枕物狂

川田順




 老いらくの恋――その発生原因を一考するこの種の恋は、先づ以て、古今の芸術家の場合に折々見られる。芸術家の心は老を知らぬ常若とこわかのものなるが故に、といふのが普通の解釈である。常若人種なる芸術家は、たとひ現実に老いらくの恋をしなくても、恋する可能性を死ぬまで持ち続けて行く、と観ることが出来る。特に、偉大な芸術家に於てさうである。ほんの一例をあげれば、近松巣林子は老境に入つてから「万年草」「歌念仏」「冥土飛脚」「天網島」等々を書いたが、これらの戯曲中に出る男女の熱愛は、現に作者自身が恋をしてゐるか、或は恋する可能性を持つてゐるかでなくては、あのやうに如実に描写出来るものではない。消え去つた過去の体験の追想のみでは、あのやうに書けるものではない。
 芸術家に限らず一般の人間に関しては、どのやうに説明したらばよいか。クレッチュメルの天才周期説を普通人の場合に援用して、恋愛は周期するといふやうに考へることが出来ないだらうか。大地震が周期するやうに、火山の噴火が周期するやうに。周期が襲来すると、老いさびて死灰の如き心の底にも、抵抗しがたき動揺が起るものと説明したらばどうか。クレッチュメルは、たしか七年毎に周期が来ると云つたけれども、それは天才に就いての仮定で普通人には何年目に来るのか見当が付かない。
 老人が図らずも異性の好意に遭遇すると、「これが一生の最後の恋だ」といふ諦念乃至自覚に原因して、ひどく一途になり、真剣になるといふことはないか。そのために、最初はほのかな焔で燃えてゐたものが、忽ちの間に、消しがたき熱火となる、といふやうなことはないか。もちろん、この場合にも、「最後の恋」といふだけの原因で熱火を燃やすことは不純であり愚かでもある。真剣の愛に値する対象なるか否かを反省しての上でないと、耄碌である。

「また或時、天皇すめらみこと遊行しつつ美和河に到りませる時に河の辺に衣洗ふ童女あり、其容姿甚だかりき。天皇その童女に、汝は誰が子ぞと問はしければ、おのが名は引田部の赤猪子あかゐことまをすと答白まをしき。かれ詔らしめ給へらくは、汝とつがずてあれ、今してむとらしめ給ひて、宮に還りましき。かれ其の赤猪子、天皇のみことを仰ぎ待ちて既に八十歳を経たりき。ここに赤猪子おもひけるは、みことをあふぎ待ちつる間にすでにここだくの年を経て姿かたちやさかかじけてあれば更に恃みなし。然れども待ちつる情をあらはしまをさずてはいぶせくてえあらじと思ひて、百取の机代物を持たしめて参出でたてまつりき。然るに天皇、先に詔りたまへし事をばはやく忘らして、その赤猪子に問はしければ、赤猪子まをしけらく、汝は誰やし老女をみなぞ、何すれど参来つると問はしければ、赤猪子まをしけらく、その年その月に天皇の命を被りて今日まで大命を仰ぎ待ちて、八十歳を経にけり、今は容姿かほすでに老いて更に恃みなし。然はあれどもおのが志を顕はしまをさむとしてこそ参出づれともをしき。ここに天皇いたく驚きまして、吾ははやく先のことを忘れたり、然るに汝みさをに命を待ちて、徒らに盛年みのさかりを過しし事いと悲しと告り給ひ、さま欲しく思ほせども、そのいたく老いぬるに憚り給ひて、得婚さずて、御歌を賜ひき。……」
 これは古事記雄略天皇の条から抄出したのである。なんと哀れな話ではないか。おもふに、赤猪子が一生お召を待つてゐたのは大命服従といふ如き道徳観念からのみではなく、天皇に対し一片の心火が燃え続けてゐたためであらう。八十年を経ても心火を消すよしがなかつた故であらう。かう解釈して、はじめて古事記の物語が後世の私共の中にも生きて来るのである。

