知られざる漱石

小宮豐隆




木曜會


 漱石先生の面會日は毎週木曜日だときまつてゐた。木曜の晩には、きまつて大勢の弟子が集まつた。我我はこれを木曜會と名づけて、その常連をもつて任じてゐた。その木曜會の歴史のやうなものを、ここに書いて見ようと思ふ。

 鈴木三重吉によると、先生に面會日をきめさせたのは、三重吉だつたのださうである。先生が訪問客が多くて困ると言つてゐたので、それなら面會日をおきめなさい、就いては土曜・日曜は自分の爲にとつて置いた方がいい、ウィーク・デーで先生の割にひまな日はいつだと訊いたら、木曜日だといふことだつたので、面會日は木曜日の午後三時からといふことにきめたのだといふ。さう言へば明治三十九年(一九〇六年)十月七日(日)附のハガキで、先生は方方に今後面會日を木曜の午後三時からといふことにきめた旨の、通知を出してゐる。この通知を受けた者は、高濱虚子・寺田寅彦・野間眞綱・野村傳四などである。虚子宛のハガキには、「小生來客に食傷して木曜の午後三時からを面會日と定め候。妙な連中が落ち合ふ事と存候。ちと景氣を見に御出被下度候」とある。
 かうして先生の所の木曜會は、明治三十九年十月十一日をもつて始められた。その翌日、即ち十月十二日の夜、先生は高濱虚子に宛てて「拜啓昨日は失敬……今度の木曜にも入らつしやいな。四方太も來るかも知れない。小生元來のん氣屋にて大勢寄つて勝手な熱を吹いてるのを聞くのが大好物です。/……今日も三人來ました。然し玄關の張札を見て草々歸ります。甚だ結構です」と書いてゐる。「張札」とあるのは、赤唐紙の詩箋に、面會日は木曜の午後三時以後といふ意味のことが書かれて、玄關の格子の右上に貼りつけられてゐたからである。

 私は第一囘の木曜會には出席しなかつたやうに思ふ。と言つて私が木曜會に初めて出席したのは、いつのことだつたか、はつきり覺えてゐない。或は三重吉が『山彦』を朗讀した晩が、初めてではなかつたかといふ氣もするが、然しこれは少少曖昧である。ただその時の客が、當の三重吉は無論のこと、介添役としての中川芳太郎、それから高濱虚子・坂本四方太・野間眞綱・皆川正禧・松根東洋城だつたことは、たしかである。野村傳四も寺田寅彦も來てゐたのではなかつたかと思ふ。但これはあまりはつきりしない。森田草平はたしかに來てゐたやうである。

 正岡子規の生前『ホトトギス』では、山會と名づける文章會があつて、同人が文章を持ち寄つて朗讀した擧句、みんなで批評し合ふ習慣があつた。子規が死んでもその會は績いてゐたらしく、現に先生の『猫』の第一は、虚子が山會へ持つて行つて朗讀したものである。もつとも子規の生前もしくは歿後、それに先生が出席したことがあつたかどうかは分からない。然し木曜會ができあがる前に、先生の所には文章會があつて、何か文章ができると、その會で朗讀して、參會者の批評を求めるといふやうなことをしてゐたのだから、さうしてその參會者には高濱虚子、坂本四方太などといふ、山會のメムバーがゐたのだから、この文章會は山會[#「山會」は底本では「は山」]の繼續、もしくは山會の出店だつたと考へていいのである。
 もつともこの文章會は、明治三十八年(一九〇五)中に二三度催されただけで、中絶された模樣である。然しそこではいろいろな注目すべき作品が朗讀された形跡がある。例へば寅彦の『團栗』なども、或はこの文章會で朗讀されたものでなかつたかと思ふ。もつとも明治三十八年三月十三日野間眞綱宛の先生のハガキには、「寅彦は今日も來て文章を朗讀してゆきました」とある所から想像すると、これは先生にだけ讀んで聞かせたもので、大勢に聞かせたものではなかつたのかも知れないとも思はれる。寅彦の性格から言へば、先生一人を相手に朗讀する方が、寧ろ自然である。然し寅彦の『龍舌蘭』は、別の機會に、文章會で朗讀されたものらしく見えるふしがある。先生の『幻影の盾』は、朗讀してもちよつと通じない所がありさうで、まさか朗讀したものではあるまいとも思はれるが、然し野間眞綱が『盾のうた』を作り、それが『ホトトギス』に出た『幻影の盾』の終りに印刷されてゐる所から見ても、また明治三十八年二月二十三日野村傳四宛のハガキに、「明後二十五日土曜日食牛會を催ふす、鍋一つ、食ふもの曰く傳四曰く奇瓢曰く眞折曰く寅彦曰く四方太曰く虚子曰く漱石。午後五時半迄に御來會を乞ふ牛の外に何の食ふものなし」とあり、三月三日附の野間眞綱宛のハガキには、「盾のうた面白く出來候最後の二句は不賛成に候。何とか改め度候」とあるのから見ても、どうも先生がこの「食牛會」で『幻影の盾』[#「『幻影の盾』」は底本では「「幻影の盾』」]を讀むか、虚子に代讀してもらふかし、それに刺激されて野間眞綱が『盾のうた』を作り、それを先生が推敲させた上で、『ホトトギス』に同時に掲載されるやうに取り計らつたとしか、私には想像できないのである。二月二十三日のハガキの中の「曰く奇瓢」とあるのは、無論野間眞綱の雅號である。『盾のうた』が『ホトトギス』に出た時にも、たしか「奇瓢」の名前が使はれてゐたと記憶する。

 明治三十九年(一九〇六)十月二十一日森田草平宛の手紙の中に、「木曜日にはサボテン黨の首領は鼓の稽古日だとか云つて來なかつた。呑氣なものである。其代り中川のヨ太公。鈴木の三重吉。坂本四方太、寺田の寒月諸先生の上に東洋城といふ法學士が來た。此東洋城といふのは昔し僕が松山で教へた生徒で僕のうちへくると先生の俳句はカラ駄目だ、時代後れだと攻撃をする俳諧師である。先達て來て玄關に赤い紙で面會日抔を張り出すのは甚だ不快な感がある。「僕の爲めに遊びにくる日を別にこしらへて下さい」と駄々つ子見た樣な事を云ふから、そんな事を云はないで木曜日に來て御覽といつたから、とうとう我を折つて來たのである。又松茸飯を食はせてやつた」とある。初めの「サボテン黨の首領」といふのは、高濱虚子のことである。當時は『草枕』が發表された直後で、虚子はその『草枕』の中の覇王樹の描寫を口を極めて褒めたのに對して、森田がそれに反對を唱へ、先生がその間に立つて雙方に傳へつつ、調停を試みたことがある。その要領は先生の森田宛の同じ手紙の前文に出てゐる。それだから此所に「サボテン黨の首領」といふ言葉が出て來たのである。
 同じ年の同じ月の二十六日、鈴木三重吉宛の手紙には、「君の夜中に書いた手紙は今朝十一時頃よんだ。寺田も四方太もまあ御推察の通の人物でせう。松根はアレデ可愛らしい男ですよ。さうして貴族種だから上品な所がある。然しアタマは餘りよくない。さうして直むきになる。そこで四方太とはない。僕は何とも思はない。あれがハイカラならとくにエラクなつて居る。伯爵の伯父や叔母や、三井が親類でさうして三十圓の月給でキユキユしてゐるから妙だ。さうしてあの男は鷹揚である。人のうちへ來て座り込んで飯時が來て飯を食ふに、恰も正當の事であるかの如き顏をして食ふ。「今日も時刻をハヅシテ御馳走ニナル」とか「どうも有難う御座います」とか云つた事がない。自分のうちで飯をくつた樣にしてゐるからいい。/君は森田の事丈は評して來ない。恐らく君に氣に入らんのだらう。あの男は松根と正反對である。一擧一動人の批判を恐れている。僕は可成あの男を反對にしやう/\と努めてゐる。近頃は漸くの事あれ丈にした。それでもまだあんなである。然るにあゝなる迄には深い原因がある。それで始めて逢つた人からは妙だが、僕からはあれが極めて自然であつて、而も大いに可愛さうである。僕が森田をあんなにした責任は勿論ない。然しあれを少しでももつと鷹揚に無邪氣にして幸福にしてやりたいとのみ考へてゐる」とある。
 木曜會の初めの時分は、お互に顏見知りのない手合が多かつたので、先生はかういふ手紙のやり取りを割に頻繁にしなければならなかつた。それは一面已むを得ないことではあつたが、然し一面先生に、弟子に對する深い愛がなければ、なかなかこれだけの手數はかけられない。オーケストラが一つのシムホニーを纏め上げうる爲には、指揮者があらゆる心遣ひをしなければならないと同じやうに、先生は暢氣なことを言つてゐる一方では、隨分いろいろな心遣ひをしているのである。

 私もその點で先生に厄介をかけた一人だつた。私が先生の所に行きだしたのは、明治三十八年(一九〇五)の九月、私が大學に入學した年のことだつたが、生れつき内氣で、大勢の前へ出ると妙に拘泥して自由に口が利けなくなる所があり、先生の所へ行つて、先生と相對で口を利く場合には別に窮屈な思ひもしないで話はできても、木曜會のやうな席へ出ることは、何がなし私には苦痛だつた。面會日が木曜ときまつて、これから木曜に來るやうにと言はれても、私にはどうも思ひ切つて木曜會に出席して、その常連となる氣にはなれなかつた。然し一旦面會日がきまつた以上、その日以外に先生の邪魔をすることは、私として十分愼まなければならないことである。それで私は十一月初めの木曜日か何かに千駄木の先生の所へ出かけたが、然しやはり人前で口を利く勇氣は出ず、かと言つて隅つこに小さくなつて一晩中默つてゐるのは、とてもつまらないので、甄は到頭先生に宛てて、特に自分の爲に別に面會日を作つてもらへないかといふ、嘆願状を書いた。つまり形は違ふが、東洋城と同じやうなことを、先生に要求したのである。
 明治三十九年十一月九日附の私宛の手紙は、それに對する先生の返事だつた。――「昨日は客に接する事十三四人一寸驚ろいた。然し知つた人がああ云ふ風に寄つてみんなが遠慮なく話しをするのを聞いてゐる程な愉快はない。僕は木曜日を面會日と定めたのをいい事と思ふ。/君は一人でだまつてゐる。だまつてゐても、しやべつても同じ事だが、心に窮屈な所があつてはつまらない。平氣にならなければいけない。うちへ來る人は皆恐ろしい人ぢやない。君の方からだまつてゐるから口を利かないのだ。二三度顏を合せればすぐ話が出來る。實は君の樣なのが昨日の客中にもあるのだが夫が構はずに話しをしてゐたから面白い。君も話せば面白くなるのである。中川といふ人はやさしい人であるが三重吉君は御仰の通中々猛烈な所がある。あの兩人は親友である。色の白い顏は東洋城といふ俳句家である。あれもあれぎりの好人物である。セビロ連は尤も大人しい連中でちつとも氣兼抔をする男ぢやない。君かりに俳句の會へでも出ると假定し玉へ知らない人は幾人でも居る。僕も昔は内氣で大に恥づかしがつたものだ。今でもある人はさう思つてゐる。所が大違ひ外部こそ同じだが内心はどんな人の前でも何とも思はない。學校抔で氣に喰はない教師抔が居ればフンと云つて鼻であしらつてゐる。夫で澤山なのだよ。丗の中にエライ人が無暗に多いと思ふから恥づかしくなつたり。極りがわるくなるので。自分の心が高雅であると下等なことをするなどは自然と眼下に見えるから些つともする必要が起らないものさ。/こんな氣焔を吐くのも木曜日に君を話させ樣と思ふからさ。又來る時は大いに辯じ玉へ忙しいから是で御免を蒙る 以上」
「セビロ連」とあるのは、多分野間眞綱・皆川正禧の兩君だつたと思ふ。知つて見れば兩君とも實に善良な人達だつたが、兩君とも體躯長大だつたので、初めて會つた時には、私はただそれだけで兩君から壓迫を惑じたやうなのである。――それはともかくこれで見ると、私が木曜會に初めて出席したのは十一月初めでなく、この十一月九日の前日、即ち十一月八日の木曜で、私はその晩早くかへるか何かして、その晩先生に手紙を書いたものらしい。先生を外の人達から奪はれて淋しいといふやうな氣持になつて歸つて來て、その晩先生に手紙を書き、先生から手紙をもらひたいと思つたものかも知れないのである。すると三重吉が『山彦』を朗讀した晩に、私が木曜會に初めて出席したといふのは、私の記憶違ひで、三重吉が『山彦』を朗讀したのは、もつと後だつた。

