を見て来ている。
平重衡や松永久秀の南都炎上も法輪寺からならば
眼のあたり望み見たわけである。そして、今はまたこの像は
未曾有の国難を見ているのだ。
元兵が九州を犯した国難も知っていれば、法華堂の
執金剛神が
蜂になって救いに出たという
将門の乱も知っている。千三百年来のよき時代も苦しい時代も
総て経験しているのだ。この像は今の未曾有の時代も
何時かは必ず過ぎ、次の時代の来る事を自身の経験から信じているに違いない。が、同時にその時代もどれだけ続くか、又その先にどんな時代が来るか、そんな事も思っているかも知れない。
然し
如何なる時代にもこの像は
只このままの姿で立っている。執金剛神のように蜂になって飛出すわけには行かない像である。この世界がいつ安定するか分らないが、その理想をこの仏像は身を
以って暗示しているかのようである。」
おそらく仏の身をもって示す窮極は、すべてかくのごとくであろう。限りある身の我々にとっては、死がはじめてかかる永遠の安定をもたらすともいえよう。不動のなかの動は、その
涅槃への
幽かな誘いなのかもしれない。千三百年間、ついぞ安定を知らなかった現在まで、こうして佇立しているのである。不安動揺の人間の悲劇が
凝って、この無比の菩薩像が立ちあらわれたに違いないが、あの駘蕩としてのっぺりした御顔を仰いでいると、「まあ、我慢したまえ。地獄は永久につづくぞよ」と平気で
仰有っているようにみえる。
――昭和十七年秋――
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武蔵野にも
漸く春の訪れが来た。遠くにみえる
秩父の山の雪も消えて
井の
頭の梅はいま満開である。庭さきへ
鶯が来てしきりに
囀って行く。暖かい水蒸気が大地からのぼって、その中に
水仙の黄色い花が鮮かに浮び上ってみえる。縁先で陽の光りを浴びながら、この頃になると、私は自分の半生に経験した様々の春を
想い出す。幼年の頃、少年の頃、早い青年時代、この数年のこと、そういう時分に記憶にとどまっている春の姿を、比較するともなしに回想するのである。
私は北海道の南端に生れた。この北国では、春の訪れは関東地方よりもまる一カ月半ほど遅い。三月の末から四月にかけて雪どけ、それから若葉の山野が望まれ、五月になると急に暖かさが加わって、梅や桜や桃が
殆ど同時に咲きはじめる。津軽海峡を渡って
函館へ上陸したことのある人は知っていると思うが、連絡船が港に近づくと、下北半島に相対した
恵山方面の丘に、トラピスト女子修道院の
白堊の塔がみえるであろう。湾内に入りかけると、津軽半島に相対した松前方面へつらなる丘の上に、トラピスト男子修道院の赤
煉瓦の建物がみえる。この二つの修道院をつなぐ線が、幼少年時代の私の散歩区域であった。
とくに女子修道院のある上湯の川の丘は、一面の
鈴蘭畑で、六月のはじめ、あの
可憐な花がひらきはじめると、よく友人とその草原へ出かけて行って、鈴蘭の畑の中に仰むけにねそべりながら、
雲雀のさえずりをきいたものだった。この丘からは津軽海峡の暗緑色の流れや、浜辺にくだける白い波が望見されるが、その波うちぎわから丘の間は、なだらかな草原となっていて、牛が放牧されてあった。いまもなお記憶に残るのは、鈴蘭の花の香りと、空高くひびく雲雀の声である。五月から六月へかけてであって、
云わばこの頃が私の故郷における最も春らしい季節なのである。故郷を離れてから十数年になるので、その頃の詳しい記憶はかなり消え去ってしまったが、この丘に漂う早春のむせるような香りだけは、春くるたびに身近に感ぜられる。
私の早い青年時代、つまり高等学校の頃は山形で暮した。それまで朝夕海を
眺めてくらしてきた私は、この山国へ来て、はじめて山岳のもつ美しさ、威容、圧力などを感じた。山形は盆地である。近くで最も高い山は、樹氷で有名な蔵王山であるが、それから北へ連なる
雁戸山、もっと近くて低い
千歳山、丘と云っていい
盃山、また西方には
朝日岳連峰がつらなり、それから北方へかけて、
月山、湯殿山、羽黒山などが望見された。春は三月、四月、その頃になると私はよく盃山へ登った。この小山の
裾を
馬見ヶ
崎川(
最上川の上流)が流れているのだが、それを眼下にみおろし、山形の街、桜桃畑、野、田畑とひろびろとした盆地を眺めつつ、柔い春風のなかで昼寝したものである。海のないのがはじめの間実に不思議であった。山岳の重苦しい圧迫を感じた。しかし緑の美しさをほんとうに
昧えたのは、やはりこの山国であったろう。故郷の山も、春は若葉に
蔽われるのだが、海があり、白砂があり、砂丘や牧場があって、その若葉はさしてめだたなかったのである。ところが山形へ来ると、眼のとどくかぎり山また山で、春になると一面の若葉、まるで頭から若葉をかぶったような感じで、鮮かな緑色が私には驚きであった。
この地方では蚕を飼うので桑の木が多い。北海道では桑畑は全くみられない。山形で一番さきに春の訪れるのを感じるのは、この桑の若芽の
萌え
出ずる頃である。
丈の低い、ふしくれだった
頑丈なその幹と枝ぶりはゴッホの筆触を思わせた。そこから実に可憐な小さな若葉が出て来る。雪が消えて、道路のぬれたところを歩きながら、ふとこの桑畑に眼をやると、ああ春が来たのだと心から感じるのであった。また、これは晩春であるが、桜桃畑の眺めも忘れ難い。その花はさして美しくはないが、桜桃の実の熟するときは、すべての木々に小さな
提灯をつるしたようで、一面に周囲が
朱い点々となり、眼と
食慾とを同時に誘惑したものである。平生の散歩道であるし、桜桃の枝は肩のあたりまで垂れているので、つい手が出る、というより口が出る。つまり
唇の辺に、桜桃の朱い実がたわわにぶらさがっているのだ。春がくるたびに、私はいつも
頬にふれたその柔い感触を思い出す。
山形には三年住んで、それから東京へ移ったまま現在に及んでいるが、市内での春の思い出というものは殆どない。むしろ季節に無関心で過したと云っていいほどだ。いまの武蔵野に住むようになってから、この平原の林に訪れる春の微光を、漸く
蘇生の思いで眺めるようになった。
しかしそれよりも私に鮮かな感銘を与えたのは、この数年来の
大和の春の旅である。私の故郷ではむろんのこと、東北でも武蔵野でも味うことの出来なかった全く別の春を、
即ち古典の春を私ははじめてそこで知ったのである。故郷の海辺も山国の若葉も忘れられないが、春がくるとつい大和へ旅立つようになった。塔と
伽藍と
築地と、その奥に
佇立する
諸々のみ仏が私を
否応なしに招くのだ。美への
憧ればかりでなく、何か信心のようなものが次第に芽ばえてきて、一年に一度は礼拝しないと気にかかる。
尤も最初のうちは尢もらしい名目を捨て去ることは出来なかったが、近頃ではそういう気持もなくなった。
殊更に何かを考えるということもなく、ただ散歩の延長のようなつもりで、旅の誘いのまにまにぶらりと家を出る。
素朴なひとりの旅人であればそれでいいと思うようになった。とくに春はこの気持がつよい。
獲物を
漁るようなつもりで古典の地へ行きたくないものだ。その時その折の
直ぐな心でみ仏に対すれば、仏像は何の
拘りもなく抱擁してくれる。つまり私の春のアルバムには、仏という新しい光りがさしはじめたのである。
*
奈良近郊でも私のとくに好ましく感じたところは薬師寺附近の春であった。西の京から薬師寺と
唐招提寺へ行く途中の春景色にはじめて接したとき、これがほんとうの
由緒正しい春というものなのかと思った。このような松の大樹や、木々の若葉や麦畑はどこにでもみられるかもしれない。しかしその一木一草には、
古の奈良の都の余香がしみわたっている。人間が長きにわたって思いをこめた風景には
香いがあるのだろう。塔と伽藍からたち昇る千二百年の幽気が、この辺りのすべてに漂っているように思えた。
薬師寺は由緒深い寺であるにも
拘らず、法隆寺などと比べて荒廃の感がふかい。当事者もこの寺の保存については何故か無関心であるらしい。金堂内部の背後の壁は崩れたままになっているし、講堂にいたっては更に腐朽が
甚しい。近くの唐招提寺とともに古の平城京の右京に位して、あたり一帯はいまは農家と田畑のみ。周囲にめぐらした
土塀も崩れ、山門も傾き、そこに
蔦がからみついて
蒼然たる
落魄の有様である。だが法輪寺のような小さな寺とちがって、その荒廃ぶりにはどこか堂々たるところがあって、みすぼらしい感じは少しも与えない。
虚空にとどろくような壮大な嘆きを具現しているところに私は心をひかれる。かような状景のままに放っておくところに、
或は寺僧のひそかな思いやりがあるのかもしれぬ。崩れた土塀に沿うて歩いて行くと、
天平人たちの亡霊がふいに現われて来そうに思う。彼らの衣の香り、
衣ずれの音までがふと聞えてくるようだ。肉体は滅びたが、彼らの霊魂はなお深い郷愁をもってこの辺りを
彷徨っているのであろうか。霊魂の不滅を私は薬師寺のあたりで信ずるのである。荒廃した寺の
裡に、
却って不思議な生命を感じさせるものがあるのだ。
土塀といえば、私は大和をめぐってはじめてその美しさを知った。北海道に育った私は、白壁とか土塀には全く縁がなかったのである。北方のこの開拓地では、都会の家屋には急造の洋風が多く、農村地帯の民家は、厳寒に耐えるように頑丈な木で堅く組みあわされている。塀などはなく、大抵は牧場にみらるるような
柵をたてているか、
乃至は
白楊の並木を植えているだけだ。石狩の大平原につらなる白楊の木と、牛の飼料を貯蔵しておく石造の塔の眺めは
広漠としていい。ああいう荒涼たる風景はもとよりここではのぞまれない。しかし私は山形へ来て、はじめて白壁の美しいのに驚いた。とくに春ともなれば、その純白な壁に桑の若葉が映って、互に鮮かさを競っているようにみえる。山形の白壁は桑の葉を映すためにあるようにさえ思われた。
大和古寺の土塀や奈良近郊の民家の築地は、そう鮮かなものではなく、赤土のまじった、古びた地味な感じのするのが多い。よくみると繊細な技巧の跡がうかがわれる。そして崩れたままにしてあるところに、古都の余香が、或は古都のたしなみとも云うべきものが感ぜられる。かような塀にふさわしいものは何であろうか。薬師寺の辺りを歩いていたとき、私はふとそれを
見出した。朝鮮服をまとうたひとりの貧しい老婆であった。黒い
袴に白い
上衣をきて、
紐を大きく胸のあたりにむすんだのが、歩くたびにゆらりゆらりとゆれる。右腕に古びた
壺を一つ抱えている。その
侘しい姿が、
陽炎のまつわる崩れた土塀に沿うてとぼとぼこちらへ歩いて来たとき、私ははじめて
廃墟の
完璧な姿に出会ったように思った。これは古の
百済の民の亡霊なのであろうか。
嘗つて我が国に数多く帰化し、我々の祖先とともに大伽藍を
建立した人々の
末裔――。大和の春を思うたびに私の心に浮ぶのは、このかなしい零落の姿である。
*
「月日は
百代の
過客にして、行きかふ年も又旅人なり。船の上に
生涯をうかべ、馬の口とらへて
老をむかふる者は、日々旅にして、旅を
栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず……」
周知のごとく
芭蕉の「奥の細道」の冒頭であるが、これは大和古寺巡礼の際における私の御詠歌として選んだのである。この一節を心のなかにつぶやきながら行くと、不思議にすべての邪念が晴れるのだ。古寺に関する予備知識や美術的関心や、乃至は古寺巡りにつきまとい
易い一種の虚栄とダンディズム、それら一切を捨てて、ひたすら旅に身を
委ね、何ものかに誘わるるごとく自然にみ仏のもとへまいる、そういう思いを身にしっくりさせたいと念じて私はこれを御詠歌としたのである。
薬師寺東院禅堂の聖観音立像は、
天武天皇の時代、百済王より献上せる
白鳳期最高の霊像といわるるみ仏である。私ははじめて薬師寺を訪れたとき、何げなくこのみ仏一
躯だけを拝して辞し去ったのであった。その頃都会では、古典に関する論議がしきりに行われ、日本美の伝統と再発見は誰の口にものぼっていた。私もまた伝統を思ってここへ来たひとりであったが、しかし私のまず驚嘆したことは、薬師寺の聖観音は、そうした議論とは、全く別に、黙然として佇立しているということだった。千年の
塵に蔽われたまま、まことにさりげない様子で、崩れた御堂もいとわず深い沈黙をつづけている。我々のさかしらな論議は、この沈黙の前で何ものであったろう。
聖観音の
瞳はあわれむごとく半眼にひらいている。六尺ゆたかの堂々たる体躯ですらりと立ちながら、
稍々胸を張り、気高い額を正面に向けたまま永遠の沈黙の姿である。左手を静かに上に挙げて
施無畏の印をむすび、右手は下方ゆるやかにさげたまま施満願の印をむすんでいる。観音経の中の、「諸々の善男子よ、恐怖する
勿れ、
汝等まさに一心に観世音菩薩の名号を
称ふべし。
是の
菩薩は
能く無畏を以て
衆生を施し
給ふ。」――をあらわしているのであろう。印をむすんだその指の一つ一つが花びらのように美しく繊細である。崇高な
尊貌と森厳重厚の体躯から咲き出たようなこの無比の指が、沈黙の奥深くにひそむ観音の慈心をわずかに示しているのだ。即ち一切を摂取して捨てず――。
――昭和十四年春――
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西の京の駅をおりると、すぐ眼前の松林のあいだに薬師寺の東塔がみえる。塔の
九輪頂上にそそり立つ
水煙が、澄みわたった秋空にくっきり浮び上っている。
蜻蛉のとびかう
草叢の
径をとおって、荒廃した北大門をくぐり、直ちに金堂へまいる。本尊の薬師
如来と
脇侍の日光
月光両
菩薩を、きょうはゆっくり拝したいと思ってやって来たのである。いままでも薬師寺を訪れたことは
屡々あるが、堂内の拝観を
乞うことは
稀であった。私はいつもこの附近の風光を愛し、平城京の余香の
裡に散歩するにとどめていたのである。
薬師寺はもと大和
高市郡岡本郷に草創された
天武天皇勅願のみ寺であるが、その後、
元明天皇平城
遷都さるるに伴い、いまの右京六条の地に移されたのだという。金堂と講堂は、奈良朝以後屡々の災禍を
蒙り、現存の御堂は後代の再建になるものだから、
古の結構はむろんうかがうことは出来ない。しかし本尊と脇侍の三
躯は、あらゆる災禍と風雨に耐えて、いまもなお白鳳の威容そのままに安置されてある。とくに本尊薬師如来は、白鳳期のみならずわが古仏のすべてを通して最高の傑作とさえいわるるみ仏である。
荒廃した
仄暗い金堂の
須弥壇上に、
結跏趺坐する堂々八尺四寸の金銅
坐像であるが、私は何よりもまずその
艶々した深い光沢に驚く。千二百年の歳月にも
拘らず、たったいま降誕したばかりのような生々した光りに輝いているのである。何処からこの光りが出てくるのであろう。あたかも漆黒の体躯の底に光りの泉があって、絶え間なく
