昨日は老人の日でした。その今日、停年講義をいたしますことはまんざら無意味でもないと存じます。昨日は老人の日であると同時に勤評ストの日でもありました。それから今日は今日で、私の家の近くまで市電の新線が開通しまして、私の家から大学までの通勤が何十年振りに大へん便利になりましたが、あいにくと明日から私は学校に来なくてもよくなりました。
さて今日の講義ですが、私は何十年となくリーディングを教えて来ましたから、本来ならば英文のテキストを一二枚プリントに刷って来て、それに訳をつけると、それがいちばん正直な講義で、勤評の対象にもして貰えるわけですが、今日は聴講生の人数が未定なのでそれも無理です。実はこの六月遠方の或る大学で講義を頼まれましたので、九月にやらなければならない停年講義の予行演習でよければやりましょうと答えておきましたところ、先方はそれでもよろしいということで引き受けました。むかしの三高時代に私は文科なら二回、理科なら三回、同じ講義を繰り返したものですが、第一回目の方が誤りもあるがフレッシュで熱もあっていちばんよい。二回目になると自分で解っているつもりで説明を飛ばしたりするので時間があまって仕方がない。ところで六月の予行演習の講演を或る人がテープに取っておいてくれました。それで今日は二回目ですが、いろんな点で間違いだらけかも知れませんが、そのテープで第一回目のフレッシュなところを聞いていただきたいと思います。途中で時々黙ってしまうところがありますが、それはマイクを離れて人の名前や本の名前を原語で黒板に向って書いている時です。その時を見計って今日もなるべくスペリングを間違わないように注意してボールドに書きます。書いたものなら聞き流しでなくて勤評の対象にもして貰えるわけです。二三日前に予行演習のもひとつ予行演習を掛けてみましたところ、今の私の声よりも少くとも半年ばかりは若く聞えました。
でまあ、私の題は、「悦しき知識」といたしましたんですが、これは、これに似た題はニーチェの本にありますけれども、私は昔読んで大方忘れてしまって、恐らくそれとは内容はてんで――勿論ニーチェ程えらい人間じゃありませんので、全然ちがうんだろうと思います。この十九世紀の、これは非常な、十九世紀というのは非常に夢のような時代であると思いますが、その後半に、つまりひろく言ってイギリスの精神文化のために戦ったと言いますか、トーマス・カーライル先生という方がおられるんですが、この方が経済学――勿論あの時代ですから、アダム・スミスをもとにしまして、経済学というものを dismal science と悪口をいって、――これはニックネームの大家で、カーライルというのはあらゆる場合に渾名をつける大先生ですから、自分の気にくわないような奴はトイフェルスドレック(悪魔の糞)と、いうようなドイツ語まじりの、ま、これは気にくうてるのかくわんのか――ま、そういうニックネーム製造上の大家なんでありますが、これがその経済学、イーコノミック・サイエンスを、ディズマル・サイエンスと申したんであります。つまりあんなものはですね、経済的法則をどっかから導き出してくるのですけれども、これは、ま、法則かも知れないけれども、どうも陽気な悦しき知識でないと。まァアダム・スミスはそんな、恐らくマルクスもなおさらあの陰気な顔――マルクスの顔を写真でごらんになったら、実に dismal な顔をしていると思いますが、これもそのカーライルが今日生きていたら何と言いますか、まァ most dismal science と言うたかも知れませんが、とにかくその後にダラスという又べつの先生が現れまして、これが『陽気な科学』という本を書いたんです。これは勿論カーライルの「陰気な科学」をふまえての話ですが、そんなら何のことが書いてありますかと言うと、実はこれは、陽気な科学とは、poetry だと言うんです。詩、だと言うんです。つまりこの悦ばしき知識というものは、詩から生れるんだ、poetry からくるんだ、joyful wisdom あるいは joyful knowledge というのは comes from poetry だということを言っているのであります。
ところが、大体、いつの時代でもですね、その時代に、その時代の、詩の弁護、defence of poetry というものが、英文学にはあるんであります。これは皆さんの中で英文学をやっていられる方はとっくに御承知と思いますけれども、ごく簡単な例をあげますと、古くはあの十六・七世紀の、シェイクスピアの時代、サー・フィリップ・シドニーという偉いもののふがおりまして、これは戦場で瀕死の手傷を負って、まさに息たえんとする時に、かたわらに倒れている戦友をかえりみて、この水は――一滴の水が残っていたんです、水筒か何かに――おれよりもお前の方がまだ必要だ、おれよりもお前が――両方とも死にかかってるんです――そう言って最後に末期の水を瀕死の親友に与えて息が切れたという、ものすごい武勇伝中の一人ですが、これがエリザベス朝時代の An Apologie for Poetrie ――詩の弁護――というのを書いたんであります。