『書簡集』で調べて見ると、十二月四日高濱虚子宛のハガキに、「拜啓明後日は千鳥の作者が新作をもつてくる由どうか御出席の上朗讀を願ひたいのですが如何でせう」とある。三重吉が『山彦』を朗讀したのは、十二月六日の木曜で、私が木曜會に出席し出してから、一ヶ月後のことである。さう言へば私は『山彦』朗讀當時には、既に三重吉と知り合ひになつてゐて、『山彦』の相談にいくらか與つてゐたやうな氣もする。菊富士館とかいふ高等下宿に陣取り、先生から來た長い卷紙の手紙を、掛物代りに床の間にかけ、鐵劑のヘモグロビンをかじつて小説を書いたり消したりしてゐたのも、どうもこの時のやうである。ただ私が木曜會に出席し出したのが、十月だつたにしても十一月だつたにしても、三重吉が『山彦』を朗讀した(三重吉は興奮して自身では朗讀ができず、到頭虚子が代つて朗讀した)日までは、私はまだみんなの前で碌碌口が利けなかつた。

 私が木曜會で自由に口が利けるやうになつたのは、その年の十二月に先生が千駄木から西片町へ引越して行つた、その引越の手傳に行つて、いろんな外のお弟子達と共同の目的の爲に働いた、それから後のことだつたと思ふ。西片町へ越して行つた翌年、即ち明治四十年(一九〇七)の三月には先生は、大學と高等學校とをやめて『朝日新聞』に入社した。さうして置いて先生は京都へ遊びに行き、三重吉と私とは留守番を頼まれた。先生が京都から歸つて來て暫くすると、花が咲き出した。東洋城と三重吉とはお花見をするのだと言つて、臺所を指圖して酒肴の用意をし、木曜會の全員を先生の書齋に招待した。
 三重吉は何所で買つて來たのか、人數だけのお花見手拭を配布して、みんなにそれを頭にかぶらせたり、襟元に結ばせたりした。先生も無論、一二杯飮まされて眞赤な顏をしながら、お花見手拭を頭の上に載せた。さういふことも木曜會のメムバー同士を親しくしたので、私は誰ともうちとけて話ができるやうになつた。もつとも當時一番親しくしてゐたのは三重吉である。

 三重吉は私より二つ年上だつたが、當時の私は子供だつたので、人生に關しても藝術に關しても、知識もなければ見識もなく、從つて三重吉は兄分として私を引き廻した。のみならず三重吉は當時『千鳥』の作者・『山彦』の作者として一世を聳動してゐた。三重吉の言ふこともすることも、當時の私の地平線ホリツォントを超えてオリヂナルに見えたので、私は三重吉を「英雄」として崇拜し、甘んじてその弟分になつてゐた。木曜會の席上でも、三重吉は傍若無人と言つては語弊があるかも知れないが、ともかく言ひたいことを言つて少しも憚る所がなく、またその趣味は三重吉趣味として、外の人達から尊重されてゐた。私は寧ろ三重吉の袖に隱れて、もしくは三重吉を自分の代辯者として、木曜會に出席してゐると言つていい恰好だつた。
 その年の九月の末には、先生は又引越をしなければならなかつた。西片町は千駄木とは同じ區内である上に、割に距離がなかつたが、今度は早稻田南町へ引越して行くのである。この引越にも弟子は大勢手傳つた。この手傳がまた弟子達の間を一層親しくしたやうに思ふ。少くとも三重吉と私とは、更に親しくなつて行つた。

 木曜會は、先生が早稻田へ引越して行つても、無論續行された。その上早稻田では、元日に木曜會のメムバーが集まることが、恒例のやうになつた。年始の客は無論千駄木時代でも、西片町時代でも、元日に先生の所へ押しかけて來てゐたに違ひないが、然し早稻田時代ほど一日に大勢集まることはなかつたのではないかと思はれる。これは一つには、今度の早稻田のうちの客間が十疊で、書齋がまた十疊で、それが終始ドアをあけてぶつ通しになつてゐたので、みんなゆつたりした氣持になれたに違ひない。

 元日に先生の所へ年賀に行くと、晝でも夜でも、必ずお膳が出てお酒が出た。お膳には野間眞綱君が持つて來たり送つてよこしたりする、鹿兒島の猪のお雜煮のつくのが吉例だつた。
 先生は酒は殆んど飮まなかつたし、猪口で一二杯飮んでもすぐ眞赤になる方だつたが、然し人が酒を飮むことを別に嫌ふ風ではなかつた。勿論先生は、酒を飮むのはいいが、飮んで醉つ拂つて人間が變る奴は嫌ひだとは言つてゐた。然し弟子が來て酒を飮んだり雜煮を喰つたりしながら、勝手な熱を吹くのを、先生はきちんと坐つてにこにこしながら聽いてゐて、少しもあきることがなかつた。それが朝のうちからやつて來て、晝の膳につくのみならず、一旦外へ出て餘所の廻禮をすませてから夕方また歸つて來て夕方の膳につき、それからまた勝手な熱を吹き出して夜の十二時ごろまでも續くのを、先生は不相變じつと坐つて相手になつてゐるのだから、驚くべき根のよさだつた。
 この眞似は到底我我にはできない。先生は、口にこそ出さなかつたが、淋しがりやで、賑やかなことが好きだつたのには違ひないが、然しいくら賑やかなことが好きだと言つて、これには根氣が必要である。さうしてこの根氣は、しんから人間を愛する氣持があつて、初めて出て來る根氣である。事實またその氣持が先生に十分あつたればこそ、木曜會が始まつた時分に、多忙を極めた中から、弟子達にああいふ手紙をかくこともできたのである。我我は木曜會に行つただけではまだ足りず、合間合間に先生に手紙をかいた。先生はその手紙に一一返事をくれた。返事をくれなければ、返事を請求したりさへもした。

 その元日の光景の一端を描いたものに、明治四十二年(一九〇九)の『永日小品』の一番初めに出てゐる『元日』といふのがある。又大正四年(一九一五)の『硝子戸の中』の第二十七がある。その時分は世の中がよかつたから、どの小品にものんびりした雰圍氣が漂つてゐる。
 然しこの雰圍氣は單に世の中がよかつたせゐであるとのみは言へない。それはなんと言つても、先生の愛の力である。先生によつて指揮され、先生によつて反省させられ、先生によつて包み込まれるから、全體の雰圍氣がのんびりもするし、暖かにもなるし、潤滑にもなるし、眞實ででもあれば藝術的なものにもなるのである。さうしてよくあるサロンの雰圍氣のやうな、輕佻で浮薄で、上部だけは愛想よく滑らかに進行してゐるくせに、氣持は少しも暖まることがないといふやうな、さういふ氣配は少しも動き出すことがなかつた。
 今思ひ出しても、先生によつて纒められてゐた木曜會の世界は、五色の雲に包まれた、極樂淨土の世界だつたやうな氣がする。
 話はなんでも剥き出しでよかつた。その結果『硝子戸の中』の私と三重吉とのやうに、激論を鬪はせたあとで絶交するとまで話が尖鋭化することもないではなかつたが、それでも先生から「絶交するなら外で遣つてくれ、此處では迷惑だから」といふやうな、ユーモアを含んだ注意を受けると、急に全體の空氣にゆとりができて、要もない議論を重ねて角目だてることが、馬鹿馬鹿しく見えて來るのである。

 然しこれは何も元日に限つたことではなかつた。木曜會でも同樣だつた。木曜會で議論がはづんで、よく一時になり二時になることさへあつたが、先生はいやな顏一つせず、適當な時に適當な注意を與へて、我我を反省させたり、萎縮させたり、調停したり、いつまでも我我若い者の相手になつて、厭きることがなかつた。勿論先生の眠い時には、眠くなつたから歸れと、先生から言はれる。我我はさつさと引き上げて歸つてくる。その點は淡泊なものだつた。然しさういふ場合は、殆んど數へるほどしかなかつた。
 勿論先生はいつの木曜でも必ず機嫌がいいとは限らなかつた。のみならず先生はどうかすると、人の顏を見るのも厭な氣分になることもあつて、今度の木曜には來てはいけないなどと、ハガキで言つて來ることもあつた。然しさういふことはやはり稀な例外で、先生は別ににこにこしてゐるわけではなく、また先生が先に立つて自分の意見を述べるといふわけではなく、ただどつしりと坐つてゐる場合の方が多かつたが、こつちは安心して言ひたいことが言へた。
 第一先生はこつちが純粹な氣持で先生に接觸して行きさへすれば、必ず純粹な氣持でそれに應じてくれる人だつた。これは口で言へばなんでもないことのやうであるが、然し實はこれは決して生やさしい仕事ではないのである。人はどうかするとさういふ場合、うるさくなつたり、腹が立つたりすることもあつて、とかく不純になり勝ちなものである。然し先生には決してそんなことはなかつた。先生はどんな場合にも純粹なものを尊重し、純粹なものを愛することをやめなかつた。それだけに人は先生の前に出れば、安心して素つ裸になつてしまふ。先生は人から眞實を引き出すのに妙を得てゐた。
 前に先生は先に立つて自分の意見を述べるといふよりも、寧ろ弟子達から引き出されて自分の説を述べる傾きがあつたと言つたが、それでも先生は、ともかく我我に眞面目に相手になつて、議論を上下してくれた。それが我我には嬉しかつた。我我は先生の話を聞いて、始終高められた。ある意味でインスピレーションを得て歸るのを常とした。
 先生は然し、修善寺で大病をしてから、變つた。
 先生の變つたのは、修善寺で大病をした結果、先生の人生觀が變つたからだつた。先生は修善寺で大病をしてから、死の問題を眞面目に考へなければならないやうになつた。同時に先生はその眼で自分の過去の生活を眺めて、自分の生活が、味ふ生活から離れて鬪ふ生活に始終して、齷齪ばかりしてゐることを認めなければならなかつた。先生は風流の生活を、東洋流の文人の生活を庶幾するやうになつた。その間の消息は『思ひ出す事など』に精しく出てゐる。その『思ひ出す事など』に出てゐる「人よりは空 語よりも默 肩に來て人なつかしや赤蜻蛉」といふ句は、先生のその心の傾向をはつきり示してゐるものである。

