人柱築島由来

藤野古白

藤井英男訳




第一段


第一場 明石の浦


全面の平舞台、中央から左右に開いて屈曲した老松が生い茂る。その幹は人が隠れることができる程の太さで、枝の間からは海が見え隠れしている。舞台の前方には波の打ち寄せる白浜、後方には海が広がり、朦朧とした向うには淡路島の描かれた書割を置く。中天には月が懸かっている。ここは明石の浦、八月十五夜、満月の夜景である。楽曲が鳴り幕が開くと、華麗に装飾の施された屋形船が仕掛けによって上手から動いてきて、右手の松から舳先へさきを突き出してくるが、音楽が鳴り止むと同時に波打ち際で止まる。平宗盛むねもり、平経俊つねとし、侍の難波六郎が下船して登場。

宗盛 ここが明石の浦か。空は青味を帯びて広がり、月は影なく輝いている。光源氏の昔さながらの景色、磯波の音さえそれを羨んでいるかのようだ。
経俊 『はるばるいでし波の上に 風も思わず 雲も見ず』
宗盛 経俊、そなた、この冴えた月の光で恋人の顔でも照らせてみたいと思っているのだろう。
経俊 涙で月が曇るのなら、また感慨もひとしお。ここまで来ては、都も遠く、福原からも離れてしまいました。心を澄ませ月を観想していたのに、詰まらぬことを言って、驚かしくださいますな。さあさあ皆さま、船を下りましょう。浜の砂は霜のように白く、松の影は並んだ数珠のよう。珍しい形の石でもありそうではございませんか。
こう言って腰をかがめて小石を取っては投げ、取っては投げしている様子。侍の松王まつおう、大納言頼盛よりもり、および二人の侍も下船してくる。
経俊 さあ松王、落ちている珠でも拾おうではないか。
松王 (傍白)「落ちている珠を拾うとは、実にうまくおっしゃったことよ。天下の宝玉、全て平家のもとに集まるという譬えからすれば、ああ、海の底を探すのでもない限り、国土のどこに持ち主のない宝など見つけ出すことができようか。」
頼盛 海に遊ぶ物珍しさで、浮かれて繰り出してきた明石の浦。我らにとって、この地は初めての来訪。殊に今宵は明月の下、皆の集った観月会ぞ。一生に一度のことと寿命が延びたような心地さえするのう。
侍一 お供している我々も仰せられましたように。
侍二 風流でございます。
六郎 (傍白)「同じ空の月の下、山も海も谷も川も、変わりばえせぬ光と影。名所と言っても、ただ淋しいだけではないか。月見の御所で月見はせずに、海路はるばるとは、大層な事よ。月の形はどこで見たとて円いもの。ひょっとして三角形の月でも観ようと竜宮城まででも行くつもりかえ。いやはや全く興のわかぬぶらつきよ。」
宗盛 六郎、いかがした。
六郎 ハハ、幇間、惟光これみつをお呼びかな。この人気のない海辺でどなたへか恋文でもお届けか。まさか、このあたりに舞い降りた天女でも住んでおり、かねがね思いを寄せておられるとか。
経俊 松王、この小石を見てみよ。誰かの顔に似てはいないか。
橘、登場する
頼盛 おお、これはまたとない月景色。
各人、月に魅入られたような様子で、しばし間を措く。
(卯辰集) 『逢坂や おのおの月の 思い入れ』 邑姿
橘 お慕い上げますお父様、あの月が鏡なら、それにお顔が映っているはず。子のわたくしの面影を見ていただければ、きっとそのお声も聞こえてくるでしょう。ああ、想い出してはいけない。想い出してはいけない。兎餓野つがのの荘園司の一人娘、世の中に辛く悲しい事々があるのを知らなかったのは今は遠い昔のこと。ずっと昔のことになってしまいました。住み慣れたふるさとを、非道い平家に追い払われ、泣いて旅立ったあの日。でも一夜を明かすのもままならない仮の宿でさえ、父娘一緒にさえいられれば、厭いもしません。それが世の定めというものならば、つれない恋人を恨むように、昔の出来事を想い出して恨むことはいたしません。でもお父様が、このままではどうしようもないとご公儀に訴えに旅立たれたこと、ひょっとして昔のような暮しに戻ることができるかと魔でもさしたのでしょうか。私は空頼みで止めることもせず、お父様が信楽笠をかぶり、竹の杖を突いて出られるのをお見送りした時は、情けもなく喜んでおりました。今から思えば、悲哀が積もっていったのも、それへの報い。父娘が別れてから便りもなく、時は夏から秋へと移ってゆきました。風になびく薄にもどうしようもない思いが溢れます。慰めとなるものでもないかと月の照らす道をさまよって、向こうから来る面影とだけでもお会いしたく、夜ごと夜ごとに彷徨い歩きました。出かける時は空しく頼み、帰りのその辛さは霜の道を歩くよう。ああ、さぞや千鳥は待っておりましょう。
六郎 (傍白)「早速目に留まりましたな。」
宗盛 (傍白)「それ、寄ってくる鹿を驚かしてはいかんぞ。」
頼盛 名のある地には名所があるもの。この辺りの名所なら、かつて福原に住んでいた松王が知っていよう。ここにある松の名前は何と言うのだろうか。
経俊 そんなことなら松王に聞くまでもございますまい。木陰で玉石を拾うとの謂れから、「玉取りの松」と呼ばれておりまする。古歌にも『玉取りの 松の下とりどりに 持ち囃すらん 後の世までも』と歌われているではありませんか。
頼盛 ほほう、一首報いたか。では先に猶予してやった金谷きんこくの酒杯受ける罰、このことで許してやろう。
船の中から笛の音の一節が聞こえてくる。
橘 なぜか不思議な楽の音ですこと、まるで遠い夢の昔を想い出させるような。
笛の音に聞きほれて、うなじを垂れておもむろに歩み寄ってくる。
六郎 いかな者かと思えば、これは女。
宗盛 (傍白)「あの月に傾いだ額ぎわは、地上に舞い降りた嫦娥じょうがであろうか。それとも人か、女か。」
 解せぬ。我らの月見の集いを邪魔しにきたのは誰か、名を名乗れ。
橘 旅の道中にちょっとお寄りしたまで。お妨げになったとは存じませず、お咎めならば仕方ありません。元来た方へ戻ります。
六郎 おい待て、女、戻ることはならぬ。名乗ることに差し障りがあるとは。隠さず申してみよ。
船からの楽音は止み、平重衡しげひら、平業盛なりもり、侍三、四人登場。上手には、松王と頼盛、少し下がって以前の二人の侍、更に下がって経俊、他。一同ことごとく橘の前に集まってくる。
橘 では名乗れと仰せですか。
宗盛 いかにも。
六郎 その通り。
橘 その前に、どのような者かとお尋ねになっている、そちらはどのようなお方々なのですか。
経俊 (傍白)「この女、なかなか言うわい。つわものだぞ。」
六郎 そのようなこと、聞くも愚か。愚かな質問であるぞ。今の天下、なびかぬ草木もない、国土の隅々まで波も騒がぬこの治世。
経俊 (傍白)「ふむ、なら築島が崩れたのは、何とする。」
六郎 いや、天の日月の光でさえ届かぬ一隅さえないその御威勢。国に住む民でありながら、六波羅の貴き君らを知らぬとは畏れ多いぞ。
橘 されば平家の方々でございましたか。平家の君様達と承りますれば、こちらには寄せる恨みがございます。私、海士あまの子ですので、帰るほどの宿とてございませぬが、寄せるばかりの波も返らねばならぬように、わたくしもさては帰ることといたしましょう。
六郎 何と、平家の公達に恨みありとは。
侍二 やい待て、女。
侍三 このまま立ち去らすわけには、
三人 いかん。いかん。
侍一人、童子一人、船乗り一人登場し、離れた所で成り行きを見物の様子。
橘 波は恨んでは返していくものと言いますのに、わたくしは恨んでも帰していただけないとは。歌にも、『住吉の これは住み憂き世のならい 待つは辛くもなかろうかは さてや待つらん待ちくたびれて』とありますように、もう潮時にてございます。
背を向けて元来た方に帰ろうとするが、二人の侍が行く手を塞ぐ。
侍二人 行ってはならんと言ったではないか。何という不届きもの。
六郎 そもそも平家に対し、どのような恨みがあるのか。
橘 何故そんなに不審に思われるのですか。非道な掟が布かれたので、民の愁訴の声、久しく沸き起こっております。神に不平をかこつ訳のあるはずもなく、その恨みが平家に集まっているのが、今の世にてございます。
重衡 聞き捨てならない言葉をついたな。
業盛 まさか逆賊の残党ではなかろうか。
六郎 まったく逆賊の一味に違いございませぬ。ぜひにも尋問してやりましょう。
船乗りが二人、船から降りてきて登場。その一人は、松の根元に上って見下ろしている。
船乗り一 ありゃあ綺麗な姫様よ。
船乗り二 これっ
そういいながら、やや滑稽に先の船乗りを引きずり下ろす。
宗盛 六郎、少し待て。そんなことをしていては、無駄に時を費やすのみ。この女が言った今の言葉、並みの者の言葉とも思えぬ。詮議は後日この宗盛が引き受けるゆえ、今は縛って連て行け。
重衡 だが、そうは言っても、たかが女一人のことではないか。
六郎 確かに女一人、物の数ではありませぬ。引っぱって行くまでもございますまい。それでは、これにて。
宗盛 いやいや六郎、引き立てていけば、何か手がかりも出てくるやもしれぬ。女だからといって、見逃してよいはずはなかろう。ともかく者ども、女を引き立てよ。
侍二人、ハハッと言って橘の手をつかむ。
頼盛 待て待て、このような者を、我らの月見遊興の船に乗せるとはいかがなものか。松王、この者を許してやれ。
松王 これは有り難きお言葉。
松王、下手に進んでいって、侍の二人が掴む手から橘を離してやる。
宗盛 だが許して済ますというわけにもいかぬではないか。もし我らの船に相応しくないというのであれば、この辺りに別の漁師舟でもあろう。六郎、行って調べて参れ。
六郎 かしこまりました。もしやして、このような舟のことでは、
と、宗盛を木の陰に招き寄せて、何やら耳打ちすると、宗盛も納得の様子で、また元の場所に戻ってくる。六郎は、そのまま下手の松の木に身を隠す。松王は、それには意を介さないように、
松王 これ女、下賤の者が貴き方々に悪態をつくのは、いかに聖賢の世であろうと許されぬ罪、天に向かって唾を吐くようなもの。その方は女の身とはいえ、お咎めから逃れようもない罪ではあるが、月に遊ぶ船旅の終わりに、海女が狂言を吹かせておるわと、聞き流して、放免くださったのだ。有り難く思われよ。
(宗盛に向かって)こうなったからには、上様もよろしいでしょうか。
宗盛 心得た。
松王 もし何か訴えたいことがあれば、公の場に出向いて申し立てよ。正しく理の通ったことが述べられれば、聞いてもらえぬ筈はなかろう。早々に家に戻られよ。
橘、上手へ退場。
頼盛 詰まらぬものに邪魔だてされて、興も醒めてしまったわ。さて船に戻ろうか。皆も船に移られい。
船乗り、童子、侍ら皆船に上って退場。その間、重衡は松王を木陰に呼び寄せて何やら話す様子。その後、重衡も船に上って退場する。仕掛けにより、月が徐々に曇っていく。
頼盛 泡とも見える淡路島に沈む月は、角の松原辺りで眺めればどうであろう、なあ経俊。
経俊 ここが仰る松原であるようお願いしたいものでございます。寒くならぬよう、松原の落葉の上に敷物でも重ね敷いて横になれるなら、さぞかしのことでありましょう。私、もうどこからともなく眠とうなってまいりました。
頼盛 やあ方々、船に移られい。
退場する。
業盛 籠の鳥を逃がしてしもうたな。
船に上る。
経俊 『萩に濡れ行く後影 笑止や月は潮曇』
船に上る。
宗盛 『払いし露にも 跡は知るべし 後ろ吹き送る 風よ音すな』
宗盛も同様に船に上ると、舳先へさきより動き出し、水に浮かんだ屋形船、奥へと退いていく。難波六郎、しばらくして下手の立ち木の後ろから再登場。
六郎 あの兎餓野つがの荘園司の娘、さてはこの辺りに隠れ住んでいたか。こっそり後を付けて連れ戻してきましょうと、我が君をとりなして船に戻ってもらったこのうえは、ハハ、これで年来の思い、遂げることができたも同然。たとえ山奥の囲炉裏の煙い隠れ屋に身を隠そうと、あの女と身を寄せ合って暮らしていけるなら…… いやいや、侍の身は己の不運。この難波六郎、多くの侍の上に立つもの。女はふた月、果報は一生と言うではないか。荘園司の娘とはいえ、女は女。女のせいでこれまで積み上げた武士の誉れをむざむざ捨ててしまうのは、思えば思う程残念だ。たかが女一人手に入れてどうする。望みの上に望みを重ねるとは、それ、望み同士が競ってかち合って、わが心も揺れに揺れておる。出世も欲しいし、女も欲しい…… がそうもうまくは行くまい。我が君の仰せに従い、引き連れていくか。いや、ちょっと待て。連れて差し出せば、色好みの宗盛様のこと、きっと二つの残り一方も呉れてやろうなどとはおっしゃるまい。報奨欲しくないということでは、ゆめゆめないが、それなら長らく懸想した女、どこにもおりませんでしたと、嘘ついて手ぶらで帰ってゆこうか。いやいや、鳥の巣の中を覗いてくるというのとは訳が違う。ご不興の風でも吹かれては困るし、やれ舵取りはなかなか難しいわい。女を連れて逃げるにも、宝を携えているわけでもなし。この手もあの手も捨てるのは惜しい手。いずれにしても、女を引き連れいけば、かつて願いを出していた位階、女と引き換えに……という算段といたそうか。よし、後追うことと決めた。
松王 こんな鄙びた地の女にまで平家に対し恨み事があるとは。ああ、富貴も栄華も、これほどまでに当てにならぬものか。平家の公達を目の前にして、か弱い女が言い放った言葉のあれこれ、まことに正しい申し立てではあっても、その訴えが通らないのが今の世。しかも、それを諫める人もない有様。それに引き換え、畏れ動じることもなく並々ならぬあの振る舞い、それが災いの種を蒔いてしまうとは、神ならぬ人にいかに知りえたであろうか。あの女が戻っていく後を追いかけて、その家を見届けて来いと重衡様は私にお申しつけになったが、後日ご報告せよとのことであろう。たかが女一人のことなのに、壁に耳ありの世の中のこと、平家についての陰口一つをお咎めをなさるとは…… ああ平家でない者には、行きつくところ、山奥にでも追い詰められていくしかないのであろう。ああ無残、ああ世も末。思わず聞こえてくるあの虫の音も、平家への恨み言であろうか。浮かび見えてくるのは、網で取り巻かれた魚が泳ぎ逃げまわるかのような様子。重衡様のお指図で来るには来たが、松の陰に隠れて六郎を見張っておれば、運命の手は思いもかけず、もうそこまで迫ってきているようだ。救ってやることは最早できぬか。ああ先の事は分からぬが、どうなることか。

第二場 明石郊外の橘の隠れ家


舞台の正面の適当な場所に竹の網戸の片折り戸が設けられ、その上下は、竹の生垣で囲む。折戸の奥には黒く煤けたような藁葺の家があり、その竹ふすまは何か気味悪く、生垣の外に雑草が生い茂っている。橘と侍女の千鳥は、この郊外の一軒家に隠れ住んでいる。やや下手の荒涼とした景色には、薄曇りの月が浮かんでいる。橘、登場する。

