グローバルタワーにて

福永信





 年甲斐としがいもなく不意に思い立った旅で、目的地も「できるだけ遠く」と決めただけで、列車に飛び乗った。
 乗り合わせた年配の男と打ち解け、膝を、文字通り突き合わせて、とりとめなく身の上話をした。名前も知らぬ行きずりの者ら特有の親しさといったところだ。
「そうですか。それは、大変だったですね。何か助言ができればいいのだが」
「いいえ。そんなつもりで言ったのではないのです」
 私は言った。昼下がり、夏の訪れを鼓舞する南国風の鮮やかな風景が、先刻からまぶしく続いている。
「こちらはそんなつもりで聞いてたのですがね」男が、顔の下だけで笑った。「話を聞いて、そこに悩みを見つけたら、解消するような知恵を授ける。年長の者のそれが、役目ですからな」
「いや、聞いてもらえただけでも、ありがたいですよ。(肩をもみほぐしながら)もうすっかり肩の荷が下りたようです」
「ふむ。そうですかな」
 そこだけ黒々と長くのびる眉の奥に、深く人生を知り尽くし、広範な視点の地平へと到達した者独特の眼光が私を鋭く射抜いた。
「どちらへ?」
と、男は着たままでいるコートからウイスキーを取り出して、言った。
「行き先を決めてはないのです。お恥ずかしい話でして。さしあたって終点までたどり着いてから、ベンチに座るなどして、宿を探して、と思っているのですが」
「では一つ、提案してさしあげましょうか。それくらいのことならできる」
 立ち上がり、網棚に手をかけた。もうどれだけ旅を共にしたのだろうか、まるで分身のような、くたびれたボストンバッグを男はかたわらに置くと、中からパンフレットを取り出した。その12ページ目をめくり、こちらへ差し出した。「老人のおせっかいだと思ってください」
「ほう、温泉ですか。これは、いい」
 平凡な目的地であり、ふだんであればまず選ぶことはなかった。しかし、かえってそんな一般的な場所に行くことが、今の自分には必要なのかもしれない、と私は思った。
「あとは勝手にやることにしましょう」男が言って、私も「そうですね」と応じた。男の顔はほんのりと赤く染まっていた。立派な鼻輪が金色に輝いている。
 車掌 本日は、御乗車くださいまして、まことにありがとうございます。お手数ですが、切符を拝見させていただきます。
 車掌は、大柄なその体を窮屈そうにひねり、影になり、日にあたりながら、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
 車掌 切符を拝見。
 男 どうです。車掌さんも一杯。
 車掌 勤務中ですから。
 私 はい、どうぞ。
 男 まあ、ここに座って。
 車掌 いや、いや、勤務中ですから。立ったままで。
 男 はい、切符。
 私 私も。
 男 ほら。勤務してるじゃないですか。
 車掌 参ったなあ。
 男 さあ、座って。ぐっといって。ほら私さんも。
 私 はい、いただきます。どうも。
 男 私もいただこう。
 私 はい、どうぞ。
 車掌 では、乾杯。旅路の安全を祈念して。ご友人ですか。年齢は、よく見ますれば、だいぶ離れておいでなようでもあり、さりとて、親子というほどでもない、と。すると師弟関係ですかな。(2枚の切符を見比べながら)ああでも、そもそも、降車駅が、ご一緒ではない。あなたは終点まで乗っていかれるわけですから。
 男 いや、このお人は、次の駅で降りるのですよ。
 私 そうなのです。終点までは行くことはせずに、私は次の駅で、降りることにしたんです。
 車掌 それなら3人とも一緒か。
 私 え? 3人とも?
 車掌 あなたも心の傷をいやしに行くわけですな。
 男 彼は、そうです。私もそこで降りますが、私は仕事があるのです。こんな老いぼれも、必要としてくれる場所がある。彼には私が推薦しましてね、ほんとは終点まで行かれるはずだったところを、ぜひ降りたらどうですか、と。
 車掌 予定を変更しての途中下車。げっぷ。ロマンですな。
 私 温泉地と聞いたものだから。
 車掌 え? 温泉地?
 私 別府のような温泉地だと、てっきり。
 車掌 とんでもない。
 私 ちがうんですか。(男を見る)
 車掌 もはや風呂なんてものじゃないな、あれは。湯船はあるんです。そこに人が、裸になって体を沈めると言えば言えるんですが、なんていうのかな、本当はそうじゃない。
 私 温泉と言いましたよね。(男に)
 男 私の口からは温泉と言ってはない、残念ながら。
 私 言いましたよねえ。(車掌に)
 車掌 いや、たしかに湯に似たものは出るのだが、湯ではないんですね。そこが理解するのがむずかしい。

