小指一本の大試合

山中峯太郎




すごい「ブル」


「きみ! ブルはなまいきじゃないか?」と、一人ひとりが小声で、ささやくと、
「そうだよ、ブルはなまいきだとも! あんなにいばる男は、世界じゅうにないぜ」と、別の一人が答える。しかし、これも小声だ。
 みんなが「ブルはなまいきだ」という。けれど、大きな声でいうものは一人ひとりもない。ブルにきこえたら、それこそ、どんな目にあわされるかしれないからだ。なにしろブルは強い。すごく強いんだ。拳闘けんとうの第一選手だし、おまけに、非常ならんぼうものだ。だれ一人、ブルにかなうものはない。
「来たよ来たよ、だまって!」
 ブルがくると、だれもだまってしまう。うっかりして、相手になると、すぐにらんぼうされるからだ。それほど、みんながブルを、こわがってる。ガンと一つ顔でもなぐられたら、ほおが五もいたんで、一きれのパンも、かめなくなる。スープばかりっていなければならない、という評判ひょうばんなのだ。
 そんな評判が、ほんとうだろうか? しかし、ブルの顔とからだつきを見ると、だれでも「なるほど」と思わずにいられない。――犬に「ブルドッグ」というのがいる。からだのはばがひろくて、骨組ほねぐみが太い。肉という肉がはりきってる。頭が大きくてまるい。鼻は低くて上を向いてる。下のあごが上のあごよりつき出ていて、口がひらべったく大きい。かみついたとなったら、死んでもはなさない。すごい猛犬もうけんだ。この猛犬の「ブルドッグ」と、いまみんなが「なまいき」だというブルとは、顔も、からだつきも、かみついたら、死んでもはなさないというすごい性質まで、そっくり似てるんだ。いや、似てるから「ブル」とあだ名をつけたのだ。ほんとうの名前は「ポール」だ。けれど、だれも、「ポール」なんて、やさしいかたをするものは、一人ひとりもいない。かげで「ブル」「ブル」という。そのブルと顔を見合わせたときは、ソッとだまってしまう。
 すると、ブルは、みんながだまって、相手にしなくなったから、二、三日前から一人でおこってる。おこっても、相手がないから、けんかができない。そこで、洗濯代せんたくだいをはらわずにいるのだ。すると、洗濯屋のジョージが、さいそくにきた。このジョージも強い。牧場で牛があばれだしたとき、走っていってとりおさえたのは、ジョージの力だ。
「ポールさん、洗濯代をはらってください」と、ジョージがきていうと、
「なに?」ブルが下あごをつき出して、ニヤリとわらった。
 さあブルのらんぼうがはじまるぞ! と、みんなが青くなった。ちょうど食堂にいたときだ。中には焼き肉を半分、食いかけたままで、コソコソとげだしたものもいる。ぼくは、このとき、すみの方で、ジャガイモを食いかけていた。
「なにって、前の月の洗濯代せんたくだいが、まだいただかずにあるんです。ぼくが主人にさいそくされて、こまってるんですから、どうかおはらいください、ポールさん」と、ジョージがブルに、ていねいにいってる。
「ハッハッハッ」と、ブルが、わらったかと思うと、いきなりどなりだした。
「ヤイ、ジョージ! きさまはおれに、はじをかかせたな、みんなの前で、さいそくなんかしやがって、こい! もすこし前へこい!」
「いや、恥をかかせるなんて、そんなことが、あるもんですか。みんなの前でとおっしゃっても、ここの倶楽部くらぶの方ばかりで、みなさんはなかのいい兄弟のような方じゃありませんか」と、ジョージが、やさしくいうと、
「だまれッ! なにが兄弟だ。きさままでおれに反対するかッ」
 と、いきなりブルが立ち上がった、と思うと、ジョージにとびかかっていった。ジョージもおこった。ものもいわずにブルへ打ってかかる。打たれてブルはすごく顔色をかえた。と見るまに組みついた。大げんか、大格闘だいかくとうになった。みんながバラバラとげだした。けんかをとめたりしたら、あとで、「ヤイ、なぜとめた。おれの勝つけんかを、なぜとめた」と、ブルがくってかかる。しかし、だまって見てたら、
「きさま、なぜ見てた。なぜ加勢しなかった」と、やはりおこってくる。もしも加勢したら、「オイ、おれが弱いと思ったのか。さあこい、きさまが相手だ」と、どうしてもつっかかってくる。それを知ってるから、みんなが逃げだしてしまって、ぼくばかりのこった。ジャガイモを食いながら、目の前の大格闘を見てると、
「エイッ!」すごい気合いとともに、ブルが、ジョージのからだを、つり上げた、と思うと、
「ウッ」ジョージが、ブルに、しがみついた。
「な、なにをッ!」
 と、すごい力をからだ中にこめたブル、いきなり、ジョージをかたの上までグッとさしあげると、そのまま下へ力いっぱい投げつけた。
「ウーン」と、いったきり、さすがのジョージも、ゆかの上にひらたくなったまま、肩で息をしてる。起きられないのだ。
 ブルは、息もつかずに、ぼくの方を、ジロリと見て、
「どうだ? おれに手向かいするやつは、ヘッ、こんなものだぞ!」
 と、いうと、廊下ろうかの方へ、ノソリノソリと出ていった。どうしたのか、ぼくにくってかからない。――ハハア、ブルのやつ、ぼくが日本人だから、すこしはこわがってるんかな? と、そう思いながら、ぼくはジョージのたおれてるところへいって、だきおこしてやった。