 さういふ立場に立つて我我若い弟子達の言ふことすることを視聽きするとすれば、假令それが思ひ昂りや己惚を伴つてゐなかつた場合でも、何か先生には厭はしい言動として、顏をそむけたい氣になつたに違ひないのである。況んやその我我が、いい氣になつて増長し、人生だの藝術だの、實はなんにも分かつてゐもしないくせに、さもさもその道の奧儀を心得てでもゐるやうな顏をして、先生に議論を吹つかけるのみならず、自分達は新しいが先生は古いなどときめつけて、先生を舐めてかかるやうな態度をさへ示すことがあつたのだから、先生は寧ろ我我に愛想をつかし、なるべく我我の相手になりたくなかつたのに違ひないと思ふ。事實明治四十三年(一九一〇)十月三十一日の先生の日記には、「○風流の友逢ひたし。人生だの藝術だの何のかのといふものには逢ひたくなし」・「○今の余は人の聲よりも禽の聲を好む。女の顏よりも空の色を好む。客よりも花を好む。談笑よりも默想を好む。遊戯よりも讀書を好む。願ふ所は閑適にあり。厭ふものは塵事なり」と書いてある。
 我我にそんなことは分からなかつた。それで我我は、先生は病氣の結果すつかり老い込んでしまつたから、これからは先生のことを「老」と言ひ「翁」と呼ぶことにしよう。それにしても昔は先生の面會日に行けば、必ず高められて歸つて來るのを常としたのに、このごろはさういふ氣分を全然味はふことができなくなつたのは淋しいなどと、頻に話合つたものである。

 そのくせ我我は、外部の人達に對しては、先生の一の子分か何かをもつて任じてゐたらしく、先生が修善寺から歸つて來て、なほ四五ヶ月胃腸病院に入院して病後を養つてゐた時に、木下杢太郎が見舞に來て、漱石の所に行くのもいいが、森田・鈴木・小宮なんていふのが五人囃子のやうに列んでゐるのでいやになるといふ意味のことを、『明星』か何かの六號活字に書いたことがある。それを讀んで我我は黨派的な意味での惡口と解釋して、ともに杢太郎を憎んだ。然し後になつて考へて見ると、杢太郎は事實を事實として言つたのだが、こつちに黨派的な根性があつて、無闇な者は親分のそばには寄せつけないといふやうな、ケチな氣持が動いてゐることを、正直に反省することができなかつたのである。杢太郎はほんとに先生に近づきたかつたんだが、我我がずらりと列んでゐるので、近づく氣になれなかつたのだと、あとで聽いて、私は恥づかしい思ひをしなければならなかつた。
 先生の日記を繰つて見ると、明治四十三年(一九一〇)十月十六日の條に、「鈴木、森田、小宮、次の室に來り語る外にも人ある樣なり」とある。胃腸病院で鈴木と森田と私とが一緒に落ち合つたことはあまりない。或は杢太郎はこの日に見舞に來て、私達が何か言つたので、そのまま先生に會はずに歸つたのではないかと思ふ。十月十六日と言へば、先生が修善寺から歸つて五六日しかたつてゐない時である。先生はまだ疲れも十分なほつてゐない際なので、あまり人にも會はせないやうにしてゐた爲に、或はさういふ取扱をしたものかとも思はれる。假にさうだつたとしても、敏感な杢太郎に不愉快なものを感じさせる態度が、我我のどつかに出てゐたのに違ひないのである。

 先生を古いと言つたり、先生を「老」と言ひ「翁」と呼んだりする氣持に私がなつたのは、一つは森田草平の感化だつた。
 私は木曜會のお弟子達には、隨分いろんな感化を受けてゐる。三重吉から影響を受けたことは、既に前に書いた。三重吉の次に私に影響した者は森田草平である。
 もつとも私は初め森田とはちつとも親しくならなかつた。森田から言へば、當時私はほんの子供だつたので、取るに足りないと思つてゐたのだらう。私の方でも森田たちが出版した短篇小説集をもらつて讀んだけれども、その爲め私は別に森田を尊敬する氣にはなれなかつた。それが森田の鹽原事件があり、森田は歸つて來て暫く先生の所に厄介になつてゐた上で、横寺町か何かのお寺に下宿して小説を書く――小説を書いて生きるより外に社會に生きる道はない、特別な境遇に追ひ込まれるに及んで、私は急に森田に同情し、進んで森田に近づき出した。森田の『煤烟』は明治四十二年(一九〇九)の元日から、先生の推薦で『朝日新聞』に連載されることになつたものである。これは當時の文壇に一大センセイションを捲き起し、ある人人はこれを漱石以上と激賞しさへもした。それほどではないまでも、私は『煤烟』に現はれた森田のパッションや、『煤烟』の世界そのもののパテーティッシュなものに打たれて、いつのまにか森田を仰ぎ見るやうになつてしまつた。三重吉を「英雄」としてゐた私は、今度は改めて森田を「英雄」とするやうになつた。このことは三重吉をひどく淋しがらせた。然しそれに就いて詳しく述べることは、別の機會に讓りたい。
 同じ年の十一月から『朝日新聞』に文藝欄が設けられることになつた。これは同じく先生の肝煎で、森田を社員として入社させ、森田に文藝欄の仕事をさせようといふ計畫だつたのが、當時の社長村山龍平の反對で森田の入社は不可能になつたので、文藝欄の仕事は名目上は先生がやるといふことにして、森田と私とがその下働をする。但編輯料として六十圓出すが、それは森田にみんなやるといふことで、發足することになつたものである。勿論これは、私のことはともかく、森田のことは、村山社長の諒解を得た上でのことだつた。私は當時別に金に困る身ではなかつたし、森田は私の「英雄」だつたので、私は喜んで無報酬で、先生の下で森田とともに働いた。勢ひ私と森田との交際は頻繁になつた。

 翌年は明治四十三年(一九一〇)である。先生はこの春から初夏へかけて『門』を書いた。書いてゐるうちに胃の具合がわるくなり、書き了るとすぐ内幸町の長與胃腸病院に診察を受けに行き、引き續き胃腸病院に入院することになつた。八月の末は修善寺の大吐血である。先生はおちおち文藝欄の編輯を監督する餘裕がなく、自然それは森田と私とに一任される形になつた。若い者に一任して置けば、何をするか分らない。先生は氣になつてゐたのだらうが、然し小説を書いたり入院したりしてゐるのでは、さうさう注意を行き屆かせてゐるわけにも行かない。それでも森田はハガキだの、呼びつけられたりしながら、よく小言を言はれた。森田はそれが不平だつた。森田には妙に叛逆する精神があつたので、この時分にも亦さういふ精神が動いてゐたのかも知れない。
 無論私は森田から語らはれたり唆かされたりしたわけではない。森田にもまさかさういふ氣はなかつたに違ひないが、然し私は私流に病後の先生に不滿があり、それがたまたま森田によつて觸發された形になつて、私はいろんな點で森田とともに、先生に盾つくやうな結果になつた。今から考へると實に恥づかしいことである。私には先生の心境の變化が理解できず、ただ表面に現はれたものだけに就いて、こつちに都合のいいやうな解釋ばかりして、結局は先生の頭の上に足を上げるやうなことをしたのである。

 先生は恐らく淋しかつたに違ひない。然し先生は私達の態度に對して、別に小言らしい小言は言はなかつた。先生はいつものやうに泰然として、私達の生意氣を受けとめてゐた。これは先生が、今に氣がつくだらうと思つてゐてくれたからかも知れないし、或はこれではいけないと當人が氣がつきかけるころになつてから言ふのでないと、すべての小言は決して効能のあるものではないと、考へてゐたからかも知れない。事實先生は、いつのころだか精確な年月は忘れたが、私にぢかにさういふ意味のことを言つたことさへあるのである。ともかく先生は、森田のことはともかく、私には當分させたいままをさせて置いて、默つて見てゐようとしてゐたものらしいのである。當時の私には、これが反つていけなかつたのかも知れない。その場その場でびしびし言つてもらつた方がよかつたのかも知れない。

 私の態度に就いて、先生から何か言つて來たのは、明治四十四年(一九一一)の十月末に、先生が『朝日新聞』の文藝欄をやめることに話合をつけたに就いての報告の序に、「夫からもう一つは文藝欄は君等の氣焔の吐き場所になつてゐたが、君等もあんなものを斷片的に書いて大いに得意になつて、朝日新聞は自分の御蔭で出來てゐる抔と思ひ上る樣な事が出來たら夫こそ若い人を毒する惡い欄である。君抔にそんな了見はあるまいが、近來君の行爲やら述作に徴して見ると僕は何だか心細くなる樣な點もある。あれで好いつもりで發展したらどうなるだらうと云ふ氣が始終つけまつはつてゐる。要するに朝日文藝欄抔があつて、其連中が寄り合つて互に警醒する事はせずに互に挑發しふのも少しは毒になつてゐるだらうと考へる。それで文藝欄なんて少しでも君等に文藝上の得意場らしい所をぶつつぶしてしまつた方が或は一時的君や森田の藥になるかも知れない」と言つて來たものだけである。朝日文藝欄ができたお蔭で私達は、特に阿部次郎・阿倍能成などと親しくなることができたが、然し此所に出て來る「君等」といふのは、假にその周邊に阿部だの安倍だのが含まれてゐたとしても、中心となつてゐるものは森田と私とだつたのに外ならないのである。この手紙は私には徹へた。然し慢心してゐた當時の私は、徹へれば徹へるだけ、反省して悔い改めることの代りに、何か先生に反抗しようとしでもするやうに、いろんなものにいろんなことを書き散らした。
 今から考へると、先生のこの手紙は、私に對する愛と親切とに充ちた手紙である。この時私が、先生のこの愛と親切とを素直に受け入れて、もつと高い大きい立場に立つて一所懸命勉強する氣になつてゐたら、恐らく先生も安心し、私も今日のやうに寢覺の惡い思ひをしなくて濟んだに違ひない。然し私は先生の手紙を受け取つても、先生の氣に入るやうな振舞はしなかつたのみならず、先生の嫌ひな芝居を見て廻り、先生の嫌ひな花柳界に出入し、あまつさへそれを先生の前で得意氣に吹聽した。これは無論いくらかの露惡趣味からも來てゐる。然しこれは、一方から言へば、先生の前にはどんなことでも包み隱しはしない、徙らに包み隱しをするよりも、なんでもあけすけに言つてしまつた方が、假令そのことは先生の氣に入らなくつても、先生は許してくれるに違ひないといふ、一種妙な信念のやうなものからも來てゐる。先生はあんまり好い心持はしなかつたに違ひないことは、當時先生が坂元雪鳥だの松根東洋城だの、その他の人に私に就いて書いた手紙ででも知れるが、それでも私は先生から頭ごなしにこき下ろされはしたが、何か絶えず先生からいたはられてゐる、許してもらへてゐるといふ感じはあつた。
 さう言へば、いつか私は先生から、阿部次郎の腹の中は透いて見えないが、おれには君の腹の中はすつかり透いて見える。三重吉の腹の中は汚ないが、然しおれは三重吉の腹の中の汚ないものをぎゆつと握つてゐるからいいのだと、言はれたことがある。これは私の先生に對する純粹な愛情が、現在は濁つてゐても、然しこれは一時の迷ひのやうなもので、底にはやはり純粹なものが流れてゐるのだといふことを、先生が認めてくれてゐたせゐではないかと思ふ。