橘 これ千鳥、いま帰りました。
戸を叩くと片折り戸が自然に開く。橘、中に入って竹ふすまのあたりに腰かける。
橘 ひょっとして、私の帰りが余りに遅いので、心配で捜しにでも出たのだろうか。月が曇れば、心も曇ろうというもの。これまで隅々晴れていた空だったのに、何故いずれからともなく雲が集まってくるのだろうか。心の空も、何時とはなく心細くて苦しい。千鳥には、知らぬ人とは口をきいてはなりませぬと、かねて戒められておったのに、平家と聞いて我を忘れて詰まらぬ言葉をつい出してしもうた。それであんな辱めを受けて、知らず時を費やしてしもうたか、あるいは、ここで待ちわび、迎えに出ていったか。迎えに出たのなら、ああ、そこにお父様が来ていてくだされ。こんなところでさえ、今となっては住みづらい世の中となってしまいました。平家の影のささぬ国があるならば、そこまで逃げ出し、親子水入らずの暮らしをしたや。ここで侘しく待っておれば、ああ、千鳥も今に帰ってくるだろうか。
上手から松王が、下手より六郎が登場。左右の竹垣の外に佇む。
橘 あれ、また雲が晴れてきたよう。そこにいるのは千鳥ではないの。
六郎 南無三、見つかったか。明石の月に映る何と美しい顔だち。ああ橘、この難波六郎ともあろう武士が、今宵そなたのために先祖伝来の弓矢を捨てるのだ。巡り会うとは、奇しき縁。驚きこらえて、心して我が言葉を聴け。思い出だせば辛いこと。いつのことであったか、そなたの故郷の闘鶏野つげのの辺り、春の弥生の桜狩りに行った折。あたりに人は居らず、宿は古びて、蜘蛛の巣掻き分け掻き分け垣根から覗いたそなたの顔は、忘れることもできぬ。その後、そなたの行方を失って、誰か悪党にでもさらわれて行ってしまったかと、悔しく夢にまで見て悶々としておったところ、今宵の月見で何という事、御仏のお導きか。月に映える玉のようなそのかんばせで御身と分かった。先ほど御身がお咎めもなく易々と帰ることができたのは、主君を欺いてやったこの六郎のはたらきによるぞ。その時、もし拙者がその方に辛く当たるように見えたとしたら、怪しまれぬように謀ったまでのこと。悪く思うでないぞ。悪人ばらの平家の奴らは皆、船に戻った。その後、ひそかに身を隠し、御身の後をつけ、そなたに追い付こうとしたこの気持ちを察せよ。こうなったのも、何かの因縁。もう金輪際、平家とは会うことはせぬ。これまでの身上は、罪受けて捨て去ってしもうても惜しゅうない。巡り会った嬉しさが、これほどとは思わってもおらなんだ。そして、今更見れば湧き上がるこの恋慕。ああ、もう何もかも捨てた。さあ、この六郎の心に報いて一言でよいから愛おしいと言ってくれ。
橘 嫌よ、聞きたくもありませぬ。どうして千鳥の帰りがこんなに遅いの。
六郎 何、男の帰りが遅いと。ならば、ここに長居は無用。ああ、ではこれほどの恋心、嬉しいとは思わぬのか。真の情けを知る侍とは、拙者の事。我につれなくすると、悔やむことになるぞ。おお、見れば見るほど可愛いお前。あらためて色よい返事を、さあ。
橘 情けを知る武士なら、人を脅すようなことはしないはず。
六郎 ぐずぐず言うな。鶏を狐に盗られぬようにするには、ねぐらに追い込むのがその手だて。こんなことをしていては危ない、危ない。夜が明けぬうちに逃げていくうちには、やがて少しは情を掛けてくれるだろう。これほど間近でお前に接するのはこれが初めて。恨みつらみは、ともかく少し逃げてから。さあ、背中に負ってやろうか、かき抱いてやろうか。
松王 (傍白)「もう耐えられぬ。どう助けてやればよいのか。」
橘 ああ、誰か。
六郎 もうお前は拙者のもの。おい、声を立てるな。お前のせいで、拙者は禄も捨てたのだぞ。
と、橘を腕に掻き抱き、左手で橘の口を塞ぎ、折戸から外に出る。下手から千鳥が大慌ての様子で登場。
千鳥 これ曲者、わが姫に何をする。
懐剣を抜いて切りつける。六郎、橘から手を外し、左手で橘を押さえつけながら、刀を抜いて寄ってくる千鳥の肩先を切りつける。さらに刀を振りかざしたところで、松王が後ろから寄ってきて腕をつかむ。千鳥、その隙に下から六郎のわき腹を刺す。
六郎 どいつだ。
六郎、倒れる。
松王 (傍白)「六波羅の侍にしては、無残な最期。ともあれ、報いからは逃げられぬもの。ただ、死んでも哀れと言ってくれる人がおらぬのは、それにも増して哀れに違いない。哀れ、死に行くその眼には、栄華も出世も幻と消えてゆきつつあろう。」
橘 ああ千鳥、お前の肩から血が出ています。可哀想に、どうしたらいいの。
松王 嘆くことはない、重い傷ではない。だが、自分の手にかけて殺さず、この人に傷を負わせることになったのは私の過ち、許されよ。ここに薬の用意がある。血を拭きこの薬をつければ、間もなく治ることであろう。
橘、松王から印籠を受け取って千鳥をかいがいしく介抱する。
松王 刀傷の痛みは、薬ですぐ良くなるだろうが、平家よりのお咎めの方をどうしたものか。それから救ってやることは、我が力の及ぶところではない。この六郎がここへ忍んできたのは、私の仕組んだことではないが、ひそかに平家の公達の内意に事掛けて、自らの恋慕からお前を連れて行こうという下心であったようだ。ただ、いったん平家から疑いを掛けられれば、逃げることが難しいのが今の世の中。こうなっては、この辺りにいては、低い所にて波を待つようなもの。危ない事この上ない。ぐずぐずしている暇はないぞ。そなたの付き人の痛みが引いたら明日にでもこの地を立ち去り、西方の鄙の地にでも落ちていくがよい。同じ木陰に雨宿りでもしたように、我らがこの場に居合わすことになったのも多生の縁。もし私が諸国巡りの修行僧にでもなったなら、またいつかそなたにお目に掛かることもあるかもしれん。今はこれまで、さらばじゃ。
橘 ああ、お待ちくだされ。先ほどから浜辺におられたお方様、もしかして、わたくしを恋い慕ってきてくだされたのですか。
松王 恋して後を追いかけたのか、追いかけてきて恋心が芽生えたのか。いや、いずれにせよ一刻も早くここを立ち去れというのは、我が真の心から出た言葉なのだ。
 (傍白)「このような離別の際に恋どうこうは言わぬもの。」
橘 ではあなた様のお名前は。
松王 名乗るほどの名のある身ではなし、取り立てて言うほどの者とは思われるな。
橘 平家に加担している方とはお見受けいたしませんのに、聞きたい名前を告げてくださらぬというのは。
松王 聞かないことだ。『重ねて時も有明の』
橘 『はや島隠れ 落つる月』
松王 (傍白)「尽きない名残りは留め置いて、またいずれの空の下で、相まみえようか。主命は重い。」
橘 ここでお見捨てになるのですか。
松王 罰は重かろう。早々にこの家を捨てて、遠くに落ちのびよ。さらば。
 (傍白)「思わぬところに訪ね来て、ひとのあはれを見た心地の結末は、」
橘 (傍白)「思えば辛く悲しいこの身の上の、行きつく果ては、」
松王、橘 (傍白)「行方も知らぬこの夜明け。」
お互い別れを見送る。月が落ちてゆき、回り舞台が回る。

第三場 船観浜、浦の御所(福原)


舞台の何間分には高足のひな壇が二段据えられており、正面中央には段差を設け、その上下共に朱塗りの欄干が続いて取り付けられている。背後の左右は、絵襖で仕切られており、それらには色紙形に和歌の画賛などの描かれた金襖となっている。下手の端には大きな鳥籠があって鶴が飼われている。太政入道浄海、清盛の福原屋敷の一角、浦の御所の一部屋である。ここで、浄海は侍女の数名と退屈しのぎに貝合をして遊んでいる。舞台下手では、侍女が二人、二羽の鶴に餌をやっている。回り舞台が止まる。侍女の一人が段差の下で、

侍女 小松の大臣様がお出でになられました。
侍女が退場し、重盛が登場。
浄海 これは思いがけずの下向、何事か。我が孫たちが他所の子供らと喧嘩でもいたしたか。
重盛 最近はご無沙汰しており、ご対面もできずにおりましたが、お変りもないご様子、大変悦ばしく存じあげます。
浄海 その方も変わったことはないか。
重盛 はい、変わりございません。
浄海 庭の池の水嵩は減ってきたか。濁ってしまった水は澄んできたか。
重盛 ようやく澄んできたようにてございます。
浄海 そちらの南庭の桜の木は殆ど折れて幹だけになってしまったとか。惜しい事をしたが、かなりの老木であったから仕方なかろう。今度は、吉野の山から若木は残して、山の様を模すようこちらに植え替えれば、春には雲の上に居住まいしているような眺めとなって、一段の景色であろうな。
重盛 まことに烈しい嵐が吹き、あれほど力を尽くして築いた築島が、いま通りすがりに眺めてみれば想い出させるもの何も残さず、跡かたもなくなくなっておりました。桜どころではない、この上ない惜しい事でございましたが、過ぎてしまった事は取り返しは付きません。戒めるべきはこれからのこと。人が申しますには、今度、田口の成良しげよしに阿波民部大輔たいふを仰せつけられ、再度ご造営をお命じになったとか。それは、まことでございますか。
浄海 またいつもの談判か。そのようなことを言うため、わざわざ下向してきたか。まあ聞いてやる。
重盛 おっしゃる通りご進言申すため下向してきた我が心、お父上お計りくださいませ。
浄海 要らぬ気遣いをする者よ。思っても見よ、武士が弓に矢をつがえた時、当たるか外すか迷いが胸中を往来するようならば、放った矢が的に当るためしは無いぞ。短い人の一生をそんな取り越し苦労をして更に短くするのは、天命に背く罪とも言うべきじゃ。その機に臨んで、不要な気遣いをするかしないか、それこそ戦の勝ち負けの分かれ目、一国存亡興廃の分かれ目と知るがよい。それそなたの性分とは言え、要らぬ気遣いせずに済むものを、悶々と自分の心を痛めつけ、自らの寿命を短くするのは孝行の道にも反することぞ。そんな心遣いは無用、無用。
重盛 かく仰せのとおり、思いつかれたことを、一途にお思い込みになるのは承知いたしてはおりますが、
浄海 何、この浄海入道、思いを巡らして考えることのできない猪のごとき者とでも思っておるのか。そのような思いこそ、要らぬ気遣いの心から出た要らぬ気遣いというもの。思っても見るがよい。かつてこの入道が、一度たりとも思い立ったことを、成就させなかったことなどあったか。計画したことが実現できなかったことなど、今だかつてあったか。皇子に生まれ、先祖からのこの家を昔通りに盛り立てたのは誰の力と思うのか。いかに仏のご加護があろうとも、この入道の働き無くしては何も叶わなかったのじゃ。とは言え、折角下向してくれたことに免じ、一通りの事は聞いてやろう。とくと申してみよ。
重盛 有り難き仰せ。皆のもの、しばらくこの場を外してはくれまいか。
侍女たち、後ろの襖を開いて退く。庭にいる者たちは上手に入る。
重盛 さて、これまで二度、築島造営をされたことがございました。去る承安元年には、深く考えることもせず一時の出費と思い、ひとえに将来の利益になると考えて、却って不覚にもお勧めいたしましたが、その翌年、八月二日の台風により、潮水の氾濫にて築島は、残念この上なく元の青海原に没してしまいました。しかしながら、もとより人の企ては天には及ばぬことと、それ以上は断念していただけたと思っておりましたところ、今年に入り、再び築島ご造営を始められ、五月になって半ば完成していたところ、この度の嵐により、以前のような不首尾を繰り返すに至りました。この春のお心変わり、前の六月むつき、後の五月いつつきの民の苦労や諸国の難儀を痛ましくはお思いにならなかったのですか。憐れむお心はお有りにならなかったのですか。仁徳を施すお心はお持ち合わせにならなかったのですか。この春、既に言葉を尽くしてお諫め申し上げました際には、民の難儀を思うならば、一時の造営で費やす費用と、築島が出来ずに今後の年月に積もるべき船人や旅人が失うものを比べた時、いずれが勝るかを比べてみよとのお言葉でした。また、六月で出来上がるものが一年かかったと思えばよいではないかともおっしゃられました。このような事、今となりましては当時無理にでもお止め申し上げればよかったと、たいそう悔しく思ったことはご存じではあられますまい。あれ程民の力を尽くし、国の宝を費やして末代までもとその堅固さを誇った築島でも、扇をあおげば起こる風、そんな風も積りに積もって嵐となり、それに煽られた荒波は、幾多の日々、幾多の積み石を重ねたあの島を、一夜で礎もろとも崩し去りました。これは昨年の天の予兆に続き、今回再度面前に起こった天の罰に違いございません。陸に建てた金城鉄壁でさえ、そこに居る人間に仁がなければ、荒れ果てた原野となってしまうもの。ましてやこれは海の中に築くものでございます。昼と言わず、夜と言わず、白波が止まず打ち続くことゆえ、奈落の底から築き上げたものでもない限り、たとえ三度目の築島をしたところで、その島がいかに堅固に作られたものでありましょうと、そして、年毎に来る台風を防ぐことができたとしても、せいぜい三、四年の間、形をとどめえるのみと申せましょう。一年の造営で失う財貨は、十年、二十年間築島があることによって得られる利得によって償いうるものではありません。もし民の嘆きを生まないのであれば、毎年毎年、築島一つ築いても結構でございますが、幾万もの民の辛苦、国の財宝を海の底に投げ捨ててしまわれるのはいかがかと。聖賢は過ちを二度繰り返さないと申しますが、もう既に二度の失敗をしております。その上、更に失敗を重ねるというのでしょうか。ただただ、ご政道ひとえに正しく、恩沢が広く及びますれば、四海の波、自ずから静まり、天下万民の喜びも長くこの上ないものとなるでしょう。すぐさまご決断を翻し、再度の築島造営をお止めくださりますれば、それこの重盛一人の喜びに留まるものではございません。ぜひぜひこの私の言葉を尽してのお願い、お聞き入れくだされ、お父上。
浄海 入道ともあろうもの、自然の運気や突然の災厄の事など、知らぬことでも驚くことでもない。九年の洪水、七年の旱魃といえど、聖王が手をこまねいて傍観するなどとは聞いたことがない。それに年に一度は来るあの程度の嵐で崩れ去ってしまったのなら、あの築島の造り自体が良くなかったために違いない。建築の技に従って作られていなかったのであれば、築島が崩れてしまったのも理の当然。崩れるべきものを造って、懸命に堅固であることを祈願する愚がどこにある。造った当初が堅固であっても、一、二度崩れたからといって、そのまま放って置くくらいなら、島を築くのが一生の大事業などとは、さらさら思うでないぞ。もしその程度に思うのであれば、よいか、お前の子供達は生涯、もう殿中での交際さえできなくなってしまうと思え。また、天下万民の苦しみなどとは、できすぎた言葉。波に打たれて消えてしまうような島を築いただけでも、天下の民達は舌を巻いて驚いておるのだ。そのような蛆虫ども、再び築き上げれば、この入道を鬼神のように囃し立てることであろう。肝玉のなきこの世の中で、この入道を一世の笑いものとするのか。家門の威徳を末代まで貶めるようなものではないか。さらに言えば、この島のもたらす利益は世代にわたる交通の利便だけにとどまるものではないぞ。そもそも民の上に立ち、天下に号令をかける者にとって、船の集散を自由に采配できる港を持たぬなら、何事もできぬではないか。天下万世の繁栄のためばかりの、この入道とでも思っておるのか。もう諌めごとは無用じゃ。
重盛 そのようには仰いますが、築島造営のこと、わが国の昔から例のないことでございます。人の力には限度というものがあり、人の造るものは、謂わば蟻塚のようなものではございませんか。ただ人間の目には、それらの大小が映るだけのことでございましょう。だからこそ、これまで一度ならずも民の労苦、国の財を水の泡に帰させてしまったこと、いよいよ惜しいことは思われぬのですか。惜しいと思えばこそ、それは痛ましいこと。民が痛ましいからこそ、財宝も惜しまねばなりませぬ。どうしてこの春の再建をどうしてお止めしなかったのか、その悔しさが忘れられない日々を過ごしていたその上に、来年もまた台風の来る恐れあるにも関わらず、私の言葉をお聞き入れくださらぬとは何とも嘆かわしい。
浄海 完成間際の労さえいとわなければ、山を海に移すことさえ難しいことではないぞ。また、すでに二度の工事の基礎があるからには、その上に重ね上げするだけのことではないか。たとえ来年の台風でこの島が崩れてしまったとしても、四度目の築島は更に容易く、いよいよ強固なものとなるであろう。もう既に何度も築島を試みたからには、工事の利便を得ることもいろいろ多いはず。それ程仰々しく考えねばならぬ訳が分からぬ。後世のあざけりを思わぬのか。蟻が築くのは単なる蟻塚だが、築島はそんなものに遠く及ばぬものではないか。十年先を観る眼があるならば、そのような異議は出てこないであろうに。
重盛 もうそこまで思い込まれておられるのですか。しかしこの前の島が嵐で崩れて以来、まだ半月も経ってもおらず、天下の民はあの島が崩れたというのを聞き、もう人の力が及ぶものではなかったのだと、眉をひそめている昨今、もし時機を計ることもなく、直ちに再度の造営をお命じになりますれば、天下人心の赴くところに背くこととなり、世間の非難や、民の苦難もいかばかりとなるでございましょう。そうなってしまえば、いきおい工事もはかばかしくなくなってしまうでしょうし、その時になってお悔やみになられることとなるのを恐れます。願わくば、しばらくこの工事の事は延期くださり、まずは諸国を興すよう御仁政にお励みくださり、急がず時機を待ってくださいますよう、この重盛、何とぞ曲げてお頼み申しあげます。
浄海 愚かなことを申すな。諸国を興すのであれば、一日も早く築島を完成させるに限るではないか。言うだけ無駄、聞く耳など持たぬわ。海に一つ島を造るくらいのこと、これまですること為すことに成功してきたこの入道を知らぬのか。
重盛 ああ、それではやむを得ません。こうなっては、改めてもう一つだけお願いがございます。以前の民部大輔、重能しげよしのことでございますが、先の築島崩壊の際の奉行であったがため、お咎めを受けたとのこと。しかし、それはそれ、これはこれ、あの者のせいであの厳しい嵐が来たわけではなく、天の怒りで起こったことなのですから、それに罪を負わせるのは酷でございます。どうか彼の罪を許し、元通り所領安堵してやっていただきますよう、ぜひともお頼み申しあげます。
浄海 何を申す。この入道の怒りは、天の怒り。許すこと、ままならぬ。
重盛 こうして下向いたしましたのに、願うところ一つも叶えられず帰っていかねばならぬのは、いかにも無念。それを汲んでいただき、この件だけはぜひともお願いしたく存じ上げます。
浄海 お前の切なる願いに感じ入り許してやろうと言いたいところではあるが、何の貢献もない奴に、何故取り上げたものをわざわざ返してやらねばならぬのだ。その場しのぎに慈悲を与えてやるのは、かえって法を乱すもと。もしそれ程その男に憐れみを掛けてやりたいのであれば、そのようなことで、その男に功績を立てさせることはしてはならぬ。このようなことは、この入道がいつも口癖のように言っていること。もうあれこれ言うのにも飽きたが、さだめしお前も聞き疲れてきたころであろう。ともかくも、平家を創始したこの入道の、その一代でやりたいことがことごとく成就されるならば、子々孫々まで永く平家の世となることであろう。まずそれまでは、この入道のすることに何事も異を唱えてはならぬ。これ、女どもはおらぬか。
以前の侍女達、戻ってくる。
侍女 二日、三日とご滞在なさりませんか。昨日は我ら侍女らが近辺でたくさんの魚を釣ってまいりました。
侍女一 鯛ではございませんことよ。
侍女二 鯉ではございませんことよ。
侍女三 はまちでございます。
侍女と松風 あれあれ、それには釣針が喉に引っかかっておりますようで。
浄海 おお、そうか、そうか。
侍女達 おお、そうです、そうです。
と、軽く手を打ちたたく。
重盛 この頃は何かにつけて心がはやりますゆえ、今日は早々においとまさせていただきます。
浄海 それはまことに忙しいことよ。我らも五日もすれば、上京いたす。何事も深く考えすぎることは要らぬぞ。ほれ松風、久々に来たものに何も持たせず帰すのもどうか。最近手に入れたあの丹頂鶴、この小松殿に取らせてやれ。
重盛 もうお邪魔いたします。
浄海 色々なことに気遣いするな。もうそろそろ狩にもよい季節。孫達に怪我をさせてはならぬぞ。
重盛 では、お父上。
浄海 もう行くか。
重盛 (傍白)「畜生とはいえ、気楽げに歩くものよ。それに引き替え、憐れ人間、憂いを抱いて生きてゆかねばならぬのが霊的たる所以なのか。」
松風が鶴を追いかけて下手に行く。後ろから退場。
浄海 こんなことで興も醒めてしもうたわ。おおそうだ、忘れておった。誰かおるか、松王をここに呼べ。
侍女 かしこまりました。
侍女退場する。下手の襖が開いて、宗盛、経俊、侍の盛国、同じく妹尾三郎、登場する。
盛国 評議つかまつりました。
浄海 で、どう評定いたしたか。
盛国 築島を再度ご造営なされることにつき、陰陽師が申しますには、人柱を召し取るとよいとのことでございます。
宗盛 ただ周りにおる誰かを指して人選するのは、あまりに情けが無いように思えます。
経俊 しかも、面白い方略とも言えませぬ。
盛国 かくなる上は、別の方策がございます。生田の小野の辺りに新しく関所を設け、そこを通る旅人より選ぶこととすれば、誰と言わず幾千、幾万もの中から一人を得ることができるという企てにてございます。
浄海 おお、それこそ我らの思う壷ではないか。盛国、上出来のはかりごとじゃ。嵐の波浪は天のもたらす災いであるが、国土衆生の生むごうが積もって民衆の気掛りとなったせいで、折角の入道の徳行も水泡に帰してしまったのだ。なれば、犠牲とすべき人身を民の間より探すのは元来の理に適う。この度の築島は、この入道の慈悲の心により、往来の船々、末代にまで風雨の難儀を無くしてやろうというもの。ならばその手始めに海龍王をなだめるため人柱を立てるのであれば、旅人のなかから選ぶ以外に、どのような方法があろうか。これしきのこと我が知らぬところではないのだが、試みに評議に掛けてみたのよ。だが、盛国の思いついたこの企て、全くもって良くできておる。生田の小野に関所を設けること、直ちに取り計らえ。関所の官吏は、妹尾三郎、そなたに申し付ける。
三郎 有り難く心得ました。では畏れながら、人柱としてはどのような者がよろしいか。
盛国 それについては、既に承っておるので、ただ今そちにお聞かせくださる。
経俊 まずは男子でなければならぬと心得よ。
浄海 老人を背負っている者は適せぬぞ。また法要に出るための者も許してやれ。
宗盛 容姿があまりに酷いものも相ならぬ。
経俊 (傍白)「これはこれは、なかなか品定めを始めることはできぬな。」
侍女登場。
侍女 お次の方が控えておられます。
三郎 ならば早々に向かいます。
浄海 急いでやり遂げるのだぞ。
三郎 ははっ。
と答え、盛国と共に退場する。
経俊 我らもあちらにおいて品定めでもいたそうか。
宗盛を誘って二人退場する。
浄海 ではまた遊びなどいたすゆえ、先に東屋に行って用意をいたしておけ。
侍女数人退場する。
浄海 さあ松王、ここに参れ。
松王登場
松王 いつも変わらぬご様子、恐悦に存じます。
浄海 最近会っておらぬが、見るたびに男ぶりが上がるのう。さてさて、先達て池の大納言どもが船で観月に出かけたとのこと、そなたもお供いたしたであろうな。
松王 仰せの通りでございます。月の輝き、どこまでも遠く照らしておりまして、今も心に思い浮かべれば、眼を射られるかの如き気持ちがいたします。
浄海 してその夜、明石の浦にて美しき娘に出会ったであろう。
松王 その海女の囀りのこと、もう既に我が君のお耳にも入っておりましたか。
浄海 重衡が申し付けて、そなたに後を付けさせたと彼より聞いたが、いかがであった。
松王 たしかに忍んで後をつけてまいりました。松王ごときには相応しくないご命令ではありましたが、月影を通して姿を辿ってまいりました。
浄海 で住まいは探り当てたか。
松王 はい。
浄海 どのような住まいであったか。
松王 月の光のもととはいえ、むさくるしそうな家と見えました。さすがに人の住んでいる気配はありましたが、一家揃って暮らしておるような雰囲気はございませんでした。軒端も傾き、海士小屋らしく、はっきりした標識もなく、竹垣には去年の枯れ葉もそのままで、雑草がぼうぼうと茂り放題。まるで荒れ果てた民家のようでございました。
浄海 なるほど、荒れ果てた棲家のようであったか。で、その女は長年その家に住んでいたようか。
松王 その里の童子が申しますには、長らく住んでいるとのことでございました。
浄海 他所より移り住んできたとは申しておらなんだか。
松王 そうだとのことでございました。
浄海 さもありなん。鶴は他の鳥とは群れぬという。きっと嘗ては女房衣に身を包んでおったのであろう訳ある女、それが平家に対して無頼な振る舞いとはのう。そなたに相応しい役目ではなかろうが、他の者の手には負えまい。今一度行って、その者密かに連れてまいれ。女一人のことゆえ、大袈裟にしてはならぬし、度を越した怪我をさせてもならぬ。また、このことは口外無用じゃ。
松王 畏まりました。たかが女一人、召し取ってはまいりますが、未だどう手を付けてよいか見当のつかないご用事。ただ、これもご奉公。そういたしましたら我が君。
浄海 急いで行って、早く帰ってくるのだぞ。
松王 早く帰れとの仰せを負いまして、では我が君、行ってまいります。
松王退場する。
浄海 (傍白)「青く柔らかい棘持つ薔薇、その奥ゆかしさの香る女に違いあるまい。」
思い込んだように欄干のそばに立ち、じっと前を見晴らしながら、
浄海 あの海原の動かぬ海面は、平たくも潮を湛えている。平家に妬み持つ者ら、築島消えし折、一度、二度と心中密かに平家を嘲って気を晴らしたろうか。一度、二度と壊れたあの島は、並みの手立てでは完成すまい。一度、二度と一旦は完成したものなら、三度目に完成しないわけなどあろうか。三度三度、この心に裏に聞こえてくる声がある。三度三度、この企て成就すること間違い無しと囁いてくる。見よ、見よ、天の下にあって目を挙げて見よ。わだつみの神もご照覧あれ。末代まで揺らぎ無きこの入道の一世の威厳を示すもの、あの海面の上に現せてやろう。藤原を祖先と名乗る奈良や叡山の俗僧ども、仏神の加護ある平家の威光、眼前に顕して思い知らせてやる。
浄海と侍女退場する。