 私はあらためてオールカラーのパンフレットを見た。総合コンヴェンションセンターの中の一施設で、湯船にかる若い娘が2人、タオルを巻いて楽しげに会話している写真が使われており、よくある温泉地案内のパンフレットのようであったが、たしかに、どこにも、一言も、温泉とは書かれてなかった。
 パンフレットによれば、総合コンヴェンションセンターにはほかにも美術館やショッピングモール、大型書店、プラネタリウム、劇場、映画館、オフィスや大規模展示場、ミーティングルームなどがあるという。それらが地上9階、地下3階、延べ床面積900万平方メートルの敷地にゆったりと配置してある、西日本最大級とうたわれていた。敷地には、高層展望タワーがあって、最高の眺望が楽しめるという。その展望台では隠れ家風に食事を楽しむことも可能とのふれこみだった。
「では、それなら、何が湯船の中にはあるんですか。つまり、何をかけ流しているんでしょうか」
「そうですね。こんなふうに説明してみましょうか。人から傷つけられた、あるいは、人を傷つけた。そんなふうなイヤなこと、思い出したくないことは、誰でも少なからずあると思います。私もね、日々こうして仕事をしていますと、イヤな思いをすることがありますよ。乗客にもいろんな人がいますから。それで、心が重くなり、暗い表情でドンヨリしてますとね、また別の乗客に、そんな顔、ぶら下げてるのは失礼じゃないかね、キミ、と、気分が悪い、と言われるわけです。私にも感情ってものがあるよ。しかし、すみませんと言って笑顔を作る。その笑顔がうそくさいとまたののしられる。そこで、1人、コンヴェンションセンターに行きまして、湯に浸かっていると何もかも忘れてしまうんですな、不思議なことに」
「今、湯に浸かっていると言われましたが」
「いや、湯ではないんです。冗談じゃない」車掌は、急に不機嫌になって立ち上がり、眠っている男の肩をゆすると、御馳走ごちそう様、と言ってウイスキーの小瓶を窓から投げ捨てた。「良い旅を」

 駅に降りて、改札を出たところで、男と別れた。男は「公園にまず立ち寄るといい、自分が案内するから」と言ったが、ベンチに横になり、ボストンバッグを置くと、それを枕にした。私は声を掛けようとしたが、結局何も言わず、公園へ向かうことにした。
 公園は広大で、子供と遊ぶにはもってこいの場所だ。今さら思ってもしょうがないことだが…
 やがて、パンフレットで見たそのポストモダンな外観の総合コンヴェンションセンターが見えてきた。高層展望タワーがあるはずだが、見当たらなかった(公園からも見えなかった)。私だったら、あの塔は、グローバルタワーと名付けますね、と男が言っていたのが思いだされた。そんな名が相応ふさわしいと思うのです、と言うのだった。そんな名に相応しいタワーを、まさか見落とすなどということはないはずだが…敷地を一周するが、それらしき構築物はなかった。検索すれば、すぐわかるはずだが。
 コンヴェンションセンターの入り口は回転扉になっていて、楽しかった。受付で、ここに行きたいのですが、と、男からもらったオールカラーのパンフレットを見せた。
 受付嬢 どうぞ、こちらへ。
 私 直々に、案内してくれるのですか。それは、ありがたいな。
私が案内されたのは、温泉のような湯気の立ち上る場所ではなく、湯船もなかった。そこは、劇場であった。
「なんだ、こういうことだったのか。芸術に触れて、心を癒しなさい、ということだったのか」
芝居というジャンルは嫌いではなかったが拍子抜けした気分だった。こんなときに私が選びそうな場所だったからだ。パンフレットを落としてしまい、手探りしながら拾うと、ずっしりと重かった。さっきよりもページ数が増えているように思えた。
 芝居はすでに始まっていた。
 客席はざわついていた。