滾々とあふれ出てくるように思える。そして再び重厚な体内に吸いこまれ、不断に循環しながら、
云わば光りの柔軟なメロデーを
奏でているようだ。この循環のメロデーがそのまま仏体の曲線であり、また仏心の動きをも示しているといえないであろうか。
飛鳥仏の口辺にみられた微笑は消え去っているが、その代り全身が微笑しているといった感じである。
台座の下に立って仰ぐと、
尊貌高く、下弦の月のように細長く弧をひいた
眉が拝される。その眉のあたりに漂う
幽かな光りが、半眼にひらいた
眼差に沿うて流れ、やがて豊かな頬と堅く結ばれた口辺に及んで
艶深く輝き出ている。この光りは重厚な二重の
顎のところで
一旦ひきしめられる。そして再び
逞しいなだらかな肩のあたりを漂いながら、腕において強烈となり、更に印をむすんで挙げた右手の、繊細な指において微光となって散る。左手は結跏趺坐した
膝の上にゆるやかにおかれているが、おそらくその上に薬壺を載せていたのであろう。
体躯をめぐるかような光りの流れに、伴奏のごとくまつわっているのは、云うまでもなく衣の
襞である。
偏袒右肩、――つまり右の
片肌を脱いでいるみ姿であるから、衣は左の肩から斜に右の胴下にまかれ、その
裾は結跏趺坐した円い膝を
蔽うて台座に垂れさがっている。左の肩から台座に及ぶこの衣の線が、体躯の光りに応じて縦横に弧線を描き、ここに光りの循環に
由るメロデーは完成されるのである。仏体自身が飛鳥仏(とくに法隆寺の
釈迦三尊)のように浮彫式ではなく、完全に円味を帯びているので、光りの流れは滞るところを知らない。上から下方へ、また下から上方へ、絶えず
楕円形を描きつつ
流転しているわけだ。同様のことは小仏ながら、
橘夫人念持の白鳳仏にもうかがわれると思う。しかもこの流麗な線は、
剛毅で重厚な仏体によってひきしめられ、いささかも繊弱な感じを与えない。円満という言葉はこのみ仏のためにあるようにさえ思われる。いかなる念願が、かかる
稀有のみ仏を現出せしめたのであろうか。いままで我々は、彫刻の
所謂写実性によってのみこれを解せんとした。だが前にも一度ふれたように、仏体における写実の「実」とは、仏自身であって、人間像への近接の度合によって推測さるべき
事柄ではない。たとい近接してもこれを超えたところに、
唯ひとえにそこにのみ仏の「実」が、
即ち仏の仏たる
所以がある。人間の願と仏の慈心の相寄る
刹那であり、すでに祈念の事に属する。かかる光りのみ仏を現出せしめた祈念を私は歴史の上に
辿ってみたい。
*
前述のごとく薬師寺はもと天武天皇勅願の大寺である。日本書紀によれば天皇の九年冬十一月「
癸未、皇后
体不予したまふ。
則ち皇后の
為めに
誓願ひて、初めて薬師寺を
興つ。
仍りて一百の僧を
度せしめたまふ。
是に由りて
安平たまふことを得たり」とある。即ち皇后御病気
平癒を願って
建立された寺であるが、
忽ち
霊験あって皇后は御
恢復になった。
叡感のあまり薬師三尊を鋳造されたと伝えられているのである。皇后は後の
持統天皇である。
然るに薬師三尊の
鋪金未だ遂げぬうちに、朱鳥元年九月
丙午、天武天皇は
浄御原宮に崩御された。持統天皇はその御願を継いで即位二年
無遮の
大会を設け給い、同十一年「
癸亥、
公卿百寮、
仏眼を
開はしまつる。
会を薬師寺に設く」(書紀)。ここに薬師三尊は天武天皇発願されてよりおよそ十八年にして完成したわけである。しかし薬師寺の諸堂
伽藍の工が一応整ったのは次の
文武天皇即位二年であり、造薬師寺司を置いて全く完備するには更に十年の歳月を要したのであるから、前後実に三十年に近き歳月を、三代の天皇が相継ぎ完成に力をそそがれたのである。
その後元明天皇平城京
遷都とともに現存の地に移されたが、旧都の伽藍をそのまま移動せしめたのではない。だから現存の薬師三尊も元明天皇の
御代、即ち白鳳の末期
乃至は
天平に近き頃の造顕であろうといわれている。しかしこのみ仏に宿る御念願の、すでに天武天皇に発することには変りはないであろう。白鳳時代は
天智天皇より、元明天皇平城京遷都までを
謂う。その盛期が天武天皇の御代にあることは云うまでもない。即ち白鳳の祈りとはいかなるものであったか――飛鳥の祈りを継ぎつつ、更に天平の開花にまで及ぶこの間の信仰を私は推察したく思うのだ。薬師如来の
未曾有の光りを、根源において
湧出せしめたものは、
所詮白鳳の祈りに他ならないであろうから。
天武天皇が位につき給うたのは、
上宮太子薨去されてより五十二年の後である。私はさきに「飛鳥の祈り」の中で、上宮太子の憂悩と悲願について申し上げ、それにも拘らず太子遺族の遭遇された悲運についても語った。
蘇我一族はまもなく
中大兄皇子と
藤原鎌足によって滅ぼされ、天智天皇大化改新を断行されて、わが国家がはじめて諸制度を整えたことは史に明らかである。国外交通の隆盛、国富の
膨脹、各氏族の強大、あるいは人口増殖等によって国力は充実するとともに、
由緒ある氏族ならびに諸民の思想と生活を
統べることは容易ならぬ困難を伴ったであろう。
天武天皇は天智天皇の同じ母君の御弟、即ち皇太弟である。
大海人皇子と申し上げた。天智天皇に皇子がなかったので早く東宮となられ、
近江朝廷のもとに、長い間大和の施政に尽力された練達の政治家であった。天智天皇の大化改新の諸制を実際に運用し、奈良朝にいたるまでの最も多難な政局に処されたのは、天武天皇御自身に他ならなかったのである。しかし上宮太子の、憂悩のあまり祈念されたところは、後代において必ずしも
全うされたとはいえない。更に
大なる悲痛の裡に、天武天皇は位を継ぎ、憂悩を深めたのである。
天智天皇御病
篤きとき、次の皇位をめぐって再び野心ある
群卿の謀議がひそかに行われた。左大臣
蘇我赤兄臣、右大臣
中臣金連、
蘇我果安臣、
巨勢人臣、
紀大人臣等は
大友皇子を擁して誓盟した。この事情を当時東宮であった天武天皇――大海人皇子は早くも気づかれて、自ら皇位を辞されたのであった。即ち「天智天皇東宮に勅して、
鴻業のことを授く。
乃ち
辞び譲りて曰く、
臣、
不幸、元より
多病有り。何ぞ
能く
社稷を保たむ。願くは
陛下、天
の下を挙げて皇后に附けよ。
仍りて大友皇子を立てて、
宜しく
儲君と
為たまへ。臣は今日
出家して、
陛下の為めに
功徳を
修はむと
欲ふ。天皇
聴したまふ。
即日出家して
法を
服たまふ。」と日本書紀のしるすごとくであった。
然るに群卿は、東宮の威徳を
畏れ、すでに出家して吉野山に入られた後を襲わんとしたのである。ここに
於て一旦出家された大海人皇子は軍勢をととのえ、敢然として近江朝の軍と対された。さきに上宮太子の御子
山背大兄王は、蘇我入鹿の軍に襲われたとき、御一身のため万民を
煩わすを慎しみ給い、「身を
捐て国を固くせむは、
亦丈夫ならざらむや」と法隆寺に
自頸されたのであったが、大海人皇子はすすんで難に
挺身されたのである。
書紀によれば、大海人皇子は「
生まししより
岐嶷なる
姿有り、
壮に及びて
雄抜しく
神武し」とある。即ち剛毅
英邁の君であらせられたことがわかるが、同時に激しき熱情と、またその影のごとく深き
憂いを伴うておられたことは、万葉集の名歌によっても明らかであろう。天智天皇、
蒲生野に遊猟し給える時、
額田王の歌った、「あかねさす紫野行き
標野行き野守は見ずや君が袖振る」という歌に対し、東宮の大海人皇子の答えた有名な
相聞がある。
紫草のにほへる妹を憎くあらば人嬬ゆゑに吾恋ひめやも
また天皇となられて後の御製に次のごとき名歌もある。
み吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間なくぞ 雨は降りける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来し その山道を
この長歌はいついかなる時の御製であるか明らかではないが、右の短歌の激しい熱情に対し、憂いの調べの幽遠にこもっている名歌として私の愛唱するところである。即ち天武天皇は、「雄抜しく神武」くあらせられたのみならず、万葉前期の歌人として卓抜な手腕も有しておられたのである。前記群卿の陰謀による近江の軍を向うにまわして、
或は山野に逃れ、軍を集め給い、実に言語に絶した労苦の後、これを平定して皇位につき給うた、この間の事情は書紀に
詳かである故くりかえさない。また
高市皇子尊の城上の
殯宮の時に
詠める
柿本人麻呂の長歌(万葉集巻二)によって更に有名であろう。
蓋し
壬申の乱は、わが国史において未曾有の異変だった。乱の後、天武天皇として登位あそばされたのであるから、再びかかることのなきよう堅く御心に誓われたであろう。即ち天皇の信仰は、少くともこの乱の
淵源を深く顧みたときの憂悩に発すると私は推察申し上ぐるのである。
「以和為貴」の太子の御祈りは、ここに於て再び強くかえりみられたであろう。国威の
昂揚する偉大な時代を背景としつつ、一方では
凄惨な地獄絵は幾たびか展開されていたのであった。さきにしるした万葉の長歌とともに、私の深く感銘した状景を、次に日本書紀から引いておきたい。壬申の乱平定して八年の五月、皇后ならびに諸皇子を召して、
久遠の和を誓盟された有様がしるされてある。即ち、
「五月
庚辰朔
甲申、
吉野宮に
幸したまふ。
乙酉、天皇皇后及び
草壁皇子尊、
大津皇子、
高市皇子、
河島皇子、
忍壁皇子、
芝基皇子に
詔して
曰く、
朕れ今日
汝等と
倶に
庭に
盟ひて、千歳の後に事無からむと
欲す。
奈之何。
皇子等共に
対へて
曰く、
理実灼然なり。則ち草壁皇子尊
先づ進みて盟ひて
曰く、
天神地祇、及び
天皇証めたまへ、
吾れ兄弟長幼、
并せて十余の
王、
各異腹より
出づ。然れども
同異を別たずして、倶に天皇の
勅の
随に、相
扶けて
忤ふること無からむ。
若し今より
以後、
此の
盟の如くならずば、
身命亡び、
子孫絶えむ。忘れじ
失たじ。
五皇子次を以て相盟ふこと先の如し。然して後に天皇
曰く、朕が
男等各異腹にして生る。然れども今
一母同産の如くて
慈ましむ。則ち
襟を
披きて、
其六皇子を抱きたまふ。
因て以て盟ひて
曰く、若し
茲の
盟に
違はば、
忽に朕が身を
亡はむ。皇后の盟ひたまふこと
且た天皇の如し。
丙戌、
車駕宮に
還り給ふ。
己丑、六皇子共に天皇を
大殿の前に拝みたまふ。」
日本書紀全巻を通して、私の最も感動した状景の一つである。この一節によって、天武天皇が何を憂い、何を祈念されたか、はっきり了知さるるのではなかろうか。「千歳の後に事無からむと欲す」と、久遠の和を念じ給い、各皇子盟約の後、自ら
襟をお
披きになって皇子達を抱かれた。そのときの憂悩の深さを思うべきである。外においては、唐との外交、あるいは各
群卿の統治と大化改新の
累積する諸問題を処理し給いつつ、内においては、血族の和をひたすら祈られたのであるが、上宮太子の御代より壬申の乱にいたる半世紀をかえりみるとき、実に衷心よりの念願だったと拝察さるる。剛毅雄武と激しき情熱の半面にかかる憂いをひいておられたところに、白鳳の光りは
仄かに輝き出たのではなかろうか。
*
薬師三尊は、前記のごとく皇后全快を叡感されて造顕した勅願の仏体である。しかし
円かな
相貌と全躯にみなぎる深い光沢を仰ぐとき、天武天皇が
生涯にわたって心奥に
憧憬されたあの久遠の和の光輝を思わないわけにゆかない。皇后の御病を縁として信仰の一切がこのみ仏に念じこめられたのだと申してもいいのではなかろうか。更に皇后の御生涯をしのぶとき
一入この感は深い。
皇后は御幼名を
前野讃良皇女と申し上げ、天智天皇の御二女であらせられる。
斉明天皇の三年に大海人皇子の妃となり、皇子が東宮の頃はむろん壬申の乱のさ中に在っても、つねに御身近くたすけ、苦難を
偕にされし方であった。書紀にも「
旅を
鞠ひ衆を
会へて、
遂に
与に謀を定めたまふ」と壬申の乱における内助の功を
讃え、また大海人皇子登位して天武天皇となられて後、崩御さるるまで、「天皇を
佐けて天の下を定めたまふ。
毎に
侍執たまふ際に於いて、
輒ち
言政事に及びて、
け補ふ所多し」と記してある。天武天皇崩御の後位を継ぎ、持統天皇と申し上げたことは前に述べたとおりである。即ち皇后は御生涯にわたって、天武天皇の最もよき
伴侶であり、一切の労苦を偕に忍ばれたのであった。九年、皇后御病いの折の、天武天皇の憂いは申すまでもない。薬師寺建立の勅願も、この史実をふりかえってはじめて
明瞭となるであろう。
薬師三尊は、かような数々の祈念のもとに現出したみ仏である。たとい造仏の完成は後年であろうとも、天武天皇の信仰は、持統、
文武、元明の三朝を通して、語り継ぎ言い継ぎ
擁られて行ったに相違ないと思う。薬師三尊に仰がるる白鳳の光りは、天武天皇の信仰を源泉とし、これを受け継がれた三帝が御祈りによって
磨きあげたものと申していいであろう。
だが悲しむべきことには、「千歳の後に事無からむと欲」された念願は、後代の群臣によって必ずしも
遵奉されなかった。天武天皇崩御されし直後、皇后が政治を執られていた間に再び悲劇は起った。即ち大津皇子の最期である。日本書紀によれば
「冬十月
戊辰朔
己巳、皇子大津
謀反発覚はれぬ。皇子大津を
逮捕ふ。
并せて皇子大津が為めに、
※誤[#「言+圭」、U+8A7F、151-16]かれたる
直広肆八口朝臣音橿、
小山下壱伎連博徳と、
大舎人中臣朝臣臣麻呂、
巨勢朝臣多益須、
新羅の
沙門行心、及び
張内礪杵道作等卅余人を捕ふ。
庚午、皇子大津を
訳語田の
舎に
賜死らしむ。時に年廿四。
妃皇女山辺、
髪を
被し
徒跣にして、
奔赴きて
殉ぬ。見る
者皆
歔欷く。皇子大津は
天渟中原瀛真人天皇(天武天皇)の第三
子なり。
容止墻岸、
音辞俊れ
朗かなり。
天命開別天皇(天智天皇)の為に
愛まれたまふ。
長となるに及びて
弁しくて
才学有り、
尤も
文筆を
愛む。
詩賦の
興、大津より始まれり……。」
大津皇子はさきに天武天皇の前に誓盟された六皇子の一人である。いかなる心境ゆえにかかる不幸を招かれたのか。ここにも群臣の様々な謀略があったと思われる。天武天皇の深き念願にも拘らず、天皇の御一代は壬申の乱に始まって大津皇子の最期に終らねばならなかった。
蘇我馬子以来、勢力ある氏族の野心は、
屡々宮廷を悩ましたのであるが、壬申の乱及び大津皇子の悲劇は、そのあらわれは激しかったが比較的短日月にて
収攬された。しかしこれに代って、持統天皇の御代より、藤原鎌足の子
不比等の一族、或は
橘三千代、橘
諸兄等の諸勢力が、徐々に宮廷のうちにのびて行った。彼らの
擅権が
漸くあらわになったのは天平に入ってからであるが、その種子は既に根づよくこの時代に
胚胎していたのであった。またこの頃のわが国内は、書紀から