第二段


第一場 福原の郊外


全面の平舞台、正面の適当なところに一本松が立っている。四方の遠景の書割など、どれも福原から京への街道筋から少し外れたような景色で、福原郊外の様子を見せている。下手には、重盛の従者の数人。その一人は、鞍を置いた馬の口を取っており、他の二人は鶴を入れた籠を二つを護って、畏まって控えている。それから少し隔てて上手の松の陰には重盛が床几に腰かけて松王と対談している様子で、幕が開く。

松王 あの女人のこと、何かの禍が我々に振り掛かるとは露ほど思えませんでしたが。
重盛 咎めるべきかどうかは、そなたが申す通りとは思うのだが、父上が一度こう思ったら、しかも既に召し取って連れて来いとまでおっしゃったのなら、私にもそれを止める力はない。無慈悲な扱いと恨まないでくれ。人から何かを頼まれて、その頼みを果たせなかった時は、力足らずで仕方ないことだが、頼んだ方が頼まれた方に恨みを持つのは人情の常。そのような恨みが積もったこの重盛の行き末、どのようなものか。思えば平家に恨みがあると、あの海士の娘の申したことは、我が胸にも突き刺さる。
松王 勿体なきお言葉。『漏らぬ陰とて立ち寄れば 却って袖を潤す雫』 この松王、重盛様のお後を慕って、これまでお仕えしてまいりましたが、本日畏れ多くも御行脚の邪魔をいたしましたのは、長年のご恩にお報いすることもできないまま、最後の暇乞いを申し上げるためでございます。
重盛 何、最後の暇乞いとな。
松王 と申しますのも、これまで与り知らぬこの度のご命令、心引き締めて承りましたが、人それぞれには、自らが立てた命というものがあり、たとえ平家の主様でありましても、他人が心のままにどうにでもできるというものではございません。たとえ容易くあの女を召し取ったとしましても、女が自ら立てた命を果たそうとするならば、自分の頭を岩に打ち付けて砕いてしまうようなことをいたさぬとも限りません。過ぎた怪我をさせてはならぬとの仰せではありますが、そのようなことにでもなれば、武士の面目は立たず、再び御前に出させていただくことはできませぬ。またそのような事にはならなくとも、主のお言いつけを守れぬとなりましたら、どうしてまた皆様とお付き合いさせていただけるでしょうか。松王、最後の暇乞いでございます。
重盛 それこそ要らぬ気遣いというもの。どうなろうとそれが天命ではあるが、誠の心は天に通じることもあろう。もしその者が召し捕らえられたとしても、ただその女一人のこと。もしそのようなことになっても、その者の命は誓って助けてやるゆえ、安心して行ってまいれ。
松王 ああ、有り難き仰せ。もしそういうことでございましたら、安心して行ってまいりましょう。お邪魔をいたして時間をお取りしましたこと、その過ち、お詫び申し上げます。
重盛 過ちなどと言うでない。人を救おうという類稀なる志。ああ、聖人も野に飢えるという譬えはあるが、志まことに行い難きもの。この重盛の愚昧とは比べることもできぬ。我、御殿の貴人の列に連なりながら、民の苦しみを知りつつ徒に手をこまねいて、天地の恥を知りつつ生き長らえている。これもまた天命か。さて者ども、馬を牽け。
従者達 ははっ。
従者一 ほおれ、お前の襟の陽当たりに毛虫が出てきたぞ。
従者二 うっ。
首をすくめて笑いをもらす。馬が引き連れてこられると、重盛はこれに跨って、黙然としている松王を振り返り、
重盛 松王、さらばじゃ。
松王 長き道中、お達者で。
重盛とお供のものが退場するのを見送りつつ、
松王 このようなわたくし風情が申すことにも、あれ程親身に聞いてくださるとは。平家のお家にも、このような君がおられるのなら、これからも永くご奉公しがいもあるし、まだまだ捨てた世の中でもなかろう。とは言いながら、決してこの話、人に漏らすなとの主君の戒め、今ここでそれを破った罪で、我はもう既に一歩、世に後ろめたい。ああ、これよりどのようにすべきだろうか。あの夜、見捨てるように出た帰り道は、なぜか蝶がかもして仙人より差し出された菊の酒に酔いしれたような夢心地であった。行く手に立ち込める濃い朝霧を通って行った後、あの面影の女の袖を引く手を振りほどいて帰ってしまったのは、そもそも主命に背かぬがためであった。今は、山路に露を結んで咲いた菊の花と、千年の時を過ごしてきたような心地さえする。帰るべきか帰らざるべきか。あの女をまた召し捕って来いとの主君の命は、思いもかけぬまさかの仰せ。涙に濡れたこの袖に降りかかった身の置き所はどこにもない。これはいかなる因果か。ご命令一途に従って、あの女を引き連れていけば、誓ってその場で命を助けてやるとの小松殿のお言葉、我が耳に聞かすよりは、平家に恨みあるあの女に聞かせてやりたい。
ああ、恋か。もし恋ならば忠義に代えもしよう。ただ命助けてやりたいとは思っても、連れ帰ってしまえば、六郎が死んだとは知らぬ宗盛様は、彼の帰りが遅いのを待ちかねて、どうなったのかと気色ばまれるに相違ない。そして、平家を恨むいきさつあるあの女のことゆえ、むざむざ従順に振る舞うこともなく、人知れず命を取られてしまうのに違いない。ああ、だがもし何かの拍子でうまく運べば、命が助かるだけでなく、却って思わぬ幸いとなるかもしれぬ。いやいや、思わぬ運などに頼んではいけない。栄華は果敢なく愚かなもの。そんなことを気に留めてどうする。もう女の住まいはもぬけの殻で、仕方なく帰ってまいりましたと罪を負い、暫くの間、身を引くまでか。ともかくも大臣のお立場にも関わらず先のお言葉、この世はまだ捨てたものではないかもしれぬ。

第二場 明石の里の橘の家


舞台道具や配置は前段第二場に同じ。竹ふすまの障子一枚は開け放たれており、別の一枚は閉まっている。奥の間には唐櫃を置き、その横に小太刀を置く。もし強いて前段との対照を示すならば、室内の様子や左右の書割などについて昼夜の別の雰囲気を出すよう工夫すること。橘、折戸の外に寄り添いながら手紙を読んでいる様子、あるいは手紙を読みながら折戸にもたれかかる様子。