 内田百間君が先生に初めて會つたのは、明治四十四年(一九一一)のことで、場所は胃腸病院だつたといふ。私は内田君とは初めから割に自然に話ができたやうに思ふが、内田君に訊くと、さうでもなかつたといふことだから、杢太郎が胃腸病院で感じたと同じやうなものが、やつぱり我我の態度に現はれてゐたものと見える。然し内田君はずつと續けて木曜會の常連になつたのだから、我我は或は杢太郎に示したほどの惡意は示さなかつたのかも知れない。もつとも内田君の先生に對する敬愛の情はまつたく絶對のものだつた。
 それまでのうち外に木曜會の常連が殖えたものかどうか、私はよく覺えてゐない。然し林原耕三君は一高に入學する前後から來だしたのだから、或は内田君よりも早かつたのだらう。松浦嘉一君は恐らく内田君よりも少しあとになつて來だしたもののやうに思ふ。津田青楓が私と一緒に先生の所へ行つたのは、たしか明治四十五年(一九一二)のことである。その外いろんな人が木曜會には出入したが、然し常連となつたのは林原・内田・松浦・津田の諸君で、あとは來るかと思へば消える人達が多かつたのではないかと思ふ。
 その中で今でも記憶に殘つてゐるのは、高須賀淳平である。

 淳平は千駄木時代から先生の所に出入してゐて、ずつと早稻田南町のうちまで來てゐたのだから、常連の一人と言つていいのかも知れない。初めは『新潮』の記者をして居り、後には『やまと』の社員になつてゐたが、『やまと』のあとはどうしたか、私は知らない。淳平は一種の快男兒だつた。
 淳平は早稻田のうちに、よく俥に乘つて來ては、先生から金を借りて行つて、一向返さなかつた。木曜日に來るには來るが、先生から話を聽かうといふのでなく、寧ろ金を借りに來るのである。
 なんでも近所の俥屋の俥を乘り廻してゐたのだらうが、自分で法被をつくつて著せるか何かして、福松・福松と俥屋を呼び捨てにして、恰もそれが自分の抱え俥か何かのやうな顏をしたがる男だつた。口のうまい男で、先生の所へ來ては何かうまく話を持ちかけ、先生から金を借り出すことに妙を得てゐた。淳平は憎い奴だから、もう決して金は貸さないぞと思つてゐるんだが、どういふものかあいつが來ると、いつでもつい金を借りられてしまふと、先生は言つてゐたが、然し淳平にはひどくすれつからした所と、一方ではまたひどく純情な所とがあつた。その純情な所が或は先生の氣に入つてゐて、金を返さないのは憎いが、然し先生の純粹な所と淳平の純粹な所とが何かのはづみに齒車のやうにうまく噛み合つて、憎い憎いとは思ひながら、つい又貸してしまふことになるのではなかつたかと思ふ。先生は金のことにはやかましい人だつたが、然し長くなると貸した金のことは忘れてしまふ人だつた。淳平はそれを知つて利用するといふやうな男ではなかつたが、然し淳平が借りたままになつてゐる金は、相當あつた筈である。
 私は先生から頼まれて、よく淳平の爲に銀行から金を引き出しに行つたり、又淳平のうちへ借金の催促に行つたりしたことがある。今から考へると、淳平も亦なつかしい。

 芥川龍之介君だの久米正雄君だのが常連になつたのは、大正四年(一九一五)の秋ごろからのことではないかと思ふ。その前後に赤木桁平が、鈴木三重吉の紹介で木曜會の常連になつた。岩波茂雄が安倍能成に連れられて行つたのは或は、もう一年前の大正三年(一九一四)だつたかも知れない。瀧田樗蔭が玉版箋を持ち込んだり唐墨を持ち込んだりして、先生に畫だの書だのを書かせ出したのも、およそ芥川と同時くらゐだつたらう。もつとも瀧田は書畫をかいてもらふ目的の爲に、木曜の午後、即ち晝間行くことにきまつてゐたので、常連ではあつても、夜集ることになつてゐた木曜會の常連とは言へないのかも知れない。

 瀧田はやつぱり始終俥に乘つて來てゐたやうである。然し瀧田は福松・福松などと車夫を呼び捨てにはしなかつた。瀧田は當時『中央公論』の大編輯長といふことになつてゐたので、淳平ほど虚勢を張る必要はなかつたのだらう。
 これも先生に書畫をかかせることはうまく、先週かいてもらつたものは、必ずその週の木曜にはちやんと表裝させて持つて來て、先生の客間にかけて見せて、いいのわるいのと言ふものだから、先生は乘り氣になつてその日も瀧田の注文するままに、大字小字、淡彩水墨、いろんなものをかくのである。大正五年(一九一六)の夏、先生の亡くなる年の夏などは、いつもよりはひどく暑かつたが、先生が汗水たらしてうんうん言ひながら全紙に大字などをかいてゐるところを見て、なんだか瀧田が憎くなつたことさへあつた。それでも瀧田はいつでも紙だの筆だの墨だのをうんと持つて來るので、序に書いてもらふには都合がよかつた。私が現在愛藏してゐる先生の書幅・畫幅・額などの大部分は、恐らく瀧田の持つて來た紙なのだらうと思ふ。
 瀧田はずるい奴で、紙だの筆だの墨だの、結局自分の得になるものは、必ずいろいろ持つて來るが、自分の得にならない硯などは一向持つて來ないと、先生は言つてゐたが、その硯を瀧田は先生の亡くなる前に、果して持つて來たかどうか、つい聞き洩した。然し瀧田にも隨分純粹な所があつた。傾倒し出すと、打算を忘れて傾倒する所があつた。

 木曜會の最後はいつだつたか。生憎私はその時分木曜會に御無沙汰をしてゐたから、はつきりしたことは分からない。然し大正五年(一九一六)十一月二十三日の木曜には、先生は既に胃の具合が惡く、午後の一時と四時とに二回の嘔吐があり、來客を謝絶したといふから、その前週、即ち十一月十六日の木曜が最後の木曜會だつたことには疑ひがない。
 ただ先生が、自分のモットオとしてゐた「則天去私」を説明して、例へば自分の娘が不意にめつかちになつて自分の眼の前に現はれて來るといふやうなことがあつても、それを「ああ、さうか」と言つて見てゐられる心境を獲得するのが「則天去私」の世界なのだと言つたその日が、十一月十六日の最後の木曜日のことなのか、それともその前週の十一月九日のことなのかに就いては、少しはつきりしない所があつて、なんともきめられない。
 松岡讓の『漱石先生』によると、それは十一月九日のことだといふことになつてゐる。さうしてその日は「芥川と久米と大學生が一人と、さうして私との四人」だけだつたとあり、「次の木曜には……座敷へ入り切れない位人が集まつて」「『則天去私』の文學觀なんぞも出た」が、この間の晩ほど「しんみりしたものではなかつた」とある。それはそれでいいが、然し安倍能成もこの話をはつきりきいてゐるといふのである。もしそれが十一月九日のことだつたとすると、その晩は「芥川と久米と大學生が一人と、さうして私との四人」だけだつたといふのが辻褄が合はない。又もしそれが十一月十六日のことだつたとすると、「『則天去私』の文學觀なんぞも出た」が、この間の晩ほど「しんみりしたものではなかつた」とあるのが少しをかしい。先生が娘がめつかちになつて出て來るといふ話を二度持ち出すといふことからがをかしいし、假に二度持ち出すことがあり得たとしても、先生は安倍とその心境の獲得の方法に就いて、相當重要な話をした筈だから、この間の晩ほど「しんみりしたものではなかつた」といふのも、をかしくないことはない。もつとも安倍によると、その話の發展の途中で、先生の機嫌が少し惡くなつたといふことだから、その爲め、松岡にはこの間の晩ほど「しんみりしたものではなかつた」と感じられたのかも知れない。
 それは然し、今どうともはつきりきめるわけには行かない。ただきめることのできるのは、明治三十九年(一九〇六)十月十一日に初まつた木曜會が、大正五年(一九一六)十一月十六日に終つたといふことだけである。(二五・一二・三一)