あいだをとばしますと、十九世紀になりますというと、有名なシェリ、シェリの、これも非常に有名な、A Defence of Poetry ――詩の弁護。これは、えェ、ピーコックという先生が現われまして、これが、大体人間の知識はだんだんだんだん日進月歩して行く。科学の進歩に較べるというと、この poetry なんていうものは、まるで子供のガラガラだと言うんです。rattle, rattle. のガラガラガラだという。で、子供はガラガラでだませるけれども大人はだませない。詩なんかで誰がだまされるもんか。とつまりこれは詩の進歩説、詩というかもっと人智、人間の知識の進歩を信じた人の説でありますが、これに対してシェリがカンカンになっておこって、『詩の弁護』という、これは有名な、今でも有名な、昔からもたいへん有名な、詩の弁護なんであります。
それから、ワーズワスの Lyrical Ballads の序文という、これも立派な詩論であります。シェリと同じ時代でありますが、ま、そういうふうに下って来ますというと、もっと現代へ来て、そういうふうなものが何があるかということを考えてみますと、Science and Poetry という、これははっきり憶えませんが、今から二十何年ほど前に出た本ですが、ごく小さな本で五十頁か六十頁かの本ですが、日本ではそんな本を書いたって誰も、――あの、葬られるだけで、厚いだけいい、大きな本だけ立派だと思っているんですが、これがその年の文学評論の year-book の巻頭にとりあげられたんです。というのは、この本の含む問題性の故なんです。非常に小さな本でありますけれども、poetry というものの現代における位置というものをはっきり掴んでいる。科学はどういう目的をもっているか、詩はどういう目的をもっているかということを書いた本であるが故にですね、これが非常に有名になり、恐らく現代でもこの本はもう詩学の評論の古典として残っているんであります。
昔、私が教えました三高の学生で、朝鮮人で、李※[#「易+攵」、U+2BFBB、464-12]河という非常に優秀な学生がありまして、これは現在――これは余談でありますけれども、アメリカが朝鮮戦争、この間の朝鮮騒動の時、朝鮮の泥濘には参ったらしいですが、あのぬかるみよりももっと手古摺ったのは朝鮮語。大体、朝鮮語とアメリカ語、英語との字引きがないんです。これはぬかるみ以上にのたうちまわった訳なんです。そこでこの李君がハーヴァード大学に招かれまして、今韓英か英韓の字引きを製作中なんでありますが、この李君に昔すすめてこの本を訳させたことが、私ありますけれども、これも戦前のことでもうその本がどこへ行ったか、恐らく爆撃で一冊も残っていないだろうと思うんであります。
この本のことも言えば、もう一時間はすぐたちますけれども、これは結局――あとでもういっぺんふれるかも知れませんですが――これはまあ非常に大事な本ということを憶えていただきましたらいいんですが、最近に、ま、たんと――詩に関する本はもうたんと出ているんであります。これは日本では小説がたんと売れて、石原慎太郎がベスト・セラーになったりするんですが、これはやっぱり日本とイギリスとの大変な違いで、むこうはもう詩の本が、詩集も出ますけれども詩に関する本がどんどん出ているのであります。その中に、やはり小さな本でありますけれども、The Poet's Way of Knowledge「詩人の認識の道」という本なんでありますが、今日はこの本を主として、現代における詩の defence of poetry、何もこの人が現代の詩の弁護の全部を代表している訳ではありませんけれども、この人の本を私は二、三訳したことがあり、子供向きの本ですけれども『詩を読む若き人々のために』という本と『現代詩論』という本がありますが、その人の最近の本なんであります。オックスフォードの詩学の先生、今オーデンがとって代っておりますけれども、ま、そういう詩人であって詩学の教授であるということさえ分かっていただけば結構です。これはまあ大変私は面白く読んだんであります。これはリチャーズの反駁――リチャーズのことも踏まえておりますけれども、これから一歩出た考えだと私は思っております。