橘 (読む)「もう我が命の最期も近いようだ。この病ではもう助かることもあるまい。訴えごとについては、もう叶うこともあるまいが、そなたを置き去りにしたままでは、空中を漂ってでも戻って行こうと思う気持ちが湧いてくるのも死期が近いからであろう。もし、そなたにもう一度ひとたびも会えずに死んでしまったらと、狂おしく思っておるゆえ、どうか顔を見せに来ておくれ。千鳥をお供にして早く来られよ。もしお前が来てくれて、熱を帯びた体の汗を拭ってくれさえすれば、我が心の曇りも晴れて無事西方浄土へ旅立てるであろう。愛しい我が娘、橘へ」
 ああ、お父様の筆跡が水草のように乱れて見えるのは、目まいのせいか。たった二人の親と子が、こんな形でお別れせねばならぬとは、どういうことですか。そうは言っても、もうこちらには帰ってこられぬお父様、どうか死んでくださいますな。どんな道かは知りませぬが、死出の旅路をずっと私がお供いたします。野を行って、山を行って、どこまでも行く野山の空の下、ずっと私をお連れくださいませ。どうかかしらもたげて橘が着くのを待っていてくださいませ。ああ、ここでただ時が過ぎていくのを待っているのは、自ら行く道を遮ってしまうようなもの。こんなことはしておられぬ。哀れ千鳥、あの傷は痛まぬと言っていたのは、私を心配させないよう取り繕っていたからであろう。あの容態では連れて行くこともできまいが、おれば来ずにはおられまい。ああ、何年にもわたるお前の献身、言ってやるべき言葉もありません。わが身はこれより帰路のない旅路。私は我が父上とまいりますから、これでお前とは今生の別れ。残念だけど、もうこれから私の事で世話を掛けないことだけが、お前へのせめてもの償い。
千鳥 平家の追っ手が今にも来るかと横になっていても気が気ではなかったが、気付かぬうちに眠ってしまったか。まざまざと夢に見たものは、
と、千鳥が障子の後ろで独り言。橘が障子を開くと、千鳥は床の上で枕にもたれている。
千鳥、竹ふすまに寄ってくる橘を見て、千鳥 お姫様、何と悲しい目をなさっておられるのか。
橘 ああ千鳥、何と言いました。
千鳥 今にもやってくる平家の追っ手、恐ろしくも怖くもあり、たとえこの世が嫌だなどとお思いになられたとしても、お父様にお目にかからなくて、いかがなさいます。でも、この家に留まっておられては、どうにもなりません。後はこの千鳥が何とでもいたしますから、今すぐ落ち延びてくださいませ。
橘 何か外で音がしました。
千鳥 私にも聞こえました。きっと刀剣の鳴る音。きっとこのままでは、平家に捕まり、縄に繋がれて辱めを受けましょう。
橘 (傍白)「『解けても解けぬ夢心』」
 手傷をいたわり、早く治してくだされ。今日、今の間に平家の追っ手がやって来ぬうちに、ここから逃げよとそなたは、きつく私に言ってくれました。分かりました。ならば私はこれから落ち延びていきます。お前に元来罪はない。平家もきっと見逃してくれるでしょう。さらば、もう行きます。
千鳥 姫様、お待ちください。どんなに未練を感じている私でも、この場でお別れを止めようとしているわけではありません。
橘 止めないでおくれ。
千鳥 お止めはいたしませんが、旅のご支度もおありになるでしょう。
橘 何も言わないでおくれ。別れの悲しみが募ります。
千鳥 もし途中で平家の者に見つかってしまったら。
橘 言わないで。
千鳥 これは言わずに済ますことはできませぬ。
涙ながらに進み寄り、唐櫃の蓋を開け、
千鳥 これは平家の目に留まらないよう、このような事のためにと用意しておいたもの。
唐櫃から衣装を取り出すのを見て、橘も近寄ってくる。
橘 思えばこれまでは静かな心でおられましたのに。千鳥や、もう私は平家の捕り縄からなど逃げたくはありません。
松王の印籠を手のひらに載せながら男装する。千鳥、傍らで手伝う。
橘 (傍白)「この持ち主様はどこにおられるの。」
千鳥 そうおっしゃるのは、自らを哀れと思ってのお言葉。しかし、本当に捕まっていかれたいとでもお思いか。
橘 このような恥ずかしい姿で。
男子の扮装をして終わり、印籠を懐に入れ、刀を腰に差す。
千鳥 浅ましいこの世の中で、心もとない一人旅ではありましょうが、今朝も申しました通り、この先を行けば備前への昼間の道です。夜のお泊りには気をつけてくださいませ。もしお父上にお便りをなさいましたら、私めも後から追ってまいりますとお伝えを。悲しいことを今言わねばならないのは、悲しゅうございます。でも言わぬままでおりましては、却って急ぎの出立のお妨げになります。この別れが惜しくないはずがありましょうか。長い年月としつき二人で暮らしてまいりましたのも、こんな別れをしなくてすむようにでありましたのに。
橘 もうその後を言わないでおくれ。行かねばならぬ、急がねばならぬ。間際の暇乞いとはなるが、その傷を治して、どうか安泰に暮らしていっておくれ。もう行きます。さらばです。
橘が出て行こうとするのを千鳥はふすまの柱に身を寄せて見送る。
千鳥 もう立ってしまわれたか。
橘 (傍白)「『この世の絆 切らるる苦しみ』」
橘、退場。千鳥、橘が脱ぎ捨てた衣装を抱く。
千鳥 あの方の魂、手元のこれが形見になってしもうた。むごい心で逃げ落ちさせてしまいました。でも平家の追っ手がこの家までやって来て、私が縄に懸かって六波羅まで連れて行かれましたなら、もしやして恋しい恋しいあなた様のお父上に会えるのではとの嬉しさからでした。可愛い姫様をどうしてお父上に会わさぬなどと言えましょう。でも、あなた様を平家の手に落ちさせてしまいましたら、どうお父様に申し訳すればよいのですか。可愛さゆえに落ち逃れさせましたが、慣れぬ旅のお疲れで、御身にまさかの間違いがあったらどうしましょう。もしそうなら、あの場でいっそ縄に掛かっても六波羅に連れて行かれましょうなどと申し上げればよかったか。もしそれなら親子ご対面が叶わぬこともないかもしれませんのに。過ちをしてしまいましたか。いやいや、もし平家に殺されでもしたら、どんな言い訳がたちますか。でも、もし私だけが庄司様にお目に懸かれたとすれば、娘はと聞かれた際に、平家を恐れて落ち逃しましたとあっては、そう、たとえ言い訳が立ったとしても、行先も分からぬ一人旅、それをお見届けしなかったとあっては、おめおめ殿様にお目にかかることなどできませぬ。恋しさ過ぎて魔が差したか。ああ、差した、差した。庄司様が恋しゅうのうて、なぜしよう。こんな侘家に日々暮らしてしていたのも、お帰りになる殿様のお顔を見たいが一心。それでは私は姫様を追い出した事となるのか。で、恋しい殿様が今にも戻ってきて、姫が見えぬのは何故かと尋ねられたら、サアどう答えよう。まだ姫様、それ程遠くまでは行っておられますまい。殿様の訪ねてくるな、ここを立ち退くなという堅いお申し付けに背くことにはなりますが、では追いかけていって、姫様と二人連れ立って福原まで行きましょう。むざむざ網を張って待っている福原に行くことになろうとは……。よい、よい、構わぬ。この憂き世で魂を二つに分け、一つは東へ、一つは西へ。東に行く魂は殿様と会いたい気持ちでまいります。西に行く魂は姫様の袖の裏にお供して、
と、脱ぎ捨ててあった橘の衣装の袖に手を入れると、
千鳥 あれ、これは何の手紙。命の間際の庄司様より愛しい我が子の橘へと。西方浄土……千鳥をお供にして参り……熱を帯びた体の汗を拭ってくれれば……病に寝ている今はもう我が命の最期も近いよう……。悲しや姫様、私を欺かれましたか。悔しゅうございます。これは何事、天にも地にもあろうことか。鬼に魅入られたか。どうして遅れをとりましょうや。ああ、これ、待ってくだされ。あまり急ぐと御足が痛みますよ、ゆっくり歩きなされ。追い付いて申すことがありまする。そこの旅人姿の男のお方。待ちなされと言いますに。
折戸の外まで駆け出すが、躓いて絶倒する。少しして百姓が三人上手より登場。
百姓一 もうどっぷりと日が暮れたのう。
百姓二 やい、久田の作よ。お前の兄さんの家に新しゅう来た嫁さんの口がむやみに大きいのはどういう訳じゃ。
百姓一 ありゃあ生まれつきよ。
百姓三 そんなこと、仲人の庄屋の官平殿のお上さんの舅のはげ親父殿が言わったか。
百姓二 ははは……
百姓一 まあ、でかい口よのう。
行く三人の先頭の者が倒れている千鳥を見つける。
百姓三 ありゃあ、死人じゃろうか、狐かじゃろうか。
百姓二 なんじゃ、それは。
百姓一 ほれ、これよ。(額に手を当てて物真似する。)
百姓二 狐か、人か。
百姓三 「きつ」の方らしい。
百姓二 ほんじゃ、見てみにゃなんねえなあ。
百姓一 おっかねえけんど、さあ、行って見るべ。
百姓三 コーン。
狐の鳴き声を真似て、二人びっくりする。
百姓三 ほれ、尻尾がムクムク出てきたぞ。
百姓一 いやいや、おっかねえ。
百姓一 人か人か、それとも「きつ」か「きつ」か。まだ体が温ったかいぞ。人の女か、それとも「きつ」か。
百姓三 コーン。
百姓一 南無阿弥、南無阿弥。
百姓二 これは人じゃ。生きてる病の女じゃ。
百姓三 本に、生きた病の女じゃわい。
百姓二 こっちに来てよく見れい。口もあれば、鼻もある。狐じゃあなかんべえ。
百姓一 まるで人間のようじゃのお。
千鳥 コーン。
百姓達 きゃあ。
と、皆驚き逃げだして退場。
千鳥 口ほどでもない平家の追っ手ども、掻き消えるように逃げて行ったか。抜き合った刃にほとばしった血はなまぐさく、殺したうえは、もう心配は無い。敵討ち取れと幾多の軍勢が押し寄せて来ぬうちに、今そちらに参りますから、庄司様。これまで心の裏で忍んでまいりましたが、本領安堵となりますれば、もう今日から人にも私を妻と呼んでもらいます。いえいえ、昔の契りは、ほほほ、忘れてはおりませぬことよ。あれ、継母は嫌じゃと姫君が逃げて行かれます。いいや、それはなりませぬ。袖を掴んで止めまする。これ、止めはしませぬと言いますに……

第三場 福原の館の一部屋


一面の平舞台は絵襖で仕切られている。御簾や引き戸のある福原の館、奥殿の一室。

女一 これ、松王様にお会いしたか。
松風 其方そちらの詮索は要らぬこと。
女一 要らぬで済まぬは命と仲人の口だけ。
女二 では、何をお話に。
女三 さあお聞かせよ。
松風 そうそう、近頃諸国で赤ん坊が少なくなってきたのでね、天下隅々まで御触れがあったそうさ。つまり、男の子を産んだものには、笛一管に忍ぶ摺染めの荒布を添えて賜り、女の子を産んだものには、玉の輿に唐織の綾布一巻を添えて賜るとのことですって。
女二 それで分かったわ、石女うまずめは皆この館でご奉公せよとの意味が。松王は、そのお触れに行かされたのでしょう。
松風 どういう意味です。
女二 さて恐ろしいのは、人の媚び、嫉み。あちこちのお腹から無暗に赤子が湧いてきたら、皆その髪を剃って尼にでもならねばことは収まらぬことでしょうよ。
女三 これ、恐ろしいことを言うではないよ。
女二 昨夜の酔いが醒めたのかい。ただ言うだけでは、所詮そなたの恋は叶わぬわ。私はこれからちょいと京に帰って世の中を見てまいりたいもの。
女一 ふむ、そなたが産み落とした子はもう何歳だい。
女二 知ったようなことを言わないで頂戴。
束の侍従、登場する。
女二 これは侍従様、このところよい日和でございます。それなのに、貴女様はいつも陰にばかりおられますこと。
女一 今宵は何かお催しごとでもあるのでございますか、
女三 秋と言えば寂しいものですから。
侍従 いえ、ちっと思うことがありましてね。ついては後で松風に尋ねたいことがあるのです。その方ら三人はあちらに行ってておいてはくれませぬか。
女一二三、皆退場する。
侍従 で、松風、早速松王に会ったか、話したか。
松風 私その時、泉水の向うの廊下の陰におりました。
侍従 それで松王を見つけ、その物陰で、
松風 いいえ、そこに童を呼んで、何かを取らせました。
侍従 早く会った場所を言いなさい。
松風 会ったのはご門の外で。
侍従 そこで松王は何と申しておった。
松風 そんなに早く申してしまいましたら、わたくしの手柄にはなりません。お池の鯉を網ですくって捕えるみたいに、ぐるぐるかき混ぜたり、すかしてみたり。遠くから色々回りもって寄せていったりと。それで、我らが主様のお言いつけ、何と思って承っておいででしたかとお尋ねしましたら、松王様、女は知る必要の無いことなどとのお返事。ああ、罪だの咎だの、詮議するだのと、ああ馬鹿らしい、女に罪ないこの世の中で、女に嘘を付くのは二代にわたる罪、真実を述べよと責めましたら、松王殿、合点ゆかぬ顔で、召し連れて来いとの仰せがあれば、迷惑でも行くのだと申されました。それで、さても不思議な物言い、迷惑とはなぜですか、なぜ迷惑なのですかと伺いましたら、たちまち迷惑顔をなさいました。
侍従 詰らぬ言葉の言い合いはお止めなさい。
松風 いいえ。これが発端で聞いてみれば、このたびの松王殿へのお指図は、ご本人はどうも気の進まぬ様子。更に探れば、男の方のお心はみっともないもの。松王様、以前からその方の元に通っておられた様子でございました。
侍従 あの松王がその者の元にとな。
松風 侍従様、勘が悪うございますね。だからこそ、ご観月の夜に須磨辺りから件の女が船の後をつけ、公達の方々に陰口を言ったのも、男に自分の後を追わせようとするたくらみ。
侍従 松王がそう申したのか。
松風 言ったのか、言わなかったのか、そこは貴女様も推し量ってくださいませ。大体そんなところだろうと焚きつけましたのは、罪科や詮議のためではございません。入道様にとっては、耳に入ってきた色好みのお話。いくらご主人様と言っても、このたびの事は行き過ぎじゃ。それで、松王様、お前が風を孕んだ船の帆ならば、入道様の櫓や櫂では追いつきませんぞ。どうぞ、あの者は連れて行くなり、逃がすなりなさってくだされ、ただこちらの方に足を向けてはなりませんぞ、とこう言って差しあげました。
侍従 で、松王の返事は。
松風 畏まったような、あはれというか憎いというか、何ともいえぬお顔でした。まあ聞いてくだされ。その時、誰からの頼みでそのようなことを言うと尋ねられましたときには、喉から貴女様と出そうになったのをぐっとこらえ、袖を払って威儀を正して申しました。思っても御覧、古より国が乱れた例は遠く中国でも……
侍従 もうその結末は聞きとうもないが。
松風 そのような女がおりましては、御家の患い。天下の女共の恨を買って、ひいては国の乱れ。もしそんなことにでもなれば、そなたの仇でもない私のような者まで嘆かすことになりますぞと、そんな口から出任せの、有ること無い事言っておきました。お申しつけよりは外れますが、人の恋の歌まで詠んでまいりました。その上の句は、その女の事でないにせよ、そちらの方向に通じていたのは確かでございましょう。
侍従 ともかく命じられたことについて、松王、その者を連れて帰って来るつもりはないと誓いを立てたか。
松風 そんなこと、福原まで行って、ただ海だけ見て帰ってくるくらいの容易いこと。それを言わさずに、どうして帰ってこれましょうか。
侍従 ああ、それを聞いて安心した、思ったよりもうまく行きそうで。
松風 うまく行くと仰いますのは、かいつまんで言いますと……
侍従 いいや、何とはない兆しがな、
松風 で、わたくしには、どのような男に添わせていただけるので。
宗盛と基盛もともり、登場。
基盛 どうしても遂げられないような恋ならば、早々に心移りしてしまえば、よいではないか。
宗盛 憤りの心なら他所にも向けられましょうが、真の恋はそうはいきませぬ。
侍従 おや、誰やら人の気配がします。
侍従、退場。
宗盛 これ松風、今朝鶯の声を聞いたか。
松風 この詰らぬ身には、そのような事には興味も関心もございません。
基盛 ふむ、もう明らかになったのに弁解することくらい、そばにおる恋人にとって聞きづらいことはなかろうに。
松風 聞いたとか聞かなかったとか、私、そのような落とし穴には引っかかりはしませぬ。
女四名登場。一人の女は長い釣竿を持ち、糸の先には鯛が掛かっている。
女一 もう放してやればどう。
女二 もう充分竿を持ったでしょう。今度は私にも貸しておくれ。
女三 鱗が剥がれないようにな。
女四 別に構わぬ。剥げたら金箔でも貼ってやりましょう。
宗盛 よし釣ったぞ。
基盛 釣った、釣った。
と走り寄って鯛を取り押さえる。女二が釣竿を取って引き上げると、その拍子で釣り糸が釣針と共に魚の口から抜けて宗盛の髪の毛に引っ掛かる。
宗盛 これ、引っぱったら髪が痛いではないか。

第三段


第一場 生田の小野の関所、その構えの前


平舞台、正面中央に白木の関所の門。扉は無いが、上手から下手にかけて白木あるいは黒木の柵が厳重に門に取り付けられて設けられている。奥の方には板屋根があって関所が見えている。左右には立ち木が深々とあり、書割には、遠く近くに山並みが描かれている。柵の中には色々な道具が整理されて置かれている。また内側から幕が張られていてもよい。門構えは極めて大きい方が良い。すべて生田の小野の関所の前面となっており、花道には逃げ出そうとした旅人の荷物が散乱している。門構えの外で関所の人夫が話し合っている様子で幕が開く。

