社日桜というのは、町の西端れの田圃の中に突出している丘の突端の、社日さんの石碑の傍にあった。昔はこの一本の桜で、丘中が花で埋まったと言われた。余程枝を張った木だったと見えて、近くでは一面に花しか見えず、遠くからは、大きな白雲の様だったと言われた。
社日さんというのは、五風十雨の平穏や、豊饒を祈る農家の人々の心のささえとなった神様であったが、誰が植えたか、この桜は、幹も枝も栄えて何時とはなしに、神様の座にとって代って、春の恵みを施す場所になってしまった。
子供達は、丘の芝生の中のこの桜の枯れた大きな株と、その株から出た一、二本の腕位なひこばえと、これを取り巻く麦畑と桑畑を見るたびに、話の様な花を想って見た。この一本の木に花を集めて、春を惜しんだ昔の人々――此辺の土の中には、幾世代にもわたる彼等の先祖のこぼした花見の酒や賑わいが、しみ込んでいる筈であった。
子供達は、やがては発明されるであろう、こんなものの検出出来る機械の出すかちかちという音を、聞く様な気がしないわけにはゆかなかった。
安来千軒名の出たところ社日桜に十神山
木は枯れてしまったけれど、花はまだ唄の中には咲いていた。町の人達は千軒の家と、十神山があるのに、この花がないままにしてはおけなかった。
その頃は、日本の各地にあった名木の更生期で、次々に枯れて行った。でも、名木を仕立てる様な気長な時間はもうそこにはなく、日本の各地がそうした様に、町の人達も亦此所へ沢山の若木を植えた。一番派手で一番成長の早い木を選んで植えた。そして、十年とたたないうちに、この丘一杯を花にしてしまった。
それは此所だけではなかった。各地共一緒で、花は個から群へ、群から団へと、結束させられて、ワッショワッショと春に向って、行進させられる事になった。
染井吉野は、そういう花にちがいなかった。然し、この丘を一つ越した次の丘の段々畑や、山の麓の農家の軒先などには、ひとりあるともなしに咲いている山桜などが、人に代って、静かにゆく春を惜しんでいる事は、昔と少しも変らなかった。