科学者が科学的な認識をする道が一つある。ところが、リチャーズの考えでは、詩人の言うことは科学者の言うような真理のことじゃない。これは詩人が嘘をつくんです。嘘をついて――ま、大体日本の詩にも「巨大な胃袋の中に」とかいうような詩もあるんです。胃袋の中に何か人間がおるような詩を書く。そんなことが常識では考えられんけれども詩ではそれが、嘘が、本当になるんです。つまり事実に関する真理は科学が引受けるんだが、詩の方は嘘をつくんだと。だからそれは本当であっても嘘であっても構わない、まァむしろ嘘の方だと。大ざっぱに言うとそういうことになるんですが、このルーイスはですね、それでは、どうも、これは、やっぱりこれは科学本位の詩の考え方じゃないか、真偽の区別は科学にまかせておいて詩人はそれに責任を負わない、詩人といえども何※[#小書き片仮名ン、465-16]かの仕方で詩的認識というものを自分の詩の中で提供しているのではあるまいか。という立場から半分はリチャーズの立場に対する反駁でありますが、もう少し現代的な詩観というものを提供したのであります。
これは、私は非常に面白いと思うのですが、現代でも私はやはり science and poetry という問題、まァ宗教と詩という問題もありますけれども、あまり範囲をひろげますと、今日暑いのが余計暑うなりますので、まァええ加減できり上げるつもりですけれども、これが依然として問題でありますのは、この問題の取り上げ方が、リチャーズとは大分変ってきているのであります。大体、さっきのシェリ、ワーズワスの時代の defence of poetry はどういうところに立って詩を弁護したかと申しますと、あの時代の Industrial Revolution ――産業革命――です。あれがつまりロマンティシズムの、つまりキーツとかシェリとかワーズワスの時代の詩的活動の中心が、この産業革命というものに対する reaction です。非常な反逆。これがつまりイギリスのロマンティシズムというものの根本なんです。彼ら詩人にとってはですね、この煙突や鉄道や、こういう我々の日常卑近な生活を安易にするための、知識あるいはそれの応用たる科学工業、こういうもののために日々にイギリスの田園が荒らされて行って、詩人の呼吸する余地がなくなった。これに対する反逆なんでありますが、現代では、ま、産業革命に対する詩人の反逆、これは依然としてやはり詩人の課題だと思うんです。それはですね、我々のいわゆる進歩思想というものによって、生活の改善を目標にしている科学というものが、工業化の道をいつまでも歩みつづける限りは、詩人はどうしてもそういう世界に住みきれないんです。だからこれに対する何※[#小書き片仮名ン、466-13]かの詩人的認識を自らの詩の中で発表せざるをえない。だから、産業革命というものの課題は、ロマンティシズムで終っているとは思いませんが、その他に詩人が相手としなければならない科学の新しい局面が続々として現われて来た訳なんであります。
つまり、この科学そのものの立場とか位置というものが、どんどん変りつつある。私はそんなものを自分で研究して、ここで申し上げる訳ではありません。これはみんなそういう人々の、まあ科学評論家ともいうべき人々の言葉を読んだものの受け売りにすぎないんでありますけれども、大体、科学というものは、その認識の特徴はどこにあるかと言いますと、これはルーイスも言っておりますが、predictability ――何※[#小書き片仮名ン、467-2]かいろんな現象を集めて、それから帰納しまして一つの法則を見つける訳でありますけれども、一ぺん法則を見つけますというと、新しい現象にその法則を適応しても、それが、事実がその法則通りにあてはまってくることが分かる。だからこの予言可能性、predictability ということが科学の根本である訳でありまして、だからこの科学というものは、理窟はわからんでも素人に非常に歓迎されるのであります。つまり、あした雨が降るかお天気かと[#「お天気かと」は底本では「お元気かと」]いうことが分かってくれるので、ああ明日は天神さんの夜店にみせを出そうか休もうか、あ、お天気だそうだ、出してみよう、あ、当った、あ、もうけた、こうなんです。だからこの科学の predictability ということは、俗人でもわかるのであります。ところが、これは私は全然知りませんけれども、最近では、いわゆるハイゼンベルクの principle of uncertainty ――不確定性原理――というものが、これもその説明によりますとどういうことかと言うと、大体ある一つの現象を科学者がまァ観察する訳ですね。そうすると、この、ある観察をしている時に、ある限度までは観察できるけれどもそれ以上はどうしても認識のできない極限に達する。もしその極限を突破しようと思えば、観察する科学者自身の主観がその観察する対象に何か別の操作を加えねばならない。