『圓朝全集』は誰のものか
1999年6月30日作成
2005年10月16日修正
富田倫生


目次
【本報告書作成の狙い】
【発端】
【調査の内容】
 1 没年確認の流れ
  ●基本的な資料での確認
  ●著書からの調査
  ●その他の手がかり
 2 団体名義か個人名義か
 3 『圓朝全集』の校訂をどうとらえるか
【結論】
【今後の検討課題】
 1 著作権者、著作権継承者〈たずね人〉ページの新設
 2 裁定制度の利用


【本報告書作成の狙い】

幕末から明治を生きた落語家、三遊亭圓朝は、書き言葉の今のあり方に、影響を及ぼしている。
その後の文学、さらにより広く、文章一般のスタイルにも深く関わった彼の仕事の全体像は、大正の終わりから昭和のはじめにかけて刊行された、春陽堂版の『圓朝全集』にうかがえる。

書物を通じて圓朝の作品に触れた人は、これが彼の噺をうつしたものであることに、あらためて驚かされるだろう。
大きな物語の骨組みを自在に渡り、情景の際と人の心のひだをあざやかに描きながら、彼の言葉はどこまでもきちょうめんな折り目正しさを失わない。

言文一致への道を開く役割もになったこの圓朝の表現を、私たちは、青空文庫で公開したいと考えた。
底本としては、圓朝の仕事を後に伝える上で決定的な役割をになった春陽堂版が適当であると判断し、作業を進める上で問題となる点はないか、検討を加えた。
その過程でここには、古い作品を電子化する際の難しさがいくつも絡み合っていることに気付いたが、最終的には「進めよう」と心を決めた。

この報告は、上記の検討過程で確認した問題点と、決心に至った理由、加えて残された課題を明らかにするためにまとめる。(活動報告欄の「そらもよう」ではかつて、この落語家の名を「円朝」と書いたことがある。今回、旧字旧仮名で書かれた『圓朝全集』を現代表記に改めるに際し、「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」の第3項に則って、作者名は「三遊亭圓朝」とした。そこで本報告書でも、固有名詞としての書名や引用文中をのぞいて「圓朝」と書く。)

【発端】
青空文庫の作業にあたってこられた小林繁雄さんから、春陽堂版の『圓朝全集』を底本に、「業平文治漂流奇談(なりひらぶんじひょうりゅうきだん)」を入力したいという打診があった。

春陽堂版『圓朝全集』に関して、報告者はかつて、入力が可能か否か、形式的な検討を行ったことがある。(1998年1月9日付け、そらもよう
その時、参照した資料は、同全集の著者を圓朝会と表記していた。
春陽堂版に関する、三遊亭圓朝および圓朝会の権利を規定するのは、刊行時期に照らして旧著作権法である。
その規定によれば、両者の権利は共に消滅している。
そこで、春陽堂版を底本とした入力に問題はないと、その時点ではそう考えた。

だが、小林さんによれば、春陽堂版の奥付には「校訂編纂者/圓朝会代表者 鈴木行三」とあるという。
とすれば、「圓朝会という団体の著作権はすでに切れている」と簡単には片づけられず、鈴木行三氏個人の役割と権利に関する調査、検討を行う必要があると考えをあらためた。

鈴木氏に関して確認するべきことは、異なったレベルに三つあると判断した。

一つ目は、彼の没年である。
もしも鈴木氏の著作権がすでに消滅していれば、以下に示すその他の要素には細かく立ち入る必要もなく、迷わず入力をはじめられる。

二つ目の要素は、「校訂編纂」の主体が圓朝会という団体であったのか、鈴木行三氏個人であったのかの見極めである。
旧著作権法は、個人の著作権の保護期間を死後30年と定めている。一方、団体名義の権利は、作品の発表後30年で切れるとしている。
春陽堂版に圓朝以外の著作権が生じていたとしても、もしそれが団体名義であれば、とうに切れている。

一と二の検討を踏まえて、「校訂編纂」の主体が鈴木氏個人であると判断され、彼の著作権が切れていないか、もしくは消滅が確認できなかった場合は、三つ目の要素として、鈴木氏の作業が「創作性」を有するものであるか否かの検討が課題となると考えた。

「校訂編纂」の内、いろいろな作品を集め、並べ方や各巻への割り振りなどを決める「編纂」という行為に関しては、現行の著作権法に、これを保護する場合がある旨の定めがある。