続紀へうつるところによってみるに、氏族諸民の膨脹
甚しく、他方では下層の民の生活苦よりくる種々の犯罪増加を伴い、これを取締ることは為政の苦衷であったらしい。
しかもこのような激しい世に、聖観音や薬師三尊のごとき、或は橘夫人念持仏や香薬師のごとき稀有のみ仏が次々と現出して行ったのである。唐文化の流人はすさまじいものがあったし、来朝する僧学者諸々の技術家乃至は留学生もおびただしい数にのぼっていたのであるから、この間において造仏の
工が一段の進展をみたことは否定出来ない。然しあの深い光沢、円満のみ姿は、ただこれによってのみ可能だったとは思われぬ。真実の安らいを求めて人々は更に深く憧憬し、祈念の
音声は激しく仏体にまつわりついていたであろう。
*
薬師
如来の流麗な光りの線をみると、祈念の音声が何の抵抗もなくなだらかに調和して、おのずから吸いこまれて行くように思われる。鳥仏師の釈迦三尊の厳格な威容は、人間の祈念を厳しく直角に吸いこむようにみえるが、
白鳳の薬師如来は、すべての祈りの声を、声のままにいつとはなし自己の光りのメロデーと融合せしむるごとくである。このことを私は音楽の隆盛にむすびつけて考えざるをえなかった。
大化改新より奈良朝へかけて、唐僧と留学生の力によって、
読経も漸く荘厳な調べを
奏でるようになったであろうし、また寺の大会に伴う様々の音楽と舞踊も急速に発達したであろう。仏教音楽、舞踊、読経、これら一切をふくめた
或るすばらしい調べが、白鳳期において開花したのではなかろうか。流麗な音声と楽なくしては、薬師像の光りと線は磨かれなかったに相違ない。即ち天武天皇より三代の朝にわたる祈念は、音楽の
洗煉を伴ってはじめて壮麗な調べを得たと
云えないだろうか。白鳳の貴人達は深甚微妙の楽の音と数百の
僧侶の読経と、この壮大な交響の
裡に仏を拝する妙味を心ゆくまで
味った最初の人々であったに相違ない。少くともかかる情緒が、三尊を造顕した仏師の身についていたと云わねばならない。
正面に
結跏趺坐する本尊を中心に、右に日光
菩薩、左に
月光菩薩が
佇立しているが、この二
躯はあくまで本尊と調和を保って、云わば三尊そろって一つの
綜合的な曲線を描き、
渾然たるメロデーを奏でるようつくられてある。それは意識的にそうなのだ。右なる日光菩薩は、胴体から腰をかすかに本尊の方へくねらせ、右足は
所謂遊び足となってわずかに前方へ出ている。右手を挙げて印をむすび、左手はさげたまま施満願の印をむすんでいるが、その軽くむすんだ指先が、三尊一体として仰いだ折の、右端に終る光りとなっているのだ。左方の月光菩薩は、同じ挙措を対照的に示す。左手を挙げて印をむすび、右手はさげたまま日光菩薩と同様の印をむすびつつ、その指先は左端の光りとなって終る。
飛鳥の御代を過ぎて白鳳までくると、仏体はかくも自在な動きを示しはじめるのである。祈念は祈念を微妙に
唆る音楽を随伴しはじめた。若しそう言ってよければ、飛鳥仏にこもる祈りは厳しく思索的であり、白鳳仏にこもる祈りは柔軟に音楽的なのだ。そして天平仏となるとこれに舞踊的要素が加わる。ともあれこの時代になると、人間の悲願は音楽として表現されるにふさわしくなってきたのだと云ってもよかろう。情感は洗煉され、また装飾的にもなったろう。柿本人麻呂をはじめ万葉集前期の諸歌人が輩出した時代であることを思えば更に興深い。
薬師三尊のごとき光りと曲線の仏体を他に求めるならば、前述の橘夫人念持仏であるが、しかし私はむしろ法隆寺金堂の西大壁に描かれた
阿弥陀三尊を挙げたい。薬師三尊をもし壁画に写すならば、法隆寺のこの三尊に最も近いものとなるであろう。結跏趺坐した阿弥陀如来の豊かに流麗な像や、
脇侍たる観音
勢至両菩薩の、本尊に調和せんとする
優婉な腕と胴体の動きなどは、薬師三尊に酷似している。祈念の音楽はここでは壁画として表現されたのだ。
しかし私の最後に憧憬するのは、天平時代に入ってから、聖武天皇の造顕されし東大寺の大仏である。いまは既に崩壊して名残をとどむるのは台座の
蓮弁のみであるが、若しこの大仏にして現存するならば、
蓋し空前絶後の壮麗を現出していたであろう。
何故なら、この大仏は、いままで述べ
来った薬師如来像を
遥かに大きく継いだものと推察されているからである。
――昭和十七年秋――
[#改ページ]
古寺の風光のなかでもとりわけ私の愛するのは塔の遠望である。奈良から法隆寺行きのバスが出ていた頃は、いつもそれに乗って出かけることにしていた。豊かな大和平原をゆられながら、次々とあらわれてくる塔を望見するのがこの上もなく楽しかったからである。いまは田園と化した平城京
址を過ぎて行くと、まず薬師寺の東塔がみえはじめる。松林の、緑のあいだにそそり立つその端麗な姿が、次第に近づいてくる有様は実にすばらしく、古都へ来た
悦びが深まるのであった。また小泉のあたりを過ぎるとき、
遥かな丘陵の
麓の
森蔭に法起寺と法輪寺の三重塔が
燻んでみえ、やがて法隆寺の五重塔が鮮かな威容をもって立ちあらわれる状景には、いつも心を躍らされる。何故あのように深い悦びを塔は与えるのであろう。
「ああ塔がみえる、塔がみえる」――そう思ったとき、その場で車をすてて、塔をめざしてまっすぐに歩いて行く。これが古寺巡礼の
風情というものではなかろうかと思う。おそらく古人も、遥かに塔を望みながら、誘わるるごとくひきよせられて行ったに相違ない。塔にはふしぎな吸引力がある。
憧憬と歓喜を与えつつ
否応なしに我々をひきよせるのだ。その下に
伽藍があり、
諸々のみ仏が
在す。朝夕多くの善男善女が祈願を
捧げている。そういう
息吹が炎のようにもつれあって、静かに
虚空へ立ちのぼる相をそのままに結晶せしめたのが塔なのであろうか。いつの春だったか、小泉の辺りでバスを降りて、
畔道に腰をおろしながら、法起寺と法輪寺の塔を望見したことがあったが、
陽炎のなかに二つの塔が
幽かに震えているのをみてこの感を深うした。私はさきに
百済観音を白炎の塔として仰いだことについて述べたが、大和平原はるかに塔を
眺めるとき、私にはそれらが
悉く
菩薩立像にみえるのである。
薬師寺を訪れるには、西の京から直ちに境内へ入る道筋もいいが、バス街道から田畑のあいだを通りぬけ、塔を望みながらゆっくり歩いて行く途中も捨て難い。この秋は、夕暮近く薬師寺を訪れた。夕暮から夜へかけての塔の姿をみたかったのである。塔の
尖端についている九輪のあたりに、浮雲が漂っていて、それに
夕陽が映ってくれないに染まった、
所謂天平雲を背景とした塔を仰ぎたい、というのが私の長い間の願望であった。東塔は周知のごとく三重の塔ではあるが、各層に
裳層がついているので六重の塔のようにみえる。そしてこの裳層のひろがりが塔に音調と
陰翳を与えている。
白鳳の祈念に宿る音楽性はここにもうかがわるるであろう。この日は空がよく晴れていて、天平雲は望むことは出来なかったが、松林の緑を透して
射しこむ夕日に、塔が紫色に映えて、裳層の陰翳も
一入深く仰ぎみられた。
だがそれにもまして驚嘆したのは夜の塔であった。月光を浴びて
瓦は黄金の光りを放ち、各層は細部にいたるまで鮮かに照り映えて、全体が銀の塔と見まちがうばかりである。満天の
星屑を背にそそり立つ荘厳の姿は、私がこの世の中でみた最も美しい状景であった。九輪の尖端には
水煙と称する網状の金属の飾りがついているが、この水煙には
飛行奏楽する天女の一群が配してある。月光のため白銀の炎のようにみえるその頂上のあたりには銀河がゆるやかに流れていた。天女の
奏でる楽の音が聞えたという伝説を残してもよかろう。夕暮の塔をはるかに慕いつつ、やがてその下に立って月夜の姿を仰ぐまでのこの時間を、私は人生の幸福とよんでもいい。少くとも私の半生において最も幸福な
刹那であった。人間の祈りが結晶して、月のある天上に向ってそそり立つなどということはこの世の出来事とは思われない。
塔は幸福の象徴である。悲しみの極みに、仏の悲心の与える悦びの
頌歌であると云ってもいい。金堂や講堂はどれほど雄大であっても、それは地に伏す姿を与えられている。その下で人間は自己の苦悩を訴え、
且つ祈った。生死の悲哀は、地に伏すごとく建てられた伽藍の
裡にみちているであろう。しかし塔だけは、天に向ってのびやかにそそり立っている。悲しみの合掌をしつつも、ついに天上を仰いで、無限の虚空に思いを
馳せざるをえないように出来あがっているのだ。人生苦のすべては金堂と講堂に
委ねて、塔のみは一切忘却の果に、ひたすら我々を天上に誘うごとく見える。しかも塔の底には仏の骨が埋められてあるのだ。
大和古寺には様々の塔がある。法隆寺の塔のもつ
巍然たる威容は、
上宮太子の御人格そのままと申していいほど立派なものである。鳥仏師の
釈迦三尊にみらるるような絶対
帰依に
由る厳格さを
偲んでもよかろう。また法起寺と法輪寺の三重塔は飛鳥の小仏のごとく
古樸で
可憐な一面をもつ。二上山を背景に、中腹に立つ
当麻寺の東西両塔の典雅な有様、あるいは
室生寺の大杉の間に立つ五重塔の華麗な姿も忘れられない。しかし私は結局、薬師寺の東塔に最も感心するのである。法隆寺の塔のもつ森厳な風格に比すれば
稍々華かではあるが、同時に雄大な落着をそなえていて
微塵の不安も与えない。西塔はすでに崩壊して、わずかに
土壇と
礎を残すのみであるが、東塔はよく千二百年の風雨に耐えて、白鳳の壮麗をいまに伝えている。某という僧が
定に入って夢みた竜宮の塔を、うつつに現出したものといわれるが、かような様式はわが国にも
唯一つこの東塔あるのみ。
――昭和十七年秋――
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薬師寺から北へ三丁ほど歩いて行ったところに唐招提寺がある。この道筋には古風な民家が散在し、その破れた
築地のあいだより、秋の光りをあびて
柿の実の赤く熟しているのが
眺められた。
燻んだ黄色い壁と柿のくれないとがよく調和して美しい。また辺り一帯には松の
疎林があり、樹間をとおして広々とした田野がみえる。刈入れのすんだところは稲束が積みかさねられ、
畔道には
薄が秋の微風をうけてゆるやかになびいている。すべて
古の平城京の
址である。
唐招提寺も薬師寺と同じく右京に位しているが、
建立された年代からいえば、薬師寺よりおよそ四十年の後である。東大寺の大仏
開眼の日からかぞえると七年目、
天平もすでに末期の宝字三年、
鑑真が
聖武天皇の御
冥福を祈りつつ草創した寺と伝えられる。したがって、東大寺や新薬師寺の後に語るのが順序ではあろうが、ここでは私の巡礼の道順によって述べる。
即ち薬師寺における
白鳳の威容から一足とびに天平末期へ移るわけだ。
尤も私はこの寺の歴史と仏像にはさほど心をひかれない。法隆寺や薬師寺や東大寺に比べると格式もちがうし
由緒も深いとはいえない。しかし唐招提寺には他のどんな古寺にもない独特の美しさがある。
伽藍配置のかもし出す整然たる調和の美しさであって、私はそれをみたいためにやってくるのだ。奈良朝の建築の精華はここにほぼ
完璧な姿で残っていると
云ってもよかろう。
希臘の神殿を
彷彿せしむるような円柱の立ち並んだ金堂、平城京の朝集殿と伝えらるる講堂、及びその西側に細長く建っている舎利殿、小さく
可憐な二階造の鼓楼、この四つの伽藍が秋の光りを一杯にうけて粛然と静まりかえっている状景は無比である。燻んだ御堂の柱や横木の間に塗られた白壁が、秋には一層映えて、全体として明るい
華かな感じにあふれ、寺院というよりは宮殿といった方がふさわしいくらいだ。金堂の右側にある案内所の辺に立つと、四つの堂を一望に眺めることが出来る。この四つの堂が
奏でる壮麗な調和にいつも感心する。その一つ一つを切り離しては考えられないのである。
金堂は奈良時代の大寺の金堂の形式を伝える
唯一の遺構といわれる。
元明天皇平城京に
遷都されてより、興福寺、
元興寺、薬師寺、大安寺等が次々と建立され、聖武天皇の御代にいたって
遂に
宏大無双の東大寺が創建される等、この
頃は大寺造営の盛んな時代であったが、しかし現在に伝わるものは極めて
稀である。東大寺の
転害門と三月堂、正倉院の勅封蔵、
或は夢殿を除けばわずかに唐招提寺の金堂が代表的遺構であるにすぎない。その他にもいくつか挙げられるけれど、この金堂ほど壮麗に現存しているものはない。講堂も同じ時代の造営であるが、後代の補修
甚しく、古の
面影は
偲ばれないという。舎利殿と鼓楼は鎌倉時代の造営である。こうして一つ一つをとってみると様々な考証や
理窟はつくが、しかし四つ
揃ったところを眺めると、時代の相違を忘れるほど見事な調和を示しているのが不思議だ。
伽藍配置の美については、誰しもまず法隆寺を想起するであろう。伊東忠太博士が指摘しているように、「右に金堂の大を
観、左に塔の高きを仰ぎ、更にその間から中央に講堂の広きを望むことが出来、得も云われぬ
風情がある。左右同形は厳格ではあるが情味に乏しい。法隆寺伽藍は左右不同形ではあるが、金堂と塔とは量において、力において、姿において均衡を保っており、その間に無限の情味がある。要するに法隆寺伽藍は左右同形を捨てて、左右均衡を取ったものである」(「法隆寺」より)――この卓抜な着想は、上宮太子の
為されしところで、ここからあの無比の威厳があふれ出たのであろう。法隆寺伽藍の配置はただ美しいとだけいえるものではない。金堂と塔と講堂と、それぞれの信仰上の意味を深く省察されて、一切は唯信の祈念と
憧憬から建立された。全体としての森厳たる威容は、やはり鳥仏師の
釈迦三尊にこもる精神にも通じているであろう。
飛鳥の伽藍も、飛鳥の古仏のごとく思索的なものである。
ところで唐招提寺になると、かような配置への顧慮は一見なげやりにみえる。金堂の前に立つと、その威圧的な大屋根のうねりと円柱に圧倒されて、他の何ものもみえない。塔はないし、講堂は真うしろにかくれてしまう。鼓楼と舎利殿がわずかに右方に望見される。そこには均衡に対する顧慮が全くないようにみえる。しかし一歩ずつ歩みをすすめて、これら伽藍の周囲をめぐりはじめると、急にその優しい美しさがあふれ出てくるのだ。
金堂だけであったならば、あまりにいかめしく重厚であろう。講堂のみを眺めると唐の宮殿のように華麓で、寺としての
陰翳に乏しい。鼓楼はそれ一つを離すとあまりに
華奢であり、舎利殿は整備されすぎて古典の重味に欠ける。ところがこの四つの堂が揃うと、互に不足なところを補いあって、遂に欠点を
見出せない、という不思議な効果をもった配置なのである。金堂のいかめしさは、舎利殿の整然たる姿と鼓楼の華奢な面影によって和げられ、云わば側面から適度の反射光を投げかけられたように柔軟な相を帯びてくる。そして金堂自身のもつ
蒼然たる陰翳は、後の講堂に反映し、講堂のもつ