つまり主観が客観に働きかけて、客観に何※[#小書き片仮名ン、467-13]か変化を起さなければならない。その変化が起った時が、科学的認識がも一歩ぐいと向うへ進む瞬間だというんです。ま、そんなことであると、間違ってたらどっかその道の先生に訂正を願いたいのでありますが、まァそんなことといたしましてですね、こういう科学自身が――もとは非常に、科学が実はおおまかなものでありまして、マクロコズム、つまり「巨視的出来事」とでも言いますか、科学――たとえば三角形の二辺が一辺よりも大とか、三角形の二辺の和は一辺より大なり……わたしら中学校で幾何を習った時に、馬鹿らしいと思った、なんや、と思った。しかしそんな解り切ったような定理も定理として極めておかないことには、それから先へ一歩も進めない。で、科学というものは、こういう明白な、巨視的な、明白というか非常にこうはっきり見えるような、ま、「巨視的出来事」を対象にして、その、動かない、これなら動かない、もっと他に自明なことがあるかも知れんけどこれだけは決めとかんと困る、次の研究ができない、そういうことから入って行ったものでありますが、最近は、ずっと顕微鏡的な、非常にこまかい、勿論この頃は電子だとかエレクトロンだとか原子核だとか電波だとか、いろんな事を取り扱うようになりました。つまり従来の科学はですね、科学は我々の五官によって触れうる経験を取り扱うとされておったものがですね、大体この頃エレクトロンだとか原子だとか、原子核とか電波とかいうものは、我々の五官に触れられないものなんです。そういう世界を取り扱うようになったんです。これは、科学自身のポジションが、こう廻り舞台のように廻転しつつあることだろうと思うんです。そうするとですね、この poetry ――詩――というものは、五官に訴える訳ですけれども、本当の詩の狙いどころはですね、五官を通ずるんですけども、何か五官を越えた実在とか、何かそういうものの存在を詩人が確信してですね、そういうものを何とか、その、素人に、おれはこう思う、これはもう実に――もうこれだけは俺の命だと、これを何とかして皆に伝えたい、こういうのが詩人の詩作動機なんであります。
そうするとですね、科学が手に触れられない世界へ向ってどんどん迫りつつある。と、詩人が同じ衝動を又別な仕方で感じている。ここに妙な、科学の狙いどころと詩の狙いどころとの接近が最近に現われたのであります。そこでこのマイクロコズム、micro-event 時代の科学に対して詩というものがですね、又この micro-event をうたう詩がどんどんこの頃生れつつあるのであります。ごく一例を言いますと、アメリカの、ウォレス・スティーヴンズ――これは去年かなくなりました――という詩人がありますけれども、これがこの、‘poetry of the action of the brain’ですか、「頭脳の活動の詩」というような詩を書き出した。……こういう題の詩があるんですが―― On Modern Poetry ――これは論文じゃないんですよ、On Modern Poetry という題の詩なんですよ、なんと、現代詩についてという詩なんです。これは、ま、非常に面白いんで題が論文みたいでありながら、それ自体が詩であるような詩、いいですか、これはまさにスティーヴンズの‘the action of the brain’「頭脳の活動」を詩に書いたんで、これは非常に科学的で、むしろ詩でありながら同時に最近の科学者の狙いどころを狙ったような詩なのであります。これは一例にすぎないんでありますが、つまりこの「微視的出来事」を取り扱う「微視的出来事」に対する認識ということにおいて、最近は科学と詩が非常な接近を来しつつある訳であります。
このように詩人の側からの詩的認識というものが、非常に微妙なマイクロ・エヴントをその対象にする傾向に向いつつあるのですが、実は科学的認識の世界にもたいへん面白い現象が起りつつあるらしいのです。さきほど申し上げましたルーイスの『詩人の認識の道』という本に挙げられている二三の例を申し上げますと、これは、日本訳は私がすすめまして、哲学の先生と英語の先生が共訳で出しました Science and the Modern World という立派な、これは専門の科学書ではありませんが、ま、一般的な本ですけれども、非常にそれによって有名になった本があるのであります。Science and the Modern World. この先生がこういうことを言っているのです。これは数学者です。哲学者です。それがですね、こういうことを言ってるんです。これが数学者の言った言葉として諸君は受け取れるでしょうか。――つまり人間の魂はですね、密室からの解放、――閉めきった部屋からとび出すことですね、――人間の魂は密室からの解放を叫び求めると言うんです。