「(編集著作物)第十二条 編集物(データベースに該当するものを除く。以下同じ。)でその素材の選択又は配列によつて創作性を有するものは、著作物として保護する。」

この規定を念頭において、すでに編まれてある「選集」の類の構成をそのままなぞって登録することを、青空文庫では避けている。(直面した課題「編集権について」。現在、岩波文庫版の寺田寅彦随筆集をもとに電子化の作業を進めているが、同書は小宮豊隆氏によって編まれていることに留意し、もとは五巻だったものを内容別に振り分け、六巻構成で登録することとした。)
ただし、たとえば『圓朝全集』を底本としたとしても、個々の作品を独立した形で登録する場合には、「素材の選択又は配列によつて創作性を有する」という編集著作権には関わらない。
この判断に基づき、私たちはこれまでも全集や選集を底本とし、たくさんの作品を入力し、個別に登録してきた。
圓朝の諸作品に関しても、登録は作品ごとに行うことを想定していたから、「編纂」に関わる権利には抵触しないと考えた。

一方、奥付に記載のあるもう一方の「校訂」に関しては、その内実を検討することが必要であると判断した。
古書の本文を、他の版などと引き比べながら読みとっていく「校訂」という行為を、現行の著作権法は、明確な形では保護の対象として認めていない。
だが、「校訂」はしばしば、きわめて高度な専門的知識を求める作業であることも、事実である。

では、この作業を担った者の権利を、どうとらえればよいか。
かつて私たちは、校訂者を明示した岩波文庫の『風姿花伝』を底本にできるか検討する中でこの問題に突き当たり、岩波書店の法務担当者との議論を経て、「校訂者の権利に配慮して、入力を差し控える」という判断をくだしたことがある。(直面した課題「校訂者の権利について」
この際も、一般的な「編集」とこの種の作業とを明確には区別しがたい以上、「校訂」が謳ってあることで自動的に判断を停止し、電子化を諦めるような姿勢をとるべきではないと考えた。
だが、岩波書店によれば、「校訂には翻訳と同等の権利を認め、校訂者の死後50年を経過するまで印税を支払い続けている」という。
とすれば、校訂者は「自らの作業が著作権、もしくは著作権と同等の権利として保護される」という期待をもって作業にのぞんだだろう。さらに『風姿花伝』の二名の校訂者は共に他界しており、法的な裏付けも含めて、どのような根拠をもって自らの作業を権利保護の対象となしうると考えたのか、その理由をたずねる機会も持ち得ない。権利を引き継いだ遺族にはなお、そのような問い合わせはできないと判断したことから、『風姿花伝』の入力は差し控え、「校訂は、著作権を認めるべきか否かのグレーゾーンにある。判断は個別の案件ごとに、校訂の具体的な内容に鑑みて行うしかない。」という原則を示すにとどまらざるを得なかった。

鈴木行三氏の著作権が切れておらず、『圓朝全集』の校訂が氏個人の仕事と判断されるならば、「それが創作性を持つものか否か、具体的な内容に照らして検討する」という、前例や指標のない作業に取り組まざるを得ないのではないかと考えた。

以上示した、1没年、2団体名義の著作物か個人名義か、3「校訂」の具体的な内容という三つのポイントを念頭に置いて、『圓朝全集』と鈴木行三氏に関する調査に着手した。

【調査の内容】

1 没年確認の流れ

●基本的な資料での確認

ある作家の著作権が切れているか否かは、青空文庫が独自の判断で電子化に着手できるかできないかの分かれ目になる。
文庫開設以来、我々は繰り返し没年の確認を求められてきた。

そこで青空文庫では、『著作権台帳(文化人名録)』(著作権資料協会)に記載された「没後50年経過の著作者」リストをもとに、『広辞苑』(岩波書店)、『大百科事典』(平凡社)、『増補改訂 新潮日本文学辞典』(新潮社)、『新潮日本人名辞典』(新潮社)を参照して、「著作権の消滅した作家一覧」のリストを作ってきた。
鈴木行三氏の名前は、このリストには記載されていなかった。

上記リストが、著作権の切れた作家のみを記載しているのに対し、もりみつじゅんじ氏による「死せる作家の会」には、今後著作権切れを迎える作家がリストアップされている。
鈴木行三氏は、こちらにも記載されていなかった。(同リストには、今回の調査結果をもとに、氏に関するデータを加えていただいた。)