稍々浮いた明るさに適切な重厚味を与えている。つまり
各々異った光りをもつ四つの堂が、互に光りを交しながら全体として壮麗な美を現出するという、不思議な効果をもっているのだ。鑑真の率いた弟子達がかような効果を当初から念願したのであろうか。或は大唐の文化に学び、数々の寺院を建てて、
漸く円熟自在の境に入った天平建築家の感覚が、おのずからこうした状景をつくり出したのであろうか。
乃至はもっと後代の作為なのか。それとも秋の光りの
戯れなのか。
ともあれ私はこれら伽藍の周囲をめぐりながら、様々の方角から眺めつつ、そのたびに変化する建築の妙味に陶然とするのである。これは伽藍の交響楽だ。透明な秋空にひびきわたるかと思われるほど鮮かな輪郭をもってそびえている。
――昭和十七年秋――
[#改ページ]
唐招提寺の金堂を訪れた人は、誰しもその見事な円柱に心をとめるであろう。円柱が全姿をあらわに並列しているのは、大和古寺のなかでもこの寺以外にはない。私は写真の上で、遠い
希臘羅馬の神殿の
址にそそり立つ円柱をみたことがあるが、ああいう石造の感じはどんなものであろうか。おそらく冷厳に、しかし月光などが照らし出したならば異様な光りを放つのではなかろうか。わが古寺の円柱は
云うまでもなく木造であるから、光りを反射することは少い。むしろ光りを吸収して、柔くその木目のあいだに
湛えると云った方がいいようだ。月光の下で
眺めたならば、
一旦吸いこんだ光りが
幽かににじみ出るといった風に輝いているのではなかろうか。またこの円柱は光りばかりでなく、千二百年のあいだ、金堂に
詣でた人々の
息吹や体臭や衣の香りまでも吸い込んでいるにちがいない。感触が柔く、どこかに暖かさがこもっている。その深部にはいまなお血液が脈うっているようにさえみえる。私は円柱について専門的な知識をもちあわせないが、古寺の柱をみると、何となく人臭い感じがするのである。生ま生ましいのだ。これはどんな理由に基くのであろうか。
元来、柱というものは人がもたれかかるものである。もたれかかるために柱を建てるわけではないが、自然にそうなるのは我々の日常経験するところであろう。私はこの
素朴な日常経験を基として唐招提寺の円柱に対するのである。
金堂におまいりして、仏前に祈りを
捧げた後、おそらく多くの人は何げなくこの円柱にもたれかかって、ほっとしたのではなかろうか。
或は
遥々この寺を訪れた旅人が、仏前へまいる前に、しばし身を寄せかけてあたりの風光をめでたのではなかろうか。
乃至はこの
蔭に身をひそめて恋人を待つ平城の男女があったかもしれぬ。念願は心の緊張の
裡に行われる。仏前に在っては我々は
畏敬のため慎しみふかくしていなければならない。しかし円柱はそうした緊張の後や、旅の疲れの後や、また相慕う思いのまにまにと身を寄せるに実に都合よく、親しみ深く立っているのである。円形ということも大事なことである。
即ちそれは巧まずして設けられた小さな
憩いの場所なのだ。
ここで我々は様々の思いをめぐらしたり、平生の気楽な状態に
還ったりすることが出来る。その証拠には各寺院の円柱をみよ。落書がある、身をすり寄せた
痕もみえる、子供達は手をつないで鬼ごっこをしている。また遠慮なくお
呪いの札がはりつけてあるのも円柱である。法隆寺や東大寺の屋内の円柱はさほどではないが、唐招提寺のごとくむき出しになっているところではこの傾向は甚だ顕著で、それがまた何ともいえない親しみを与えてくれるのだ。俗にみえることもあるが、この俗をも摂取してそれがそのまま寺の
懐しさと化している点が私には有難い。人臭いと云ったのもかような意味である。
しかし八本の太柱の並んだ金堂を稍々
遠眼にみるときは、また別の美しさを感ずる。この出張った柱のあるため、金堂がどれほど深い
陰翳を与えられているか、想像がつくであろう。
瓦が波のようにうねる大屋根の重くるしさも、この円柱のためどれほどやわらげられているか。南の光りを浴びて、円柱が影を石畳の上にうつしているのをみると、ふと懐しい気持が
湧いてくる。
古を懐しむのだ。この懐しさのなかには、さきに述べたようにささやかな憩いへの
憧れがこもっている。疲れた旅人が路傍の大樹のもとに
暫しの休らいを求めるように、柱というものは寄りかかるためにあるものだ。また路傍の大樹を遠くからみると、旅人の有無に
拘らずそれ自身の美しさでそびえているように、円柱も離れて仰げば人臭さに関係なく荘厳にそそり立っているのだ。人為の果がかく自然を思わせるのも木造円形の故であろうか。屋根を支えるために建てた柱が、こんな美しい陰翳や習いを生ずるのを私はいつも感嘆して思うのである。
しかし柱にばかり感心しているわけにゆかないので、私は御堂へ入る。
光背に千体の小仏をもつ
廬舎那仏と千手観音がまず眼をひく。
鑑真の率いて来た唐仏師の影響下に造顕されたと伝えられるが、それは別として、私はいつも千手観音を拝するたびに起す一つの疑問をここで述べておこう。千手観音は文字どおり千本の腕としたがって五千本の指とをもっている。
体躯の左右に五百本ずつ、大きいのから小さいのまで、無数といっていいほど手がのびている。云うまでもなく千変万化
如意救済の願いをあらわしているのだが、しかし経文や願そのままのリアリズムに私は疑問をもつ。千手観音なるがゆえに千手あるのは当然かもしれないが、何となく奇怪で薄気味わるい。こうしてまでも千手にする必要があるのであろうか。
飛鳥や
白鳳期には絶無と云ってよく、
天平も末期からこの観音が造顕されはじめたようだ。たとい仏であり
菩薩であろうと、また私のひそかな願いが唯信をもって対することであろうと、私はやはり美しさに
拘泥せざるをえない。美を無視して信心のみから仏を仰ぐことは出来かねるのだ。美しくなければ私はその信仰を疑う。
しかし私はこの千手観音を無視していいとは夢にも思わない。いま少しのところで美しくなる
筈だ。私は自分の念願のなかで、千手観音をひそかに補うのである。つまり想像の裡だけでも美しい菩薩として仰ぎたいのだ。私はこのみ仏の前に立って、眼をほんのかすかにひらいて眺める。全体の姿がおぼろげにみえてくる。千手はもはや千手ではない、全体の輪郭だけが幽かにうつってくる。すると驚くべきことに、千手はそのまま翼と化すのだ。翼をひろげた観世音がまさに
飛行の姿で
佇立している。
この想像はしかし
基督教的であろう。カソリック教会堂でみた天使の姿がこのみ仏に通じたのかもしれない。このことはまた一つの疑問を私に与える。何故仏像には翼がないのであろう。一つぐらいありそうなものだ。仏像とは限らぬ。法隆寺
天蓋の天人をみても、薬師寺東塔水煙の天女を仰いでも、或は宇治平等院
鳳凰堂の雲上
供養仏に接しても、翼はみあたらない。翼がなければ飛べないというのは西洋風の
理窟であって、東洋の神仏も天人も生身のまま大空に遊行するのであろうか。その方が神仏としてふさわしいことはたしかだ。あるいは翼をもつほどならいっそ鳥と化してしまう。白鳥となって飛び立つ美しい伝説がある。また仏法には転生が
屡々説かれている。
だが千手観音をみると、やはり翼があった方がいいように思う。千本の腕まで写実するくらいならばむしろ翼を与えよと云いたい。円柱に寄りそって一息ついた善男善女が、やがて純白の翼をひろげた観世音菩薩を御堂に仰いだときの思いを私はふと想像したのである。
――昭和十七年秋――
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佐保山に
鎮る
聖武天皇ならびに
光明皇后の御陵に参拝したのは昨年の秋であった。いまの奈良市の、郊外と
云ってもいい、静かな田野のひらけはじめたところに、この有名な丘陵が横たわっている。なだらかな玉砂利の道を登って行くと、まず聖武天皇の御陵がある。これと並んでほんの二・三十歩離れたところに光明皇后の御陵がある。
御二方そろって、あたかも
比翼塚と申してもいいような有様の下に眠らせ
給うておらるるのである。
玉垣をめぐらしたその小高い御陵は、
鬱蒼たる雑木に
蔽いつくされ、昼なお暗い樹間には、
古の
栄耀を思わすごとく
蔦葛の美しく紅葉して垂れさがっているのが仰ぎ見られた。往時の造営はどのようであったか、その名残はもとよりうかがうことは出来ない。千二百年の歳月は一切を自然と化してしまったのであろう。
嘗つて背の君とともに心をつくして
建立された東大寺を、また今は
廃墟となった平城京を
遥かに望見しながら、天平の花華とも仰がるる光明皇后は、佐保山の紅葉のもとに何を夢みておらるるだろうか。
さほやまのこのしたがくりよごもりにものうちかたれわがせわぎもこ
この一首、佐保山の御陵を詠じた会津八一博士の歌である。この感慨は現前の状景に対してもふさわしいが、その背景たる遠い古を
偲ばしむる点で私にとっては一層なつかしい。御二方が
統べ給うておられた天平のみ代は、云うまでもなく我が民族の生命力が思いきって開花
爛熟したような時代であった。現存の
正倉院御物と万葉集と仏教美術を想起しただけでも驚くべきであろう。そこにはあらゆる美と荘厳と、また悪徳の
深淵が
渦巻いていた。光明皇后はこれらのただなかに在って、つねに聖武天皇により添われ、愛と信仰をともにされた方であったから、胸中に万感の思いを抱いておられたに相違ない。「ものうちかたれわがせわぎもこ」の句に、私はその一切を偲ぶのである。たとえば万葉集巻八には、皇后が、聖武天皇に
捧げた次のような
相聞がのっている。
吾背子と二人見ませば幾許かこの零る雪の懽しからまし
一首の意は解を要するまでもなく簡明であろう。
寧楽の都に雪のふりしきる日、高殿に在って背の君と肩をならべ、その雪を
眺めていたならばどんなに
嬉しいことであろうと、何らの技巧粉飾を用いず歌われているのである。
調が清らかで、愛情の
濃やかに滞るなく流れている名歌である。光明皇后の美しい御歯並さえしのばるるではないか。高貴な血統に育った方の気高さがおのずからにじみ出ている。会津博士の歌のはるか奥に、この一首の
幽かに余韻していることを私はなつかしく思うのである。
*
天平の美は、正倉院御物と万葉集と仏教美術によって代表されることは周知のところであろうが、とくにこのみ代の仏教を語るものにとっては、聖武天皇ならびに光明皇后の御名は、忘れ難いであろう。東大寺――わけても今日「奈良の大仏」として親しまれている
毘廬舎那仏鋳造や、
法華滅罪寺の建立は御二方の名を不朽ならしめた。御二方なくしては天平仏教の開花はありえなかったであろう。何故かくも信仰が深かったのだろうか――。
上宮太子の
義疏のごとく、仏教について
内奥の思念を直接語られたような文書はもとより伝わっていない。我々は主として
続日本紀にしるされた詔勅や御挙措や伝説をとおして、み心を偲ぶ以外にない。深き信仰を抱かせらるるに至った様々の要因を、私は
続紀にあらわれた時代の相にふれつつ推察申し上げようと思うのである。
上宮太子が
薨去されてからおよそ九十年、
元明天皇が平城京に都を定められた頃は、内外の紛争も
漸く下火となり、わが国富と
諸々の芸文は
益々増大充実してきた頃であった。この九十年間には
蘇我入鹿の専断と横死あり、ついで
中大兄皇子と
鎌足による大化改新の断行、わが国礎の漸く定ると思われた間もなく、
壬申の大乱が起るといったように、云わば危機の連続であったが、奈良朝に入るとともにひとまずこれも
終焉したかにみえる。
持統、
文武、元明、
元正の四帝三十五・六年の間は、主に母后の帝位を
嗣がれた時代で、聖武天皇はかような状態の後をうけ、久しぶりに男子として帝位に就かれた方である。すでに仏教はわが国の上層にあまねく行きわたり、また唐との交通も益々
繁くなったので、優秀な
僧侶や博士やその他様々の専門家が渡来し、皇室に重用されたことはここに一々挙げるまでもない。とくに隣邦僧侶の、芸文あるいは政治経済にも及ぶ指導力はこの時代一層つよいものがあった。聖武天皇が幼少の頃より、
未曾有の「文明開化」の影響のもとに生育されたことは申すまでもなかろう。
しかし御信仰を、ただ外部よりの影響とのみ断ずるのは不当である。まことの信仰は、必ず内奥の苦悩より発する。天平仏教が単に唐文化の模倣であり、東大寺建立が国富の大浪費であるとなすのは正しい見解ではない。あの豪華荘厳の背景ふかく、ひそかに宿るであろう天皇の信仰をまず考えないわけにゆかない。天皇の御
生涯を偲ぶとき、私は一層その感を深くする。
小野老朝臣が「あをによし
寧楽の都は咲く花の
薫ふがごとく今盛なり」と詠じたように、天平のみ代はたしかに
稀有の黄金時代であったろう。
飛鳥白鳳を通じて興隆し
来った文化の、更なる
昂揚があったであろう。だがそういう開花の根底には、必ずしも天国のごとき平和が漂っていたわけではない。
私は日本書紀や続日本紀を読みつつ、後代より慕わるる美しい時代が、その底につねに
暗澹とした苦悩を、悪徳の深淵を
湛えているのをみて驚く。平和とはそもそも何だろう。平和とは内攻した血の創造の日々である。対外的には
静謐であろうと、一歩国内の深部に眼をむけると、そこには相変らぬ氏族の
嫉視と陰謀と争闘があり、
煩悩にまみれた人間の
呻吟がある。ひそかに流された血のいかに多いことであるか。歴史は私に平和の何ものであるかを教えた。飛鳥のみ代がそうであったし、天平といえどもこの例に
洩れない。そして激烈な信仰や美しい
詩歌や
絢爛たる美術は、すべてこの暗黒を土壌として生育しているようである。
嘗て蘇我氏が、皇室の
外戚として権をほしいままにしたこと、上宮太子の御労苦の一半はその抑制にあったことに就ては私は前に述べた。蘇我は滅びたが、代って天平のみ代にあらわれたのは藤原
不比等の一族である。大化改新の功労者たる鎌足の息として、彼の漸く勢望を固め得たのは、聖武天皇の時代であった。青年不比等と妻賀茂姫とのあいだに生誕された宮子は、やがて文武天皇に
入内し、聖武天皇を生みまいらせた。
即ち帝にとって不比等は最も親しい外戚にあたる。のみならず後に聖武天皇の皇后となられた
光明子も、晩年近き不比等と
橘三千代とのあいたに生誕された方であって、聖武天皇とは同じ御年配であった。不比等の妻は他に
娼子娘や
五百重娘がいるから、その兄弟姉妹子孫の繁栄は驚くべきであり、末になるにつれて同族間の争いもまた多かった。かかる一族がそれぞれ高位にのぼり政治の各分野に参与したのであるから、この間に処せられた聖武天皇の御心労は
甚しかったであろう。藤氏専横のあいだに在って、
帝の御生涯は必ずしも安穏ではなかったようである。かかる危機感が、信仰の根底に、少くともその大きな要因としてひそんでいたと思われる。
*
他方、当時の思想状態もまた混乱を極めていた。異国との交通が
頻繁になるにつれて、様々の教義が流入し、国内に様々の説を
