初旅の残像

安倍能成




 ここに初旅といふのは新春の旅といふ意味ではなく、生れて初めての旅といふことであり、それを更に説明すれば、生れて初めて宿屋に泊つた経験といふことである。この間寺田さんの「初旅」といふ文章を読んで居たら、ふと私自身の初旅を想ひ出し、それを書いて見る気になつたのである。
 私の初旅は中学一年の頃だから、私の十四の夏のことであつた。明治二十九年、ちやうど日清戦争の翌年であつた。旅行の目的は四国第一の高山石鎚いしづち山に登ることであつた。私の少年の頃「お山行(やまゆき)」といへば石鎚登山の連中を指した。夏になると家に居る子供を妙にそそのかす法螺貝の音が時々響いて来る。「そらお山行ぢや」と私達は街頭に出て行つて、その「お山行」から石楠花の枝をもらふのがおきまりであつた。「お山行」の連中は皆白装束、白の脚絆、白の手甲をして居り、先達に率ゐられた村々の団体だつたらしい。石楠花の枝をもらはなかつた記憶がないから、いつも帰りの連中であつたのか、往きの連中はどうしたのか、そこはよく分らない。どこの霊山にもあるやうに、精進のわるい者、偽を言ふ者は天狗に投げ飛ばされるといふやうな話は、子供の時からよく聞かされて居た。
 松山市を囲む小さな道後平野を限つて、北には高縄たかなは山があり、南と東とに亙つて障子山、三坂峠、北ヶ森、遅越峠、石墨山などの連峯が屏風のやうにそそり立つてゐる形は、少年の眼には高山らしい威力を以て迫つた。その東の方の隅に凹字形をした石鎚山が奥深く控へて、その時々の気象によつて或は黒く、或はほのかに、或は紫に、或は真白にこちらをのぞいてゐる姿は、「お山行」と共に長い親しみ深い威容であつた。
 私達をお山へ連れて行つてくれたのは、今正金銀行に居る岸の駿はやさんのおとうさんで、我々が岸のおいさん(おぢさん)と称して居た人であり、親族ではなかつたが親族同様に親しくして居た家であつた。岸のおばさんは正岡子規の母堂の妹で、駿さんは子規の従弟である。このおいさんは県庁の役人を止めてから、地方銀行の監査役の外に何をして居たのか知らぬが、私達の身の鍛錬の為によく私達を海や山へ連れて行つてくれた。「数理」を基礎にした実学をやらねば駄目といふのが、このおいさんの主張であり、兎に角一種の風格ある人物であつた。心配性の父が山行を許してくれたのも、このおいさんの統率だつたからである。
 一行は駿さんの十二を最少として、二十歳に近い伊藤のたけさん、その弟のひでさん、藤野のひとしさん、戸塚のたかさんと私の二つ違ひの兄とで、皆十五、六歳の年恰好、おいさんを合せて八人の一行であつた。八月の或る日のことだつたと思ふが、暁の三時に家を出るといふことで、私達は早く起きて母の心尽しの朝飯を食つて出かけた。その時母は父の命で小鯛の白味噌汁を作つてくれた。その旨かつた味が今に忘れられない。精進を宗とするお山行の門出にこんな生臭を食はせたことを考へると、父には神信心の念は乏しかつたと見える。服装は霜ふりの木綿の制服で、白い脚絆は母の手製であつたらしい。浴衣に股引といふいでたちのものもあつた。
 草鞋ばきで、小さい柳行李形の弁当を筒形の白布に入れて肩にかけた外には、殆ど荷物もなかつたやうに思ふ。アルピニストの七つ道具は、その頃まだ恐らく日本に、まして田舎の都会にははひつて居なかつた。
 まだ薄暗い頃に一里ばかりの久米といふ所を通つた。ここに日尾八幡宮といふのがあつて、そこの石標は、維新頃の勤王の志士三輪田米山といつて、ここの神官をして居た書家の書であることを、おいさんから聞かされた。その屈託のない行書の文字の跡を昧爽の夏の空気の中にぼんやりと見た印象は、私には抹消することの出来ぬものになつて居る。横河原といふ駅の近くであつたかに、兜の松といつて、老松に共通ではあるが、枝が垂れ下つて全体が円錐形的に兜に似た松の姿も鮮明に残つて居る。四里ばかりを隔てた川上といふ町は、何だか大きな家が多かつたやうに思ふ。ここで街道の汚い煮売屋(居酒屋)にはひつて、午食の弁当を開くことになつたが、そこで出した青肴の煮たのが腐つたやうに見え、肴嫌ひの私にはただ気味がわるかつた。