漱石先生の顏


 中肉中脊といふ言葉があるが、先生は中肉とは言へても中脊とは言へなかつた。寧ろ小男と言つてよかつた。そのくせ先生は大きく見えた。腕に喪章を卷いて撮つた、流布の寫眞だけで先生を想像してゐる人達は、恐らく先生を大男とまでは想像しなかつたとして、少くとも小男だつたとは想像してゐないに違ひない。是は一つには先生の顏が大きく、顏の道具が大きかつたせゐである。先生の眼は二重瞼の、大きな眼だつた。鼻は、鼻眼鏡をかければかけられなくもないほど高く、且つ大きかつた。先生には直矩といふ兄さんがあつて、顏の道具立ては先生によく似てゐる方だつたが、然し萬事小作りに出來てゐて、顏さへ細面の顏だつたので、先生に比べて、ひどく小さく、且つ貧相に見えた。然し脊比べをしたら、或は兄さんの方が脊が高くはなかつたかと思ふ。
 先生のお弟子には、どつちかと言へば、大男が多かつた。寺田寅彦、松根東洋城、安倍能成、鈴木三重吉、野間眞綱、皆川正禧、野上豐一郎、森田草平、内田百間、みんな大男と言つていい部類に屬してゐた。そのくせ空に考へると、どの弟子もそんな先生より小さかつたとは言へないまでも、先生より大きかつたといふ印象を殘してゐない。是は「先生」といふものは、どつちかといふと仰ぐもの、「弟子」は結局見下されるもので、然も弟子同士の間は對等なのだから、特別な心理作用が働いて、そんな錯覺を起させるのだらう。
 心理作用と言へば、先生は我我よりも遙に精神的に偉大なものを持つてゐた。それが先生の光背のやうになつて、先生の脊の高さを、心理的に、より大きく見せただらう事も、十分想像される所である。それが亦先生と比較して外の弟子を、ありのままより小さく見せたのに相違ない。事實は、例へば一緒に風呂に這入つて見ると、先生の顏が、體全體と不釣合に大きいのが眼についた。然し一旦風呂から上がつて、着物を着て、書齋で向き合つて坐つたりすると、もう先生は、我我よりも遙かに大きい人であるやうな氣がし出すのである。どうも人間の脊の高い低い、大きい小さいをきめる尺度は、ただの物指だけでは、反つて精確ではないらしい。
 先生の顏には、うすいあばたがあつた。鼻の、たしか鼻梁の左側にも、二つ三つあばたがあつたやうに思ふ。『猫』によると、このあばたは先生の腦巓にまで喰ひ込んでゐるといふ事だつたが、然しそれは見た事がないから、實否のほどは分からない。先生はこのあばたを氣にして、ロンドンに留學してゐる時分には、ロンドンにあばたの人がゐるかゐないか、ゐるとすれば何人ゐるか、それはどんな風體をして何所をあるいてゐたかといふやうな事を、叮寧に注意してあるいたと『猫』に書いてある。おしやれの先生は、それにこだはる事はないまでも、それを相當氣にしてゐた事だけは爭はれない。
 然し氣をつけて見ると、あばたの事を書いた西洋の文藝も相當あるやうである。グリムメルスハウゼンの書いた『ジムプリツイシムス』にも、主人公の美貌が疱瘡の爲に一朝にしてめちやめちやになる所が書いてあつたやうに思ふ。カザノオ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)の『日記』にもカザノオ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)が疱瘡で熱を出し、それが痒いのと一緒になつて、寐床の上で輾轉反側する所が書いてある。ゲエテの『詩と眞實』にも、子供のゲエテが、疱瘡にかかつて幾日も寐かされてゐる所が書いてある。もつともゲエテにあばたがあつたやうな話は聞いた事がない。ゲエテは痒いのを我慢し、もしくは我慢させられて、あばたにならずに濟んだのかも知れない。然し先生は、子供の時から意地つ張で、言ひ出したら聽かない腕白で、欲いものがもらへないと、晴衣のまま往來の水溜の上でもなんでもそつくりかへつて、手足をばたばたやつてゐたといふから、のみならず疱瘡に罹つたのは、まだ頑是のない三つ四つの時分の事だつた筈だから、物の道理の分かる筈もなく、痒ければ痒いで、人がとめるのも聽かず、本能的に動物的に無性に掻いたに違ひない。その結果、あばたが腦巓にまでも喰ひ込んでしまふやうな事になつたのだらう。『道草』の中で先生は、自分の一生を振り返つて、自分の子供の時分の、さういふ素直でなかつた性質を批判してゐる。先生のあばたも亦、先生の子供の時分のさういふ性質を思ひ出させる。まざまざとした記念だつたとすれば、自分の顏の美醜以外、さういふ點でもあばたは先生にとつて氣になるものだつたのかも知れない。
 先生は學生の時分から眼が惡かつたと見えて、手紙などによく眼病の事が出て來る。その病氣がどういふ病氣だつたのか、精確には分からない。後年、我我が出入し出してからでも先生は、よく書齋の絨氈の上にごろりと仰向けに寐て、自分で眼藥をさしてゐた。それが大學目藥である事もあれば、醫者からもらつた目藥である事もあつた。恐らくそのせゐに違ひない。先生の白眼はいつでも充血してゐて、白く澄み切つてゐる事がなかつた。『猫』の中の猫は、苦沙彌先生の眼を評して、「尤も平常からあまり晴れ/\しい眼ではない。誇大な形容を用ひると渾沌として黒眼と白眼が剖判しない位漠然として居る。彼の精神が朦朧として不得要領的に一貫して居る如く、彼の眼も曖々然昧々然として長しへに眼窩の奧に漂うて居る。是は胎毒の爲だとも云ふし、或は疱瘡の餘波だとも解釋されて、小さい時分はだいぶ柳の蟲や赤蛙の厄介になつた事もあるさうだが、折角母親の丹精も、あるに其甲斐あらばこそ、今日迄生れた當時の儘でぼんやりして居る」と言つてゐるが、それほどではないまでも、慢性結膜炎だかなんだか、先生の眼が濁つてゐた事は確かだつた。
 然し先生の眼は、それだからと言つて「瞹々然昧々然」として、うすぼんやりしてゐたのではなかつた。先生の眼は、先生が癇癪を起してゐる時、集中して物を考へたり書いたりしてゐる時、きつとなつた時、さういふ時に行き合せようものなら、爛々と人を射て、淒かつた。たしか芥川龍之介がさういふ時の先生を、獅子が鬣を振つた時のやうだと形容してゐたと記憶する。その趣は勿論先生の眼から來た。そのくせ先生の氣持の和んだ時、先生の氣持の嬉しい時、樂しい時、先生の眼は實に愛に充ちた眼になつた。先生の眼は、先生の心を實によく映し出した。先生が中村是公と十何年振りかで會ふと言ふので、當時の新橋驛に迎ひに行つた事がある。是公がその時プラットフォームに出て來て、自分を見た時の眼が、なんとも言へない嬉しさうな眼だつたと先生は言つてゐたが、さういふ他人の眼の表情を喜んでしつかり記憶するだけそれだけ、先生の眼からも、巨細に先生の心が迸り出たのである。一重瞼の眼は、何か陰險な氣がして嫌ひだと先生は言つてゐたが、是は必ずしも陰險とは限らなくても、とかく一重瞼の眼は表情に乏しい、表情に乏しいから何を考へてゐるか分らない、それが厭だといふのだつたらうと思ふ。
 先生の髮は黒くてふさふさしてゐた。且つ大きく縮れてゐたので、櫛を使つて分けても芭蕉葉を貼りつけたやうにはならず、ふはりとして波を打つてゐた。先生は左の方で分けて、右の端を一寸跳ね返してゐたが、その跳ね返しが、先生の髮の縮れの波とうまくリズムが合つてゐるので、自然に且つハイカラに見えた。先生は鼻の下に髭を生やしてゐたが、是も髮と同じやうに、黒く且つ多く、その黒く且つ多い髭を先生は、カイゼル髭ではないまでも、カイゼル流に末をぴんとひねり上げてゐた。この髭も亦『猫』の中で問題にされ、且つからかはれてゐるものである。然しそれはまつたく颯爽たるものだつた。また先生の癇癖を象徴すると言つていいものだつた。先生はロンドンの町をあるいてゐて、あれはポルトガル人だらうとか、least poor chinese だとか、通りがかりのロンドンつ子が陰口をきくのを耳にして、苦笑しなければならなかつたといふが、さういふ陰口が出るには、恐らく先生の髭が與かつて力があつたのだらうと思ふ。
 然し先生のこの髭は、先生が修善寺で大病をしたあとで、すつかり短く刈り込まれてしまつた。是は先生自身の發意でさうなつたのか、それとも例へば奧さんが勸めてさうさせたのか、當時訊いて見もしなかつたから、よく分からないが、然しその爲め先生の顏の感じがまるで變つて、私たちはあまり平かでなかつた。その上先生は大病後、すつかり肥つて來た。先生は會社の重役か何かのやうに見え、昔の、どの部分に觸つてもすぐこつちにビリビリと響いて來る、藝術家肌の鋭い神經が、すつかり鈍つてしまつたやうに見えた。是は私たちが、相もかはらず、人生がどうの藝術がどうのと生な議論を吹つかけるのに對して、先生が元のやうに一向相手にしてくれないのを、先生が老い込んでしまつたからだと、速斷した爲ででもあつた。實は先生は、修善寺の大病を境として、人生的にも藝術的にもぐんと大きな飛躍を遂げてゐたのである。
 イタリアの旅行は、人生觀上、藝術觀上ゲエテに大轉換を與へたものだと言はれてゐる。そのイタリアからゲエテが※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)イマルに歸つて來た時には、ゲエテは前とは違つて顋が二重になるほど、ぐつと肥つてゐた。それが※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)イマルの貴婦人たちの多くに、殊にゲエテの戀人だつたシュタイン夫人に氣に入らなかつたらしい。ゲエテはさういふ人達から、肥つて、下品になつて、昔の藝術家的なアスピレエションをなくしてしまつた者のやうに感じられた。それにも拘はらずゲエテは、迷ふ事なく、自分の新しい道を進み續けた。貴婦人の惡評は氣にならなくもなかつたには違ひないが、然しゲエテにとつてもつと大事だつた事は、イタリアの旅をして悟入した、生活と藝術との新しい道を確實に歩み續ける事だつた。――あとになつて考へると、先生の肥つたことを氣にし、先生が髭を刈り込んだ事を氣にし、先生が藝術家として老い込んだやうに感じ、露骨にそれを先生に直言して憚らなかつた我我は、結局十八世紀末の※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)イマルの宮廷婦人の亞琉に過ぎなかつたのである。
 先生が亡くなつて十四五年もたつた後の事だつたらう。寺田寅彦と私とが、先生のやうにぴんとひねり上げた髭を生やしてゐた松根東洋城をつかまへて、どうもさういふ髭をつけてゐるからいけない、早く短く刈り込んで早く新しくなり玉へと言つて、到頭右左から鋏でその美しい髭を短く刈り込んでしまつた事がある。是は當時ぴんとひねり上げてゐる髭なぞ、殆んど誰も生やしてゐなかつたからでもあつた。然し東洋城の髭を刈り込んだ時よりも、二十年もその上も前の時分には、短く刈り込んだ髭は、寧ろ流行の尖端を行く髭だと言つてよかつた。先生が流行の尖端を行く目的で、髭を刈り込んだとも思へない。或は自分の生活の轉換を記念する爲に、自分を「新しく」する爲に、自發的にさうしたのではないかと、今では私は思はうとしてゐるのである。(二四・七・三〇)

