老いらくの恋――その発生原因を一考するこの種の恋は、先づ以て、古今の芸術家の場合に折々見られる。芸術家の心は老を知らぬ
芸術家に限らず一般の人間に関しては、どのやうに説明したらばよいか。クレッチュメルの天才周期説を普通人の場合に援用して、恋愛は周期するといふやうに考へることが出来ないだらうか。大地震が周期するやうに、火山の噴火が周期するやうに。周期が襲来すると、老いさびて死灰の如き心の底にも、抵抗しがたき動揺が起るものと説明したらばどうか。クレッチュメルは、たしか七年毎に周期が来ると云つたけれども、それは天才に就いての仮定で普通人には何年目に来るのか見当が付かない。
老人が図らずも異性の好意に遭遇すると、「これが一生の最後の恋だ」といふ諦念乃至自覚に原因して、ひどく一途になり、真剣になるといふことはないか。そのために、最初はほのかな焔で燃えてゐたものが、忽ちの間に、消しがたき熱火となる、といふやうなことはないか。もちろん、この場合にも、「最後の恋」といふだけの原因で熱火を燃やすことは不純であり愚かでもある。真剣の愛に値する対象なるか否かを反省しての上でないと、耄碌である。
「また或時、
これは古事記雄略天皇の条から抄出したのである。なんと哀れな話ではないか。
万葉集巻六に太宰帥大伴旅人の恋歌が載せてある。天平二年十二月某日のこと、大納言に任ぜられて太宰帥を解かれた旅人は、寧楽京に上らんとて都府楼を出発した。この時、彼は六十六歳の老人であつた。見送りの府吏大勢の中に、紅一点、「児島」と呼ばれた
大和路は雲隠れたり然れどもわが振る袖を
大和路の吉備の児島をすぎて行かば筑紫の児島おもほえむかも
丈夫 と思へるわれや水くきの水城の上になみだ拭はむ
酒をおなじ頃、従五位下筑前守であつた山上憶良は有名な長歌「貧窮問答」を作り、
すべもなく寒くしあれば
堅塩 を取りつゞしろひ
糟湯酒うちすすろひて
しはぶかひ鼻ひしびしに
しかとあらぬ鬚かき撫でて……
云々と述懐し、なかなか以て遊行女婦を相手に長夜の宴を催すといふやうな様子はなかつた。憶良は偉い。しかしながら損な性分だ。糟湯酒うちすすろひて
しはぶかひ鼻ひしびしに
しかとあらぬ鬚かき撫でて……
続日本後紀 仁明天皇紀に、超老人が舞を奏したことを記録してある。承和十二年正月八日最勝会の時、大極殿の前に於て従五位下尾張浜主といふ百十三歳の翁が和風長寿楽を舞つた。観者千人「近代未だ此の如き者あらず」と感服した。浜主はよぼよぼの腰曲りだが、いざ舞の垂れ伴奏の曲に応じて赴くや「宛ら少年の如し」であつた。この舞は翁の自作で、上奏してこれを舞はんことを請願したのであつたが、芽出度く舞ひ納め、一首を詠進して曰く、
翁とてわびやは居らむ草も木も栄ゆる時に出でて舞ひてむ
まことに朗らかな白頭翁ではある。天皇賞嘆し給ひ、御衣一かさねを賜ふ。云々。さて、浜主が恋をしたといふ記録は残つてゐないけれども、きつと出来たであらう。宛然如少年、さやうな芸術家が恋をせず、又、恋を仕掛けられなかつたといふ法はない。伊勢物語の六十三段は、殊に特異な意義を持つ恋物語である。在五中将業平が、女もあらうに百歳に近い老媼と懇ろになつたといふことだ。
能に「恋重荷」といふ極めて重く、むづかしい一曲がある。(宝生流其他では綾鼓といつて少々話の筋がちがふ)白河院の御代に、御苑の菊の下葉を摘み取る役目の、山科荘司といふ賤の男があつた。彼は畏多くも女御の姿を拝して恋に
曲中に「老」といふ語は一つも出て来ない。従つて、山科荘司は老人であつたか否か、解釈次第で決まるわけだが、舞台の上では老人になつてゐる。もちろん、それが正しい解釈であらう。仮りに荘司を壮者とすると、可笑しな舞台面を現出することになる。綾羅錦繍で包まれた荷物が石か鉛であつても、腕力の強い壮者だと、恋の念力も手伝つて、或は軽がると持ち歩くかも知れぬ。それではすべてぶち壊しだ。
上方狂言師の巨頭、八十六歳の茂山千作が「枕物狂」を演じると聞いたボクは、これを見逃してよいものかと、昭和廿四年二月十二日の午後、金剛能楽堂へ歩を運んだ。果せるかな、超満員の盛況だ。ボクはワキ柱のうしろの桟敷にどうやら割り込んで坐つた。
先づ、二人の
幕が揚げられて「
「逢ふ夜は君が手枕、来ぬ夜はおのが袖枕、枕あまりに
再び幕が揚げられたので、橋掛りの方へ眼を移すと、から紅ゐの衣裳を着た少女が、眉深にかつぎを被つて、こちらへと蓮歩を運ぶ。やがて老翁の前を通り、ワキ柱のそばに坐つたが、いつまでもかつぎを脱がない。老翁は少女を見つけて、喜びながら狂ふやうな仕草をする。暫時にして少女は起ち、引込んでゆくと、約十歩を隔てて老翁もついてゆく。二人のうしろ姿は、橋掛りから幕の奥へと消えてしまふ。狂言の筋では実際少女が出て来たことになつてゐるのだらうけれども、ボクは幻影のごとく感じられた。彼女は始終顔をかくしてゐたのみならず、ただの一言も口をきかなかつたから、なほさら非現実の女のやうに思はれた。
ボクは以上の如くに観、以上の如くに感じ、以上の如くに書いてみたが、間違つてゐるかも知れぬ。手もとに狂言のテキストを持ち合せないので、誤りを正すことが出来ない。それから、千作翁の至芸に魅せられ、茫然と眺め入つてゐたので、筋の運びなどを記憶しようとする余裕はなかつた。もしも誤りがあつたならば、ボクの下手な創作が混入したものと勘弁していただき度い。
茂山家と「枕物狂」との間には、こんな因縁話があると聞く。井伊大老は有名な能楽好きであつた。天保元年彦根城で能が催された時、お抱への小川吉五郎といふ狂言師が八十歳で「枕物狂」を舞つてゐた最中に急病で悶絶した。すると地謡の中から千五郎正虎(千作の先代)が、吉五郎の捨てた笹を取り上げ、見事に舞ひ納めた。正虎は三十三歳であつた。大老は大いに感服して、即座にお墨付を下された。それで茂山家では「枕物狂」を殊に大切に取扱つてゐるとのこと。