流布するものが続出するのはいつの世も同じである。国運隆盛は半面に必ずこうした危険を伴わねばならない。奈良朝時代には、仏教のみならず諸々の漢学、法、算、暦、易、
陰陽、方術、医学、
呪禁等が唐より流入したのであるが、それは
屡々神秘不可思議な思想として、
乃至は迷信として人心に作用した。たとえば後にもふれる
長屋王の変のごとき、その理由は「
私に左道を学んで国家を傾けんとす」というのであるが、「左道」とは何か、今もって史家の見解は定らない。またその後まもなく、天平元年四月百官に
賜われる
詔には「有
下学
二習異端
一、蓄
二積幻術
一、
厭魅咒咀、害
二傷百物
一者
上、首斬従流」と戒められている。異端を学び、幻術を蓄積し、厭魅咒咀して百物に害を及ぼす者は、首謀者は
斬罪に、連類者は
流刑に処すというのであるが、今日で
謂う思想取締乃至は邪教処断を思わしめて興深い。いずれにしても天平精神の
昏迷を示すものといえよう。万葉後期の諸歌人がこの間に処して、
言霊を
云々したのも大きな戦いであった。
その他続日本紀を読むと、この時代には盗賊や殺人や
掠奪も多く、人心不安だったことがうかがわれる。これに対する禁令が屡々みうけられるし、聖武天皇は御心配になって、
徒に重罰を科すことを戒められ、法の適正な運用にみ心をつくされていることが拝されるのである。要するに天平時代は、今日考えられているような平穏の日ではなかった。
仏陀の教えを真に学び信じた者は、当時の一部上層の人々に限られ、一般国民には未だその感化は及ばなかったのである。聖武天皇の御念願はそういう事情から発せられたのである。私は徒に天平の暗黒面を指摘しているのではない。かかる暗黒の
裡にこそ信仰の光りは輝き
出ずるのであり、聖武天皇と光明皇后の信仰も、
泥中の
蓮華のごとく咲き出でたのである。この点については後節「
不空羂索観音」で更に詳しくふれたい。
民草のすべてが仏陀の教えにめざめ、国内
悉く平穏に、云わばわが国そのものが浄土の荘厳を現出するよう御二方は祈念された。
地上天国の樹立――これこそ御二方の描かれた壮大な夢であったのである。東大寺を総国分寺とし、法華寺を総
国分尼寺として、全国各地方に分寺を建立せしめられたのも、また東大寺というよりは我が国分寺すべての本尊として大仏鋳造の念願を発せられたのも、すべて以上に述べた事情に基く。
何よりもまず理想を実行に移されようとした。
乾坤一擲ともいうべき途方もない壮大な計画を実現された情熱には、凡情のとうていうかがい知れぬ激しさがある。同時に、天平の深淵の
凄じさも推察される。
天平十五年十月に発せられた、大仏鋳造に関する詔に、私がいままで述べたような帝のみ心はよくあらわれていると思うので左に記する。
「
粤に天平十五年歳次
癸未十月十五日を以て、
菩薩の大願を発して
廬舎那仏の金銅像一
躯を造り
奉る。国銅を尽して象を
鎔し、大山を削りて以て堂を構へ、広く
法界に及ぼして朕が
智識となす、
遂に同じく
利益を
蒙りて共に
菩提を致さしめん、
夫れ天下の富を
有つ者は朕なり、天下の勢を有つ者も朕なり、
此の富勢を以て此の尊像を造ること、事成り
易くして、心至り難し、
但恐らくは徒らに人を労する有りて
能く聖を感ずる無く、或は
誹謗を生じ、反て
罪辜に
堕ちんことを。
是の故に智識に預る者は
懇に至誠を発して
各介福を招かば、
宜しく毎日三たび廬舎那仏を拝し、自ら念を存し各廬舎那仏を造るべし、
若し人の一枝の草一把の上を持ちても像を助け造らんと情願する者あらば
恣に
之を
聴せ、国郡等司此の事に
因りて百姓を
侵擾して強ひて
収斂するなかれ」
これをみるに、帝の造仏の決意がいかに深く、
且つ雄大細心なるかをうかがうことが出来るであろう。国民すべてとともに
恩寵を蒙り、菩提を致さしめんと、何よりもまず民草の上に
御心を垂れ給い、ついで「夫れ天下の富を有つ者は朕なり、天下の勢を有つ者も朕なり」と帝王の尊厳を雄大な言葉で述べておられる。またかような大規模の造営に際して、役人が民草を強いて働かしめることなきよう細心の注意を告げられ、たとい一枝の草一把の土でも、助けようと欲するものにはこれをゆるせと仰せられている。即ち天皇の祈念されたところは、全国民が一致して、自発的にこの壮大な地上天国をうちたてることであった。信仰を導きとして、豪壮無比の大芸術品を地上に構想されたのである。上宮太子の「和」の精神をも、必ずや大
伽藍の上に夢みておられたであろう。
この詔が発せられて、大仏殿が実際に建立され、大仏の
開眼供養が行われたのはおよそ九年の後、天平勝宝四年の四月であった。これよりさき聖武天皇は出家されたので
太上天皇と申し上げ、光明皇后は皇太后と申し上げた。すでに
孝謙天皇に位を譲られた後であるが、開眼供養の当日には三方おそろいにて出御され、文武百官、一万二十六人の僧侶が大仏殿に参集したと伝えられている。堂上堂下は花をもってうずめられ、五色の
幡がひらめき、放鳥と空中より降らす花のあいだに諸々の音楽と舞踊が行われ、
読経の声は潮のごとく奈良の山々にひびいたといわれる。また東大寺の門前には数万の民草がひしめきあいながらこの盛儀を拝していた。このとき大仏殿の上にあらわれた光明皇后の御姿は、輝くばかり美しく崇高であったであろう。
*
光明皇后の御生涯は、かくのごとく聖武天皇と信仰をともにされた美しい生涯であったが、しかし皇后もまた帝にもまして時の苦悩を負われた方であった。前にちょっとふれたように、光明皇后は不比等と橘三千代とのあいだにお生れになったのだが、この橘三千代は天平の背後に躍った
稀代の
辣腕家であった。血族国家において女権の伸長するのは、とくに女帝のみ代において甚しい。持統、元明両帝は女帝であったが、次の文武天皇を養育申し上げるためには当然乳母を要した。三千代ははじめ
県犬養連三千代と云い、三野王の女房であったが、その後長く宮廷に仕え、とくに乳母として大功があった。女帝の信頼も厚く、文武天皇の
妃を選ばれる折にも、必ずや絶大な発言権をもっていたであろうといわれている。かように宮廷の事に参与する女性が、ひとたびそこに野心を生じたとするならば、その害毒たるや実に大きいといわねばならない。
文武天皇が成長され、不比等の娘宮子を妃とされた後、三千代は不比等の妻として再縁した。すでに外戚たるゆえの威望漸く高まった不比等の夫人となったことは、さきの乳母としての功とあいまって、三千代の勢力をいよいよ増長せしめたことは云うまでもない。彼女は自家一統の繁栄をはかるとともに、政治にも
容喙し、諸臣の進退に言をはさみ、自家に不利なるものはおとしいれた。いま法隆寺に伝わる彼女の念持仏が白鳳の比類ない荘厳を具現しているのは不思議である。あのように崇高なみ仏を拝した人とは思われない。
尤も崇仏と政治謀略は別であったことは、
馬子以来の伝統かもしれない。
光明皇后はこの辣腕の夫人を母として生れたのである。
神亀元年三月御年十六歳のとき光明子として聖武天皇の妃となられ、天平元年八月に皇后として立たれた。臣下の姫にして皇后となるのは稀有であり、まして不比等一族の背景あることを思えば、当時群臣に与えた衝動の大きかったことは云うまでもない。長屋王の自尽は
讒言に
由ると伝えられるが、若しこの王在世ならば、光明子立后の事もなかったであろうと言わるるところからみても、長屋王の変の背後に介在する魔手は想像がつく。光明皇后は誕生とともにすでに暗澹たる運命を
担われていたのだ。
しかも光明皇后御自身は、無比の
美貌と端麗の挙措を以て、私心なく帝を愛され、帝とともに信仰の道に入って行かれた。藤原不比等の娘として、おそらく最高の教養をうけられたであろうし、この名家にふさわしい誇りと気品を備えておられたであろう。続日本紀巻二十二(
淳仁天皇紀)には、天平宝字四年六月、皇后崩ぜられし時の追悼の記がみられるが、「幼
ニシテ而聡慧、早播
二声誉
一、勝宝感神、聖武皇帝、儲弐之日、納以為
レ妃、時年十六、摂
二引衆御
一、皆尽
二其歓
一、雅閖
二礼訓
一、敦崇
二仏道
一」としるされている。若く美しい妃として、
群卿に臨まれ、つねに優雅な振舞いをもって接したもうたことが推察される。母君たる三千代夫人にも無心の孝養をつくされたであろう。しかも一方において、御自身に注がれる
羨望と反感の眼をも、鋭敏な御心は必ずや感じておられたに相違ない。皇后に関する伝説はすべて熱烈な信仰を物語っているが、血につながる一切のものの罪禍を、自らそれとなく悟られ、観無量寿経の
韋提希夫人のように仏前に祈られたのではなかろうか。ともあれ光明皇后は、女性の身として、時の最も苦しい立場に立たれたことは歴史をみるとき明らかである。
*
皇后に関する伝説のうちで、今日最もひろく知られている二つの事について次に述べよう。そのひとつは
文答師の、皇后をうつして三躯の観音像を彫ったという伝説。
北
天竺の
乾陀羅国の見生王という王様がいたが、どうかして生身の観世音菩薩を拝みたく思い、
発願入定して祈りをささげた。するとやがて、生身の観音を拝みたくば「大日本国聖武王の正后光明女の形」を拝せよというお告げが下った。見生王は自身かような遠国へ渡ることはとても不可能なので再び入定して祈ると、今度は彫刻師を派遣して光明皇后の御姿を彫らせ、それを拝せよとお告げがあった。そこで王は文答師という名匠をはるばる日本へよこすことになった。文答師は
難波津に着いて、この
旨を奏上したが容易にゆるされない。ただ皇后御自身の願い――即ちその頃
亡くなった母君のために御堂に安置する仏像をつくってくれるならば、望みをかなえようということになって、文答師は皇后の御願とおり
釈迦像をつくった。その代り漸く光明皇后を写しえて、三躯の観音像をつくることが出来たという。一躯は見生王のため本国にもちかえり、他の二躯はわが国にとどめた。いま奈良の法華寺に安置されている十一面観音立像は、その御姿であるという伝説である。
むろんこれは伝説であって厳しい考証に堪えないのであるが、しかしこうした伝説の裡には、当時の人々の、光明皇后に対するひそかな
憧憬が宿っているのではなかろうか。前述のとおり皇后は無比の美貌であり、
云わば天平の美の象徴として思慕の的であった。その端麗にして気高い御姿が、かかる美の伝説を生んだともいえよう。
いまひとつは皇后の熱烈な信仰に関する伝説である。続紀にもしるされているように、「太后
(光明皇后)仁慈志在
レ救
レ物、創
二建東大寺及天下国分寺
一者、本太后之所
レ勧也、又設
二悲田施薬両院
一、以療
二養天下飢病之徒
一也」――皇后は慈心ふかく、諸寺建立のために力をつくされたのみならず、皇后宮
職に悲田と施薬の両院を設け、天下の病者や飢えたる者を救い養われたのは事実である。志、物を救うに在りと続紀のしるせるとおりである。
ところで法華寺の境内には、光明皇后施浴の「から風呂」がある。皇后が病者のために建てられた浴室であるという。伝説によると、
或るとき皇后は、自ら千人の
垢を流してやろうという
誓を立てられた。そこで、日々ここに集まる汚れた肉体に、自ら御手をさしのべられて、九百九十九人までの垢を流してやった。ところがいよいよ最後のひとりになったとき、それは身体の崩れかかった
癩者であった。臭気は湯殿に
充ちて、さすがの御誓いもこの最後の一人で破れるかと思われた。しかし癩者は、自分の体から流れ出る
膿を吸って下さるならば必ず
快癒するにちがいないと申し立てた。いかに深い慈心といえどもこれだけは
躊躇されたであろう。しかしこの一歩において誓いを破ることは信仰がゆるさなかった。遂に皇后はやむをえず、その美しい
唇を癩者の
肌にふれ、膿を吸いつつ全身に及んだという。すると癩者の身体は急に
麗しく光りを発し、仏の姿と化して立ち去ったというのである。
むろんこれも伝説であるが、しかしさきの場合と同じく、ここにも皇后に対する当時の民草の思いはひそんでいるであろう。全く根拠のないところには伝説はない。浴を賜わったことへの感謝の思い出でもあろうか。或は皇后の御手を、自らの身体にうけた病者達の激しい感動と謝念が、こうした伝説を生じたとも考えられようか。文答師の場合は美の伝説であり、これは信の伝説である。皇后が、
天平の美と信仰を代表さるる
花華として仰がれていた証拠でもあろうか。かように
奇しく美しい伝説のまつわっておらるる方は、わが国史でも皇后以外にはない。なお法華寺十一面観音や浴室を通じて皇后を
偲んだ歌が、会津八一博士の「
鹿鳴集」にある。
ふぢはらのおほききさきをうつしみにあひみるごとくあかきくちびる
ししむらはほねもあらはにとろろぎてながるるうみをすひにけらしも
からふろのゆげたちまよふゆかのうへにうみにあきたるあかきくちびる
からふろのゆげのおぼろにししむらをひとにすはせしほとけあやしも
ここに「あかきくちびる」と歌っておられるのは、法華寺十一面観音の唇が生身のように朱に染められているからである。ふくよかな肉体をもった
蠱惑的な像である。右手をすっと伸ばして、衣の
裾をゆびで軽くつまみあげているが、人指しゆびと小ゆびのかすかにそりかえっているのが実に美しい。右足をそっと斜に出して、まさに蓮華の花の上を渡ろうとしている御姿である。
*
聖武天皇は前述のごとく出家し、譲位して太上天皇となられるとともに、皇后も位を退かれ光明太后とよばれた。しかし次の孝謙天皇登位とともに、皇后宮職は
紫微中台と改められ、不比等の子武智麻呂の次男たる仲麻呂がここにあって
専ら内政のことに当った。孝謙天皇は女帝であらせられたので、いきおい光明太后が
摂政され、紫微中台より
令旨は発せられるようになった。この間、藤原氏の勢力一層はびこり、時に
内訌はあったが、仲麻呂を中心とする一族はいよいよ強固に政治の
中枢をかためた。太上天皇は
剃髪して
沙弥勝満と名のられ、
政の中枢より離れたわけであるが、藤原氏一族による
不如意の事もあったように後世史家は語っている。聖武天皇の厚い祈念にも
拘らず、その後も外戚の専断おさまらず、国民の状態また不安にして、御念願のとおりでなかったことは、史に明らかである。光明太后摂政とはいえ、もとより実権は藤原氏に在った。
太上天皇は御年五十六歳にしておかくれになったが、それより四年の後、淳仁天皇のみ代(天平宝字四年六月)光明太后は御年六十歳であとを追い
給うた。十六歳のとき妃となられてより実に四十年あまりのあいだ、太后は藤氏の勢力の裡に在って、不如意のいのちを嘆かれつつ信仰と国政のためにおつくしになったのである。国政についてはもとより太后の御手腕を云々すべきではない。また生前の
讃歌が、藤原一門なるゆえとのみ断ずるのも不当であろう。いま親しくそのお
人柄を偲ぶべきよすがともなるものは続紀や伝説であるが、私は冒頭にひいた御歌も忘るることは出来ない。かような歌にこそ、光明皇后の親しい音声が、