ドイツ語の稽古


 漱石先生にドイツ語を教へたことがある。それは明治四十二年(一九〇九)のことだつた。
 先生がどうして私にドイツ語を教はる氣になつたのか、先生が私に言ひ出したのか、私から先生に勸めたのか、さういふことは一切はつきり覺えてゐない。然し當時私は先生のうちに入り浸りで、隙があつたら先生と話をしようといふやうな氣持で先生に對してゐた際だつたので、或は先生には、あれがゐればどうせ仕事の邪魔をされるのだから、それならいつそドイツ語でも教はつた方がいいといふやうな氣持も、いくらかあつたのではないかと思ふ。
 勿論私には、先生の邪魔をしては惡いといふ氣持は、十分にあつた。それだから先生が創作なり讀書なり思索なり、ともかく「仕事」をし始めさうな時刻になると、私はさつさと先生のそばを引き上げて茶の間へ行き、奧さんだのお孃さんだのを相手に、何といふことなく愚圖愚圖に時間を潰すことにしてゐた。さうして飯時になると、また先生と一緒に飯を食はうとするのである。今から考へると、先生の迷惑は無論のこと、奧さんもさぞ迷惑だつたらうと思ふ。
 それが先生にドイツ語を教へるといふことになつたので、何か肩身が急に廣くなつた氣がして、少くともその日は大手を振つて先生のうちへ出入りすることができるやうになつた。
 私はその前年大學を出て大學院へ這入つてゐたが、四月から慶應義塾の文學部へ一週二時間づつドイツ文學の講義をしに行く筈になつてゐた。慶應の文學部は當時永井荷風君が主幹してゐて、先生が永井君に話をしてくれた結果、私は永井君から招聘されたのだつた。その年はたしか水上瀧太郎君だの小泉信三君だの澤木梢君だのが、慶應から輩出した年だつたと思ふ。
 當時私は東新君からアンドレイエフの短篇のドイツ譯を紹介され、それにひどく感動してゐた時だつた。私は手に入れうる限りのアンドレイエフのドイツ譯を漁つてそれに讀み眈り、到頭アンドレイエフ論まで書いてみようとするほど、それに打ち込んだ。今ハアヴアドにゐるエリセイエフ君と知り合つて、ロシア語の稽古を始めようかと思つたのも、その頃のことである。
 自然私が先生の爲の教科書として選んだのもアンドレイエフだつた。その時丁度丸善に『七刑人物語』が來てゐた。これはアンドレイエフのものとして、決してすばらしいものとは言へなかつたが、然し二册揃ふものが外になかつたし、アンドレイエフを是非先生に讀ませたかつたので、ともかくこれときめたのだつた。
 先生の日記を見ると、三月七日日曜の項に「Die Geschichte von den sieben Gehenkten」とだけ書いてある。三月七日は私の誕生日である。誕生日には奧さんが御赤飯を焚き尾頭つきで祝つてくれることになつたので、多分この日もその積りで先生の所へ押しかけて行き、まづドイツ語の稽古をしてから御馳走にならうといふやうなことだつたのだらうと思ふ。それともこの日はただ本を買つて持つて行つただけで、稽古はこの次ぎからといふので、先生は『七刑人物語』といふ名前だけを日記に書きとめたのかも知れない。――さう言へば三月十二日金曜日の項に「アンドレーフの獨譯ジーベン・ゲヘンクテンの一章を豐隆に讀んでもらふ」とあり、三月十九日金曜の項に「朝小宮豐隆とアンドレーフの獨譯一章を讀む。獨乙語が少々面白くなる」とある。稽古の日が金曜日になつてゐるのは、前の晩の木曜會に出席してそのまま泊り込み、その翌日稽古をするからである。然し稽古は毎週一囘といふのではなく、二囘やつた時期もあつた。それがいつからいつまでだつたかはよく覺えてゐないが、三月十三日土曜の先生のハガキには、「アンドレーフをならひてより急に獨乙語趣味が出た樣なれば此機に乘じて次の仕事に取りかゝる迄大いに勉強仕度、どうぞ日數を御ふやし下さい。尤も來月のホトヽギスに何か書くなら御掛念に及ばず」とある。「ホトヽギスに何か書く」とあるのは、その時分私がアンドレイエフ論を書く書くと言つてゐた、それをさすのである。
 ドイツ語の稽古をすると言つても、先生が下調べをした上で譯をつけるといふのではなかつた。私が片端から譯して行くのを、先生は默つて聽いてゐるのである。それでも先生は面白かつたと見えて、『それから』の中にこの『七刑人物語』の最後の場面の敍述(決定版『漱石全集』第五卷四三二―)を引用した上で、「代助はアンドレーフの『七刑人』の最後の模樣を、此所迄頭の中で繰り返して見て、ぞつと肩をすくめた。斯う云ふ時に、彼が尤も痛切に感ずるのは、萬一自分がこんな場に臨んだら、どうしたら宜からうといふ心配である。考へると到底死ねさうもない。と云つて無理にも殺されるんだから、如何にも殘酷である。彼は生の慾望と死の壓迫の間に、わが身を想像して、未練に兩方に徃つたり來たりする苦悶を心に描き出しながらじつと坐つてゐると、背中一面の皮が毛穴ごとにむづむづして殆ど堪らなくなる」と書いてゐる。これは先生が、私の讀んで行く『七刑人物語』を聽いてゐながら感じたことを、そのまま代助の體驗として嵌め込んだものだらうと思ふ。
 二番目に讀んだのは、ハウプトマンの『踏切番ティール』だつた。これはあまり面白いものではなかつたが、然し外に手頃のものがなかつたので、これにきめたのである。然し先生は別に厭がる樣子もなく、なにこれも面白いよと言つて聽いてゐた。然しこれは先生の小説の中には使はれなかつた。先生の日記の四月十四日の項に、明日から『踏切番』を讀んでもらふとあるから、それまでのうちに『七刑人物語』は讀み上げてゐたものらしい。
 日記の五月四日の項に「小宮明日歸國」とあり、五月十二日の項に「小宮豐隆電報(徴兵無事に濟む)」とあり、五月二十二日の項に「晴。豐隆歸京。三重吉歸京。草平來。三人と晩食を食ふ」とある。これで見ると、五月はほとんどドイツ語の稽古はできなかつたやうである。私が郷里へ歸るまでの間に、ハウプトマンを讀んでしまつたかどうかは、覺えてゐない。然し『踏切番』は短い短篇であるし、それに添へた『使徒』も更に短いものだから、恐らく私の出發前に讀み上げてしまつたのだらうと思ふ。
 先生が『それから』を書き出したのは五月三十一日で、書き了へたのは八月十四日である。その間ドイツ語を續けてやつたものかどうか、私は覺えてゐない。然し日記の八月十七日火曜の項に「※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)インヒューター讀了」とあるから、先生の『それから』執筆中も、ひまを見ては、稽古を續けてゐたものと見える。『※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)インヒューター』といふのはパウル・ハイゼの短篇である。さう言へばハウプトマンとハイゼとの間に、プトカーメルといふ人の書いた『ダヌンチオ』を讀んだといふことは覺えてゐる。これは小型の叢書本で、ダヌンチオの評傳である。先生は『それから』の中で、「それから十一時過迄代助は讀書してゐた。が不圖ダヌンチオと云ふ人が、自分の家の部屋を青色と赤色とに分つて裝飾してゐると云ふ話を思ひ出した。ダヌンチオの主意は、生活の二大情調の發現は、比二色に外ならんと云ふ點に存するらしい。だから何でも興奮を要する部屋、即ち音樂室とか書齋とか云ふものは成るべく赤く塗り立てる。又寢室とか、休息室とか、凡て精神の安靜を要する所は青に近い色で飾り付をする。といふのが、心理學者の説を應用した、詩人の好奇心の滿足と見える。/代助は何故なぜダヌンチオの樣な刺激を受け易い人に、興奮色とも見做し得べき程強烈な赤の必要があるだらうと不思議に感じた。代助自身は稻荷の鳥居を見ても餘り好い心持はしない。出來得るならば、自分の頭丈でも可いから、緑のなかに漂はして安らかに眠りたい位である。いつかの展覽會に青木と云ふ人が海の底に立つてゐるせいの高い女をいた。代助は多くの出品のうちで、あれ丈が好い氣持に出來てゐると思つた。つまり、自分もあゝ云ふ沈んだ落ち付いた情調に居りたかつたのである」(全集第五卷四四九―)と書いてゐるが、そのダヌンチオの話は、プトカーメルの『ダヌンチオ』の中に出て來る話である。「青木と云ふ人」とあるのは無論青木繁のことで、「海の底に立つてゐる脊の高い女」の畫といふのは、たしか『わだつみのいろくづの宮』といふ畫のことで、先生は青木繁のこの畫が非常に好きだつたのである。――
 パウル・ハイゼの短篇の次に我我は何を讀んだか、先生の日記が八月二十八日で一徃切れてゐるので、全然分からない。或はハイゼでおしまひになつたのではないかと思ふ。先生は八月二十日から劇烈な胃カタールで寢こんでしまつたし、それが一徃收まると、九月一日にはもう『滿韓ところ/″\』の旅に出かけたからである。多分ハイゼでおしまひになつたのだらう。
 先生は實に神妙に私の讀んで行くのを聽いてゐた。英語の方から推しさへすれば、なんでもなく日本語にすることできる箇所も澤山ある筈で、私の讀み方なぞさぞまだるつこくてしやうがなかつたのだらうと思はれるが、然し先生は私がいくらへどもどしながら讀んでゐても、それはかうぢやないかああぢやないかなどと、決して口を出すことがなく、默つて私の讀むのを聽いてゐた。これは私のやうなものでもその道の專門家を以つて遇するといふ、先生の謙虚で義理堅い性格から來るものだらうと思ふ。先生は六月二十日の日記に、「夜パウル・ハイゼのワインヒューターといふ奴を讀み出す。散歩に出た後へ小宮が待つてゐて、先生は不熱心だといふ」と書きつけてゐる。先生は『それから』を書きあぐねて、散歩にでも出なければ、氣持の變へやうがなかつたのかも知れない。それでも私から不熱心だと言はれれば、私に對して濟まなかつたといふ氣になるのである。今から考へると、先生のかういふ態度は感謝に堪えないし、第一かういふ態度は私などには、到底及びもつかない態度なのである。
 先生は一度、君のドイツ語は割にタチがいいよと言つたことがある。それに對して私は、どつちが先生だか分からないやうなことを言ふと言つて、先生に喰つてかかつた。然しこれは稽古が濟んだあとの休息の時間か何かのことで、いざ稽古になると、先生は實に眞劒だつた。恐らくそのせゐだらうと思ふ。先生は私から離れても、一人でどんどんドイツの本だの雜誌だのを讀んで行くやうになつてゐた。例へば『彼岸過迄』の中にはアンドレイエフの『思考』のことが出て來る(全集第六卷六二二―)が、これは私が先生と一緒に讀む積で丸善から買つて行つて、そのままになつてゐたものを、先生がいつのまにか一人で讀んだものである。又例へば『行人』の中に出てくるマラルメの逸話(全集第七卷四七一―)などは、當時近著のドイツの『新評論ノイエ・ルンドシャウ』に載つてゐたものを、自分で讀んで、Hさんの手紙に利用したものである。朝日新聞に文藝欄ができるに就いてドイツとフランスとイギリスとから文藝雜誌を二三種づつ社費で豫約してもらふことになつたが、文藝欄は廢止になつても、その雜誌の豫約はなほ暫く續いた。先生はどの雜誌にも一往眼を通し、必要なものにはアンダラインしたり、内容を摘記したりしてゐたやうである。
 先生が亡くなつてから、先生の書棚の下の戸棚から、思ひも掛けず先生の大學時代の試驗の答案が出て來た。調べて見ると、それには先生のドイツ語の答案もまじつてゐて、それが悉く九十點だの九十五點だの百點だのといふ優秀な評點がついてゐるので、ちよつと驚ろかされた。先生は專門の英文學の研究に集中する爲に、大學を出てからは、折角優秀だつたドイツ語もフランス語も棄ててしまつたのだらうが、大學時代に基礎的なものをしつかりやつた置いたので[#「やつた置いたので」はママ]、私のやうなものがほんの半歳くらゐしか一緒に勉強しなかつたのに、本を讀むのに少しも不自由しない程度にすぐ進歩することができたやうなのである。先生は修善寺で寐てゐる際に、かういふ機會にフランス語でも勉強したいと言つてゐたが、これは獨力で、いつのまにか本だの雜誌だのをどしどし讀んで行くことができるやうになつた。(二六・三・一一)