人間の魂はですね、ここに妙な字を使ってありますが―― claustrophobia ――これはお医者さんの言葉で、字引きをひきますと、こういうような訳が出てるんです。「閉居恐怖症」ですか、――何か一室に閉じ込められることが非常にこわい。あの小説家の高見順という人は、どうもこれらしいですね。これは人から聞いたんですけれども、殊に白壁、白い壁が非常にこわいんです。ある部屋へ入って行ってですね、ドアを閉めてしまうと、あたりの壁が白いともう真青になる。諸君にそういう方もおられるかも知れませんが、人間の魂はこの claustrophobia ――閉居恐怖症――の苦悶に悩みつつある。今の人間は、四方からかしらん囲まれてしまって逃げ道がない。それでどういうものがこれを救うかということを書いてある。その第一は humour だと言うんです。いいですか、ユーモア。それからウィット、しゃれ。いいですか、ユーモア、ウィット。それから irreverence ――不敬。つまり、ただお辞儀しているばかりが能ではない。失敬なことを言うてみる、悪口も言わないかんのです。イレヴァランス。それから playing ――遊ぶことです。勉強ばかりしていると恐怖症になるんです。遊ぶこと。それから sleep ――睡眠、ねむること。とりわけ、芸術というもの。art。これが非常な魂の解放をやる。芸術というもの。つまり、今いったような、笑いとか遊びのような、何か「うつろい易いもの」――いいですか、いくらユーモアといっても朝から晩まで喋っていたら一つも面白くない。うつろい易いもの、芸術も不滅だといいますけれども、現実の、そこらに転がっている石よりは、まだ命は短いんです。これが人間の魂にとって実に欠くべからざるものである。そこで、偉大な芸術とは、人間の魂のために非常に vivid な、生々とした、しかし transient な、うつろい易いものを、うつろい易い価値を、人間のために提供せんがためにこそ、我々を取り囲んでいる巌壁のような厚い壁を打ち破ることだと言うんです。ホワイトヘッドのこの言葉は、まさに科学者が逆に芸術家のために、芸術の機能を説いてくれたようなものだと思うのであります。
そこで、このようなホワイトヘッドの言うようなことを言う科学者が、だんだん殖えてきた。で、いまひとつ言えば、これはイギリスの哲学者で且つ歴史家でもありますが、――コリングウドといいまして、この人がこんなことを言ってるんです。これは何※[#小書き片仮名ン、470-14]かあるものを発見する時の直前の心理状態です。科学者が科学的発見をする時の直前に、どういう心理状態にいるだろう、ということを。これは私、非常に面白い言葉だと思うんです、――今のホワイトヘッドに劣らず面白い言葉だと思うんですが、あるむつかしい問題を解こうとしている訳です、科学者が。数学でも何でもいい。そこにはですね。自分がみずからに向って問うところの特別の、一定の問題というようなものはちょっともないと言うんです。いいですか、そこにはですね、自分が自分の注意を振り向けようとする特殊な対象物というものもないんです。ある問題を解こうとするのにその対象物というものはどこか、ないような感じですよ。そこにあるものは恰も霧、この手で掴もうと思うても掴みどころのない霧ですね、靄、霧を相手に格闘しているような、渾沌とした、目当てのない、intellectual disturbance ――知的混乱、――なんかこうもやもやしている。知的 intellectual disturbance があるのみである。自分の解こうとする問題がですね、ある解決の方向へかなりもう進んだ後でなければ、大体問題自身が何であるかも自分でわからんと言うんですね、分からない。これが非常に面白い。これはまさに詩人がですね、――私はこの前日本へ来たスティーヴン・スペンダーという詩人、このスティーヴン・スペンダー――だいたい Spender というのは「浪費者」という意味ですけれども、これはスペンダー自身がしゃれの大家で、彼がいうことには――私は Spender だけれども浪費者ではないと言うんです。浪費しようにもそんな大金もってない、と言うんです。つまり私は人間のために人間の善意、創造的エネルギーというものをみんなに分けてやる、その Spender だというしゃれを言ったんでありますが、このスペンダーの、これも私の訳した本の中に The Creative Element ――これは私は題を変えて、『夢を孕む単独者』という題で翻訳したんでありますが――その中に、自分の自作を解剖した非常に面白い論文が載っているんです。