図書館で参照したその他の参考図書中にも、鈴木行三氏の没年に関する記述は見つけられなかった。

●著書からの調査

鈴木行三氏の著書の発行元に問い合わせることで、没年もしくは、著作権継承者が確認できないかと考えた。
著作は、以下の検索システムを利用して探した。

横浜市立図書館蔵書検索システム
NACSIS Webcat
早稲田大学学術情報システム(同システムでは、図書カードに著作権者の生没年が表示されるので、特に翻訳者の権利を確認する際に、助けられることが多い。だが、鈴木行三氏の没年は、ここにも示されていなかった。)

上記のシステムで確認できた鈴木氏の著作を手がかりに、すでに存在しないところをのぞいて、発行元に、鈴木氏の没年と著作権継承者を問い合わせた。

『江戸名物食べ物年代記』日本常民文化研究所、1961年7月→神奈川大学常民文化研究所に問い合わせ
『三代社会風俗年表』日本常民文化研究所、1956年2月→神奈川大学常民文化研究所に問い合わせ
『中国人名辞典 上古〜近世』(『支那人名辞書』啓文社1904年5月の復刻)日本図書センター、1978年4月→日本図書センターに問い合わせ
『戯曲・小説近世作家大観』(中文館書店、1933年1月の復刻)名著普及会、1984年5月→名著普及会に問い合わせ

回答はいずれも「不明」だった。

●その他の手がかり

春陽堂版の『圓朝全集』は、1963年に世界文庫から復刻されている。
復刻版には、月報が添えてあった。
巻の一にあった『月報1』には、畠山清身氏による「『円朝全集』因縁噺」が収められており、そこに「鈴木行三先生は昨年(昭和三十七年)の二月三日に八十三才で歿くなられた」とあった。
巻の二『月報2』、高木一夫氏による「鈴木行三氏のこと」にも、「昭和三十七年二月三日の土曜日の午後、鈴木行三氏は保谷の日本民族学研究所の一隅で八十二歳の一生を終えられた。」という記載があり、没年は1962年であると、ようやく確認できた。

よって鈴木行三氏の著作権は、2013年1月1日まで切れない。
そこで調査の力点を、次のステップへと移すことにした。

青空文庫では、工作員マニュアルに示した理由から(「本という財産とどう向き合うか」2.2)著作権の切れていない作品)、著作権継承者への公開の打診は控えようと決めている。
この原則に従えば、著作権が有効であることを確認できた段階で、継承者の連絡先を探す作業は中止するのが適当である。

だが本件では、不明な点が多数存在することから、個人名義か団体名義かという点と、「校訂」の実態の調査を進める一方で、著作権継承者をたどる試みも、あえて行うこととした。

文芸作品の著作権に関する仲介業務団体に、日本文芸著作権保護同盟(電話:03-3265-9658)がある。
ここに問い合わせたが、鈴木行三氏の権利継承者からは、処理を委託されていないとのことだった。

角川書店は、1975年5月から1976年4月にかけて、『三遊亭円朝全集』を刊行している。
その第一巻に添えられた月報1に、林家正蔵氏が「鈴木行三翁のこと」と題した一文を寄せていた。
そこには、同全集の刊行にあたり、正蔵氏は編集部員を伴って、池上本門寺にある鈴木行三氏の墓に参ったとあった。
そこで、池上本門寺に縁者の連絡先等がわからないかたずねた。
池上本門寺は、没年を手がかりに資料をあたってくれたが、手がかりは得られなかった。

三遊亭圓朝の墓がある、東京、谷中の全生庵では、毎年8月、圓朝まつりが開かれる。
全生庵に問い合わせを入れたところ、角川書店版『三遊亭円朝全集』の奥付に顧問として記載のある藤浦富太郎氏のご子息で、映画監督、落語評論家の藤浦敦氏ならご存じなのではないかとのアドバイスを受けた。