子規の注釋


 漱石が大正三年に學習院で講演した『私の個人主義』の中に、「昔し私が高等學校にゐた時分、ある會を創設したものがありました。その名も主意も詳しい事は忘れてしまひましたが、何しろそれは國家主義を標榜した八釜しい會でした。勿論惡い會でも何でもありません。當時の校長の木下廣次さんなどは大分肩を入れてゐた樣子でした。其會員はみんな胸にめだるを下げてゐました。私はめだる丈は御免蒙りましたが、それでも會員にはされたのです。無論發起人でないから、隨分異存もあつたのですが、まあはいつても差支なからうといふ主意から入會しました。所が其發會式が廣い講堂で行なはれた時に、何かのはづみでしたらう、一人の會員が壇上に立つて演説めいた事を遣りました。所が會員ではあつたけれども私の意見には大分反對の所もあつたので、私は其前隨分其會の主意を攻撃したやうに記憶してゐます。然るに愈發會式となつて、今申した男の演説を聽いて見ると、全く私の説の反駁に過ぎないのです。故意だか偶然だか解りませんけれども勢ひ私はそれに對して答辯の必要が出て來ました。私は仕方なしに、其男のあとから演壇に上りました。當時の私の態度なり行儀なりは甚だ見苦しいものだと思ひますが、それでも簡潔に云ふ事丈は云つて退けました。で其時何と云つたかと御尋ねになるかも知れませんが、それは頗る簡單なのです。私は斯う云ひました。――國家は大切かも知れないが、さう朝から晩迄國家々々と云つて恰も國家に取り付かれたやうな眞似は到底我我に出來る話でない。常住坐臥國家の事以外を考へてならないといふ人はあるかも知れないが、さう間斷なく一つ事を考へてゐる人は事實あり得ない。豆腐屋が豆腐を賣つてあるくのは、決して國家の爲に賣つて歩くのではない。根本的の主意は自分の衣食の料を得る爲である。然し當人はどうあらうとも其結果は社會に必要なものを供するといふ點に於て、間接に國家の利益になつてゐるかも知れない。是と同じ事で、今日のひるに私は飯を三杯たべた、晩には夫を四杯に殖やしたといふのも必しも國家の爲に増減したのではない。正直に云へば胃の具合で極めたのである。然し是等も間接の又間接に云へは天下に影響しないとは限らない、否觀方によつては世界の大勢に幾分か關係してゐないとも限らない。然しながら肝心の當人はそんな事を考へて、國家の爲に飯を食はせられたり、國家の爲に顏を洗はせられたり、又國家の爲に便所に行かせられたりしては大變である。國家主義を奬勵するのはいくらしても差支ないが、事實出來ない事を恰も國家の爲にする如くに裝ふのは僞りである。――私の答辯はざつとこんなものでありました」といふ一節がある。
 松本亦太郎によると、當時の高等學校の學生は、歐化主義と國粹主義と二派が對立してゐたといふよりも、一般に西洋文化の水準の高いことを知つて、それをできるだけ日本に攝り入れようとする心に燃えてゐた者ばかりだと言つてよかつたのださうである。森有禮のやうな急進的な歐化主義者が文部大臣になつてゐた上に、政府の大方針からが、どんな無理をしても、一日も早く西洋と同じ線の上を同じ歩調であるけるやうになりたいといふ點にあつたのだから、これが亦恐らく天下の大勢だつたと言つてよかつたに違ひない。然しその森有禮が明治二十二年に暗殺されたのを見ても分かるやうに、一方には國粹主義を振り翳して、一般の風潮を堰き止めようとする反動精神もあつて、高等學校の學生の中にもその精神にかぶれ、國粹主義・國家主義鼓吹の運動を興さうとする者も相當にあつたといふが、然しこれは大抵頭の惡い、學業の成績の劣等な者計りだつたのださうである。然しそれまで教頭だつた木下廣次が校長になるに及んで、木下は寧ろ國粹主義・國家主義的な精神を學生の間に導き入れることに肩を入れたので、その結果さういふ精神を鼓吹する目的の會合が、盛大に學生の間で組織されることになつたのだといふ。木下廣次が一高の校長になつたのは、明治二十二年五月のことである。漱石の『私の個人主義』の中に出て來る、高等學校時代の※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)話も、少くとも明治二十二年五月以後のことでなければならない。
 然るに明治二十二年の子規の『筆まかせ』の中には、「近頃我高等中學校に道徳會ともいふべきものを起す人あり。余にもすゝめられたれども、余は之に應せざりき。漱石も亦異説を唱へたり。「余は今、道徳の標準なる者を有せず、故に事物に就て善惡を定むること能はず。然るに今道徳會を立て道徳を矯正せんといふは、果して何を標準として是非を知るや。余が今日の擧動は其瞬間の感情によりて起る者なり。擧動の善惡も其瞬間の感情によりて定むる者なり。されば昨日の標準は今日の標準にあらず」と。余の説も略々これに同じ」といふ一節がある。『筆まかせ』の文章には一々日附が書いてないから、これがいつごろ書かれたものであるかは明らかでない。然し前後に書きとめられてゐる事項の内容から考へて、これがおよそ明治二十二年の十月ごろに書かれたものであることは確實である。とすると、漱石が講演の中で、自分は「會員ではあつたけれども私の意見には大分反對な所もあつたので、私は其前隨分其會の主意を攻撃し」たと言つてゐる、その攻撃の主意の、少くとも一部をなすものが、この『筆まかせ』の一節であるとしか、私には思へないのである。
 當時の漱石は、家庭では父兄を尊敬することができず、社會では長老先輩を尊敬することができず、過去の世界を支配してゐた封建道徳を自分の道徳とすることができず、さればと言つて自分自身で新しい道徳を創造することもできず、ただ自分の内部に動いてゐる良心に從つて、自然で僞りのない生活を生活しようとすることに精一杯だつたのだから、例へば何かの主義の旗印を押し立てて、自分をも他人をも無理に一つのものに纏めて動かさうなどといふやうなことは、到底思ひもよらないことだつた。「余が今日の擧動は其瞬間の感情によりて起る者なり。擧動の善惡も其瞬間の感情によりて定むる者なり。されば昨日の標準は今日の標準にあらず」といふ言葉は、いかにも懷疑主義的であり、刹那主義であるやうに聽こえるかも知れないが、然し事實はこれらの言葉の底を貫ぬいて、漱石の内省の深さと鋭さとがあり、漱石の良心が人一倍鋭敏であることを見遁してはならないのである。漱石は講演の中で、「國家主義を奬勵するのはいくらしても差支ないが、事實出來ない事を恰も國家の爲にする如く裝ふのは僞りである」と言つてゐる。どんなことでも、一度自分の批判的精神に照らして、篤と納得した上でないと、決してそれを自分の中に受け入れまいとする漱石は、懷疑主義者であり個人主義者であつたのかも知れないが、然し漱石は「僞り」を犯してまで懷疑主義者でないもの、個人主義者でないものにならうとはしなかつた。終生漱石の憎み通したものは虚僞である。それが既に此所にもはつきり現はれてゐる。
 ――「余の説も略々これに同じ」と言つた子規が、この發會式で、漱石の爲に何等かの意味で聲援を送つたかどうかは分からない。『筆まかせ』になんにも書いてゐないところから想像すると、子規はこの發會式には出席しなかつたのかも知れないし、當日の出來事も耳に入らなかつたのかも知れない。それとも、耳に入つたとしても、子規には書くに値ひしないことと思はれたのかも知れない。然し漱石にとつてこの問題は、決してどうでもいい問題ではなかつたのである。自分の生活にかかはる問題だつたのである。(二六・七・九)