 客席がざわついていた。
 芝居がつまらなかったのではなかった。
 逆だ。
 あまりにもほれぼれするほどなので、感動にふるえていたのだ。その感動のバイブレーションが、劇場空間を満たしていた。南国風の舞台美術は、近寄ればいかにも安っぽいカキワリにしか見えないだろう。しかし適正に離れたこの観客席から見れば、まぎれもなく海であり、そこに停泊している船であり、青い空に浮かぶ白い雲だった。その前に立つ役者は、あらかじめセリフをすべて暗記しているのではなく、演じているんじゃなく、今、ここで思いついたままをしゃべっている、それほどの迫真の演技だった。
 登場人物は全部で9人だがまだ3人しか出ていない。本当ならもっと出てないといけないのだが、舞台そでで感動してしまっているのだ。本来なら感動を与えるべき彼らが、すっかり感動してしまっている。演技のプロすらうろたえさせるほどの舞台が実現してしまっている。まだ始まって5分、芝居は序盤も序盤なのだが…舞台上のその3人もいまや、1人も演技をしていない。
 いけない。演技をやめてはいけない。もしテレビ中継でこれを見ていた者がいれば、そう思っただろう。
 しかし心配はいらなかった。役者がセリフを口にするのをやめても、演劇のリアリズムはまったく途切れなかった…まさに奇跡の舞台といえた。
 クライマックスはいったいどうなってしまうんだろう。時間は容赦なく流れていく。舞台上の雲は動かないが、上演は終わりへ刻々と進んでいく。はたしてこのまま舞台を直視できるのか、人間に耐えられぬほどの感動が現前してしまうのでは、と心配する余裕のある者は観客席にはひとりもいなかった。ただ、こんな会話をするのがせいぜいだった。
「だ、だれなんだ、あの役者は。日本一だ。じつにすばらしい」
「3人ともじつにいいよ。すばらしい」
「ええと、パンフレットによると別府出身…」
演じられているのは、列車での会話だった。
 さっきの列車での3人の会話が再現されていたのである。男が座っていて、私がいて、膝を、文字通り突き合わせて、パンフレットを見ながらとりとめなく話をしていると、車掌が「切符を拝見」とやってくる。その3人が、酒を酌み交わす。
 私は、その場の思いつきを話していたはずだ。自分でも、もう繰り返すのはむずかしいだろう。
 しかしそれが、素晴らしい俳優らによって、舞台の上で繰り返されていた。男が迫真の演技でほんとに眠っているように居眠りをしていた。車掌役の俳優が御馳走様と男の肩をゆすって起こし、「良い旅を」と名ゼリフを残して舞台を去った。小道具のウイスキーの瓶が客席の私の額に当たったが「なんともありませんよ、これしきのこと…」と私は言いながら、ロビーに出た。劇場の職員が謝罪をさせてほしいと私を追ってきたが「いえ、へっちゃらです」と私はガッツポーズをして預けていた荷物を受け取り、総合コンヴェンションセンターの外へ出た。先刻よりボストンバッグが重くなっているように感じたのは、私が疲れているからだろうか。私はウイスキーの小瓶を取り出したが、もう一滴も残ってなかった。
「素晴らしい舞台だったな」
私は、総合コンヴェンションセンターから出た。ボストンバッグからウイスキーの小瓶を取り出して、飲み干したところで、西から、塔の影が追いかけるようにのびてきて3人を隠した。





底本:「大分合同新聞(朝刊)」大分合同新聞社
   2016(平成28)年4月30日
初出:「大分合同新聞(朝刊)」大分合同新聞社
   2016(平成28)年4月30日
入力:福永信
校正:大久保ゆう
2016年12月18日作成
2017年1月21日修正
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