人夫一 あのように若くて美しい男子を人柱にするとは、可哀想なものじゃ。
人夫二 さあて、その人柱というもんが何のためのものや、わしにはさっぱり腑に落ちん。
人夫三 三十三間堂の棟木の阿柳という話があろう。まあそのようなものじゃ。
人夫二 そのような物というのがよう分からん。
人夫四 どこもかしこも物を知らぬ連中ばかりよ。よく聞かしてやるから、しっかり聞かっしゃい。例えば旅人が三人、四人連れ立って人も通らぬ山奥を分け行っているとする。左も右も松や杉の大木が鬱蒼と茂り、その奥は真っ暗闇。ただ微かに木の葉の隙間から日が洩れているとせい。そのような山中で、これら三、四人が一緒に歩いていると、遥か上の峰の方からウォー、ウォーという声がする。何じゃあれは、何じゃあれは。狼じゃあないか、狼じゃ。ウォー、何じゃあれは、狼か。ウォー、ますます声が近うなってくる。狼じゃ、狼じゃ。これは大変と皆逃げ出す。ウォー、狼が出た。後から追いかけてくる。こうなったら仕方ない。一人を二人で替えるわけにはいかんから、無慈悲なようだが、一番弱そうな男を一人が打ち倒す。きゃあと言ってそいつは倒れる。他の男達はその一人を残して皆逃げる。ウォーっと狼は追いかけてはきたが、倒した男を餌に残してきているので、狼も不精をしてまず手近、いや足近に転がっている奴に目を向ける。赤い舌をペロペロ出して頭から、手から、足から食い始める。さあ、狼が一人を食っている間が命の助かる隙。彼らはその間に逃げおおす、とまあ、こんな手はずじゃ。人柱も同じこと。海の底といえば暗い上に暗い所。その暗い海の底で何とも知れぬ妖怪が棲んでおって、人を餌食にしておるそうな。人柱というのは、それに食わせてやる餌食のことよ。海の中へ投げ込むと、その妖怪が出てきてこの者を食う。そしてその間に石を入れて島の礎を築くのじゃ。この前の春にも我が隣村の者が、つい海に落ちてしもうて、この妖怪に捉まってしもうたのじゃ。
人夫二 妖怪に人が食われるのか。
人夫三 恐ろしや、恐ろしや。
人夫四 そういう訳で、夜になるとその妖怪が人をかじる歯の音が、それはそれは凄まじく聞こえるということじゃ。この春、隣村の者が捉えられた日の夜は、潮風がヒュウと吹くのに合わせてこの音を聞いたというものが我が村におる。
人夫一 何か音がするのを聞いたという者がおったが、その音か。
人夫二 では、先ほどの若い者がその妖怪に食われてしまうのか。
人夫三 海の底で。
人夫四 聞くだけでも凄いが、この春の時は、妖怪に人が捉えられた次の日の朝、海の下、五尺ほどのところにトロトロした血の塊が三つも四つも海鏡の貝のようにフワリフワリと淡路の方へ流れていったそうじゃ。
人夫二 ああ恐ろしいや。そのように食われてしまう時の様子はどんなもんじゃろうか。
人夫三 大方、蛸の様なぬるぬるした手が喉元を締め付けていくんじゃろう。
人夫四 いやいや、爪で胸のあたりから引き裂かれていくのに違いなかろう。
人夫二 エエッ。
人夫四 これこれ、我らが食べられてしまうのではないのぞ。あの捕まった旅人がおるからには、我らが役目も済んだようなもの。我が村の者が捉えられでもせぬかと思ってこれまで怯えておったが、これで我ら一族には祟りはないぞ、庄六殿。
人夫一 ならまずは安心じゃ。
人夫皆 そういうことじゃな。
人夫ら退場し、松王登場。
松王 見るにつけ聞くにつけ、今のこの世は終りの様相。天地山岳鳴動し、星は乱れ飛び、雲は落ちかかる。うばたまの闇の中の毒気は地底より湧き上がり、人間世界は破滅する。覆ってしまうだろうか、震え壊れてしまうであろうか。世の汚濁にまみえるよりは、速やかに砕けさってしまうにこしたことはない。浅ましきなり。日月の下に横たわるこの世界は、一個の大いなる屍骸にして、地上にうごめく一切の衆生は腐りただれたこの屍骸に湧いた蛆虫であろうか。眼を閉じ、耳を塞いで去る者は死滅の鬼が出てきたからか。今走り去った一むれの旅人は、顔面蒼白、目に生気はなし。修羅の巷で皆泣きわめいているこの光景に、我はそもそも何をしに、このようなところまでやって来たのか。厭い果て、汚れに染まったこの世を捨てようと家を出ながらも、なお空中に漂っている。栄華は幻、忠義は夢、恋は迷い。迷った足を踏みだすにも、どこに向かって踏み出せばよいのか。一歩先の未来さえ、思慮なく歩を進めてよいものか。哀れ思えばこの松王、素性もなく生れ、幼く父とも母とも別れてしまい、僅かなその面影にも、心に残るほどの形見は何もない。十歳にもならぬ頃より平家にご奉公してまいり、妙なことだが、ご一門の繁栄を自らの親族の栄華の様に思って喜んでいたのは、あたかも嵐が近づいているのを知らぬ舟人が、月を取り巻きたえに輝く雲を見て、ああ美しやと喜び眺めているようなものであった。それ主君の身に余る恩情については、辛い。あれやこれやの恩情を受けたことは、苦しい負い目だ。山谷越えるほどに世の中から懸け離れ、辛い話のない里はあろうとも、身から離れることのないこの心には、墨染めの衣に身を包んだとしても何ともならず、わが身を刺して死んだとしても、我が亡骸を隠す場所もない。たとえ足がこの地から離れたとしても、蛆虫に生が取って替わられるだけのこと。我とわが身に結び付けられた人の行く末は、分別などでどうもなるものか。あがきもがいても切り離すことのできないこの絆。ああ、死、死、死ぬことだけが人が運命に手渡すことのできる最後の引き出物。この命、取るなら渡そう、山奥の狼よ。この松王の体でも食いたいか。剣で刺し我が手で死ぬには、身にまとわりつく弱み、未だあり。この道の果てるところまで、いざ行かん。月夜に見える面影が、これから先の道しるべ。ただこれだけが、天地の暗闇の中に灯る一点の灯火。世を吹き渡る嵐にそれも今や消えようとしておれば、恋は心の暗部と引き換えに輝きを増す灯火のごとく、消えかけてはまた燃え立ってくる。ああ悲しきかな。詮議のため召し取ってしまうとはあまりに酷い君命。果敢なる楊家の女も遂には汚泥の溝に落ち、無残な最期を遂げてしまうのか。
道に散らばる旅人の荷物を確と見て、
松王 ああ、厭わしい穢土の様。
門裏より物音がし、橘、以前の男装のまま、刀を振り回して奥から出てくると、関所役人の妹尾三郎ら大勢が勢いよく追いかけて登場。
役人一 (中に向って)逃げるぞ、逃げるぞ。
役人二 狼藉者だ。
役人三 やるな。
三郎 不届き千万、そうはさせぬ。
橘の刀を払い落として、難なく捕まえ、
三郎 怖いもの知らずのことをする。もし逃がしでもしたら、わが身の大失態。もう逃がすではないぞ。者共、引いて行け。また逃がしてはならぬぞ。
役人ら 心得ました。
橘 神も仏も救いはないか。
大勢の者、橘を引き立てて奥に入る。
三郎 おおこれは珍しい、松王殿ではござらぬか。
松王 今の騒々しい騒ぎは、何事でござる。
三郎 捕らえておいた人柱の者が狼藉を働きましてのう。
松王 何、人柱とは。今日ここまで来る道中で、人柱とか関所とか騒がしく言っておるのを耳にしたが、これは真に関所の様子。それで貴殿妹尾殿が、この生田の小野辺りで何をなさっておられるのか。
三郎 ならばお聞きくだされ。この春三月の下旬より、先の阿波民部大輔奉行のもとで造営しておりました築島、この度の南風で逆巻く白波により一夜にして崩れてしまう異変がござった。そのようなことがもう既に再度に及ぶに至り、もうこの事業、成就の見込みが疑われました。そこでどうしたものかと陰陽師の安倍の泰氏を呼んで問いますに、天文地理の術を使って暫く考えて申しますには、この島は並大抵の事では完成しない、人柱を入れて築けば完成するであろうとのこと。そういう訳で、ここに関所を置き、往来の旅人から誰か選んで捕まえよとのお沙汰があり、この妹尾三郎に関守を申し付けられたという次第。それで本日先ほど、旅人を一人召し取ったという訳でござる。これでその大役、ともかく八分、九分は済んだようなもの。ひとまず安心でござる。
松王 (傍白)「天はこのような非道を許してよいのか。」
 で、その捕らえられた者は。
ふと落ちている印籠に気付いて拾う。
三郎 西国からやって来た旅人でござる。
松王 この印籠は。
三郎 萩、桔梗、女郎花と、確か貴殿のものに似た蒔絵だが、きっと先ほどの旅人が持っておって、落としたものでありましょう。
松王 三郎殿、お願いがありまする。私にその旅人に会わしてはくださらぬか。
三郎 お安い御用、お会いになられても不都合はございますまい。が、これからどちらへお出かけか。それ程お急ぎの旅でもございますまい。まずは中に入って茶の一杯でも飲んでいってくだされ。
松王 先に行ってくだされ。
三郎 こちらに来られよ。
松王 (傍白)「この忌まわしき関は地獄の門なのか。」
両人退場。

第二場 同じ関所の内部


舞台前方に少しの余地を残して、やや上手に寄せる。垂木は設けられていないが、五間ほどの二重の藁葺きの庇を付け、床は板張り。正面の見張り場も同様に板張りで、上手に入り口が開いており、左右には華美でない紋を配した麻布を縫い込んだ簾。麻の房の飾りを懸けている。下手にはときわ木の梢が軒を覆って生い茂り、立ち木の隙間から少し奥の方に藁葺きの辻堂の一部が見えている。景色はなんとも言えず凄みを帯びている。すべては生田の小野の関所内部にある一室の様子。以前の役人侍三人が、橘を捉えて登場。

橘 もしかすると、私には何かの疑いがあるというわけもないのでは。
侍一 おおそうさ。人柱は神様のお供えとなる尊きお役目。
侍二 めでたい事でござる。
侍三 もう嘆いても逃げることは叶うまい。もうこうなったからには、覚悟して殊勝にいたすのが大切。なあ、皆様。
侍一二 さようでござる。
橘 神への供養の人柱としてこの我が身を海に沈めると申すのか。
侍一 島築く兵庫の港が、御身人柱となられる海でござる。
橘 (傍白)「お父様、あなたの愛しい一人子は、ここまでやってまいりましたが、もうとても逃げることはできませぬ。ああ、もし人に形というものがないなのなら、吹く風となってこの簾の隙間より逃げましょうに。それは無理か、なりませぬか、ああ人々よ。」
侍三 何事か。
橘 とてもお許しはありませぬか。
侍三 何をややこしいことを聞く。
侍二 七六殿、そう叱ってやるな。これ旅人、念仏一遍に覚悟するのが肝心じゃ。
侍一 先ほども申したように、老人背負った者、出家法礼の者、生まれつき不具の者などはお構いなしであるゆえ、許されるべき者なら、こうして止められることはなかったはず。
侍二 既に留め置かれた上は、例えそなたが我が身内であろうとも、まさに人身御供と決まったからには、逃がしたくとも逃がせぬのよ。
侍一 死ぬのを厭うのは誰もあたりまえ。これ、三八殿、無理もないではござらぬか。
橘 (傍白)「死ぬのを厭うこの身の上とは、我が命ある間に一目会いに早うここから逃げ出せよとのお父様の声が聞こえてくるがため。とは言えどんな隙間から。」
侍三 もう間もなく沈められるのだろうか。
侍一 その際には妹尾殿からお指図があるはずじゃ。これ三八殿、あの者もようやく諦めた様子ではないか。
人夫三人下手の木の間より登場。
人夫一 (声を低めて)いつの間にか、どうにか鎮まったようじゃのう。
人夫二 (声を低めて)ここにおるのか。切りつけられでもしたか。唸り声は聞こえるか。
人夫三 (声を低めて)生きておるかもしれん。ここから覗こう。
簾の外から覗く。
人夫三 凄い、凄い。そのまま、切られてもおらず、生きてはいるが、すは、妖怪に魅入られたか。
人夫一 (覗いて)体が蛇のようにくねっておる。
人夫二 (覗いて)わあ。
と叫んで、三人とも下手に走っていき退場する。
橘 あれ、あれ、あれえ。空から降りてくるのは鳥か鷲か。この身を引っつかんでひょうと空に舞い上がる。ひょうと挙げてはどうと落ちる。おお、『岩根の松陰に沖津白波、どうと寄せ来る大波小波。波の鼓か打ち連れて笛を吹く水の月影。かげろうのあるかなきかの面影、おお、まずは船を降り立ちて、萩の白露、乱れし黒髪、つげの小櫛差さで恥ずかし我影』
侍三 何と、この者狂ったぞ。方々、逃がしてはなりませぬぞ。(退場)
侍一 これ旅人、静かに、静かに。
橘 しづが伏し家の垣根に咲く花は、ああ、萩や桔梗に女郎花、萩に白銀の露、星の如くにきらめいて、あの黄金の花は女郎花。あの暁に、
三郎と松王の二人、下手の木の間より登場。簾の外に佇んで中を窺う。以前の侍、上手の入り口より登場。
橘 あの暁に、忘れられぬ恋の重荷を我に負わしたまま姿を消したのは、地獄の使いか。こんな苦しみを我に負わしたのは。エエ思うまい。思い馳せまい、名乗ってもくれなかったあの面影に。思い馳せまい、住み家棄てて立ち去れと言ったあの面影に。
松王と三郎、簾を押し上げて中に入る。
橘 悲しや、助けてくだされ。
松王 ああ旅人よ、侍でさえ恋には心を乱すものとは言え、それほどまでに心を狂わせるものではないぞ。
 (傍白)「この世の中で心が痛むのは、これすべて狂気の沙汰。嘆いたとしても、怒ってはいけない。このような非道いことは、もう一時も観るにはしのびない。」
 三郎殿、この男、狂人となっては人柱はもう務まりますまい。もし探すならば、代わりの者も遠からず得られましょう。この者は、早々に放免されよ。
三郎 ではどのように取り図ればよろしいのか。
松王 神に対して汚れの恐れのある狂人は、人柱に適うものではありますまい。速やかに放免するに越したことはありませぬ。もしそのことでお咎めを受けるなら、この松王がその責をお引き受けすること、真に誓いましょうぞ。
三郎 本当にそうなら、これらの者を証人としていただけるか。
侍三 (進み出て)我ら三人を証人としてくだされ。
松王 承知した。これを証に、さあ旅人よ、早く立ち去るがよい。
侍三人 さあ狂人、
三郎 行けと言うに。
盛国、その以前から登場して、入り口に立って中を窺っている。
盛国 何を馬鹿なことを。先程から陰でそっと伺っておれば、この者の振る舞い、言葉使いも乱れてはおらず、許されるべしと聞いて遂には泣き声に変わったといった様子、狂人の悲しみの態ではないぞ。
橘 うわべを装っていても、見破られてしまうとは。
盛国 どうしてそんな企みに引っ掛かろうか。狂人とあれば許されようと、人欺いて振る舞ったな。
橘 ああ不運、ここまで来てなぜ気が狂ってしまわぬのか。
盛国 で松王、そなたは何をしにこのような所まで参られたのか。
松王 内密の訳あって、旅の途中にここを通りかかったまで。
盛国 ではそなたに差し支えは無い。三郎殿、このようにこの者を既に召し取ったからには、行き来の不便を除くため、明日にはこの関所、引き払うがよかろう。さて拙者はこれより直ちにはせ帰り、人柱の用に適う者、召し取ったとご報告することとしよう。嘗て申し合わせた手筈に従って、夜の闇に紛れてこの者をどう取り計らうのか、そなたは先刻承知のはず。拙者が去った後、たとえいかなる事があろうと、この者を放免するなど言語道断。逃げられぬよう、ゆめゆめ油断いたされるな。
三郎 この三郎、全て了解いたしました。
盛国 あちらの方に押し込めておけ。
三郎 かしこまりました。
盛国、退場
三郎 おおそうだ、もう少しお聞きしておく事があった。
盛国の後を追って退場
侍三人 それにしても、巧妙であったな。
松王 (傍白)「不思議に思うこともない。どんなことにも、巧みの裏にははかりごとあるのがこの世の常。非礼は礼をかたり、無道は道理を騙り、不仁は仁義を騙り、女は処女を騙り、武士は勇気を騙り、出家は高徳を騙り、旅人は富貴を騙り、朝には夕べを騙り、外では内情を騙る。この世は悪魔の騙る浄土なり。」
橘 お父上、許してくだされ。かくなる上はこの成り行きのまま六波羅に行ってお会いするしか他に仕方ありません。神も仏もある世です、ただそれまではお命つないでくださりませ。『会われぬ人にも会われるものを、出会う事々何もかも、思いもよらぬ世の定め』 ええぃ、もう知りません。ここにおられる方々よ、恥ずかしいこの身の恋物語、聞かせてやりましょう。聞いてくだされ。
侍三 狂気は止めて、色恋沙汰となったか。
侍一、二 これは聞いても面白そうだ。
橘 この度西国よりこちらの方に上ることになった事の始めは、明石の浦でのこと。それは秋の中秋、明月の頃、陸を照らしわたる月明りの下、浜の方の松陰で漁師らが多く集まっておるようでした。それで、このような所で何を漁しておるのかと思って立ち寄ってみましたら、蘆の隙間を洩れる月光に浮かれて出てきた蟹を捉まえようとしている方々が何人もおられました。ただその中に様子の異なる方がお一人、捉まった蟹を人の手から奪い取って、そのまま逃がしてやったのでございます。たかがそれしきの事と、他の方達は嘲っておられるようでしたが、もし蟹の身になりましたら、どれほど嬉しかったことかと、いたく思い入ったのでございます。その夜、家に帰って見た夢にその方のお心を包んだ光が幻のように現れて、乱れた心であてもなく言葉を言い交わしましたが、それも束の間、人に情けはあるものなのに、薄情にも私を見捨てて去っていく姿は、繋ぎ止めようとしてもできない、水に映った月のよう。繋ぎ止めることもできず残ったのは、心が心に教えた面影のみでございます。夜はいよいよ冴えて、また尋ねに来ていただけるかと、ああ、待っていたとは言わないかわりに、日頃誰も訪れることのない我が家にやってきたのは京よりの使者の悲しい便り。身内で頼りとできる唯一人の父上が、今は死の病で床に伏されておられるとのこと。その父上が、この世の最後の思い出に我が子の顔を見たいと夢枕で告げられて、私は運命に試めされるのかとすくんだ足を踏み出して、心は空行く旅に出たのでございます。
侍三 何か狂気じみた話でござるな。
侍二 狂おしいような、悲しいような。
侍一 むごいような、逃げたいような、心細いような。
橘 命の瀬戸際におられる父上との今生の対面に行かずにはおられぬと来たればこそ。思いがけずの旅空での巡り合わせ。巡り会って親と子がこの世の別れを済ましたうえは、もはや要なきとなるこの命。捨て迷うよりもこう定まったのも憂き世の宿世。ただ、かくなるうえのお情けで、親に一目だけでも会せてくださりますよう、ご慈悲を願い奉りまする。もし親というものがもうないのなら、このうえ辱めを受けるよりは直ちに死にとうございます。
松王 か弱い身でありながら、いじらしい心、ああ何と殊勝な。
 (傍白)「恥じ入るはこの松王のこれまでの心がけの方。不忠、不義、愚痴、妄執。悪魔か外道が魅入ったか。人も知らぬし、人にも見えぬが、我と我が身を見るにつけ、これ以上に醜く汚い者がまたとあろうか。そなたは、そのような事も知らず松王に恋したか、それに恋されたか。女というのは浅はかで、明日のその男がいかなる者かも知らず頼むとは。畢竟、恋は迷いか。この惨めな我を操を懸けて恋してくれた情けの心、言うべき言葉も見つからぬ。」
 これ旅人よ、親子再会の機会、見込みないわけでもあるまい。しっかりと心を落とさずにおられよ。
(内から) 松王殿、松王殿、さあ、こちらに、こちらに。
松王 ああ旅人よ、命は宝であるぞ。
松王、退場。
侍一 でお前が見初めた海士の娘は、今どこにおる。
侍三 それからまた会ってはおらぬのか。
侍二 会ったのか。
侍一 いや、それはその。
一同 泣くなよ。
皆寄り合って慰めてやっているところで幕。