漱石の感覺


 漱石の感覺のうちで味覺や聽覺は、あまり發達してゐなかつたやうに思ふ。これは漱石の視覺が發達してゐて、大抵の事は視覺で辨じてしまふ傾向があり、その意味で漱石の感覺の世界は最も多く視覺的な世界からできあがつてゐたせゐであるかとも思はれるが、漱石の書いたものを見ても、味覺的、聽覺的、嗅覺的、觸覺的な要素はあまり眼に立たないやうである。
 書簡集の中には、この間食つた雁の味は大變うまかつたとか、青豆のスウプはありがたかつたとかいふ言葉は出て來るが、然し例へば『草枕』の中で、宿屋の膳の、早蕨に紅白に染め拔かれた海老を配したお椀の蓋をとつて見て、その色彩の美しさに感歎する所はあつても、その早蕨と海老とを材料としてできあがつてゐるつゆの味は少しも表現されてゐないのである。のみならず漱石は、畫家の立場から言へば、西洋抖理は頗る發達しない料理で、日本の獻立は吸物でも口取でも刺身でも頗る綺麗にできあがつてゐる。會席膳を前に置いて、一箸も著けずに、眺めたまま歸つて來ても、目の保養といふ點から言へば、お茶屋へ上がつた甲斐は十分あると言つてゐる。それはその通りに違ひないが、然しそれは日本料理に視覺的な要素が重んじられてゐるといふことを指摘してゐるだけで、それだけでは西洋料理と日本料理との味の優劣は片づかない。然も料理で重大なのは、味である。
 もつとも『草枕』の主人公は畫家である。畫家の批評が視覺的なものの上に置かれるのは、當然のことといふべきであるかも知れない。然しそれなら『草枕』以外に、漱石の味覺の纖細を示す、何等かの文獻があるかと言へば、どうもそれは見當らないやうである。『草枕』には玉露の味に觸れてゐるところがあるが、然しこれも味といふよりも匂ひとでもいふべきものに關係してゐる。
 聽覺に關して漱石は、同じ『草枕』の中で主人公が三味線の音を聞いて、「實の所余が此樂器に於ける智識は頗る怪しいもので二が上がらうが三が下がらうが、耳には餘り影響を受けた試しがない」と告白するところを書いてゐる。これは『草枕』の畫工のことで、漱石のことではないと言へば言へなくはないが、然し事實は漱石自身も、自分の聽覺に對して、別に自信を持つてはゐなかつた。漱石は寺田寅彦などから誘はれて、よく音樂會に出かけて行つたけれども、これは無論善良な素人の聽衆の一人として行つたので、そのことが漱石の聽覺の發達を證明する所以にはならない。漱石は『野分』の中で高柳周作が上野の音樂學校の演奏會にひつぱつて行かれて、退屈するところを描いてゐるが、これには漱石の體驗が相當入つてゐると見ていいだらうと思ふ。内田百間は漱石のことを、音痴だと言つてゐる。言ふまでもない内田百間は、箏曲の大天狗である。
 嗅覺に關して漱石は、自分は或匂ひを嗅いで過去のことを思ひ出すことがよくあると言つてゐる。ロンドンの日記の中には、ショペンハウエルがそれと丁度同じことを書いてゐるのを發見して、多少得意になつたといふことが書いてある。明治四十三年修善寺大患後、胃腸病院入院中の日記には、「障子をあけると鳶色の霧なり。倫敦の臭がして不愉快なり」とある。翌年の十一月二十一日の日記には、「曇。どんよりして陰氣からすくめられる樣な天氣である。冬の近づいた氣分である。曇る中に太陽が薄く見えるのを眺めると倫敦の時候を思ひ出す。夫でも太陽が毒血の樣な色をしてゐないのが、まだ荒涼の感を柔げる。空氣の臭も少し違ふ」とある。漱石の嗅覺には一種特別な鋭さがあつたやうである。然し漱石の作品には、香水の匂ひや花の匂ひがいくらか出て來るが、然しそこに漱石の嗅覺が別に顯著に現はれてはゐるとも見えない。これは或は自分の嗅覺はあまり特殊すぎるから、人には通じないだらうといふ遠慮から、漱石自身調節してゐた結果から來るのかも知れない。ロンドンの日記には「或香をかぐと或る過去の時代を憶起して歴々と眼前に浮んで來る朋友に此事を話すと皆笑つてそんな事があるものかと云ふ」と書いてある。
 觸覺では漱石は、觸覺そのものを描くといふよりも、寧ろ觸覺的な言葉を使つて精神的なものを溌剌[#「溌剌」は底本では「溌刺」]と表現しようとする場合の方が多い。例へば木下杢太郎の『唐草表紙』の肌理のこまかな文章を評して、「すめすめした餅膚」といふやうな形容を用ひてゐるのが、それである。もつとも『行人』にはお湯から上りたてのお直を描いて、「蒼味のした常の頬に、心持の好い程薄赤い血を引き寄せて、肌理きめの細かい皮膚に手觸を挑むやうな柔らかさを見せてゐた」といふ一節もある。これには勿論視覺的な要素が重要な役割を演じてゐるには違ひないが、觸覺が主として働いてゐることは、説明するまでもないだらう。
 然しなんと言つても漱石の感覺の中で最も發達してゐるのは、視覺である。ゲエテは『トリストラム・シャンデイ』の中の、「視覺は最も高尚な官能である。外の四つはただ接觸する器官を通じて我我に教へる。接觸によつて、あらゆるものを我我は聽き、味はひ、嗅ぎ、觸れる。然し視覺はこれらのものよりも限りなく高い所に立ち、物質を超えて精錬し、精神の能力に自分自身を近づける」といふ一節を、マカリエの文庫の中に書きとめてゐるが、漱石が視覺に就いて同じやうに考へてゐたかどうかは分からないとしても、ともかく漱石の視覺が發達し、漱石が視覺を重んじてゐたことだけは、爭はれない。ゲエテが聽覺型の人間であるよりもより多く視覺型の人間であつたと同じやうに、或はより以上大きな比例に於いて、漱石はより多く視覺型の人間だつたやうである。そのことは既に、此所に引用した漱石の文章の大部分からだけでも、十分窺はれることと思ふ。
(二五・一〇・一四)

漱石の畫


 人間に短歌型と俳句型とがあると言ひ出したのは寺田寅彦である。視覺型と聽覺型とに分類したのは、西洋の心理學者だつたと思ふが、誰だか知らない。寅彦にはどつちとも言へない所があつた。然し漱石は明らかに視覺型だつた。現に『草枕』の主人公は、自分には音樂はわからないと言つてゐる。『行人』の一郎は「事件の斷面を驚く許り鮮やかに覺えてゐる代りに、場所の名や年月を全く忘れて仕舞ふ癖があつた」といふが、これは實は漱石が自分の「癖」を書いたものに外ならなかつた。かういふ漱石が門下の者に刺戟されて畫をかくやうになつたのは、極めて自然なことだと言つていいかも知れない。
 もつとも漱石はあまり寫生をしなかつた。寫生をしても寧ろ自分の中にある美しさの方を大事にする傾向があつた。漱石の畫の技術は元よりうまいとは言へなかつたが、それでも漱石に頭の中にある物の形や色の美しさを想像させるには十分だつた。のみならず漱石には現實を離れて、現實にない世界を繪畫的に組み立て、その世界に出入することが樂みで堪らないといふ風があつた。漱石は晩年こそ『明暗』に追はれて大作を思ひ立つことができなかつたが、然し大正三年から四年へかけてかき上げてゐる、紙本半折の淡彩を施した南畫の數幅は、漱石のその樂みを極めて活活と表現する。例へば『一路萬松圖』などといふのは、漱石が此岸から彼岸へ一歩一歩いそいそとあるいて行つてゐる所が、眼に見えるやうな作品である。
 漱石は寒い色が嫌ひだつた。もつとも鎭靜的に働く意味では、緑系統の色が好きだつた。然しそれが勝てば、畫面は自然寒くなる。それを柔らげる爲に漱石は、例へば山肌などの地色に、うすい代赭をつかつてゐる。必要に應じては、たまにうすい紅も使はれる。漱石の繪具の數は少ないが、それぞれの色が微妙に照應し合つて、地味ではあるが複雜で上品なハアモニイを作り上げる。
 漱石は生れつきカラリストだつたやうである。(二五・一〇・一五)

諏訪山温泉


 漱石は明治三十三年九月八日にドイツ船プロイセン號に乘つて、横濱から留學の途についた。
 漱石は船に弱く、初日の航海から氣分が惡く、夕飯も食はずに寢てしまつたといふが、そればかりでなく、自分たち四人づれの日本人以外はほとんど西洋人ばかりなので、出發の日からすでに洋行したやうな氣がし、神戸で上陸し諏訪山温泉で一風呂浴び、日本の浴衣をきて日本の料理を食つて、やつと歸朝したやうな心持になつたのださうである。それはおそらく誇張ではなく、ほんとにさう感じたのだらうと思ふ。
 漱石は船の中から「唐人と洋食と西洋のフロと西洋の便所にて窮屈千萬、一向面白からず、早く茶づけとそばが食度候」と日本に書き送つてゐる。ロンドンについてからでも、ぼくの趣味はすこぶる東洋的・發句的だからロンドンには向かないだの、日本に歸つての第一の樂しみはそばを食ひ、日本米を食ひ、日本服をきて陽のあたる縁側に寢ころんで庭でもながめることだのと、屡書いてよこしてゐる。
 漱石は十六七以後はなにもかも放擲して一所懸命西洋の學問をしてきたのだから、當時は知性的には十分西洋的になつてゐたはずである。しかし感情的・生活的・趣味的には漱石は、純然たる東洋人・日本人だつたから、ロンドンにゐて日本が戀しくてたまらなかつたのである。
 それに別に不思議はない。然しその漱石と私との趣味を比べてみると、私も東洋人・日本人ではあるに相違ないが、いくらか違つてゐるやうである。例へば西洋で生活するにしても、私は漱石ほど日本を戀しがることはなかつた。米の飯もそれほど食ひたいとは思はなかつた。これは同じ日本の金が、私の行つてゐた時分にはきわめて有利に換算されたため、漱石に比べて遙に豪奢な生活ができたせゐででもあつたには違ひないが、それよりも私の中により多く西洋がしみこんでいたせゐであらうと思はれる。漱石と私とは年が十七違ふ。明治の十七年の相違は相當な相違であるはずである。
 今日の若い人たちのことを考へると、若い人たちと私との年齡の相違は十七年の二倍以上である。感情的・生活的・趣味的に言つてこれらの人たちと私との間には、漱石と私との間よりも、もつと大きい相違があるのかも知れない。然しさういふ相違が――感情的・生活的・趣味的に西洋がしみこんだために著しく違つて見えるといふやうな事實が――あまり眼につかないのは、少し不思議である。(二六・三・一〇)

人工的感興


 漱石の談話の中に『人工的感興』といふのがある。――自分には天才のやうにいつでもインスビレーションが[#「インスビレーションが」はママ]天降るわけではないから、約束した小説を書かなければならないのに、どうしても感興がわき上つてこない場合には、自分でそれを製造するやうに仕向けなければならない。そのためには自分は手當り次第に他人の小説を讀むことにしてゐるといふ話である。
 漱石が『猫』の最終囘と『草枕』とを書いたのは、明治卅九年の夏休みのことだつた。大學の英文科の學生の卒業論文を讀み、その口頭試問をすませたあと、漱石は七月三日に虚子にあてて「實は論文的のあたまを囘復せんためこのごろは小説を讀みはじめました。スルと奇體なものにて十分に三十秒くらゐづつなんだか漫然と感興がわいて參り候。ただ漫然とわくのだからどうせまとまらない。しかし十分に三十秒くらゐだから澤山なものに候。この漫然たるものを一々引のばして長いものにする時日と根氣があれば日本一の大文豪に候。このうちにてものになるのは百に一つくらゐに候。草花の種でも千萬粒のうち一つくらゐが生育するものに候。しかしとにかく妙な氣分になり候。小生はこれを稱して人工的インスピレーションとなづけ候……」と書いてゐる。漱石はこの習慣を死ぬまでつづけ、小説を書き出すまへには、必ずといつていいほど、誰か他人の小説を讀んで、自分の創作的氣分を刺激し、それを純粹なものにし濃厚なものにしようとした。もちろんこれはその誰かの小説を、なんらかの意味でまねをしようといふのではない。あくまで自分本位に讀むのである。從つて漱石はしまひには自分はなにを讀んでゐるのか、分らなくなることが多いと言つてゐた。
 然しなにを讀んでゐるのか分らなくなつても、自分のなかに次第に感興が横溢してきさへすれば、それで漱石の目的は達せられるのだから、少しも問題ではないのである。然し私のやうに、とかく讀むものにはまり込でしまひがちな人間にとつて、この方法がいいかわるいか、にはかにきめることはできない。これはいはば皮と肉との間を縫つてあるくやうな藝當である。讀むものに氣がはいらなければ、讀むものから刺激の受けようはない。讀むものに氣がはいれば、自分の方のことはお留守になつてしまふ。氣を入れて讀みながら、その讀んでゐる世界から拔け出るといふことは、自分で深刻な體驗をしながら、その體驗を、體驗する自分から拔けでて見下すといふことと同じである。さうさうたやすく誰にでもできることとも思へない。
 然しこれは頭の問題であるといふよりも、或ひは習慣の問題、もしくは意志の問題であるのかもしれない。(二六・三・――)





底本:「知られざる漱石」アテネ文庫、弘文堂
   1951(昭和26)年7月30日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「二回」と「二囘」、「アンドレイエフ」と「アンドレーフ」、「※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)インヒューター」と「ワインヒューター」、「一往」と「一徃」の混在は、底本通りです。
入力:富田晶子
校正:雪森
2017年1月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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