つまり自分が一篇の詩を書くためにどれだけ苦労をするか、――我々は印刷された活字を見て、これはそのまま初めからこの通りできたと思うんですが、あにはからんや、スペンダーは、約百冊のノートブックに、これを今まで書いてそのうちで、ま、はっきり憶えてませんけれども、自分の詩として発表したものは、一冊の中に一頁ぐらいしかない、後はみな反古籠へほうり込んでしまうんです。その本の中には自分の書いた Seascape という海の風景をテーマにした面白い詩があるんですが、これは何と、自分の改作した最初の稿案から次の稿案、次の稿案まで、もう五つも六つも改めている。で、私がその翻訳をする時に、その最後にこれでもう決定的という行を、その通り訳してみたんです。ま、日本語の訳だから当っているかどうか分りませんけれど、ともかく日本語になる限りにおいてやってみたんですが、ところが彼のその後に出た詩の全集をあけてみると、又それが変ってるんですね。つまり、又それが気に入らんのですね。その時に又わずかですけれども改めてある。これの張本人が W. B. Yeats。自分の詩を、これはもう、――今度大変な、数千円か一万円もするような Variorum が出たんです。つまり自分の詩を絶えず改めるものですから、どの版にはどうあるということを一々照合して、出来た、大変な本が出たんでありますが、大体詩人というものの今の行き方はですね、科学者の一歩々々前を否定し、前を否定し、つまり霧と闘う、霧とたたかうような行き方に非常に接近して来たのであります。これは非常に面白い現象でありまして、この同じ事実をもっとも早く洞察したのはイギリスのジョン・キーツ、十九世紀の先程のシェリの時代におりましたジョン・キーツが手紙の中に実に面白いことを言っている。これはですね、今のこの micro event の時代ではなしに macro-event の時代に、すでにこのことを予言している訳なんです。詩人がどういうことをやるべきかと言うと、fact ――事実――と reason ――理由、(科学者は事実を一生懸命に調べようとする、哲学者は理由を、ものの理由を突き止めようとする。)こういう事実と理由の方向へいらだたしく手を延ばす、何とかして捉えられないものかと、捉えられないものを捉えようとする、これを捕らえようとすることではないと言うんです。むしろ不安定、――さっきの principle of uncertainty ですね、不確定性原理、あの uncertain な状態。それから不可思議、人間の理解を越えている。それから doubt ――懐疑。懐疑の状態にどこまでも止まりうる能力を持つこと、いいですか、一足とびに結論を急がないんですよ。どこまでも uncertain な、不可思議な、懐疑の状態に止まりうる能力。この能力をキーツは、Negative Capability という有名な二字で表わしました。これはまさに科学者の能力といってもいいものなんです。それから十九世紀にアプトン卿という有名な政治学者がおりますが、この人の言葉にも非常に面白いのがあるんですが、――曰く、我々の研究というものは、殆ど無目的というに近いものでなければならぬ。我々がものを何でも研究しようという時には、すぐ結果を予想したり、実益をあげようというふうなことを考えないで、我々の研究は殆ど目的のないというに近いものでなくてはならない。研究は、数学と同じく、純粋の精神をもって追究されなければならないというんです。
大体こういうふうなですね、いろいろの例をあげてきましたけれども、そういうふうな科学者と詩人の立場というものが、非常に接近したところへ来ている訳であります。それでですね、まァその事のついでに、それではこういう、大体人生の一番――文学というよりもむしろ大事な宗教の問題がある訳であります。それは、この宗教というものと、――こらまァここの大学の諸先生の方がはるかに適切な解答を与えて下さると思うのでありますが――まァ素人なりの私の考えをちょっと申し上げて御参考にしておきたいと思うのでありますが、先程申しましたスペンダーの、私の訳しました本のおしまいはですね、結局、こういう問題、あの本の根本テーマはこういうことなんです。今申しましたような micro-event ――微視的出来事――にもっぱら注意を向けようとしている詩人、これをスペンダーの言葉では、こういうことを言ってるんです。visionary individual ――これがスペンダーの詩人に対する規定なんであります。visionary individual とはどういう事かと言いますと、vision というのはその人でなければ見えない、ま、夢というてもいいんですが、ある、その人だけの見るものです。他の人には見えないものです。