第四段


第一場 同じく座敷牢の場


舞台中央には藁葺きの辻堂。建物は黒木建てで、やや足高。黒木の粗末な欄干を三方に折って付け、前に簾を下ろし、階段を設ける。本家屋の上手には、簡素な橋らしいものに続いて別の藁屋の庇が少し奥手に見えている。下手には、松や杉の立ち木の庭を隔てて下方に黒木の柵があり、適当なところに真鍮の鎖をした門がある。家屋の前庭では、焚かれおかれたままの篝火がほろほろと燃え残っている。周囲はもの暗く、簾の中から灯火が微かに漏れている。関所内の座敷牢の夜景。この座敷牢の簾の奥で、橘、独りいる。

橘 ああ、お父様、思いを馳せますのは、介抱する者もない病の床にて、このわたくしを眼前に見ることもできず、今か今かと待っておられるそのご心中。しかし、たとえお会いできるとしましても、縄を掛けられたこのような姿で、どうしてお目にかかれましょうか。末期を乱すお嘆きは、長く未来にわたるお迷いともなりましょう。とても逃れることのできぬ因縁と思し召し、わたくしに会うことなく、どうかお逝きになってくだいませ。あの世への六道の辻で親子また巡り会いましたら、もうおそばを離れることはいたしませんから。
松王、下手より登場。門を開け座敷牢の辺りで中を窺うように佇んでいる。
橘 子を想い焦がれる親心、臨終の間際まで待ち悶え、さぞやご無念、心残りでございましょう。待つということ程、空しいことが、世の中にまたとありましょうか。最後まで甲斐なく待ったときの悲嘆は、待っていた時の心を恨めしく思うことでしょう。どうぞ会わずに亡くなってくだされと、空恐ろしくも親に死ねと言った、その不孝の罪で私は海の底に沈められ、藻屑のなかで髪振り乱して魚の餌食となりまする。あなた様の子なのですから、お父様、神や仏にお力添えくださり、この最後の苦悩からどうぞお助けくださいませ。かく定まった上は、もうこれ以上の悲嘆はございません。辛い別れをしてきた千鳥は、我ら親子、共々に、このような最期を遂げようとしているとは、夢にも知らず、今頃独り明石の浦風にでも当たっていることでしょう。
松王 (傍白)「ああ、こんな非情に涙よ泣くか。水、清冽に過ぎて、渇いた旅人でも掬うこともできぬかのよう。ああ、人の宝なる命が、このように打ち捨て去られようとしているのに、どうして恋が恋することに耐えていられようか。」
橘 あれ、鳴いていた虫の音が止んだと思えば、聴こうともせぬのに耳に囁く声がしてきた。
松王、おもむろに進みきて座敷牢の簾を切って落とせば、灯火を傍らに橘、縛られたまま座っている状態。松王、無言で縄を切る。
橘 これは何のお情けでございますか。
松王 さぞや親御はそなたをお待ちのことであろう。関守たちは皆酔いつぶれておる。この隙に、いざ父娘今生のご対面なさるべく速やかにここを落ちのびよ。
橘 落ちのびるとは思いもいたしませんでした。それは、許す、泣けよとのご慈悲でしょうか。
松王 ぐづぐづなさるな。そなたはもうここには用はない。この松王が行けと申しておるのだ。
橘 いいえ、落ちませぬ、行きませぬ。心に沁みて嬉しいお情けではございますが、どうしてそれに仇でお返しすべきでしょうか。たとえあなた様が平家の惣領のお一人であってここで逃がしてやると仰っしゃられても、そのご恩をこの世でお返しすることのできぬこの身でございます。行く末までも忘れられないお志、有り難くはございます。ならば、甘えがましくはございますが、汚れに染まらぬ乙女の今生のお願いでございます。最期の迫ったひとり親に、かくなった娘の成り行きや、故あってこの世では会えぬこと、後生を頼んで諦めよと、親の命のある間にお伝えしてはくださいませぬか。松王様、お願い申し上げまする。この世の重荷を背負いましても、このことさえよしとお引き受けくだされば、終の思いの乱れもございません。しかし、唯それだけのご恩にさえ、何故に、何故に、私にはお報いすることは叶いません。『心に泉む涙川、源は目に見えずとも、神や仏もご照覧。身は引かれても心は止まる。止まる心は松王様。心の裏の玉ならば、玉はそなたに運は天に。身は海底に棄つるとも、後に名残はさらさらなし。』 松王様、ご慈悲、ご慈悲でございます。我が親を見に行ってやってくださいませ。
松王 愚なり、愚痴なり。夢に迷って何の戯れを言う。
橘を脇に抱えて庭に下り、門の辺りで橘を降ろす。
松王 急げ。
橘 嬉しいほどに悲しい身の上。今の間に早く死にたい。松王様、行きとうはございません。
松王 (傍白)「乱れる心よ、暫く静まれ。」
 親が子を思うのがどれ程のことか、思ってもみよ。ましてや、病の床に就いて風前の灯であられるのぞ。なんじ人倫の道を知らぬのか。この機を逃しては、子としての罪は堕地獄。(縄で橘を打つ。)
 あの松の道を左にとって行けば京への道、そなたの一歩は、親御の一息ぞ。
橘を門外へ押し出して門を閉める。
橘 おそばへお寄りしてもならぬのですか。
松王、鍵を締め、その音がビーンと響く。
松王 早く親御のもとへ。恋人よさらば。
松王、引き返して家屋の階段に腰を下ろす。
橘 お情けあまって、恨めしゅうございます。後に残るというのは、どういうお心からですか。申し上げにくいことながら、連れて逃げていただくことはできませぬのか。人の住む里、いかな山奥でも月や日という手引きはございます。行って住んでみようとは、お思いになりませんか。海士の娘だから嫌だとお思いなのでしょうか。人のお情けを恨むのは愚痴でございましょう。思えば、女の罪は深いもの。一息づつのお命の、親を浄土へ引導するのはこの身の役目。ああ、親に会すとのお情け、有り難や、勿体なや。ただただ拝みます、松王様。我が声聴かせた時の親の喜び、親に代わってお礼申し上げまする。お父様、じきにそのお顔を見に会いにまいります。
橘、退場。少し以前より下弦、二十日ほどの月が少し曇るような仕掛けで、立ち木の上に見えている。松王、欄干に立って、見送っている様子。
松王 この松王の胸は鎧甲のよう、愚痴の刀で切りつけても突き通すことはできぬ。しかし、ああ、今のような言葉を聞く苦痛、張り裂けるように溢れる涙を堪える辛さに、骨もくだけるかのよう。もうこの世の中に、どれ程の苦しさがあるのか。その上さらに何を悲しむのか。この身の願いは、今果たしつつある。その嬉しさに代わるほどの宝はこの世のどこにもあらぬ。自から解いて自から縛る。解くも縛るも、我が心の儘にせん。
縄で自分を縛り、かつて橘がいた場所に座る。しばらくして妹尾三郎、上手の家屋より登場。
三郎 大事なお役目がまだ片付いておらぬのに、下郎まで寝させてしまったのは、自分の過ち。ゆえにむやみに叱ることもできぬであろうが、ちょっと起こして叱ってやろうか。ただ何と叱ればよいか、まずは座敷の方をちょっと覗いておこう。そうしておいた方が、後で叱るにしても都合がよかろうて。庭の景色は眠たげな様子じゃが、やあ虫の音がうるさいのう。虫が鳴くのは、豊年の前触れとか言うが、
上手のすだれを揚げて内を見て愕然とする。
三郎 やっ、松王殿、何とどうされた。
松王 しっ、声が高い、静かに、静かに。あの者は子細があって、この松王が、もう既に逃がしもうした。
三郎 逃がした。おのれ、逃がしたとはどういうことだ。どこへ逃げた。
松王 これお静かに。かの者を逃がしたとあっては、三郎殿、御身にお咎めが下りるのは必定。そうなっては、御身一生の浮き沈みをかけたものとなりますぞ。
三郎 悲しや、松王殿。日頃親身にしているこの三郎に何の恨みがあって、このような憎い行いをされたのか。さあ、命にかけて勝負、勝負されい。
刀を抜いて構える。
松王 声が高い。何故御身に恨みなどあろうか。拙者、ただ仔細あって助けねばならぬので、あの者を逃がしたが、お咎めがゆめゆめおぬしに向かう事のないよう、手立てを尽くす所存。心を静めて、よくお聞きくだされ。
三郎 それは正気の沙汰か。まさか狂われたか。何の恨みか意趣か、それとも魔がさしたか。何であろうと、憎っくき卑劣な輩。
松王 確かに御身にとっては卑劣漢とも思われよう。しかし御身に災いをもたらすことはせぬ。聞かれよ。盛国殿も御身に人柱として召し捕った者の顔を始終見張っておれとは申し付けられてはおらなんだ。御身は、ただ知らぬ顔をして取り計らい、早速乗り物をこちらに呼び、恰も先程の旅人でもあるかのように我をその乗り物に乗せてくだされ。あちらまで参れば、人柱の事は関所役人のあずかり知らぬこと。我は他人の難儀に代わり自ら願って人柱となりたいと、その場で申し立てる所存。この松王、かつて誓いを破ったことはございませぬ。御身にお咎めが決して行かぬよう、拙者が水をかけて篝火を消し、暗闇に紛れて密かに囚人を逃がしたとでも申せば、我に咎が向かうことはあっても、御身にお咎めが下されることはまずありますまい。罪なき御身に何の災いがありましょうや。このように申しておる松王の言葉をお聞き入れず、音を立てられれば、咎から逃げる道はありませんぞ。もし今から追っ手を差し向けても盛国殿に使いは間に合いもせず、御身は責より逃れることは難しいでござろう。ただこの身を知らぬ顔で差し出せばよいだけのこと。知らぬ存ぜぬで押し通すのは容易いこと。
三郎 本当にそなたが今申されたように言ってくださるのか。
松王 言うまでもございませぬ。疑いくださるな。年来、内外無く親切にしていただいた方に、仇で報いる積りは毛頭ござらぬ。拙者が人柱となって海の底に沈んだら、せめてこれを形見としてご覧になってくだされ。
刀を取って三郎の前に置く。三郎、直ちには受け取らず、
三郎 水をかけて篝火を消し、暗闇に紛れて囚人を盗み出したと、しかと言われるのか。
松王 もとより。
三郎、抜いた刀を鞘に戻し、松王が差し出した刀を手に持って階段を降り、家屋後ろにある泉から水を柄杓で汲み、篝火の上から撒く。柄杓はそこに投げ捨て、門をすこし検分して戻ってくる。
三郎 どこから逃がしたのか。
松王 まだお渡ししたいものがありまする。
と鍵を取り出して渡す。
松王 もし私の申したことで何か差支えが出れば御身の破滅。何事も私にお任せくださり、お気遣いなさるな。
三郎 (傍白)「ああ胸がドキドキ打っている。何やら腹の底まで痛くなってきた。」
松王 私を縛ってしばらくの間、向うに行ってなされ。
三郎戻ってきて松王を縛り上げる。
三郎 (傍白)「ああ腹が痛む。刀を忘れてきた。」
振り返って刀を手にとり、抱えるようにして上手に退場する。
松王 とは言ったものの、もしお咎めが三郎殿に及べば、ああ彼もまた親の無い身。これまでの友よ、堪えてくだされ。
灯火を吹き消す。間もなく下手奥より人夫多数が乗り物を担いでくる。また一人が松明を持っており、妹尾三郎、それを引き止め、
三郎 これ、お前はここで立っておれ。
松明を持った者を木の陰に留めておく。
三郎 これ丹五、吉六、その乗り物をあちらに置いてまいれ。
二人 かしこまりました。(言われたように置いて行き)
置いて参りました。
三郎 権七、あちらに参り、これに乗れと声をかけて来い。
権七 かしこまりました。(と近寄っていき)乗り物に乗られい。(戻ってくる)
松王、降りてきて、乗り物に乗る。
三郎 庄八、見届けてまいれ。
庄八 へへー。
と迷惑顔で恐る恐る進んでいき、乗り物を覗く。
庄八 おりますようでございます。
三郎 ならば皆の者、あれを担ぎ上げよ。
一同進み寄って乗り物を担ぎ上げ、奥に入る。
三郎 いかにも寒々した月ではないか。
この思い入れたような見得を少しして、幕が下りる。あるいは舞台が廻る。