即ちいのちの
息吹がこもっていると思うからである。
また今日正倉院に伝える多くの御物には、聖武天皇と光明皇后の御調度品が多いことは周知のところであろう。紀元二千六百年祝典の日に、上野帝室博物館で私も御物を拝観したが、あの華麗な工芸品の中には、光明皇后が愛蔵され、日夜身近く備えられて、にこやかにめでられた品もあったであろうと、皇后の余香を偲んだのである。また御物中には、皇后直筆の
楽毅論も残っているということである。私は写真版によって拝見しただけであるが、たっぷりした力づよい筆致のうちに、
一抹の稚拙美もうかがわれ、皇后の
鷹揚な御性質が偲ばれて興味ふかかった。
私は奈良を訪れ、あの壮大な東大寺伽藍を仰ぎみるたびに、在りし日の栄光を思い、また今日からは想像も及ばぬような規模雄大の大仏殿
建立に生命を傾けられた聖武天皇と光明皇后を偲びまつるのである。御二方の
生涯は、
畢竟そのため燃焼しつくされたのだと申しても過言であるまい。地上天国という壮麗な御夢のために、身命を
賭してつくられた無比の芸術品だったのである。出家後の天皇の消息をうかがうにつけても、私はそこに、至尊にして且つ一代の宗教芸術家とも申し上ぐべき御方の、残夢
寂莫たる晩年を思わないわけにゆかない。光明皇后またもろともに同じ道に従われた。千二百年の歳月を経て、
佐保山の御陵に眠り給う御二方、寂莫たる夢の
址に何を思はしておらるるであろうか。
――昭和十七年秋――
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東大寺の歴史は大仏の歴史であり、大仏の歴史はやがて大仏寂滅の歴史である。
天平十五年
聖武天皇親しく鋳造の
詔を発し、天平勝宝四年
開眼供養の盛儀が行われてより、現在にいたるまでおよそ千二百年になるが、この間さしたる異変なく当初の姿を保っていたのは治承四年までである。およそ四百三十年の期間であった。治承四年の冬、
平重衡の兵火によって
伽藍の大部分が焼失したことは周知のところであろう。仏頭もむろん
熔け
墜ちてしまった。その後も
屡々災禍を
蒙って、いまに残る大仏は江戸時代の再建に成るもので、往時の威容はもとよりうかがうべくもない。わずかに台座の
蓮弁が天平の
面影をとどめるのみである。
我々はいまの東大寺を訪れてもその大きいのに驚くが、
建立当初の規模は更に比較にならぬほど巨大であり、言語を絶した荘厳華麗を現出していたと伝えられる。私も屡々あの境内に立って、そういう
古の姿を想像してみるのだが、ちょっと見当がつかない。様々の資料や研究をとおして予想される復原の光景を、たとえば北川桃雄氏は次のように語っている。
「天平時代に
創られた当時の大仏殿は、もちろん今の大仏殿の比ではなかった。奥行は変らないが間口は
遥かに大きく、
殆ど二倍位の感じがあった。堂々とした長い反りをもった重層の大屋根。それを支える正面十何本の太い円柱と大きな
斗、この雄大な金堂を囲む
廻廊も今のような単廊ではない、壮麗な複廊である。この前面の広場、
即ち正面に当る南大門との間には、左右にそれぞれ東西の七重塔が高々と青空に
聳えていた。三百三十余尺というその高さは実に法隆寺の五重塔の三倍、興福寺五重塔の二倍に当る。大仏殿の背後には、これにふさわしい大講堂や食堂が建っていた。更にこれを囲んで鐘楼、戒壇院、大門その他の堂宇が幾十となく、三笠山の
麓、方八町、二十四万余坪の境内に新しい
甍を陽に輝かしていた。のみならず、一切の建物が美しい朱や緑に塗られ、
透彫りの金具や軒の
風鐸や
箜篌がきらびやかに相映った」と。
また本尊大仏の
尊貌も、現在とは同日の談ではなく、薬師寺に現存する白鳳の薬師
如来、
乃至は三月堂の
不空羂索観音等の傑作から想像する以外にないとのことであるから、その崇高壮麗は
蓋し空前であったであろう。かような本尊を中心に、左右に三丈の高さをもつ如意輪観音と
虚空蔵菩薩の
坐像が並び、それをまた身丈各四丈もある金色の四天王が彩色華かな
甲に身を固めて四隅を護持し、内陣の東西に懸けた五丈にあまる
帳には、「光容円備、不異神功」と旧記の
讃嘆せるような大観世音菩薩が
刺繍されていたという。北川氏のこうした叙述によって、私は夢幻のごとく
辛うじて当初を
偲ぶことが出来たのであったが、空前おそらく絶後の豪華
絢爛ぶりを現出していたことが推察される。
境内の広さについては、
田沢坦、
大岡実両氏
編纂の「図説日本美術史」によって往時の復原平面図をみることが出来たが、中門以内だけの寺域を目算によって比較してみても、東大寺は法隆寺のおよそ十倍、薬師寺のおよそ六倍、興福寺のおよそ五倍あったことがわかる。南大門以内の寺域をいれると、前記のように二十四万余坪となり、更に
桁はずれに大きい。東西の七重塔を囲む廻廊の地域だけで、ちょうど法隆寺の中門以内のすべてに相当するのだから、いかに大規模の伽藍であったかが想像されるであろう。
建立の前、この一切を夢のように思い浮べ、そして実現を決意した人格とはいかにすばらしい
浪曼家であったろう。かかる雄大な発想の可能なるはただ天皇のみ。私はそう思わざるをえなかった。即ち聖武天皇の熱烈な信仰と壮大豊麗の御夢とを、いま更のごとく驚嘆したのである。わが皇統においては、周知のように代々の天皇は歌をお
詠みになる。大歌人と申すべき方も
尠くない。その御製の雄大なるは万葉集によっても明白であるが、そういう精神が大伽藍造営にあらわれた例としては、聖武天皇を第一人者と申していいのではなかろうか。
むろんその背景として天平の芸文興隆や国富の充実を挙げることは出来る。
行基や
良弁のごとき名僧が側近に
輔けたことも見逃しえないが、しかしここに感得さるるのは、そういう外的事情のみではない。
飛鳥白鳳を通して次第に
爛熟し
来った民族の生命力が、聖武天皇において満ちあふれ、結晶し、思いきって咲き乱れたということ、この生命力を自らのいのちとし、
生涯をつくして顕現された――そこに
宿業のごとき強烈さを私は感ずるのである。わが国土のすべてを地上天国たらしめようと発願され、その象徴として大仏と伽藍を建立されたのであるが、信仰の深大なること
稀有と申す以外にない。それは悲劇の深さと
云ってもいいであろう。かかる夢を具現された天皇を、それゆえ私は天才的な宗教芸術家とも申したいのである。至尊にしてはじめて可能な発想であることは、天平十五年の
詔によっても明らかであろう。
前記の復原図、あるいは大仏開眼までの史実をみるにつけても、天皇の御風格は徹底して奔放
無碍だったと推察申し上げないわけにはゆかない。信心においても強烈、国民すべての不幸を一身に
担われて、行くべき
処まで行く激しい情熱の御方だったと思われる。大仏鋳造終ってなお塗金不足だったとき、
陸奥の国から黄金を献上したことは、
大伴家持の長歌によって有名である。その折どんなに御喜びになったか。さっそく大仏の前に、皇后太子並に群臣百僚を率いておまいりになり、左大臣
橘諸兄をして奏文を読ませ
給うた。
「三宝の
奴と仕へ
奉れる天皇の命を大前に奏す」という言葉をもって始まるこの奏文は、我が
古神道を絶対とする心からは、とかく非難されてきたものである。しかし、何故「三宝の奴」とへり下った表現をとられたのか。思うに聖武天皇は次節に述べるごとく、罪の意識の強烈な方であった。
御身を
賭して国家の安泰を祈られたのである。次第に実現して行く豪華絢爛の殿堂を
眼のあたりにして、身も世もあらず没入されたそのひたぶるな御心に、私は信仰ある芸術家の執念を偲ぶのである。何ものとも知れぬ
業のごとき力が作用していたとさえ感ぜらるる。飛鳥白鳳を通して満ちあふれ来った仏法の生命力は、ひとたびは
乾坤一擲の強烈な表現を得なければ
止まなかったのだ。私はそう思う。しかもそこに聖武天皇の悲劇も生じたのではなかろうか。
大仏開眼の供養の折は、すでに出家され、皇位も譲っておられたのだが、この間の詳しい事情は
続日本紀には記載されてない。藤原氏の、
外戚としての勢望
益々盛んだった時代であるから、藤原氏との間に不如意の事もあったようである。
不覊の夢を抱かれた帝は、宗教を
稍々もすれば経済の側から限定し、一族栄華の手段とするごとき臣とは、根本において相いれず、美と信仰に殉ぜられんとしたのであろうか。それとも当時の思想的
昏迷が政略とむすびついて、この徹底した御挙措を政変の因たらしめたのであろうか。
或は理想と現実との
相剋――いつの世にもみらるる現実家の、狂熱的夢想を
傷つける策謀を私は想像してもみた。晩年近く、全く時代の
中枢を離れ、
寂寥の日々を送られたという帝は、
畢竟生涯を大伽藍のために燃焼しつくし給うたのであろう。思いきって純粋に、まさに乾坤一擲の大創作に生命を傾けられたのであったろう。私はそこに大浪曼家の孤高を偲ぶのである。
*
ところでかく身命をつくして造営された大伽藍が、一朝にして
灰燼に帰したのは、治承四年十二月二十八日のことである。すでに四百三十年の歳月が流れ、
頃は源平合戦の平安末期に移る。
平清盛の専横に抗して、
頼政をはじめ、伊豆の
頼朝、木曾の
義仲等源氏の一党が、
以仁王の
令旨を奉じて
一斉に挙兵した年である。この前後は東大寺の性質もむろん変っていた。
嘗ての総国分寺たる権威と、四天王護国寺たる理想はすでに失われ、その伝統と時勢はむしろ南都の位置を政治的権力たらしめていた。
比叡山延暦寺の山法師、興福寺の奈良法師、
所謂僧兵の
兇暴ぶりは周知のとおりであり、事毎に争乱の
渦中にあった。
そして諸国の源氏
蜂起に際しては、清盛の日頃の専横に対し、奈良法師は公然の
狼藉をもって示威したのであった。たとえば大きな
毬杖の玉をつくって、これを清盛の頭になぞらい「打て、踏め」と云ってみたり、また奈良の伝統を尊重して、わざわざ武装せずに、狼藉を静めるべく赴いた
瀬尾太郎兼康の郎党六十余人を
搦めとって、一々首を斬って
猿沢の池畔に懸けならべたり、僧兵大衆まことに殺気だっていたのである。これに対してむろん清盛も怒った。「さらば南都を攻めよや」とて、大将軍には
頭中将重衡、副将軍には
中宮亮通盛、都合その勢四万余騎で南都へ発向す。――この間の状景を最も見事に伝えているのは、云うまでもなく「平家物語」巻第五であろう。
南都の方では、大衆老少すべて七千余人が
甲の緒をしめ、奈良坂と
般若寺の二個所に防備を施してこれによったのであるが、もとより四万の軍勢には敵せず、夜に入って、二個所の
防砦も破られ、多くはここに討死し、一部はなお抗戦しつつ次第に落ちて行った。ところで東大寺炎上の悲劇はこの夜に起ったのである。次に「平家物語」の壮絶な描写を掲げよう。
「
夜軍に
成て、
暗は暗し、大将軍頭中将重衡、般若寺の門に
打立て『火を出せ』と
宣ふ程こそ
在けれ。平家の勢の中に
播磨国の住人福井庄の
下司、次郎太夫
友方と云ふ者、
楯を
破り
続松にして、在家に火をぞ懸けたりける。十二月二十八日の夜なりければ、風は
烈しく、
火本は一つなりけれども、
吹迷ふ風に、多くの伽藍に吹きかけたり。恥をも思ひ、名をも惜む程の者は、奈良坂にて討死し、般若寺にて
討れにけり。
行歩に
叶へる者は、吉野十津川の方へ落ゆく。
歩もえぬ老僧や、尋常なる修業者、
児ども
女童部は、大仏殿、
山階寺の内へ我先にとぞ
迯行ける。大仏殿の二階の上には、千余人昇り上り、
敵の続くを
上せじと
階をば
引てけり。
猛火は
正う
押懸たり。
喚叫ぶ声、焦熱、大焦熱、
無間阿鼻の
焔の底の罪人も、是には過じとぞ見えし。
興福寺は
淡海公の御願、藤氏
累代の寺なり。東金堂に
坐ます仏法最初の釈迦の像、西金堂に坐ます
自然湧出の観世音、
瑠璃を並べし四面の
廊、朱丹を交へし二階の楼、九輪空に輝きし二
基の塔、
忽ち煙となるこそ悲しけれ。東大寺は
常在不滅、
実報寂光の生身の御仏と
思めし
準へて、聖武皇帝、
手ら
親ら
琢き
立給ひし金銅十六丈の
廬舎那仏、
烏瑟高く
顕れて、半天の雲にかくれ、
白毫新に
拝れ給ひし満月の尊容も、御頭は焼落ちて大地に有り、御身は
鎔合て山の
如し、八万四千の相好は、秋の月早く五重の雲に
掩隠れ、四十一地の
瓔珞は、夜の星
空しく十悪の風に漂ふ。煙は中天に
満々て、炎は虚空に
隙もなし。
視りに見奉れる者、更に
眼を
当ず、遥に
伝聞く人は、
肝魂を失へり。
法相三論の法門聖教、
総て一巻も残らず。我朝はいふに及ばず、
天竺震旦にも
是程の法滅有るべしともおぼえず、
優填大王の
紫磨金を
瑩き、
毘首羯摩が
赤栴檀を
刻しも、
纔に等身の御仏なり。
況や是は
南閣浮提の中には、唯一無双の御仏、長く
朽損の
期あるべしとも覚えざりしに、今毒縁の塵に
交て、久く悲を残し給へり。
梵釈四王、竜神八部、
冥官冥衆も、驚き
騒給ふらんとぞ見えし。法相
擁護の
春日大明神、
如何なる事をか
覚しけん。されば春日野の露も色変り、三笠の山の嵐の音、
恨る様にぞ聞えける。」
東大寺炎上の状景、この一節によって
完璧であろう。壊滅の壮麗を叙し、炎の熱気をさえ感じさせる文章である。大仏殿はじめ各堂宇殆ど灰燼に帰し、聖武帝御願の大仏もここに
終熄したのであった。わずか一夜の出来事である。この伽藍が空前絶後の華麗を
顕していたごとく、この炎上もおそらく史上に比なき壮観を呈したことであろう。私は東大寺を訪れるたびに思うのは、天平の威容とともに、それが無残に焼けおちて行った治承のこの日のことである。
紅蓮の炎のなかに
佇立する諸々の像が、まさに熱火に崩れ落ちんとして、最後の荘厳を現出したであろう日を思う。三百三十余尺の七重塔が火を噴き、大仏殿は
焔につつまれ、如来の金色の姿、観世音の華麗な瓔珞、あるいは四天王の朱丹の
鎧、それらが炎を映じて、いまを最後と輝き出した
刹那は、聖武天皇も想像されなかったであろう。救いを求むる千余人の
阿鼻叫喚――「猛火は正う押懸たり」と平家の作者は
凄い筆致で語っているが、仏も
衆生もろとも滅びて行ったこの地獄の日に、或は夢想だにせぬ浄土荘厳が現出したのかもしれぬ。
佐保山の御陵に眠る聖武天皇ならびに光明皇后のみ
霊、中天を
焦す炎の
渦巻をいかなる御心にて観ぜられたであろうか。御二方の身命を
捧げられた大伽藍は、一朝にして滅びて行ったのである。むろん東大寺はその後重なる災禍の後再建されて、江戸時代のものが
漸くいまに残っていることは前述のとおりである。当初の壮麗を慕って、幾度かこれを再建補修した人々の信心を私は有難く思うけれど、
昔日の面影はうかがうべくもない。治承四年十二月二十八日をもって一切は終ったのである。御夢の跡に
佇みつつ、天平の開眼の日と、治承の寂滅の日と、このたった二日間を、私は千二百年の歳月の上に偲ぶのである。
――昭和十七年秋――