京橋にあった青物市場、大根河岸で青物問屋を営んでいた藤浦三周は、三遊亭圓朝の有力な後援者だった。圓朝の没後、さまざまな事情が重なって二代目が決まらない中で、圓朝の残した幽霊画のコレクションと共に、圓朝の名跡を、藤浦三周があずかることになった。
藤浦富太郎氏は、三周の子。敦氏は、富太郎氏の子にあたる。
藤浦敦氏からは、『圓朝全集』成立の経緯に鑑みて、鈴木行三氏の著作権を考慮する必要はないとの示唆を受け、圓朝の名跡をあずかる立場から、「青空文庫で電子化を進めて良い」とのお言葉もいただいた。
だが、鈴木氏の権利継承者に関する手がかりは、藤浦氏からは得られなかった。

前出の「鈴木行三氏のこと」(高木一夫)には、権利継承者の確認が困難であることを予想させる以下のような記述があった。
「鈴木さんは夫人と一人の息子さんとを失ってから、どの位いの年月が立っているものか、(中略)ずっと鈴木さんの世話を続けている婦人(二度目の夫人であるが、鈴木さんは一度もそう言って紹介した事はない。元は女中さんであったという人でただ「をんな」という風に呼んで話していた。)その人が、自分は国に帰るから、養老院に入ったらいいだろうと言うのだが、養老院に入るのにはどの位い金が入るものなのか知りませんか、というような事を聞かれたりした。」

2 団体名義か個人名義か

春陽堂版『圓朝全集』には、校訂、編纂に伴う著作権があると仮定した上で、それが団体名義であるか個人名義であるかを判断するに足る十分な材料は、今回の調査ではえられなかった。

春陽堂版『圓朝全集』の刊行を目的の一つとして、鈴木氏が中心となって圓朝会が組織されたこと。会員を募り、おそらくは会費を集めて刊行の費用とし、非売品としたこと。編纂と校訂の作業はもっぱら鈴木氏一人によって担われたが、若干の協力者を得ていたこと、などに関するいくつかのコメントが確認できたのみである。

以下に、それらを引く。

・鈴木氏個人の働きを強調するもの
「殊に校訂、編纂、訪問、印刷の校正等、一切の仕事が私一人の上に落ちて来たのであります。殊に校正も特殊の読方が多く、明治初年の東京語や方言が多い為、四校五校まで取って悉く自ら見ねばならぬやうな訳で、自然、発行も遅れ勝ちにはなりましたが」(鈴木行三「圓朝全集の編纂を終りて」『圓朝全集』春陽堂版、巻十三)

・鈴木氏の尽力に経緯を払いながら、若干の協力者の存在に言及したもの
「ところがやり始めてみると、かなりの難事業なんですね、これが。で、顧問てえのか相談役としてうちのおじいさん、もうその頃は三遊亭一朝っていってましたが、それに、絵のほうの鑑定やなんかは伊藤晴雨先生や、それから速記者でもとは講釈師で悟桐軒円玉、浪上義三郎という二つ名前の人たちやなんかがね、まあ協力したわけなんですよね。ですから古鶴先生(鈴木行三氏:報告者注)も大変、力強かったんでしょう。」(林家正蔵「鈴木行三翁のこと」『三遊亭円朝全集』角川書店、第一巻月報)

・圓朝会の成り立ちに関するわずかな手がかり
「この圓朝が沒後既に二十六年、一部にはその遺徳を偲ぶものも少くなかつたが、近頃は文藝方面に於ても漸く彼の藝術を追慕する者が續出するに至つたので、愈々圓朝會の組織となり、近く鈴木氏その他の有志によつて春陽堂から『圓朝全集』の刊行も決行さるゝに至つたのは喜ばしい。」(齋藤昌三「圓朝と明治文壇」『圓朝全集』世界文庫版、巻五月報)

・圓朝会の性格に関するわずかな手がかり
「鈴木さんは円朝会というものの事実上の組織者で、全集編纂にあたられた人であった。中でも僕が鈴木さんの円朝に対する本当に行届いた仕打ちと思ったのは、谷中の円朝の墓に今日に至る迄盆暮の所謂附け届を怠っていないという事であった。(中略)
追記
最近、円朝会の趣意書というものを見る機会があった。それによると円朝会の事業の一つに永代供養というものがあった。永代供養というと、或る纏まった金を寺へ永代供養料として納めて事済みとなるもののようだが、鈴木さんはそれでは気が済まなくて、盆暮れの附け届という事を怠らなかったのであろう。」(高木一夫「鈴木行三氏のこと」『圓朝全集』世界文庫版、巻二月報)