 万葉集巻六に太宰帥大伴旅人の恋歌が載せてある。天平二年十二月某日のこと、大納言に任ぜられて太宰帥を解かれた旅人は、寧楽京に上らんとて都府楼を出発した。この時、彼は六十六歳の老人であつた。見送りの府吏大勢の中に、紅一点、「児島」と呼ばれた遊行女うかれめ婦もまじつてゐたが、彼女は再会の期しがたきを嘆き、なみだを拭ひ袖を振りながら、
おほならばかもかもせむを畏みと振りたき袖を忍びてあるも
大和路は雲隠れたり然れどもわが振る袖を無礼なめしと思ふな
と歌つた。老歌人、それに唱和して曰く
大和路の吉備の児島をすぎて行かば筑紫の児島おもほえむかも
丈夫ますらをと思へるわれや水くきの水城の上になみだ拭はむ
酒をたたへ、梅花宴を催し、松浦仙媛を詠んだ多感の老歌人であり、殊に約三年前に夫人を亡くしてゐる。遊行女婦(後世の白拍子、芸妓)の一人や二人を寵姫としたところで、怪しむに足るまい。
 おなじ頃、従五位下筑前守であつた山上憶良は有名な長歌「貧窮問答」を作り、
すべもなく寒くしあれば
堅塩かたしほを取りつゞしろひ
糟湯酒うちすすろひて
しはぶかひ鼻ひしびしに
しかとあらぬ鬚かき撫でて……
云々と述懐し、なかなか以て遊行女婦を相手に長夜の宴を催すといふやうな様子はなかつた。憶良は偉い。しかしながら損な性分だ。

 続日本後紀 仁明天皇紀に、超老人が舞を奏したことを記録してある。承和十二年正月八日最勝会の時、大極殿の前に於て従五位下尾張浜主といふ百十三歳の翁が和風長寿楽を舞つた。観者千人「近代未だ此の如き者あらず」と感服した。浜主はよぼよぼの腰曲りだが、いざ舞の垂れ伴奏の曲に応じて赴くや「宛ら少年の如し」であつた。この舞は翁の自作で、上奏してこれを舞はんことを請願したのであつたが、芽出度く舞ひ納め、一首を詠進して曰く、
翁とてわびやは居らむ草も木も栄ゆる時に出でて舞ひてむ
 まことに朗らかな白頭翁ではある。天皇賞嘆し給ひ、御衣一かさねを賜ふ。云々。さて、浜主が恋をしたといふ記録は残つてゐないけれども、きつと出来たであらう。宛然如少年、さやうな芸術家が恋をせず、又、恋を仕掛けられなかつたといふ法はない。

 伊勢物語の六十三段は、殊に特異な意義を持つ恋物語である。在五中将業平が、女もあらうに百歳に近い老媼と懇ろになつたといふことだ。
百年ももとせに一年足らぬ九十九髪つくもがみわれを恋ふらし面影に見ゆ
 物語の作者これを批評して曰く「世の中の例として、思ふをば思ひ、思はぬをば思はぬものを、此人は、思ふをも思はぬをも、けぢめ見せぬ心なむありける」すなわち業平の恋心は大きかつたといふことである。

 能に「恋重荷」といふ極めて重く、むづかしい一曲がある。(宝生流其他では綾鼓といつて少々話の筋がちがふ)白河院の御代に、御苑の菊の下葉を摘み取る役目の、山科荘司といふ賤の男があつた。彼は畏多くも女御の姿を拝して恋におちいり、ふらふら病ひとなつて、勤務を怠りがちであつた。そこへ上司の云ふやう「忝くも女御きこし召し及ばされ、急ぎ此荷を持ちて御庭を百度千度まはるならば、其間に御姿を拝ませ給ふべきとの御事なり。なんぼう有難き御説にてはなきか」「さらば其荷を御見せ候へ。げにげに美しき荷にて候。重荷なりとも逢ふまでの、恋の持夫もちぶにならうよ」美しく包装され、軽げに見えた荷物なので、荘司はそれを持ちまはらうとしたが、意外に重たく、彼はその重圧に崩折れて、死んでしまつた。上司の独白によれば「彼者の恋の心を止めむとの御方便にて、重荷を作つて上を綾羅錦繍を以て美しく包みて、いかにも軽げに見せて持たせなば、彼者思はんには、かほど軽げなる荷なれども、恋の叶ふまじき故に持たれぬぞと心得、恋の心や止まるべきとの御事にて候ふ処に、賤しき者のかなしさは、是を持ち御庭をめぐらば、御姿をまみえさせ給はん事を悦び、勢力を尽し候へども、もとより重荷なれば持たれぬことを恨み嘆きて、かやうに身を失ひ候ふ事、かへすがへすも不便にてこそ候へ」ひどく手のこんだ、罪深い「御方便」ではある。
 曲中に「老」といふ語は一つも出て来ない。従つて、山科荘司は老人であつたか否か、解釈次第で決まるわけだが、舞台の上では老人になつてゐる。もちろん、それが正しい解釈であらう。仮りに荘司を壮者とすると、可笑しな舞台面を現出することになる。綾羅錦繍で包まれた荷物が石か鉛であつても、腕力の強い壮者だと、恋の念力も手伝つて、或は軽がると持ち歩くかも知れぬ。それではすべてぶち壊しだ。
 上方狂言師の巨頭、八十六歳の茂山千作が「枕物狂」を演じると聞いたボクは、これを見逃してよいものかと、昭和廿四年二月十二日の午後、金剛能楽堂へ歩を運んだ。果せるかな、超満員の盛況だ。ボクはワキ柱のうしろの桟敷にどうやら割り込んで坐つた。
 先づ、二人の壮者わかものが舞台に現はれた。兄弟である。「祖父ぢいさまが恋をしてゐるさうだ。本当かどうか、訊いてみようぢやないか」「本当だつたら、老の慰めに叶へさせてあげようぢやないか」と思ひやりの深い孫達である。