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大仏殿の前をよぎって
手向山八幡宮への坂路を登って行くと、その中腹を左へ入ったところに有名な三月堂がある。この辺は杉の大樹が
鬱蒼とそびえていて、同じ東大寺の境内でも底冷えがするほど涼しい。御堂の両側は鎌倉時代につぎ足した礼堂になっており、北面は壁、東側は手向山の
崖に接しているので、堂内は非常に暗い。西方からの光りだけがわずかに群像を照らし出す。周知のごとく、東大寺を襲った幾たびかの災禍を免れて、いまになお
天平の姿をとどめる
唯一の御堂である。天平五年
聖武天皇が
良弁僧正に勅して
建立せしめ給うところと伝えらるる。一に金鐘寺または羂索院とも呼ぶ。大仏鋳造の
詔が発せらるる十年前の造営であるから、今日まで実に千二百十一年の
星霜に堪えた東大寺最古の
伽藍なのだ。そして不空羂索観音はこの御堂の本尊であり、天平随一の傑作といわるるみ仏である。
私はこのみ仏を拝するたびに、いつもその合掌の強烈さに驚く。
須弥壇上に立つ堂々一丈二尺の
威躯は実に荘厳であり、力が充実しており、また
仄暗い天井のあたりに仰がれる
尊貌は沈痛を極めている。慈悲の暖かさも悟達の静けさもみられない。口を堅くむすんで何かに耐えている悲壮な表情である。その一心の願が、
逞しい肩と
両臂をとおして、やがて胸の上に堅く合わされた強烈な合掌となるのであろう。
飛鳥仏にみられる微笑は全く消え去っている。
白鳳の温容もない。むしろ受難の
相貌と
云ってもいいものがうかがわれる。私には、このみ仏が身をもって天平の
深淵を語っているように思われる。何に耐え、何を念じているのであろうか。
当今の古美術研究家はこの大事について何事も語ってはくれない。美術の様式論をもって仏像を
鑑賞するという当世流行の態度が、一切を誤ったと云えないだろうか。仏像は彫刻ではない。仏像は仏である。仏像を語るとは、仏を語るという至難の
業である。そこには仏の本願のみならず、これを
創り、
祀り、いのちを傾けて念じた古人の魂がこもっている
筈だ。それに通ずるためには我々もまた祖先のごとく、伏して祈る以外にないであろう。この祈りの深まるにつれて、仏像は
内奥に宿る固有の運命を、悲願を、我々に告げるのであろう。この唯一の根本が忘れ去られたところに、現代の古美術論が成立っている。ルネッサンス以来の西洋美術に関する知識が流入してから、仏は人身にひきさげられ、美術館のガラス箱に陳列され、「教養ある人士」の虚栄となった。彼らは古仏を目して彫刻とよび、微に入り細を
穿って様式を論じ、比較研究し、無遠慮にこれを写して公衆の面前にさらす。伝統からいえば奇怪事である。
私の大和古寺巡礼は、一面からいえばかかる状態からの脱却でもあった。そのための修練を私はひそかに自分に課した。むしろ仏像が私に迫ったと云った方がいい。そして
唯信に面して、道のいよいよ遠いのを嘆かないわけにゆかなかったのであるが、いま不空羂索観音の前に立ってやはり同じ嘆きを覚ゆる。天平といえばわが史上の黄金時代である。「咲く花の
薫ふがごとく今盛なり」と歌われたみ代に、何故このみ仏は受難の相貌を呈しているのであろう。何故、口辺の美しい微笑は消え去ったのか。あの強烈な合掌にこもる願いを、またそこに祈念した天平人の思いを、私は正しく身に
享けたいと思う。そういうとき私は一切の美術書を棄てて歴史と経文へ赴くのである。
即ち人間の悲願の存するところへ。それのみが仏にいたる唯一の道であろう。
*
三月堂は天平五年の建立といわれるから、不空羂索観音の創られたのもおそらくこれより後であろう。天平十九年と推定する説もあるが確実ではない。東大寺伝によれば良弁作となっている。良弁僧正は
相模の人、姓は
漆部氏、
持統天皇の三年
己丑誕生、
義淵僧正の弟子となり、晩年は東大寺別当に任ぜられた人であるから、聖武天皇の御親任も
一入厚かったと思われる。聖武天皇の勅をうけてこの道場をひらいた僧正は、必ずや天皇の御信仰を心に銘じ、一身を傾けて不空羂索観音にそれを宿さんとしたのであろう。私は
続日本紀をひもとくたびに驚くのは、そこにしるされた
凄惨な天平の地獄図である。あの美しい芸術が生れた背景には、前にも述べたとおり幾多流血の惨事があり、天変地異が起り、人心また
甚だ不安であった。このことについては既に一度ふれたが、ここでは天平五年後の有様を概観してみよう。
長屋王の変の後、
光明子立后のことが行われたのは天平元年である。藤原氏の専権はいよいよ強固になった。しかし唐文化の流入やこの専権に
由る思想的混乱は依然として激しく、他方において盗賊がいたるところにはびこって、為政の苦悩は極度に達していたと推察される。加うるに天平四年から六年にかけては諸国が
飢饉に襲われ、百姓の労苦甚しく、その上地震も
屡々起きて寺社家屋の倒壊したことが
続紀にみられる。仏教はむろん一般民草のあいだに浸透していたわけではない。
行基や良弁のごとき人々が
漸く教化の
門立にのぼろうとしていた頃である。こういう状態を最も端的に示しているのは聖武天皇詔勅であって、その核心は、民情に心悩まされた悲心の御言葉にみちている。のみならずこれら一切の災禍と
昏迷を、天皇は自らの上に
担われ、身を
賭して国内の平穏を祈られているのである。詔勅はすべて祈念の言葉であり、御信仰の深まり行く有様ともみられる。
たとえば天平四年の夏
陽旱に際して、雨を
請わしめられたときの詔の一節。
「春
従り
亢旱にして夏に至るまで雨ふらず。百川水を減じて五穀
梢に
凋めり。
実に朕が不徳を
以て致す所なり。百姓何の罪ありてか、
憔萎せる事の甚しき。
宜しく京及び諸国をして
天神地祇名山大川には
自ら
幣帛を致さ
令むべし。」
また天平六年の大地震に当って、使を京及び
畿内に遣わし、百姓の疾苦を問わしめられた折の詔の一節。
「
比日天地の
、常に異なる事有り。思ふに朕が
撫育の
化、
汝百姓に於きて
闕失せる所有らむか。今
故に使者を
発遣して
其の疾苦を問はしむ。宜しく朕が
意を知るべし。」
更に同年の秋再び詔して、次のごとき深い憂苦を述べておらるる。
「朕
黎元を
撫育する
事梢に
年歳を経たり。
風化尚壅して、
囹圄未だ
空しからず。
通旦寝を忘れて
憂労茲に
在り。
頃者天頻に
異を
見はし、地
数震動す。
良に朕が
訓導の
明ならざるに
由りて、民多く罪に入れり。
責めは
一人に在り。
兆庶に
関かるに
非ず。宜しく
寛宥を存せ令めて
仁寿に
登せ、
瑕穢を
蕩して
自ら
新にする事を許すべし。天下に
大赦す
可し。」
聖武天皇位を継がせられてからおよそ十年、国内に盗賊絶えず天変地異の激しきを、すべて
御自らの事として
憂い、「朕が不徳を以て致す所」と仰せられているのである。また犯罪については、
峻厳な取締の詔を発せらるる一方、事ある
毎に大赦を命じ、天平三年十一月の紀には「
車駕京中に巡幸して
道獄の
辺を
経る時、
囚等が
悲吟叫呼する声を聞きたまふ。天皇
憐愍して使を遣して犯状の軽重を
覆審せしむ。是に於きて、恩を
降して
咸くに死罪
已下を
免し、並に衣服を賜ひ、其れを自ら新にせ令む。」――のごとき有様もうかがわれる。
しかも更に十年、国内の平穏は容易にもたらされず、憂悩の詔は幾たびか発せらる。
藤原広嗣の反乱さえ起るに及んで遂に意を決し、東大寺はじめ諸国分寺造営の大悲願を起されたのであった。大仏鋳造は仏法
流布という外的事情のみに基くのではない。天皇心奥の深き祈りに発した
乾坤一擲の願であって、天平十三年の詔のごとき、その悲痛な思いと壮麗な御夢とを率直に述べてあますところがない。即ち、
「朕薄徳を以て
忝く
重任を
承けたり。未だ政化を
弘めず
寤寐にも多く
慚づ。
古の明主は皆先業を
能くして
国泰かに人楽しみ
災除かれ
福至れり。何の政化を修め能く此の道を
臻さむ。
頃者年穀豊かならず、
疫癘頻りに至り、
慙懼交集りて、
唯労して
己を罪す。
是を以て広く
蒼生の
為に
遍く
景福を求む。故に前年
駅を
馳せて天下の神宮を
増し
飾へ、
去歳普く天下をして
釈迦牟尼仏の尊像高一丈六尺なるもの各
一鋪を造り並に大般若経一部を写さ令めき。
今春
自り
已来秋稼に至り風雨
序に
順ひて五穀豊かに
穣れり。此れ
乃ち誠を
徴し願を
啓くこと、
霊※[#「貝+兄」、U+8CBA、208-3]答ふるが如し。
載ち
惶れ、載ち惶れて以て
自ら
寧みするとき無し。経を考ふるに云はく、
若し国土に
講宣読誦、
恭敬供養して此の経を
流通せる
王有らば、我等が四王常に来りて
擁護し、一切の
障皆消殄せしめむ。
憂愁疫疾も
亦除き
差さしめむ。願ふ所心に
遂ひて
怛に歓喜を生ぜむ、と。されば宜しく天下の諸国をして各々七重塔一区を敬ひ造り、並に金光明最勝王経・妙法蓮華経各十部を写さしむべし。朕又別に金字もて金光明最勝王経を
擬ひ写して塔毎に各一部を置か令む。
冀ふ所は
聖法の盛なること天地と共に永く
流り、擁護の恩
幽明に
被りて恒に満ちむことなり。其れ
造塔の寺は兼ねて国の
華為り、必ず
好処を
択びて
実に長久すべし。」
国分寺建立の詔の一節であって、聖武天皇の御信仰が何に発し何を念願されたのであるか、はっきり了知さるるであろう。登位以来およそ二十年の間、一日として安き日のなかった思いは、「載ち惶れ、載ち惶れて以て自ら寧みするとき無し」の御言葉にもうかがわれるであろう。東大寺伽藍に身命を傾けられたのは、実に必死の事であったと拝察される。登位以来の数々の詔を読んで行けば、信仰の次第に強烈になって行く有様、云わば精神の自叙伝に接するがごとき心持さえするのである。
いま不空羂索観音を仰ぎみるに、その受難の相貌も、合掌の強烈さも、すべて詔にみらるるごとき大憂悩と大悲心の然らしめたところと申す以外にないであろう。その憂いを、心魂に徹して承けた側近の僧等が、念じつつ創りあげた仏体であろう。この観音に近づく道はこの思いをとおしてより以外になさそうだ。むろん奈良朝における経文の流布や、仏師の
彫塑的手腕、芸術的表現力も見逃しえないのであるが、それらを
渾然と融合せしめ導いて行った力は、天平の人生苦悩と、そこからの祈念である。不空羂索観音の堂々たる威躯の立つ
蓮座の下に、天平の地獄がある。これを懸命に踏まえて、そびゆるごとく
佇立したところに強烈な信仰の力があらわれている。聖武天皇の信仰の自伝の一節をそこに拝すると申しても過言ではなかろう。
*
この本尊を中心にして、
両脇には周知のごとく日光
菩薩と
月光菩薩とが佇立している。いずれも鮮かに彩色されていたそうだが、いまは
剥落して灰白色になってしまった。私は不空羂索観音の合掌の強烈さに驚くが、この両菩薩の合掌の美しさもまた無比であろう。それは本尊のように、力をこめて双方の掌をぴったり合わしていない。指先がふれるだけで、実に柔く、ふくらみを帯びて合掌している。この静かな暖かい合掌は何に由るのであろうか。また何故かように温和な菩薩を本尊の
脇侍としたのであろう。この親しみふかい菩薩の手を通して本尊の峻厳にまで人間を導こうとするのであろうか。事実、不空羂索観音を拝した人は、
唯ひとりこのみ仏に対座し、その精神に耐えるのは容易でないことを気づくと思う。乾漆
鍍金ではあるが、いまはその金色も剥落して、鋼鉄のような強い威力を示している。日光月光の両菩薩は、そうした重厚を和げ、云わばその
陰翳あるいは余韻として、三尊一体としての荘厳を現出するために、当初から念願されたものなのであろうか。
乃至は後代の偶然なのか。
薬師寺金堂の白鳳の如来と脇侍は、互に渾然たる調和を示し、美しい調べを
奏でていることは前に述べたが、三月堂の三像は、はるかに内面的だと思う。形の上で意識的に調和を求めたような
痕跡はみられない。胴体のくねりも遊び足もない。それぞれが
古樸に佇立しているだけである。しかもそこに、互に心の光りを投げかけ、心の光りがまつわりあって、一つの深淵を具現しているのだ。「心の光り」と云ったものを、合掌と云い換えてもいいであろう。渾身の力をこめた本尊の合掌は、日光月光に余韻し、両菩薩は更にその合掌に対して合掌するといったような内面の交流がみられないだろうか。或はまた、両菩薩のさりげなく手をあわせつつ、次第に深まって行くその漸進的な力が、本尊に集結して、極点のごとくここで高度の強烈さを具現したとも考えられないだろうか。私は三像を拝しつつ、合掌による対話を思った。この対話はそのまま天平人の信仰の音階を示しているのかもしれない。白夜のごとき
瞑想と
涅槃への
憧憬、その静かな思いが、脚下の地獄にふれて
忽ち炎のような祈念の合掌となり、その悲痛から、今度は再び柔く和かな思いに帰る。つまりこの往還のメロデーを三像は奏でているのだ。これは長い年月が、自然に現出した宗教的演出と云ってもいいであろう。
三月堂を訪れるたびに私は不空羂索観音と両菩薩の荘厳に感嘆し、正面よりこれを拝して辞し去るのであるが、その他大勢の群像にはついぞ心をひかれることはなかった。四隅に護持する
増長、
持国、
広目、
多聞の一丈の四天王をはじめ、この間に佇立する
梵天、
帝釈天、
密迹王、
金剛王、
不動明王、地蔵尊、弁才天、
吉祥天、及び北面する秘仏、
執金剛神等、いずれも天平の精華といわるる像であるが、その安置のしつこさは後代の無精に由るのであろうか。一つ一つは実に立派だが、この並べ方では、仏像の
剥製博物館といった感じがある。
四天王の美は、戒壇院を頂点とする。この系統のものとしては、他に興福寺の
阿修羅像だけを私は美しいと思う。新薬師寺の十二神将に至っては、もはや信仰が病的状態に入ったことのあらわれとしか思えないのである。人心の狂乱と苦悩を
深奥に抑え、ひたすらな合掌と半眼に一切を耐えてこそ仏と菩薩の像は成立つ。不空羂索観音の有難さもそこにあることは既に述べたとおりである。熱烈な夢や
憤怒や悲哀に耐え、祈る、その昇華の
刹那にのみ仏は
在すのであろう。人間感情の露骨な表現を仏体にもとめて、そこに彫刻美を
云々するのは邪道でなかろうか。しかもこの一切を黙ってひきつれて、なおゆるぎなく合掌する不空羂索観音の威容は、天平のあらゆる苦悩と錯乱の地獄から立ちあらわれた姿として、
益々光芒を放つのだ。
――昭和十七年秋――
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ひまなくぞ雨はふりけり
足曳の三笠の山のふもとなるこの夕はも
松が枝のしづくにぬれて
秋草に 黙し伏す巨きいしずゑ
遠つ代の聖の帝が御夢を うつつに偲ぶしるしかな
いのちあらば語れ
汝が背にそびえしくれなゐの 円き柱はいかに
願ひそめてそが蔭に寄りし貴の女人の
玉裳の紐のゆらぐまに
汝が背にひびきつたはりし
かそけき祈りのつぶやき
はた尊きみ足の跫音!