vision というのはそういう specialness ――いいですか、これはまだ日本でもスペンダーの立場を殆どみなが正しく捕らえていないと私は思うのですが、スペンダーはですね、この specialness ――芸術の specialness ――つまり、二人の人間がいてですね、おれの見るところはこうだと。こちらに、おれもそうだ、お前とわしとは実に意見が一致する、こんなのは詩人じゃないんです。誰にも他に見えないものを見る。そうでなければ詩というものは成り立たないんです。この specialness ということはですね、普通の人は、なんだあいつは一人でえらばってやがる、一人自分で天才だと思ってやがる、うんあいつは芸術至上主義だと、いうふうに言うんですが、そんなの全然違うんです。ところが、私の解する限りでは、宗教というものはこれは一人が救われてもいかない、万人を救うものなんだと思うんです。万人、人類のすべてが最後に救われるのが宗教の大眼目だと思うんです。ところがですね、芸術家というのは、何も宗教家を必ずしも敵とするわけではありませんが、この specialness という事をどこまでも捨てることができないんです。ここに芸術家が、かたわらに宗教とかたわらに科学との間に、はさまってですね、非常に苦悶するのであります。芸術家の苦悶というものはですね、これはあの安っぽいセンチメンタルな涙を流しているんではないんであります。何とかして special なものを見つけたい。先程の、霧と格闘している、それを組みふせて一歩向うへ突き抜けなきゃならんと、こういうのが芸術家の悩みなんであります。で、この宗教と芸術の問題というのは非常に微妙な問題でありまして、この問題も、イギリスの現代文学の大きな課題なのであります。これは日本では、日本の文壇というようなものは、そういうふうな問題は、あんまり問題にしていないように私は思うのでありますが、大変な問題なのであります。
そこでですね、ここに一人の大変、これは現代の詩人の本当の心理がどういうものであるかということを、非常にうまく言い当てた言葉がありますので、これをちょっと御紹介したいと思うのでありますが、それはこういう妙な字を、これは字引きにあるかどうか知りませんが、これはある一人の詩学者 Poetic Process という本を書いた George Whalley が言った言葉ですが、‘interface’という言葉を作り出しました。これは必要があったからこういう言葉を作ったんです。どういう事かと言いますと、これはですね、大体、詩人、宗教家、神秘家、いいですか、科学者をも入れてもいい、先程言ったような意味の微視的出来事を含めた言葉です。これは最も現代的な言葉だと私は思うのであります。これは詩人だけの問題でない、宗教家の問題でもあり、そして芸術家の問題でもあり、数学者の問題でもあるようなものですが、この‘interface’という言葉のもとの意味はどういう事かと調べてみますと、これは地球の表面であってですね、固体――石のような固体と、水のような液体と、空気のような気体とがですね、合流してその間に――固体と液体、あるいは液体と気体、あるいは気体と固体との間に、お互いの非常に緊密な交互作用の発生する場所、というんだそうです。これはまあごく気象学的というか、物理学的な定義でありますけれども、この言葉はですね、大体 face というのは
そこで、実際のイギリスの詩の中から二つだけ例をあげまして、今の私の理窟っぽい説明の、ま、例証といいますか、illustration にしてみたいと思うのでありますが、一つは、これはT・S・エリオットの――これは私はイタリー語をよく知りませんけれども、イタリー語の題になっているんで、La Figlia che Piange というんですが、意味は「なげく少女」という、初期の大変美しい詩があるのであります。これはまあ英語を書いてもいいけど、私の下手な訳がありますから、訳で御紹介しますと、こういう三行があります。「われのゆく道もありなん」というんです。私の行く道もどっかにあるかも知れん。「たぐいなく軽ろく」――重い反対、軽く――「巧みなる道」、非常に巧みな、非常に軽くて、非常に巧みなる道。「われらともどもにうけごうべきそこはかの道」「ほおえみのごと手を振るがごと、さりげなき、不実なる道」。先程の「不敬」―― irreverence を思い出すんですが、これが詩人の私は道だろうと思うのであります。これがですね、すでに芭蕉が日本では、奥の細道という言葉によって象徴している。それは
この道や 行く人なしに 秋の暮
この有名な文句は、これは芸術の極地を、誰も行かない道、今の
われのゆく道もありなむ、
たぐいなく軽ろく巧みなる道、
われらともどもにうけがうべきそこはかの道、
たぐいなく軽ろく巧みなる道、