うっかりいった冗談じょうだん


 ブルは、牛より強いジョージに勝ってから、いよいよらんぼうになった。洗濯代せんたくだいばかりでなく、倶楽部くらぶの代金まで、まるではらわなくなった。この倶楽部くらぶというのは、学生の寄宿舎なのだ。名前を「ラサハ倶楽部くらぶ」という。「ラサハ」というのは、ギリシャのことばで、「友だちの愛」という意味だ。ところが、ブル一人ひとりのらんぼうで、みんながビクビクしてる。「友だちの愛」が、ブルのために、やぶれてるのだ。このみんなは、カリフォルニヤ大学の学生で、その大学は、米国べいこくの大都会サンフランシスコにある。ぼくは、和歌山中学わかやまちゅうがくを卒業してから、このカリフォルニヤ大学へはいって、そして、ラサハ倶楽部くらぶに、寄宿してたのだ。日本人はぼくばかり、ほかはみんな、米国人だ。ブルを合わせて四十八人、そのほかに、フランクという倶楽部長くらぶちょうがいた。このフランクが、ぼくの部屋へやへきて、ほんとうにこまってる顔をしながら、
内村うちむら君、ブルが下宿代をはらわないんだ。しかし、追い出すといったりしたら、それこそたいへんだしね。どうしたものだろう?」と、相談しだした。
「さあ、拳闘けんとうの第一選手だというんだから、いばらしておくさ」と、ぼくは、ブルなんかなんとも思ってない。すると、
「ただいばるだけならいいが、ブルがいるので、倶楽部くらぶを出ていくものもあるしね、なんとかならないものだろうか?」と、倶楽部長くらぶちょうフランクが小声でいう。
「なんとかならないものかって、どうするんだ?」と、きいてみると、
「きみはこの前、ブルが洗濯屋せんたくやのジョージを、たたきつけたときに、一人ひとりでジャガイモを食ってたそうだね、ほんとうかい?」と、また、たずねる。
「ウン、食ってたよ、うまかった」
「フウム、すると、ほんとうだね。それがみんなの評判ひょうばんになってるんだが、きみは、いったい、ブルがこわかないのかい」
「べつにこわかないね」
「ホウ、すると、どうだろう? きみとブルと試合したら、どっちが勝つと思うね? 内村君うちむらくん
「それあ、やってみないとわからないさ。しかし、まず負けることはあるまいね」
「エッ、きみ、すると、勝てるつもりかい、ほんとうに?」
「そうさ、日本人は勝つといったら勝つよ」
「フウム、やはり、拳闘けんとうでやるかい? 試合となったら」
「なあに、拳闘なんか、いらないだろう。ブルが相手なら。そうだね、まず、小指一本さ」
「エエッ? 小、小指、一本? きみ、それあ、まったくかい? 小指一本?」
 と、うっかり「小指一本」とぼくがいったのを、倶楽部長くらぶちょうのフランクは、びっくりしてしまって、自分の小指を出して見せながら、
「こ、これで、きみ、ブルに勝つというのかい?」と、目をみはって、真剣しんけんにたずねる。
 さあぼくは弱った。フランクの真剣な顔を見ると、「いまいったのはちがうよ、うそだよ、冗談じょうだんだよ」ともいえなくなってしまった。しかたがないから思いきって、
「ウン、まず小指一本、……で、いいだろう」と、いうと、
「ありがたいッ! 実にありがたい!」と、フランクが、いきなり立ち上がった。と思うと、
「きみはラサハ倶楽部くらぶの救い主だ!」と、大声でさけびだしながら、部屋へやを出ていってしまった。