 予定の中にあつたのかどうか、我々は街道を離れて川内かはのうち村の瀑布を見に行くことになつた。しかも途中でおいさんが遠縁のOといふ人にあひ、その夜はその家へ泊つた。それが川上の町で邂逅してさういふことになつたのか、街道から外れて瀑布を見に行く途中、野中にある、鎌倉堂といつて、最明寺時頼の行脚時代のものだと称する腰掛石を記念する堂のあたりで会つて、さういふことになつたのかはつきりしない。O氏の家は川内の八幡宮の前にあつて、荒物屋で居酒屋を兼ねて居た。社境は砂が白くて周囲に緑樹が多く、如何にも清浄だつたといふ感じが残つて居る。元の士族でかういふ事をして居たのは、今から考へれば訳もあつたのであらう。私達はO氏の家に休んで後、O氏の案内でここの奥にある白猪しらゐの滝を見に行つた。白猪と並び称せられる唐岬からかひの滝を見たかどうかは記憶にない。私の一番強く感銘したのは、途中の谷川に大きな岩石がごろごろと転り、その上に松の樹が生えてゐたことである。石に大きな樹が生えてゐるといふことが非常に珍しかつたのであらう。帰りに夕立にあつてびしよぬれになり、O氏の宅に帰つて、薪を焚いてそれを前の広場で乾かした。夕食の温い御飯が実に有難かつた。おかずには南瓜があつたのを記憶するだけである。そこにはO氏の細君の綺麗な冷たい感じのするおばさん、二十四、五になるかと思ふのと、十七、八歳かとも思ふ綺麗なお嬢さんとが居た。
 翌日通称「桜三里」といつて三里の間桜を道傍に植ゑた中山越を上下し、大頭おほとといふ村にとまつた。桜は固より葉桜であつたが老幹には趣があつた。峠を大方越えて下りた所に川があつて、屋根のある木橋が架り、その下に水が小し[#「小し」はママ]濁りを帯びて青黒く湛へて居る所に多分鮠であらう、魚が沢山居た。私達が欄によつて唾を吐くと、水面に上つてそれを捕へようとするのが面白かつた。大頭に近い所に落合といふ所があつた。渓流が落合ふ場所からの名であらう。そこいら一体に薄藍色の岩の間を、谷川が急湍となり、激越怒号して雷の如き声を立てて居るのが、少年の全心を緊張せしめた。
 大頭の宿に着いたのは日のまだ高い頃であつたが、夕食の時に素麺の煮たのに鶏卵をかけて食つたのが旨かつた。
 この大頭で丈さんの同級の渡辺といふ、鉄棒のうまい、身体の理想的に引締つた青年が一行に加はつた。この人は土地の大きな家の子息であり、その家も白壁の塀を廻らした新築の立派な邸であつた。その日は次第に山深くはひつて行つて、石鎚山の中腹の黒川といふ人家の少ない僻村までたどりついた。途中も二、三軒位しか家のない寒村にたまに出喰はすくらゐのものであつた。その間に雨に打たれ霜にさびた山寺に休んだ。横峯山大宝寺といつたと思ふ。山号は確かだが寺名はあやしい。ここで五十に近い(と思つた)坊さんの、猿のやうなぎよろりとした眼をして、白衣を身に著けてゐたのが、白瓜を庖丁で縦断してそれを寺の庭に干してゐた。それから黒川までは実に急な長い坂を下りてまた登つた。その坂を下りる度に膝の間節がガタリガタリとがたついて、実に苦しかつたのを覚えてゐるのは、坂を下ることの楽易といふ観念を初めて破られたといふ理由によるものである。