第二場 福原屋敷の一室


一面の平舞台。正面に上り段を設け、三方には紋を配した唐紙の襖。ここは福原屋敷の一室。この場に浄海入道、重衡、業盛および侍二人が列座しており、幕が開く。

浄海 この暁にその者を引き連れてきたとな。
侍一 左様、乗り物を使って運んでまいったようでございます。
経俊登場
経俊 話はまだここまで、伝わっておりませぬか。実は、福原あって以来、いや今足で立っております床の下にある地面というものが存するようになりまして以来、空に日の照らぬ日はありましても、かかる珍事があった例はございませんでしょう。これから私が申しますことで、驚愕の虫をお騒がせしませぬよう、胸をしっかり押さえてお聞きくだされ。と申しますのも、築島の人柱に供しようと捕まえてきた旅人、どのような者と思召されるか。この暁に担ぎ運ばれてきた人柱の人物、私が盛国の傍らにいて輿から出てきた人物を見ましたら、
浄海 はは、その者、鼻が二つ有ったか、あるいは口が三つ有ったか。
経俊 いや、鼻も一つ、口も一つ。しかしその口とは、かく申す経俊と一つ酒瓶で酌み交わしたのが三日前。しかもこの屋敷の同じ部屋、同じ席にてでございます。お聞きくだりませ、そこには松王が身を縄で縛られておったのです。
重衡 なに、松王とな。
経俊 そうよ、鼻も一つ、口も一つ。その喋る言葉を聞いても、魑魅魍魎の類ではなく、正真正銘の松王でございました。
浄海 三郎が護り運んできた輿の中に松王がいるはずなどないぞ。奇っ怪な。何か子細あってのことか。
盛国 (襖の外から)その仔細、申し上げまする。
盛国登場する。
浄海 盛国よ、松王を捉えたとは真か。彼には申し付けたことがあって、主命を帯びておったのじゃ。これを単なる旅人と看做して捕まえたのなら、この入道に縄をかけたようなもの。何か申し開きすべきことがあるか。
盛国 恐れながら、この盛国が松王を捉えたのではございませぬ。
浄海 それはそうであろうな。ならば、松王を捕まえたというのは、何かの間違いに違いない。
経俊 盛国よ、そう言う松王が真の松王と違っているならば、その目、くりぬいてもよいのだな。
盛国 ははっ。思いもかけぬ珍事とは、次のようなことにてございます。さて昨夕刻、生田の関所で召し捉えましたのは、歳にして十六ほどの若者、親を訪ねて京に上る途中の者でありました。暫く逃れようと刀を振うのを引き捉え、捕まえ置いたのでございますが、執拗に逃げようといたします。不埒にも、狂人ならば人柱を免れること叶うかと謀りまして、突然狂気を装って振る舞いだしました。そこに居合わせておりました松王、散々に三郎を言いくるめ、狂人ならば人柱に適うまい、早々に逃がしてやれなどと勧めるもので、三郎も心を動かされたとみえて、まさに逃がしてしまおうという所でございました。わたくし、その様子を少し前より物陰に隠れて見ておりましたが、その者、もしかすると許されるかもしれぬという気配を見て取って、嬉しさ包み隠せぬ泣声などを巧みに立てておりましたが、私には真の狂人の振る舞いとも思えず、狂気を装って逃げようというたくらみを見誤ることはありませなんだ。遂にその場で白状させまして、三郎に固く保護しておくよう申し渡し、こちらに立ち戻ってまいりました。そこまではこの私の眼前にて見ておりましたので確かでございます。そして、かつて申し合わせておりました時刻違えることなくこの夜明け方、三郎付き添いの上、わたくしのところまで乗り物にて囚人を送ってまいりました。そこで部屋に担ぎ込んでそれを開きましたところ、縄で括られた松王が出てまいりましたことは、何とも思いもよらぬことでありました。それで、三郎にこれはどうした事かと尋ねましたところ、
浄海 ではその三郎をここへ呼べ。
盛国 お指図ではありますが、三郎あまりのことに愕然として、今朝より甚だ調子をこわしておりましてございます。
浄海 ではどうか、一人行って見てまいれ。(侍一人退場)
で、三郎は何と申しておった。
盛国 三郎が申しますには、あの夜、松王が祝い事があるとか申しまして三郎をはじめ、関所の者共に浴びるほど酒を勧めて酔い潰し、人が静まるのを待って真夜中ごろ、あちこちに燃えていた篝火かがりびを消した上で、辻堂内の屋敷牢に押し込めていた囚人を盗んで逃がしてやり、松王自らが代わりとなってその囚人のふりをしておったとのこと。灯火は消えており、木々の間に月も小暗く、松王がすり替わっている事など思いもよらず、それゆえそのまま輿に乗せてここまで運んできたのだと申しております。事情余りにも疑わしくありますゆえ、関所の者どもも集めて問いただしましたが、皆の申すところ何も違うところはありませなんだ。この上は、松王自身を詮議なさる他ないと存じ、あちらに召し連れてまいっております。
浄海 ここへ出せ。
盛国退場。
浄海 我には松王の振る舞い、理解できぬ。
重衡 定めて深い仔細があることでございましょう。
浄海 どのような仔細があり得るものか。
盛国、松王を引き連れて再登場。松王、下手にて平伏する。
浄海 松王、そなた狂ったか。
松王 恐れながら、この松王、狂ってなどございません。
浄海 それは確かか。成る程、その面構え、狂気に陥ったものとも思えぬ。もしそうならば、まずはこの度そなたに申し付けた指図をどのようにしたのか、その報せから聞こう。
松王 ははっ。
浄海 さあ、どのようにした。
松王 最早いかに広く諸国をお捜しなされても、明石のあれに似た女はどこにもおりませぬ。
浄海 怪我をさせてはならぬと申し付けたのに、ひょっとしてそなたの手にかけたのか。
松王 仰せのように、殺害いたしましてございます。
浄海 解せぬ。それは何故じゃ。
松王 哀れその者が申しますには、平家を恨むのが罪でありましたら、天下の人々で罪の無い者はおりませぬでしょうに、一人に責めを負わせるとは、どうしたこと。ご公儀を罵るのが罪ならば、公よりお咎めを受けるべしというのがお定めのはず。なのに、人知れぬよう引き連れて行こうとするのは、恨まれたことへの恨みで密かに報復しようとの下心あるように思われまする。これだけでも平家の非道が知れるではありませんか。ならばその下におる汝は、最早人間ではない、と。我が主を暴虐無道と罵られても、道理ありとして返す言葉なく耐え忍ばねばならぬのが、松王が受けた主命とは思い致らず、無礼極めたこの女の申しよう、堪忍ならぬとつい刺し殺すに至りました。その者の申しましたこのような雑言を、御前憚りながら真似ましたことも、松王がその者を殺害いたしましたことも、止むを得ざることであったと篤とご納得くださいますよう、その者の申しました言い草、逐一真似て言上仕りました。
浄海 黙れ。命の色艶消えた死人に口はないというのに、松王の口を借りてまで我らを罵るその死者の言葉など、聞きとうはない。その者に罪ありとして殺したというのは、たとえそうではあっても、捕らえて来いというのが我の言いつけ、殺せとも言っておらぬのに、そうしたはそれこそ僭越の沙汰。これが罪の一つ目じゃ。また、未だ公の罪状に至ってもおらぬ者を殺したのは、罪なき者を殺害したのと同じこと。これが罪の二つ目じゃ。そのような者をむざむざ松王が手に掛けたのは残念至極とは言え、死んだ者は帰っては来ぬ。これについては、後日の詮議に任せることとする。
 それはそれとして、松王、その方はなぜ我が前におるのだ。生田の関所にて、大事な囚人を盗んで逃がしたのは、天下の恐れを知らぬ振る舞いではないか。いかなる考えのあってのことじゃ。
松王 多言を弄するは、恐縮ではございますが、ご命令を受けたにも関わらず、お役目全うすることができぬ過ちを犯したのに、どうしてそのまま立ち戻って面目が立ちましょうや。この度、築島造営で人柱をお召しなされるとのこと、山、谷に身を隠して不忠の臣となるよりは、長年の大恩のせめて万分の一でもご奉公してお返しできるかと、天が松王に授け賜った機会かと存じました。長年のお情けをもって召し給い、この命を人柱のお役に立てくださいますこと、哀れ松王の切なる願いでございます。お聞き入れくださいますれば、この詰らぬ身にとり本懐至極に存じ上げまする。
浄海 長年いささか目に懸けてやったことを己が心に込めたる志は殊勝なこと。然れども、三郎が己の務めを怠り大事な囚人を盗まれるのを知らなかった過ちは逃れぬとは言え、汝が思いを彼奴に願い出て明らかにすることなく、この入道を驚かせたのは、松王、何故じゃ。召し捕った者を盗んで逃がしたのは、やましい所業としか言いようはなかろう。
松王 罪あるこの身に比べ、罪なき旅人の嘆きを見るのは忍びなかったのでございます。羊が罪なく死にやられるのに、暗愚の君も哀れと思い、畜生ではあってもその羊を許したという故事もあるそうにてございませんか。
浄海 事柄、似ているとはいえ、筋書きは同じではないぞ。羊は法によって選ばれたものではなし、牛と入れ替えることもできよう。また、中国の恵王がその場凌ぎの仁でもって牛と取り替えよと申したのは、将来を見る目の無かった愚。孟子が当座に言った詭弁に相違ない。牛が子を舐めるような親心で家睦まじくすべきではあっても、それだけでは、家を治めることは到底できぬ。家は治めるべきものじゃ。申すようなことは国を治めることを知らぬ見当違い。旅人の嘆きのゆえに逃がしてやったとは何事か。
松王 (傍白)「この場で切腹すれば申し訳は立つであろう。ここに来て命を捨てる道は二つ。ああ、この分れ目まで来て、まだ迷うのか。何と非情なお言いよう。戦場で死を懸けて戦うのを巧名と言うのなら、戦おう。ならば戦おう。いざ現世の権力と戦おう。」
浄海 命を惜しむのは凡夫の常。ならば嘆くのを理由に許すべきであろうか。天は、民の嘆きを知ったかどうかで災いを下すとでも言うのか。
松王 この場にて切腹仕り、一つあるこの命差し上げまする。
盛国 恐れながら、その逃げた者を再び召し捕らえることは、あたかも大海に網を打つようなもの。もし捕ええたとしても、それが明日になるか、明後日になるか。
浄海 とやかく申すな。松王の人柱になりたいという願い、早速に許す。許すぞ。
浄海、退場。
重衡 松王、真に海に沈むのが願いなのか。
松王 地に生まれ、地に死ぬる人間の一生は、そこに起き上がってより目を閉じるだけの間。元来、心残りないこの一身上のことでございます。
業盛 『とは言いながら、』
経俊 『この世の名残、恐ろしき最期』
盛国 『憎まれぬべき命なるに』
侍一人登場
侍 松王殿を部屋に入れておけとの主の仰せである。
松王、侍の導きで退場。その後から盛国と侍、退場。
重衡 何とも痛わしい武人であろうか。
一同見送る様子。それから舞台廻るか、あるいは幕。

第五段


第一場 生田の森


全面の平舞台、上手から下手へかけて一面の森林で、杉、榎、栃、銀杏など、枝を絡ませ葉を雑然と交え、木立は古めかしい。平舞台には、芒や野菊が乱れている辺りに落ち葉を散らす。梢の隙間の所々に星明りを見せる。場所は生田の森の深く、夜景の様子。草の葉に樫の実がはらはらと散る音とともに男装の橘、登場。

橘 矢が風を切るような錠前の響きがまだ耳に残って胸を刺します。別れが惜しいと、刀でこの身が切られる程の想い。恋人よさらばと仰られたのは、お情けであったかもしれませぬが、冷たい、冷たい、冷たいそのお心。お身体を流れる血は氷のように凍っておられるか、そんなお心が胸に沁みまする。逃がしてもらっても、なおこの苦しみ。どうせお助けくださるご慈悲なら、なぜこの苦しみから助けてはくださらぬ。逃げろ、共に逃げよう。来い、行こうとは言ってくださらなかったのですか。お見初めしました恨み、巡り会った恨み、嬉しいと思ったのは、自分の心を偽ってのこと。この身を恨んでも、その体が溶けさってしまわないのはなぜなのでしょうか。この世にある限り、一日二日、三日もすれば、いつかこのような我が本心をお見せすることになってしまうでしょう。お情けをかけていただいて、それに報いたい願いがありながら、脱ぎ捨て置いたのは逆恨み。濡れ衣を着よとあなた様に残した我が心は鬼か、浅ましや。行こうと思っても我が足は前に出ませぬ。ああ松王様、私の父上の命はもう助かり給いませぬ。親子の縁は、これまでも薄く、これまでの身に知られるこの世の因縁も、風前の灯。もしそうであれば、あれあの風の音も何と心細い。苔の下で、もうこの世には居りたまわれぬその時になって、あなた様に罪を負わせることとなりましては、親にも相済みませぬ。愛しい、愛しい父上様の変わり果てたお姿を見るようなこととなれば、その目に会わせてやろうとお逃がし下さったお心は、お情けとは申せませんでしょう。それはむごいと言うより、恐ろしい。御身は残ってどうなさるのですか。残されたこの身はどうなりますか。我ならず御身までも三千世界のなぶり者になってしまいます。思えばこれまで落ちてきたのは魑魅魍魎の落とし穴。この暗い闇の中で魔が誘う手を探ってまいりました。お父様、ああさぞや寒かりましょう。願うのは、ただ御仏のお導きのみ。早くわが身を今来た道へ。
庄司の幽霊、登場。
橘 あれはお父様。
幽霊 橘、我が子か。ああ恋しや。
橘 もうこの世にはおられませぬか。ああ、消えてはくださいますな。この手を引いていってくだされ。
幽霊、橘、退場。
奥の方より狐を模してコーンと叫ぶ声する。千鳥登場。
千鳥 狐は夜も眠らず、露を舐めては森をうろつく。あれ、あちらに見える御殿は庄司様のお館。大方お待ちでございましょう。一つ人魂、あちらに行って中のご様子を。誰も人は居らぬか。なら、少し塀を越えて覗いてきなされ。何、足がすくむ。それならこうして歩いていきなされ。えい、この芒が邪魔をする。この芒が、おお庄司様、これは人に覗かれぬよう結んだ垣根、わたくしとあなた様とが手に手に取って歩いてゆくのを人が見えぬようにようにするための垣根です。覗くのは誰、誰、誰。おお厭らしい、血の付いた人が恐ろしい。コーン。帰ってきたか。おお帰ったらしい。いやいや、近寄ってくる足音や、鐘、太鼓の音は平家の兵隊たち。おお早く夜が明けよ。狐はいま巣に帰ります。コーン。
千鳥、退場。

第二場 福原の御所、大広間


全面の平舞台。正面に上り段を設け、その後ろに四枚の金襖には、雲に飛ぶ龍を墨で描く。上り段のすぐ上には、高く御簾を巻き上げ、緑色の房を飾る。平舞台の上下は、共に墨絵の波頭を腰に描いた銀襖で仕切られている。下手にはつなぎ廊下、上に御簾を揚げて後に垂らす。福原の御所の大広間の壮観。ここに侍を四、五名配し、幕が開く。