どうもしかたがない


 これからがたいへんだ。フランクが倶楽部くらぶじゅうのものに、「内村うちむらは小指一本でポールに勝つといってる」と話したらしい。すぐにポールのブルがききつけて、カンカンにおこったのだ。いきなり、拳闘試合けんとうじあいをぼくに申し込んできた。どうもしかたがない。「よろしい。やろう!」とぼくもすぐに返事した。すると、この試合の評判ひょうばんが、大学じゅうにひろがってしまった。大学でもポールの別の名はブルだ。そこで、
「ブルを小指一本で、日本人の内村うちむらが、投げとばすそうだ」という大評判なのだ。小指のことを、英語で「赤ん坊の指ベービイフィンガア」という。大きな牛のようなブルを、あかの指一本でなげとばすというんだから、この大評判が、とうとう、新聞にまで出てしまった。いよいよ、大さわぎになって、ミス・ネールという金持ちのおじょうさんは、この試合に二十万円の懸賞けんしょうを出すと、これまた新聞に書かせてしまった。なにしろブルは、拳闘けんとうの第一選手だ。いままでにも名前が知れてる。そのブルとあかの指一本の試合だ。そこへ二十万円の懸賞! さあもう、たいへんな人気だ。
 ところが、ぼくは一時に有名になってしまって、なお弱った。和歌山中学わかやまちゅうがく関口流せきぐちりゅう柔道じゅうどうを、初段しょだんくらいまでおそわったのだ。だから、ブルをこわがりもしないし、試合したって、三回が三回とも負けるとは思わない。が、しかし、なにしろ「小指一本」には、どうしたらいいか、自分でもわからないんだ。倶楽部長くらぶちょうのフランクに、ふと冗談じょうだんにいったのを、とても後悔こうかいしたが、もういまのような大評判になっては、追いつかない。食堂へいくたびに、ブルはブルで、ぼくの小指ばかり、にらんでる。みんなはまた、ブルのいないところで、
内村うちむら君、きみの赤ん坊の指ベービイフィンガアを大事にしたまえよ!」と、本気になっていう。
 新聞記者がまいにち、写真機を持ってきて、
「内村君の赤ん坊の指ベービイフィンガアをうつさしてくれ」と、たのみにくる。日本の柔道じゅうどうには、小指一本で勝つ術があるのだと、みんなが信じてるのだ。
 写真はもちろん、うつさせなかった。が、ぼくは気が気でない。しかし、弱った顔は見せられない。心のうちで大弱りに弱ってると、いよいよ試合の日になった。倶楽部くらぶのテニスコートが、この日の試合場だ。審判官しんぱんかん一人ひとりときめてフランクがなる。ところが、朝、夜の明けないうちから見物人がくるわくるわ、巡査じゅんさが交通のとりしまりに十六人もかけつけてきたというさわぎだ。どうもしかたがない。

