子供達は二月は冷凍された。それも炬燵にあたったままで冷凍された。町は冷蔵庫で雪、雪、雪。軒先からは真白に凍て付いた、鉄管の
節分がすむと御寺の門には、立春大吉の紙札が張られて、季節の扉があけられたが、でもそれは暦の上のことで、寒さは一層きびしかった。でもこんな時候に相応して、そこには
子供達のおやつには
それはそうと子供達の二月の蕾は固かったが、中味は雪を冠った中庭の南天の実のように赤かった。子供達は着ぶくれて丸められていたが、雪のやみまには藁靴をはき、雪掻きをかついで外を馳けまわった。そして、真白い田圃の向うの真白い重なり合った山々から、細い青い煙の上るのを見た。一本二本三本四本――。あんな遠い雪の山の中にも人がいるのか――かすかではあったが、いのちの合図をしているような炭焼く煙――子供達はどんなにかこんな遙かな人を思い慕った事であろう。
其頃は雪はよく降った。一尺から二尺位も度々積った。朝から一間先も見えない程な、牡丹雪が降ったりした。子供達はこんな日には表の間の、
天は渦が舞う、下は雪が降る
牡丹芍薬、百合の花
音もなく舞い狂って降る雪は、見る見るうちに子供達のからだの中にも積って行った。こんな日にはよく牡丹芍薬、百合の花
西明寺入道北条時頼であった旅僧が、留守居の妻女に一夜の宿を断られて、降りしきる大雪の中に消えて行く――帰って来てこれを聞いたこの家の当主、佐野の落魄した領主、源左衛門常世は、呼びもどそうと後を追うて行く――そして雪の向うに行きなやんでいる旅僧を、声を限りに呼んだあの声――その声がお媼さんの声と一つになって、この昔の話に積った雪がそっくりそのまま今お媼さんに降り、子供達にも降ったのはどうした事であったろう。この話では呼び戻そうとした対手は、旅僧であるように思われるが、実は見失いそうな人間を自分自身の中から呼び返えそうとする人の必死な思い――そういうものにこの雪は降ったのかもわからない。それにしてもこのお媼さんは蜆を売りに来て雪を買わされたのではないだろうかと、子供達はいつまでも気にかかった。
そこには又後年近江聖人と言われた少年、中江藤樹が修業にやられていた、伊予の国大洲の町から、母の病気を気付かって遙々故郷近江の国、大溝に辿りつくなり、上にも上げられずに、庭先から追い帰された話があった。雪の日に凍えながら元来た道を引き返して行ったこの少年に、子供達は痛い処を突かれてやり切れなくなった。
其頃の子供達の家の床の間には、よく粗末な墨絵の幅がかかっていた。その一つに切り立った雪の山を背景にして薄墨色の江上に、笹の葉程な舟を浮べて、一人釣りしている絵があった。つくね芋のような山又山が、今にも崩れ落ちそうに雪を冠っているのはおかしかったが、よく見ると蓑笠をつけたこの漁人は、腕程もある竿に太い縄程な糸を垂らしている。何を釣ろうとするのか、すべてはあり得ないものが、そこにはあった。でも雪景色である事には違いなく、如何にも大雪らしかった。それで上の空所に「独釣寒江雪」と賛が書き入れてあった。これは子供達にはおかしな事であった。というのは、そんな説明はされる迄もなく、誰にだって意味の解る絵であったから、でもこの絵は何も彼も嘘であるのにも拘わらず、その嘘を越えて何物かがあった。後になって解った事ではあるが、この賛は素晴らしい事を言っていたのだ。魚を釣っていると読めば、馬鹿げた蛇足で贅言で滑稽ではあるが、然し雪を釣っていると読めばとたんに意味を持った。多分賛者はそれを意図したのであろう。そう解釈したい。そうでなかったなら、こんな絵はとうにうさって(失っている意)いた筈である。釣から言えば、釣魚なんか、ほんのかけ出しの初歩なのだそうだ。次には自分を釣る事になるのだそうだ。それを越えると、釣れないものはなくなるのだそうだ。月であろうと雲であろうと、猪でも、鹿でも釣れるのだそうだ。そうだ真直な釣針を垂らしていて、帝王を釣った人さえいたと言われるから、釣も亦面白いが、さてこうした釣も最後には何処へ行きつくのだろう――こんな絵も亦この雪の日のお媼さんとつながっていたとは、どういう訳であったのであろう。二月は子供達にものを思わす月であった。