 黒川の宿の主人は山袴をつけて居た。これは木曾や東北で用ひるのと同じやうなものである。伊予のやうな暖国でも山深く行けばさういふものを穿くのである。畳の醤油色にこげて、小さい床の間に南無妙法蓮華経か何かの軸をかけたその座敷の近くには、猪垣と称する野獣の害を防ぐ石垣が設けられ、庭に乾された固まつたやうな茶の放つ香が異様に鼻を打つた。その日の夕食にがさがさした紅塗の浅い椀に盛つて出されたお菜は、多分馬鈴薯だつたであらう。その頃私達の町ではまだ馬鈴薯の広く食べられない頃であつたが、或は山地にも育つものとしてこの山村に植ゑられたのであらうか。
 翌朝宿で弁当を拵へてもらつてお山の頂上を極めた。ここから頂上まで里程にすれば恐らく二里半位であつたらうか。一里位ゆくと成就社じやうじゆしやといふのがある。それが本社で、頂上が奥社になつて居るのであらう。成就社までは樹木が茂つて居り、その中には樅が多かつたこと、樹下の道の涼しかつたこと位しか覚えて居ない。私はその後数度、それもあまり遠い前でなく、この成就社から石鎚山を眺めた景色を夢に見たことがある。実際の旅の時の印象ははつきりして居ないのに、夢ではそれがはつきりと、山の姿も遥かに色彩に富んだ絵画的なものになつて居る。一度の夢には下駄を穿いて午後にここまで来て、夕方までにお山へ上り下りが出来るかを思ひ煩つたこともあつた。ただ併し成就社の近くで頂上の岩山の景色を少くとも一度は眺め得たことがあつた。それが私の夢を結ぶ縁になつたのであらう。
 ここからは地面に熊笹が毛氈のやうに茂り、その上に小さな五葉の松が庭木のやうに生えた景色が珍しかつた。頂上近くなつて鎖の懸崖にかかつたのが三条あり、最初の鎖の手前で登山の行者が皆草鞋を穿き替へることになつて居り、そこいらの岩道は草鞋の腐蝕した堆積によつて黒く柔かくじめじめとなつて居た。全くゴツゴツした岩石の盛上りであり、そこに小さな祠が置かれて居た。私達は頂上近い岩蔭で弁当を食つたが、その時冷たい風が天際から吹いて来て、見る見る内に雲が下から駈けて来た。それを見て居る中に私は何だか恐ろしくなつて来たのに、渡辺君は肱を枕にしてグウグウ昼寝をして居た。その膽玉の太さうなのを、私は感歎もし羨望もした。私はそれから暫くの間は、この恐怖を心に深く恥ぢて居たが、今になつて考へれば、少年らしく自然の威力の前におびえる経験も、無意味なものではなかつた。併し私を羨ませたこの鉄のやうな体躯の持主なる渡辺君は、中学時代に死んでしまつた。
 頂上では雲の為に妨げられて殆ど眺望はなかつたらしい。ただ少し下の方に天柱石とよばれるオベリスクのやうな石柱の立つて居るのが見えた。我々は腹をすかして成就社まで下り、そこで殆ど米のない黒い麦飯にありついた。私の兄は平生麦飯を嫌つたが、この空腹でも遂に節を屈しなかつた。
 翌日加茂川の水の縁で石の白い渓流に沿ひ、大保木おおふきといふ村などを通つて西条町に出た。途中我々の郷里で旨いといはれ、子規の歌にも出て来る新居芋にいもを山地の畑に沢山見た。西条の宿の蛤汁で烈しい下痢をし、私と秀さんとは翌日人力車で八、九里の道を今治の知人の所に送られ、その翌日には初めて蒸気船に乗つて松山に近い三津の浜へ帰りついた。六泊一週間の旅の残像を態と地図をも見ず、そのままに書いて見たが、外の人には興もないことであらう。





底本:「ふるさと文学館 第四四巻 【愛媛】」ぎょうせい
   1993(平成5)年10月15日初版発行
底本の親本:「現代紀行文学全集 南日本編」修道社
   1960(昭和35)年
初出:「中外商業新報」
   1937(昭和12)年1月8日〜10日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:Juki
校正:日野ととり
2017年1月1日作成
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