 ――ブルとぼくの小指一本の試合だ!
 ブルは牛みたいなからだに、拳闘けんとうのしたくをかためて、堂々とあらわれた。ぼくは背広服せびろふく上着うわぎをぬいだきりだ。柔道じゅうどう稽古着けいこぎも持ってないし、わざと平気な顔をして出ていくと、
「ワーッ」と、四方の見物席はたいへんなさわぎだ。そこでブルとぼくが両方にはなれて立った。
 審判官しんぱんかんのフランクが、時計とけいを見ながら、
「はじめ!」と、ふるえ声でいった。第一回の勝負は三分できめるんだ。
 見ると、ブル、今日きょうはまた一だんとすごい顔をしかめて、両手を前につき出しながら、ジリジリ、ジリジリとよってくる。――きたナ! と、ぼくも身がまえながら、ヒョイと顔の前に左の小指を出してふった。すると、
「ワアーッ! ワア――」と、何千人という見物人が声をあげて、パチパチと手をたたくひびきがらいのようだ。
試合の挿絵
 ブルがまっかになった。ぼくの小指を、にらみながら、目が血ばしってる。ぼくはヒクヒクとまた小指をふって見せた。ブルがまっさおになってきた。小指一本が、どんな術があるのかと、気味がわるいらしい。一メートルほど前から近よってこない。両腕りょううでを上下につき出して、顔を低くして、一生けんめいに、ぼくの小指を、にらんでる。そのまま身うごきもしない。こうなると、ぼくは急に愉快になってきた。ふいに、
こいカムオン!」と、小指をヒクヒクふると、
「…………」ブルが顔をしかめて、ビクッとする。
「ワアーッ」と、見物人はますます声をあげる。
こいカムオン!」
「…………」ブル、まっさおだ。あせをながしてる。
「ワアーッ」バチバチバチバチ。「ワアーッ」
こいカムオン!」ヒクヒク。
「…………」ブル、まったく汗だらけだ。
「あと二十秒!」フランクがいう。
「…………」ブル、また赤くなってきた。
こいカムオン!」ヒクヒクヒク。
「…………」ブル、目がすわってきた。
「あと十秒! ……五秒! ……」
 フランクのことばとともに、そのとき、サッとブルが小指へとびかかってきた、にもとまらぬ電光石火、ハッと身をしずめたぼく、頭の上にブルのうでむねがのびてるやつを、そのままの背負せおいなげ! 敵の力で敵をなげる柔道じゅうどうの、これこそ術だ、みごとにきまって、
「エエイッ!」
 ブルのでかいからだがかるくて紙一枚のようだ、とびかかってきた自分の力でさかおとしに、ドスーンとむこうへ宙返ちゅうがえりを打った、と、ぼくはヒラリと左の小指を上げた。
 見物人が総立ちになった、さあたいへんだ! ツンボになるような「ワアーッ、ワワワワワ――」という声が、ぼくの小指一本にあつまってる。フランクもボンヤリしてる。ところが、見ると、ブルがたおれたままだ。テニスコートのかたいコンクリートの上へ、背負いなげでたたきつけられて、長くなってる。いってみると、目をまわしてるんだ。そこでぼくがうつむいて、手をのばすと、見物人がシーンとしずまった。――よし! と、ぼくは考えて、ブルのはらの上へ、うつむいた。柔道には「腹活ふっかつ」という手がある。腹へ活を入れて、目をまわしてる相手の息をふきかえさせる、これまた術だ。ぼくは、ブルの腹へ、右手で、
「エイッ!」と、活を入れて、左の小指をスッと上げた、そしてヒクヒク動かしてるうちに、
「ウウーン」ブルが、うなると、ムクムク起きあがった、が、ぼくの顔と小指を見ると、おそろしそうに顔色をかえた。
「どうだ? ポール!」と、いうと、
「…………」ブルのポールが、ふるえながら、ぼくの右手をにぎりしめて頭を下げた。
 見物人がみんな四方からワアーッとおりて走ってきた。
 あとはいわなくてもいいだろう。ポールはおとなしくなって、ラサハ倶楽部くらぶは「友だちの愛」でさかんになるし、倶楽部長フランクは大よろこびさ。なに? 懸賞けんしょうの二十万円なんか、だれがもらうものか、ミス・ネールにソックリ返してやったよ。
(昭和六年一月号)





底本:「少年倶楽部名作選3 少年詩・童謡ほか」講談社
   1966(昭和41)年12月17日発行
底本の親本:「少年倶楽部」講談社
   1931(昭和6)年1月号
初出:「少年倶楽部」講談社
   1931(昭和6)年1月号
※嶺田弘(1900(明治33)年2月1日〜1965(昭和40)年9月28日)の挿絵を同梱しました。
入力:sogo
校正:雪森
2017年1月1日作成
2017年1月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。





●表記について


●図書カード