侍一 大したものでござるな。
侍二 大したものというよりは、残酷でござる。
侍三 ただ嘆かわしゅうござる。
侍四 何とはなく空まで黄色く見えまする。このような日は二度とござるまい。
侍五 昨夜のあのかわやの裏で狐の鳴くような奇怪な声がしておりましたが。
侍三 拙者も聞きましたぞ。それから今朝方まだ夜も空けやらぬ頃、遠くの沖の海原で怪しい光を見たものがあったとか。漁師や船乗りはその噂話でもちきりであるらしい。
侍一 皆様、生田の森の辺りでこの頃夜な夜な現れる夜鳴き鳥の管狐くだぎつね使いが現れるとのこと、ご存知か。人の見たと言う話では、髪に蓬を被り、若い女の死骸を小脇に抱え、森の梢からひょうと飛び、芒の中に降り立ったと思えば、すぐさま姿を隠すとか。
侍二 なにより不思議なのは、難波三郎殿の行方でござる。先般明月の夜、池の大納言、頼盛殿が月見のお遊びに船で明石まで漕ぎ行かれた。その時、拙者も船中にお供申し上げたが、その際の不審な女のこと、きっと聞かれたことであろう。で、その時以来、難波殿の姿がふつと見えなくなりもうした。人が言うには、その女は、きっと妖怪で、密かに難波殿をかどわかし、食い殺したのではないかとのこと。後で聞けば、松王殿が難波殿の行方を捜して、須磨から陸へ上がられたとのことだが、この度の成り行きも、この妖怪の後を追った祟りであろうと、聞くだけでも身の毛がよだつ。
宗盛と経俊、下手より登場。
経俊 松王の姿をご覧になったか。
宗盛 ああ、いかにも不吉なあの姿、今夜どのような夢をみることか。
業盛下手より登場。
業盛 しかも薄気味悪いあの装いは何ということ。
資盛すけもりと田口成良しげよし、下手より登場。
資盛 あの青ざめた顔を見たか。
成良 この世の幽霊のごときでござる。
侍二人、下手より登場。
侍六 ああ、あれは何の報いだろうか、
侍七 毒蛇の腹の中でとろけ死ぬのは。
重衡と侍二人下手より登場。
重衡 この世に共に生を受けた巡り合わせながら、何と無残な。
侍多数、続々登場。各々着座。公達らは立って顔を見合わせている。
業盛 海の底とはどのようなものであろう。
経俊 月の光も日の光も届かぬ常闇の海の底、そこに仄かな青い光が差してきて、松王のあの姿が浮かび上がってくるならば、いかなる悪竜、毒蛇といえど恐れをなして逃げるに違いあるまい。
資盛 とは言え、胸に鉛を包んで沈められれば、海の水の中で生きのびることなどできまいに。
経俊 なびいて茂る沖の藻の中の、悪鬼の棲家に迷い入り、苦い潮水、喉から吐き返せば、喉を張り裂く苦しみ、助けたまえ、南無阿弥陀仏。
公達一同 南無阿弥陀仏。
これをもって皆着座し、広間の中で悄然としている。間もなく正面の襖が開き、浄海入道が、童子二人、またその後ろに侍女たち多数を従えて登場。襖は開いたままで、その後ろには金彩絢爛な垂れ絹が下がっているのが見える。
浄海 これ重衡、松王が進んで死を願っておる心、いかが思うか。
重衡 旅人の難儀や嘆きを見るに忍ばず、替わってやろうとは、殊勝な志。
浄海 宗盛、そなたはいかに思う。
宗盛 人を殺した報いを空恐ろしく思ったからかと。
経俊 天より罰の降り来るのを待たず、自ら報いを取ったこと、天晴れなる振る舞いかと。
浄海 自ら報いを取ったのは宿命よ。松王は血気盛んな若者。主命を全うできなかった悔しさで、深い思慮無く身の成り行きに窮し、命を何かと煩わしく思ったその際に、一念奮起、血気にはやって恐れを顧みずに囚人解き放ち、自暴自棄の心を晴らすべく自ら囚人と入れ替わったのよ。例えば酒の酔いに乗じて、また酒を浴びたようなもの。もの狂おしい振る舞いではないか。この入道、よい家臣を失ったものじゃ。
 (傍白)「これも人間の妄執、哀れな松王一人だけを咎めてはならぬであろう。世代を受け継ぐ人間の、五体を巡る熱血の、うねる志を持つ稀世の英傑。それが人柱となって渦巻く潮流の中に立つのだ。誰か知ろうか、誰か知るべし。唯目に見せよう。唯目に見るべし。」
松王は白衣白袴で、盛国、小僧都そうず観如上人、その他侍や従僧も下手より登場。侍女三、四名は慌てて退場。
浄海 松王よ、これが見納め。そなたの身、海原の底に投げ捨てて、天下末代までの利益となそう。一期の思い出に何事も許してつかわす。
重衡 罪あっての罰とは思いたまうな。
浄海 いやいや、我らへの忠勤の志の厚い者を罪なく、このような目に会わせようか。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあろう。海に沈んでこそ、罪も消えるであろう。さて、たとえ選ばれたものであってもこの入道から盃を受けることはできぬのだが、松王が自身の過ちを償おうと、我が身を差し出した志の殊勝なことに免じ、盃を取らせてやろう。誰か松王に盃を取らせよ。入道の願文はここにある。御僧、近くへ参れ。
童子一人立って松王に盃を渡す。観如上人が浄海の願文を受け取る間に、松王、盃を戴く。
浄海 またこれまでの果報と捨て身のこと、後世の記念に寺、一山を必ずや建立し、回向怠ること無いであろう。松王、この期に及んで言い残すことはないか。
松王 いかなる因縁か、十三年のご高恩、世の善悪も分からぬ童のころより、このように成人いたしましたのは、偏に君の賜物、冥利至極に存じます。思えばこの身体を自ら絶つには至らず、この世の地水火風から成るこの用無き肉身が、今回のお役に立ちますのは有り難き仕合せ。また、これまでお側に仕えさせていただきましたことをご縁に、死後の弔いをしてくださるとの仰せ、下を憐れみくださるお志に差し上げまする言葉などこの上ございません。至らぬ者のお願いではありますが、そのようなご慈悲の心を、これより世にあまねく人々の心底にお通しくだされば、この世の中、主君ご面前のこの松王のごとき不忠の罪を再び犯そうとするものはもう出てまいりませんでしょう。さては罪科あるものとして長く御前を汚してしまいましたこと心苦しきゆえ、これにておいとま申し上げます。
浄海 そうは言うな。罪を犯すにいたるであろうと知って、汝を遣わしたのではない。自ら作り出した過ち、我を恨む謂われはあるまい。
松王 情けなきお言葉。恨み奉ると仰られますか。そのような言葉我が君の仰ることとは思われませぬ。恨みという言葉のあるこの世には、生きながらえ難きこの身でございます。早々においとまさせて下さいませ。
浄海 いや松王、我が与える罪は、公儀の罪。この期に及んで入道が罪を許さぬとしても恨みに思うな。また、命助けぬからといって嘆くな。
松王 何と残念なことを仰せでございますか。君に捧げたこの命、我、この期に及んで惜しいと思し召す方の心は上には見えず。上には人へのお取り繕い。いざさらばでございます。松王、この胸掻き切って血に染まった一片の真心、お目に懸けまする。
浄海 愚な。松王の我に尽くす志、この入道が知らぬはずはない。身を殺して仁をなす天晴れ、天下に忠義の武士を助けたいと思わぬことがあろうものか。生き残って、平家の世に隠れて奉公をするよりは、死んでこそ余栄あり。衆目を集め、驚かせるにくことなく、ついには世に勝とう。さらば、行け。
浄海退場。童子の一人、銀の刀を受け取って、松王に渡す。従者の列一同退場。
松王 皆様とも最早これまで。この歳月の恩恵お礼申し上げまする。これよりの世の成り行き、唯皆様のお心次第。ご一門のご繁栄、藻を担いでも祈るでありましょう。『申さじ言わんの胸の裏、潮となって湧くならば、消えゆく泡は世の中の、栄華の夢とご覧ぜよ』 おさらばでござる。
重衡 (傍白)「『嵐に散って後にこそ 心を花と知る人あらめ』」
松王が下手の渡り廊下に行きかかった時、突然後ろの簾を押し分けて妹尾三郎登場する。
三郎 松王殿、お許しあれ。情けない最期じゃ。見苦しき最期じゃ。これで別れとは情けないわい。
松王 我は嬉しくて死ぬ。海の底には蔵された宝があるゆえにな。
宗盛 (傍白)これ松王、幽霊になっては出てきてはいかんぞ。
ここで舞台廻るか、あるいは幕。

第三場 兵庫の浜にて


一面の平舞台。舞台前面には波幕を一枚張り、後ろは砂地で、海の方から陸に対している様子に拵える。正面は木立を隔てて船見浜、浦の御所を望む。舞台書割は浜辺の様子を描いている。後ろには立ち木がまばらにある。上手から下手に向かっては竹矢来を設け、全て兵庫の浜辺、人柱の儀式場の様子。やや下手には、松王が白衣白袴で、白い鞍を置いた白馬にまたがっている。ずっと上手には、成良と盛国が置かれた床几に腰かけている。その後ろには、侍達や役人が座っている。矢来の後ろには多くの見物人。舞台中央には、比叡山の観如上人と従僧三、四人。浜辺の砂地にある黒幕が切り落とされると、観如上人、今にも読経を終えた様子で、浄海の願文を捧げて、

観如上人 (読み上げる)「弟子入道浄海、謹んで申し奉る。以て懇ごろに祈るところ響応すること必ず違わず。従前の諸々の願い、霊験常に新たなり。この弟子もとより因縁ありて前人の鑑明らかに、既に来世に頼るものかな。伏して思うに、弟子帝業の繁昌に志し、片時も忘れるべからず。兆民の福利を思って、日夕に心を砕く。密かに諸仏天神の冥護を期し、衆生への廻施嘗て絶えず。いよいよ敬仰に向かう。天神の来臨たまわる霊験あらたかなる祈請の筵にて、聊か訴え申すことあり。弟子退きて思うに、当年土壌を返し蒼海の一角を治めしは、これ実に百代の交通の利益を鑑み、万世の舟船が波濤の災いを払わんがためなり。然るところ、一朝の暴風、これおそらくは龍王の憤りをなすものか。濁浪渤然として柱石震盪しんとうし、俄かに崩落すること、既に一再に及びぬ。何ぞそれ然るや。当今朝廷、正道を踏み、従来弟子、功徳を積む。固よりこれ果報あるべきの善業をや。つらつら思うに、月は雨に会って影を蔵すといえども、光を朦朧の境に現し、花は風に散って色を滅すといえども、香を薫発の袖に留む。眼前の変幻深く怪しむに足らず。物表の真実、偏に頼むに耐えたり。龍神何ぞ我らを捨てん。天神の遂に助けざらんや。半歳の民業は、千歳の王威を輝かすべし。即ち更に築営を図りぬ。根基磐石、時長きに大波を凌がんがため、石を積み畳むに先立って、人身を海底に沈め、謹んで海龍王に献ず。それ代は末世に及び、時は末法に属す。天子御まつりごと、何ぞ天心に背くことあらん。万民の所為に到りては、定めて過ちを犯す者あらん。この万民の過ちを諭すがために民の一人を送り、且つ石刻の経を奉納し海底に安置せん。即ちこの供養を以って願わくば、将来の災害を絶たん。これに三界の諸天を驚かせ奉ること、偏にこの儀により、四海の龍王を集めまみえて、その憤りを留めしむ。この言、必ず上天の聞に達し、自ずからこの下土永く景勝の地の利を受けん。鎮護、直ちに来るにおいては、成算遠からず成就すべし。今日の願旨、斯くの如し。太政大臣正一位大禅定入道浄海、謹んで申し奉る。」
願文高らかに読み終わり、ゆっくり歩いて上手によろしく辞する。
松王 (傍白)民の一人を以って万人の過ちを諭すとな。松王のこの身を以って代わるのであれば、あはれ願わくば、天下に一人も残さず彼らの過ちにとって代るべし。しかしそれならば、過ち無き人には誰が代わるのか。さらば今こそ知った、この松王、この身を以って天下が過ちに代わるものと。恨みも消えてこれ本懐なり。
奥の方、騒然とする。正面後ろの矢来をくぐって橘登場。
松王 (傍白)「見よ、これこそそなたの恋人。」
橘 嬉しや、あなた様とまだ世を隔ててはおりませんでしたか。懐かしい松王様、何事ですか、そのお姿は嘆かわしい。神様、仏様、情けないこの身の過ちを許してくださいませ。恋に乱れた心ゆえに、言われたままに逃げましたこと、あなた様のお言葉を聞き過ぎました。自分に罪あることを知りながら、あなた様を捨ててまいりましたのは畜生にも劣る心。許してくだされ、松王様。このつれなく悲しい世の中で、親とも生き別れた憂き身の果ての置き場所は、海の底しかございません。ああ、死んではくださいますな。この身こそが死ぬべき定めで捕らわれましたものを。もうこのまま死にまする。後に残ってくださりませ。何も心を尽くすことのできぬこの身、他生の縁とは言え命を替わっていただくとは勿体ない。勿体ない、身に余るお情けを何に包みましょうか。この嬉しさ、死出の山路を辿りつつ思い出しては泣きまする。(鞍にすがって、かき口説く)
松王 (傍白)「来臨されし諸天の神よ、この人を憐れみたまえ。そなたの真心は、世を隔てても忘れはいたさぬ。ああ無残にも間に合わなかったか。物事既に定まったうえは、お心は忘れはいたさぬ。今は早くこの場を去り、いずこにでも身をお隠しなされ。願い、ああ願い、願いじゃ。」
 これ旅人、早くこの場を去られよ。
この終わりの一言で語調が変わり、わざと声高く言い放つ。
橘 隔ててしまわれるのか。ああ恨めしい。
松王 御身のために殺すこの身ではない。恨みに思いたまうな。さて警護の面々、盛国殿、この人に過ちがないよう、この場から去らしてくだされ。松王最期のお頼みでございます。
盛国 汝、先達ての旅人よ、何故に弁えもせず松王殿の難儀に替わってやろうというのか。アイや、遅れたな、もう手遅れ。そのような願いでこの厳かな祈請の筵の邪魔をいたすは憚り、罪である。直ちに立ち退かれよ。
橘 今はこれまで。松王様、お父様、またお会いいたします。
懐剣を抜き、自ら胸を刺す。
橘 ああ我が恋人、死んでしまえば嬉しくおすがりいたします。
盛国 霊場に血。
成良 汚したな。
松王 南無阿弥陀仏。進め我が馬。(海に乗り入れる)
盛国 (傍白)「何と、実はこれ女人であったか…… わざわざ松王を訪ねて来たとは。その志を誉め、よしそなたの屍体、この盛国が隠してやろう。」
盛国、上着を脱ぐか袖を切るかして橘を覆う。その時、奥の方が騒然とし、正面の矢来をくぐって千鳥登場。
侍 すわ狼藉。狂人、狂人。
千鳥 平家の極悪人ども、ここに集って何をしておる。那須野の原の年老いた狐はコーン、コーンと人の手には負えぬぞ。恨めしい平家の一門、今に見よ。取り殺してやる。狐つきして取り殺してやる。
見物騒然とする。
千鳥 おお、これ押して何するつもりか。その心、おお我が姫君に会わそうとか。ええ、悪人の平家が連れて行ったものなら地を探してでも、天を、
舞台の床に仕掛けがあって、松王次第に海に乗り入れ、波が腰の辺りを濡らすに到って、手の届く辺りの水面に一枚の金箋が空よりひらひらと舞い降りてくる。盛国、千鳥が「天を」と言って空を仰いだ時に刀で刺す。
千鳥 あれ鶴が、鶴が。(倒れる)
二羽一対の仕掛けの鶴が舞台の上を高く飛び過ぎる。
松王 (金箋を読む)『人の世の 辛きためしを見し田鶴は 古巣やいかに恋しからむ』 ああ、これは小松の大臣、重盛様。有り難や、正等正覚。
一気に深みに落ち込む仕掛けがあって、松王、空を仰ぎ波幕の中に頭を没す。ただ、金箋を懐に入れて合掌するか、海に捨てて合掌するか、また掴んだまま合掌するか、やり方は色々あろう。小僧都と従僧、数珠をもんで合掌。盛国も刀を投げ捨てて合掌。
一同 南無阿弥陀仏。
こう唱えて幕。
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登場人物:

松王 清盛の小姓侍、本戯曲の主人公。
橘 庄司の娘、明石で松王に想いを寄せるようになる。
千鳥 橘の侍女。
庄司 橘の父。兎餓野荘園司であったが、平家の不当な扱いで所領を失っている。幽霊となり橘の元に現れる。
浄海入道、平清盛 すでに平家の世を確立し、築島造営を進めている。
平頼盛(よりもり) 清盛の弟、池大納言。
平重盛(しげもり) 清盛の息子、小松殿。清盛に築島を思い留めようとしている。
平基盛(もともり) 清盛の息子。
平宗盛(むねもり) 清盛の息子。明石で会った橘に懸想する。
平重衡(しげひら) 清盛の息子。
平経俊(つねとし) 清盛の息子らの従弟。
平業盛(なりもり) 清盛の息子らの従弟。
平資盛(すけもり) 重盛の息子。
盛国 侍。
難波六郎 侍。かつて橘を見て恋慕の情を抱いている。
妹尾三郎 侍。人柱を得るため、清盛から関守に任じられている。
田口成良(しげよし) 清盛御家人。清盛から新たに築島を命じられている。
松風 侍女。
束の侍従 女房。
観如上人 比叡山の小僧都。
その他、侍女たち、侍たち、船乗りたち、従者たち、百姓たち、人夫たち、役人たち、童子たち、見物人。

訳注:

* 底本では、経盛。以下の理由で経俊に変更した。経盛の登場、経俊の退場がト書きに明示されておらず、経盛だとすると、この一文は非常に唐突であること。平経盛は、経俊の父親で、その立場と歌とが不一致であること。宗経と経俊は掛け合いをするコンビとして描かれており、ここの歌は彼らが唱和していると考えるのが自然であること。この歌のシニカルな詠み振りからして、本作に描かれた経俊の人物像と符合すること。ただそうだとしても、この混乱がどの時点で混入したかは現時点では不明。





翻訳の底本:「子規全集 第二十巻研究編著「古白遺稿」」講談社
   1976(昭和51)年3月18日第1刷
   上記の翻訳底本は、著作権が失効しています。
翻訳者:藤井英男
   2016年5月17日初訳
   2016年7月21日改訳
※この翻訳は「クリエイティブ・コモンズ 表示 2.1 日本 ライセンス」(https://creativecommons.org/licenses/by/2.1/jp/)によって公開されています。
Creative Commons License
2016年10月2日作成
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