げに寧楽びとが念に耐へて 汝は千年を経ぬるかな
われなづさへて
柔き苔の微光に かすかなる息吹を窺ひぬ
いのちなきものかは
いのちなきものかは
ひまなくぞ雨はふりけり秋のくれ
啼く鹿の声のしみわたるかな
――昭和十七年秋――
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新薬師寺を訪れた人は、途中の高畑の道に一度は必ず心ひかれるにちがいない。はじめて通った日の印象は、いまなお私の心に一幅の絵のごとく
止っている。寺までのわずか二丁たらずの距離であるが、このあたりは
春日山麓の高燥地帯で、山奥へ通ずるそのゆるやかな登り道は、両側の民家もしずかに古さび、崩れた
築地に
蔦葛のからみついている荒廃の様が一種の情趣を添えている。古都の余香がほのかに漂っている感じであった。私は平原はるかにそびゆる塔をめがけて古寺へまいるのを好むが、高畑のものさびた道筋も捨て難いと思っていた。最初に奈良を訪れたときなどは、わけもなく感動してこの道を
徘徊したものだ。古都に
辿りついたという思いは、ここへ来て深まった。この第一印象はずっと最近までつづいていたのである。
いまの奈良市街は雑然とした観光地であって、ただ
処々にこうした古さびた
面影を残しているにすぎない。
古の平城京はすでに
廃墟と化して一面の田畑である。古寺をのぞけば、普通の民家で古の姿をとどめているのはまず
稀有と
云っていいであろう。高畑の道にしても決して平城京の名残ではない。当時の外京にさえ入らぬ、ほんとうの郊外であったのであろう。現存の民家と云ってもむろん最近の建築で、その一つ一つをみれば何の
風情もない住宅と商店にすぎないが、しかも全体として荒廃の典雅な情緒を漂わしているのは、崩れた築地のゆえか、
或は春日山麓の自然の
然らしむるところでもあろうか。
私ははじめて高畑の道を通った日の感銘が忘れられぬままに数年を過した。ところでこの秋は、一体どういうところが美しいのかもっとよく
眺めようと思いながら、ゆっくりこの道を登ってみた。民家の一軒ずつを眺め、また築地の有様や立木の姿や路傍の石にまで眼をとめて、その雅致ある
所以を改めて心にとめたいと思ったのである。
ところが高畑の道筋は、注意してみればみるほどだんだん感心しなくなるように出来あがっているようだ。どこかに薄汚い場末の感じがある。昔はこの辺に
癩者など住んでいたのではなかろうか。築地の破れのひまよりは、秋草のしずかにゆらぐ様などみえるのを期待したが、予期に反しておむつの乾してあるのがみえた。民家でこれはと思う風情をそなえたものはむろん一軒もない。不空院の門前から新薬師寺の東門を望むあたりの築地は古さびていいが、あまりに小さく
侘しすぎる。往還ともに同じように観察して歩いたが、どういうわけかこの秋は感銘がうすかったのである。何故だろう。
古都への感傷のままに、なかば夢み心地で通るときが一番美しくみえるのかもしれない。或は春日の森から伝わってくる森厳の気に、ふと陶酔したときがいいのかもしれない。それとも度重って通ううちに、私の感覚もいつしか新鮮味を失ったのか。写真にうつして眺めていた方がよさそうだ。
乃至は最初の印象を、思い出として心のなかで
慈んでいるのがほんとうかもしれぬ。改めて観察しようというのが不心得なのであろう。
私は高畑路の箱庭式よりやはり平原の方が好ましく思われた。細々と
寂びた風景よりは
豁然とひらけた荒廃ぶりの方が心に
適う。中宮寺から法輪寺・法起寺・慈光院への道、西の京のあたり、結局私はそちらへ心をひかれるのだ。新薬師寺附近でいえばむしろ南大門の前に立ったときの、豊かな田園のひらけた有様が好きである。旧
聯隊の敷地を越えて、はるか
生駒連山の
裾にいたるまで、西南にのびた
大和国原をしのぶ方がいい。或は春日山の
麓近くをめぐって、
白毫寺へ行く道筋も美しい。稲が深々と実って、
稍々低地に建てられた農家を
蔽うばかりである。それが
鬱蒼たる
森蔭にまでつづいた豊かなしかも
寥々たる風景を私は好む。
寧楽の盛時には、貴人はむろんかような風景をみつつ南大門から堂々と
参詣したのであろう。
ともあれ現存の民家や道筋は、つぶさに眺めるものではないらしい。
由緒ある古寺や城郭や茶室は、みるほどに深さをますのであるが、高畑の民家も築地も道筋も、みるほどに索然とする。これはみない方がいい。みないでただ何となく古さびた感じを心にだけ抱いて、黙って寺へまいるにしくはないようだ。さもなくば夜あるいた方がいいだろう。
道筋や民家とのみ限らぬ、古寺巡りも結局は夜の方がいいように思われてきた。高畑の路上でふと、自分は夜の古寺巡りを忘れていたことに気づいたのである。さきに述べた大寺にしても、後代の子細ありげな装飾や補修や、
勿体をつけた有様や、また時には
饒舌な坊さんや意地わるの案内人がいて、とかく気をくさらすことがあるのだ。そういう状景を一々気にとめず、ひたすら仏を拝すればいいに相違ないが、人工人事にとかく
容喙しがちなのは批評の習い性となった故でもあろうか。わずらわしいと思ったら、いっそ人間もおらず、
伽藍もさだかにみえぬ夜中に、こっそり忍び訪れた方がましだろう。考えてみると、大抵の古寺記は
殆ど昼の印象である。そういう自分もこの秋はじめて薬師寺の塔を仰いだ以外には、
未だ
曾つて夜の寺を歩いたことはなかった。昼でなければ古寺を訪れてはいけないというわけはなかろう。いつか折があったら、夜の古寺のみをかいてみようと思い、早くそこに気づかなかったのが、非常に残念に思われたのである。
何も
好事癖からではない。高畑の道筋が偶然こんな感想をもたらしたのではあるけれど、根本を考えてみるに、やはり私の不信心のためであるらしい。ひそかな祈りよりも、仏像見物の心の方がまさっていたからであろう。後ほど
徒然草をひらいてみた折、兼好法師の次のような言葉に出会った。
「神仏にも、人の
詣でぬ日、夜まゐりたる、よし。」
――昭和十七年冬――
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新薬師寺の「新」は、新しいという意味ではなく、霊験あらたかなるの意である。縁起によれば、
昔時この附近に
上宮太子創建と伝えらるる香薬師寺とよぶ寺があった。その後
天平の
御代となって、
聖武天皇が眼病を
患い
給うた折、
光明皇后がこの寺に御
平癒を祈念されたところ、幸にして
恢復され、
叡感のあまりその香薬師
如来を胎内仏として、
丈六の薬師如来を
行基をして造顕せしめた、
由って現在の寺が草創されたという。胎内には、聖武天皇
宸筆の薬師本願経、法華経一部、皇后筆の金剛
般若経、法華経一部、ならびに仏舎利五粒をともに奉納したと伝えられる。ところで
孝謙天皇即位の頃には、
太上天皇(聖武帝)は七堂
伽藍東西両塔を
建立され、善美をつくした伽藍が現出し、つねに一千の
僧侶を住せしめた。現在の南大門前の田畑及び旧
聯隊の敷地はおおむね当時寺域の一部であったといわれる。その後、
宝亀十一年大雷雨によって伽藍の大方は炎上し、いまに残る御堂としてはわずか金堂のみ、胎内の香薬師も現在は別の堂に安置されてあり、金堂の本尊も
弘仁初期の造顕、ただ十二神将だけが天平の
面影をとどめているにすぎない。
香薬師は
白鳳仏と称されているので、上宮太子の祭られたみ仏であるかどうかはむろん不確かであり、香薬師寺のことも伝説であろうと思う。だが由来はともかくとして、現存する香薬師如来の
古樸で
麗しいみ姿には、拝する人いずれも非常な親しみを感ずるに相違ない。高さわずかに二尺四寸金銅立像の胎内仏である。ゆったりと弧をひいた
眉、細長く水平に切れた半眼の
眼差、微笑していないが微笑しているようにみえる
豊頬、その優しい典雅な
尊貌は無比である。両肩から足もとまでゆるやかに垂れた衣の
襞の単純な曲線も限りなく美しい。さきに述べた岡寺の如意輪観音を
彷彿せしめるが、しかしあれほど豊麗に
可憐ではなく、どこかに
飛鳥の
楚々たる面影を
湛えて、小仏ながら崇高な威厳を保っている。
若し類似を求めるならば、関東随一の白鳳仏といわるる
深大寺(東京都下)の
釈迦如来
坐像に近いであろう。
深大寺は私の家からさほど遠くないので、時折拝観することがあるが、ちょうど兄妹仏のような感じをうける。香薬師が兄仏で、釈迦如来像は妹仏である。立像と坐像の差はあるが、面影が実によく似ているのには驚く。香薬師の
衆生に向って挙げられた右手は、中指の先が少し欠けているが、釈迦如来の同じく挙げた右手も、やはり中指の先が同じほど欠けている。香薬師の場合は、往時盗難に遭ったとき破損したのだと寺僧が教えてくれたが、釈迦如来の方はどうして欠けたのか知らない。明治の頃は堂の床下にころがっていたといわれるから、
或は荒廃の折の破損かもしれない。こういう偶然なところまでこの二つの仏像は似ている。ただ釈迦如来像の方は、香薬師のもつ優しい面が更に強調され、あどけない少女と
云ってもいいほどの清純さがあり、その上全体の姿も流麗なので、私はふと妹仏とよびたくなったのである。
香薬師はもともと胎内仏であるから、誰も直接拝することは出来なかったわけだ。現存の金堂本尊のような丈六の仏体
深奥に秘められて、ひそかに思慕されていたのであろう。ところで金堂の薬師如来は、前述のごとく弘仁時代のみ仏であるが、眼病平癒を記念するため、とくにその眼は大きく
創られてある。まるで異人のようだ。半眼に宿る仏願の深さはない。眼病平癒された故に仏眼も大きくしなければならぬというのは、後代僧侶と仏師の理におちた解釈なのではなかろうか。霊験を人為的に誇張するのは、信心のゆかしさとは云えまい。
更にこの本尊をめぐる十二神将は、天平の作ではあるが、戒壇院の諸像に比するとき格段に品くだれるものとなっているのは意外なくらいだ。経文の粗放な解釈、渡来文化の拙劣な模写、或は小乗仏教によくみられる民心へのコケおどし的要素などが看取される。信仰は健全な祈りと
憧れを失って、
漸く
狂譟的な迷信に堕しはじめた徴候でもあろうか。意味ありげなその露骨な姿態には、何か陰惨なものさえ感じる。要するに金堂本尊と十二神将群像は私にはグロテスクに思われる。
*
薬師如来は、云うまでもなく衆生の病気平癒を本願の一とする如来であるから、ここにはつねに
現世利益の観念が伴う。自分の病を治したいという願いそのものに不純はあるまい。だが願いが極めて実際的なだけ、ともすれば信仰は即刻の効果をめざすようになり
易いであろう。即刻の効果はむろん仏自らの慈心の
然らしむるところで、我々のあげつらうべき
事柄ではない。人間に可能な窮極のことは無私の祈りのみである。しかし願いが実際的なだけ、薬師信仰には我々の「はからい」や霊験誇示が入り易いのだ。眼病平癒すれば仏眼も大きくするなどその一例ではなかろうか。若し平癒しなければ盲目の仏を造顕するつもりだろうか。霊験の有無はひとえに仏心のこととして、これを人為の業にのせて
濫りに公示教説せぬのが、信心の床しさであろうに。
飛鳥白鳳天平のわが仏教の
黎明期には薬師信仰は極めて盛んであった。いな薬師信仰はどんな時代でも病のある限りは不滅であろう。すでに法隆寺の飛鳥の薬師如来像、また薬師寺の白鳳の薬師如来像について述べたが、上古より盛んなこの信仰の本質について考えてみたい。経典あるいはいままで語ってきた仏体を通して、祖先の祈念の真実にふれたいと思う。
病気に対する恐怖――これは
永劫に尽きないであろう。いかなる時代においても病気と犯罪は
発心の二大機縁である。薬師信仰を医術の発達せぬ時代の迷信と思っては間ちがいだ。唐文明の流入は、その頃として最高の医術をもたらしたことは書紀
続紀にも明らかである。たとい医術がどれほど発達しても、生命の不安は去らぬ、死の到来は必至である。この冷厳な事実を直視して祈念の世界に入り、永遠の生命を憧れる至情――古人はこの大事について思いをこらしたのだ。生命の何ものであるかを知っていたのだ。むろん恐怖や
戦慄や絶望もあったであろうが、その惨苦からはじめて
涅槃を夢みたのである。つまり病気平癒の願――身に即したこの切実な願を機縁として、生命の本質に味到し、個々のいのちを最後に
委ねて悔いざる
久遠の大生命に参入せんとする。これが薬師信仰の根本であろう。薬師なる故にむろん直接には病気平癒を祈る。だが病気平癒そのものが最終の目的なのではない。これを縁として仏国土に一切衆生を導入せんとする――かかる如来の本願を仰がねばならぬわけである。このことは仏典にも明白である。
薬師とは詳しくいえば薬師
瑠璃光如来と云い、東方浄瑠璃世界の教主である。このみ仏は自ら十二の大願を起したことが薬師如来本願経に語られてある。十二の大願とは、
第一願、自他の身光明熾盛ならんの願。
第二願、威徳巍々衆生を開暁するの願。
第三願、衆生をして欲する所を飽満し、乏少なからしむるの願。
第四願、一切衆生をして大乗に安立せしむるの願。
第五願、一切衆生をして梵行を行じ、三聚戒を具せしむるの願。
第六願、一切の不具者をして諸根、眼、耳、鼻等をして完具せしむるの願。
第七願、一切衆生の衆病を除き、身心安楽にして無上菩提を証得せしむるの願。
第八願、女身をして男身ならしむるの願。
第九願、諸の有情をして天魔外道の纏縛、邪思悪見の稠林を解脱せしめ、正見に引摂せしむるの願。
第十願、衆生をして悪玉、劫賊等の横難を解脱せしむるの願。
第十一願、飢渇の衆生に上食を得しむるの願。
第十二願、貧乏にして衣服なき者に妙衣を得しむるの願。
これによって明らかなように、我々の
謂う病気恢復は十二願の一部にすぎず、他にも諸々の現実的救済を願としているが、
畢竟本願のめざすところは、第四願に要約されていると云ってもよかろう。また病を必ずしも肉体的に限定せず、心の迷いや精神の病をもふくめてすべてを根源から安穏ならしめんと望んでいるのである。云わば薬師如来という面にあらわれた
菩薩道であって、一切衆生の病
癒えざる限り、如来の悲願もまた尽きず、本願を拝し祈るものは、
各々現実的利益を動機とするけれど、最後はこの無限の本願に摂取されて、大乗に安立しなければならぬというのである。病気の平癒
如何に
拘らず、むしろ病気をさえ忘れて本願にひれ伏したとき、薬師信仰は全しといえるのではなかろうか。
かかる薬師信仰本来の
綜合的面目は、法隆寺の薬師如来、薬師寺金堂の本尊、あるいは香薬師を拝して充分
偲ばるるであろう。利益の一面のみを仏体にあらわに表現するのは後世の堕落ではなかろうか。これが更に転落すれば邪教的迷信ともなろう。
推古天皇ならびに上宮太子、あるいは
天武天皇、聖武天皇、光明皇后の信仰を拝しても明らかなように、決して御一身のみの利益と平安をめざされたものでなく、すべては国民の和と救いのために
捧げられたところであった。わが大乗の
教をはじめて具現されたのは天皇にてあらせられた。天皇信仰という独自のものがわが史上には存在していたのである。
とくに上宮太子が病者貧民の身上を思うて設けた四天王寺四個院のごとき、また光明皇后の悲田施薬院
乃至施浴の風呂の
如き、すべて薬師如来の本願を思わする悲心の然らしめたところであった。かかる信仰あって、はじめて無双の仏体も造顕されたことは既に述べたとおりである。
――昭和十七年冬――
[#改丁]
私の
大和古寺巡礼は、まず夢殿に
上宮太子を
偲び、ついで法隆寺、中宮寺、法輪寺、薬師寺、
唐招提寺、東大寺を巡って、最後はいつも新薬師寺で終るのであるが、これで
飛鳥白鳳天平の主なる古寺はひととおり歩いたことになる。私がはじめて大和に古寺を訪れたのは、昭和十二年の秋であった。それから毎年春と秋には年中行事のようなつもりで出かけて行ったわけだが、戦争の最も激しかった二年間を除けば、これは今でも続いている。古寺巡りも、今年で足かけ十五年になったわけだ。その間、古寺古仏に対する私の気持にも様々の変化があった。私はそれをそのまま旅日記のようにして書きつけてみた。昭和十七年冬に一応まとまったので、大和の養徳社から出版したが、それがこの本の初版本である。
毎年新たな感想が
湧くたびに書きつけて、この本の増刷されるたびに、年代順に添えて行く、というのが私の楽しみであった。この本には十七年秋執筆のものが多いが、古くは十二年の初旅の思い出、戦後に添えたものとしては「書簡」(斑鳩宮)「微笑について」(中宮寺)などがある。今度新潮文庫に入れるに際し、読みかえしてみたが、十年前の文章など
稚く
拙い。しかし、これもその時期の記念と思ってそのままにしておいた。ただ重複している点や、不必要に装飾的なところなど若干削って、出来るだけ簡潔を
旨としたつもりである。
私は古美術の専門家ではない。当然語らねばならぬ多くの
伽藍や古仏にふれてない様式等に関しても精密ではない。そういう研究書なら他にいくらもあると思った。私は古寺を巡りながら、そういう研究書を参考にしながらも
反撥を感じたのであった。仏像を語るということは、古来わが国にはなかった現象である。仏像は語るべきものでなく、拝むものだ。常識にはちがいないが、私はこの常識を第一義の道と信じ、ささやかながら
発心の至情を以て、また旅人ののびやかな心において、古寺古仏に対したいと思ったのである。仏像が私にそれを迫ったと
云っていい。つまり私は
菩提心を誘発されてしまったわけだ。したがってこの本は、自分にとっては求信過程の一産物というようなかたちにもなっている。
また大和の旅で、私は日本歴史というものを、はじめて身に実感した。主として上代だが、この旅を縁として、私は歴史に深く入ってみたいと思うようになった。歴史とは祖先の悲願の宿っているところだ。その願が古寺や古仏にどんな風にあらわれているか、仏教をうけ入れたときの上代人の
憂いや、法悦や、云わば歴史と宗教は一緒になって、私を
唆かしたのである。日本書紀、
続日本紀等を夢中で読みはじめたのもこの頃からで、それが後に「聖徳太子」「
親鸞」などの著作となってあらわれた。この本の発展したものと云ってもいいだろう。
そんなわけで、この本は歴史書のようなところもあるし、宗教的でもあるし、美術として考えている個所もあるし、また旅行記として書かれた文章も入っている。歌やら詩やら、その折々の心のままに雑然と書いたもので、そこに特徴があるかもしれない。読者は、大和への旅の途上でも、
或は家の中ででも、自由に勝手なところから読んで頂きたい。広い古典の世界に遊び、我々の遠い祖先達の苦闘の跡や遺品に接し、日本の深さに幾分なりともふれて
貰えれば幸いである。
この十数年間にも、大和古寺には二三の変化があった。たとえば法隆寺の壁画は焼けてしまったし、
斯集の法輪寺にかいてある三重塔も、昭和十九年雷火のため焼失して今はない。新薬師寺の香薬師像は盗難に遭ったまま、今もって発見されない。十年前の筆だから、その他にも今日と変っているところがあると思う。これからも何が崩壊するか、焼失するか、予測し難い。遺憾だが、これは古寺古仏の運命というものかもしれない。今のうちに出来るだけ見ておくことだ。ほんとうの美しさ深さは、とても筆や写真では伝え難いのである。
昭和二十七年晩秋
著者