われらともどもにうけがうべきそこはかの道、
あるかないかの細道です。しかしそれが非常に大事なんです。つまり、
ほおえみの……
ほおえみはすぐ消えるもん、つまりさっき言ったように非常に transient なもの、早く、すぐ消えて行くもの、
ほおえみのごと、手を振るがごと、さりげなき、不実なる道
これは芸術の、あるいは芸術家の道、非常にむつかしい。芭蕉も「軽み」「細み」ということを言いました。俳句は軽く細く、重かったら俳句にならない。その「軽み」ということは、非常に大事なことなんでありますが、これは芸道の極地だと思うんであります。これは現代的にエリオットも、芭蕉的な境地をこういう言葉で表わしていると思うのであります。
もう一つはですね、この文句を是非考えていただきたい。これも現代詩人の歩むべき――このエリオットのようなむつかしい行き方ではないかも知れません、それは数年前になくなった、まるで惑星の如く現われて惑星の如く、ニューヨークの酒場で三十九歳で死んでしまった、イギリスの天才詩人、ディラン・トマスの詩の一行を、これは翻訳不可能なので、一行だけを英語で書いて、まァ下手な説明をいたしたいと思うんでありますが、これはこういう題の詩――‘Do not go gentle into that good night’――こういう題なんです。妙な題です。それをまあ直訳すると、‘good night’は「よい晩」ですから「さよなら」のこと。よい晩の中へおとなしく入って行っちゃいけない、と言うんです。この中に refrain として非常にすぐれた詩行があると私は思うのですが、その refrain は――詩の全体は講釈するのは目的ではありませんから、これだけ憶えていただきたい
Rage, rage, against the dying of the light !
かつてあのフランスの、ミシュレという十九世紀の大歴史家が、祖国の大敵に対して≪Prissons, en rsistant !≫という言葉を吐いた。「抵抗しつつわれら死なん」。いいですか、第二次世界大戦のフランスのレジスタンス運動のモットーは、ここから来たんじゃないかと私は思う――我々のかつてのあのシェリが、先程言った A Defence of Poetry の中で、ギリシャ神話の中にある、正義の女神アストレイアの足音に現代の運命をたとえまして、もしも世が世ならばですね、この正義の女神のアストレイアはこの世を捨てて、天上へ昇る訳ではないがですね、現代はもうこんな、大変な気違い世界になったから、この世に愛想をつかして、天へ昇って行ったという文句があるのであります。ところが、産業革命の時代のイギリスを踏まえて発した A Defence of Poetry 詩の弁護、悦しき知識を求めたシェリというものが、死んでからもう一世紀たってしまった。この一世紀後にディラン・トマスがこの言葉を残して死んだんであります。
Rage, rage, against the dying of the light !
光明の星もだんだん薄れてきて――真実の光、我々の知識は我々を照らす知識であるが、しかしそれが消えてゆくんであります。消えゆく光。‘against’は敵対を表わすんであります。向かって行く。抵抗する訳でしょう。消えゆく光に。‘Rage, rage !’というのはどういう訳でしょう? ‘rage’というのは「荒れ狂え」という意味ですが、狂え狂えという。いいですか、お前気違いになれというんです。狂え狂え。おれは気違いになることによって光を護るんだという。ゲーテの有名な「もっと光を」のもっと現代的な表現。しかもミシュレの表現が非常に道徳的な政治的な表現であるのに反して、これは現代の詩人の、最も詩的な、最もヴァイタルな表現であると私は思うんであります。ここの‘rage’という言葉がトマスは非常に好きでありまして、In my Craft or Sullen Art ――詩人としての自分の芸術のモットーを表現した詩の中で、こういう一行があります。
From the raging moon I write
「怒り狂う月の――月の中からおれは書くんだ」。つまりトマスの創造主体というのはですね、もはや昔の日本の和歌の静かな鏡の如き主体じゃないんです。これはいままさに消えんとする光を護らんがために、まさに狂気の一歩手前において書く、その創作主体がつまり、‘the raging moon’です。怒り狂う月からおれは書く。で、私の結論は、つまり現代の「悦しき知識」というものは何であるかというと、それは現代において、the raging moon ――だということ。
Rage, rage, against the dying of the light !