 幕が揚げられて「百年ももとせにあまる」老人が橋掛りへ歩み出た。見処はしんとする。老人は「百万」のシテの如く、狂ひ笹を肩にかついでゐる。地味な小袖の肩をぬいで、赤い下着が現はれてゐる。この手道具と衣裳とで、恋の乱心といふことが直ちに看取された。「寝るも寝られず、起きもせず、ことわりや、枕よりあとより恋のせめくれば」云々と告白し、よろめきながら舞台の中央に出て来て、孫達と向きあふ。ありやうに打明けて下されと責められて、実は先月の地蔵講に刑部三郎の末娘を見染めたと白状する。さらば思ひを叶へさせて進ぜませうとあつて、孫達はその娘を呼びにゆく。ひとり残された老翁の物狂ひが始まる。ふところから小枕をとり出し「好かんお爺さんやわ」と頭めがけて投げ付けられたことを追想しての仕草は、哀れにもおもしろかつた。赤地に金糸のひをした美しい小枕である。「松風」のシテが行平の烏帽子狩衣を身につけて舞ひ狂ふのと酷似する。

「逢ふ夜は君が手枕、来ぬ夜はおのが袖枕、枕あまりにとこひろし、寄れ枕、枕さへうとむか」といふ小唄を地と掛け合ひで、老のさび声で謡ふあたりは、殊に味が深かつた。恋をする程あつて、なかなかいきな老翁ではある。

 再び幕が揚げられたので、橋掛りの方へ眼を移すと、から紅ゐの衣裳を着た少女が、眉深にかつぎを被つて、こちらへと蓮歩を運ぶ。やがて老翁の前を通り、ワキ柱のそばに坐つたが、いつまでもかつぎを脱がない。老翁は少女を見つけて、喜びながら狂ふやうな仕草をする。暫時にして少女は起ち、引込んでゆくと、約十歩を隔てて老翁もついてゆく。二人のうしろ姿は、橋掛りから幕の奥へと消えてしまふ。狂言の筋では実際少女が出て来たことになつてゐるのだらうけれども、ボクは幻影のごとく感じられた。彼女は始終顔をかくしてゐたのみならず、ただの一言も口をきかなかつたから、なほさら非現実の女のやうに思はれた。

 ボクは以上の如くに観、以上の如くに感じ、以上の如くに書いてみたが、間違つてゐるかも知れぬ。手もとに狂言のテキストを持ち合せないので、誤りを正すことが出来ない。それから、千作翁の至芸に魅せられ、茫然と眺め入つてゐたので、筋の運びなどを記憶しようとする余裕はなかつた。もしも誤りがあつたならば、ボクの下手な創作が混入したものと勘弁していただき度い。

 茂山家と「枕物狂」との間には、こんな因縁話があると聞く。井伊大老は有名な能楽好きであつた。天保元年彦根城で能が催された時、お抱への小川吉五郎といふ狂言師が八十歳で「枕物狂」を舞つてゐた最中に急病で悶絶した。すると地謡の中から千五郎正虎(千作の先代)が、吉五郎の捨てた笹を取り上げ、見事に舞ひ納めた。正虎は三十三歳であつた。大老は大いに感服して、即座にお墨付を下された。それで茂山家では「枕物狂」を殊に大切に取扱つてゐるとのこと。





底本:「日本の名随筆 別巻55 恋心」作品社
   1995(平成7)年9月25日第1刷発行
底本の親本:「川田順遺稿集 香魂」甲鳥書房
   1969(昭和44)年7月10日初版発行
入力:富田晶子
校正:noriko saito
2017年1月1日作成
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