3 『圓朝全集』の校訂をどうとらえるか

春陽堂版『圓朝全集』において、鈴木行三氏の行った校訂の内容を吟味するためには、録音されたことのない圓朝の噺が、いかにして書き言葉に定着されるに至ったかを確認する必要がある。
圓朝の言葉を後世に伝えたのは、速記だった。

16世紀終わりにイギリスに起こった速記術には、さまざまな流派が生まれながら改良が繰り返され、これを応用して各国語に対応した技術が生まれていった。
明治維新後、日本に紹介された速記術もまた、田鎖綱紀によって翻案され、五十音を書き表せるものとなった。
田鎖はこれを「時事新報」で発表し、普及にも乗り出していく。
1882(明治15)年10月28日、田鎖は東京、日本橋の「小林茶亭」で「日本傍聴筆記法講習会」の開校式を開いた。
この講習会で学んだ者に、若林かん(王+甘)蔵、酒井昇造らがあった。彼らは若林の家に集まって練習を積み、若林は書きにくい字を改めたり略字を工夫したりと技術の向上に努め、演説や講義、議論の書き取りなどに技術を活かす場を求めていった。
その若林のもとに、1884(明治17)年、東京稗史出版社から「三遊亭圓朝の噺をそのまま速記すれば面白い読み物になるのではないか」との企画が持ち込まれる。圓朝本人もこれを了承し、若林は酒井昇造と共に、人形町の末広亭へ通って噺を起こした。
このとき書き取られた『怪談牡丹燈籠』は、和装本十三冊にまとめられ、同年7月から12月にかけて刊行されて、大変な売れ行きを示した。この成功がきっかけとなって、圓朝をはじめとする落語や講談の速記本が、次々と刊行されるようになっていく。
速記という鍵となる技術を握る若林は、自らが主宰する速記法研究会名義で、翌1885(明治18)年1月から3月にかけて、圓朝の代表作となる「鹽原多助一代記」を全八冊、「業平文治漂流奇談」を上下二冊で刊行する。
さらに、圓朝の速記は、新聞という新興のメディアとも結び付いて広く読まれていった。「やまと新聞」を創刊した条野採菊(画家、鏑木清方の父)は、自らが戯作者であり、圓朝の親しい友人でもあった。1886(明治19)年10月7日の創刊号から「やまと新聞」は圓朝の「松の操美人の生埋」を連載し、これが評判を呼ぶ。以降も、圓朝物は次々と連載されて同紙躍進の原動力となり、連載をまとめたものが次々と単行本化されていった。

1887(明治20)年6月、二葉亭四迷は言文一致の先駆けとなる「新編 浮雲」第一編を刊行する。
ここに圓朝の速記本の強い影響があったことを、彼は「余が言文一致の由來」で率直に語っている。

「言文一致に就いての意見、と、そんな大した研究はまだしてないから、寧ろ一つ懺悔話をしよう。それは、自分が初めて言文一致を書いた由來――もすさまじいが、つまり、文章が書けないから始まつたといふ一伍一什の顛末さ。
 もう何年ばかりになるか知らん、余程前のことだ。何か一つ書いて見たいとは思つたが、元來の文章下手で皆目方角が分らぬ。そこで、坪内先生の許へ行つて、何うしたらよからうかと話して見ると、君は圓朝の落語を知つてゐよう、あの圓朝の落語通りに書いて見たら何うかといふ。
 で、仰せの侭にやつて見た。所が自分は東京者であるからいふ迄もなく東京辯だ。即ち東京辯の作物が一つ出來た譯だ。早速、先生の許へ持つて行くと、篤と目を通して居られたが、忽ち礑と膝を打つて、これでいゝ、その侭でいゝ、生じつか直したりなんぞせぬ方がいゝ、とかう仰有る。」(『文章世界』1906年5月)

1889(明治22)年には、『百花園』、『花がたみ』など、数種類の落語講談速記専門雑誌の刊行が始まる。
寄席に通える都市住民だけが味わうことのできた、落語や講談の支持層を、速記は全国に広げていった。
速記本という新たに誕生した人気商品は、出版業界の牽引車となった。

1911(明治44)年に刊行の始まる立川文庫の誕生に至る経緯は、文字に定着された〈語りの芸〉が大衆的な支持を取り付け、やがて言文一致の〈文芸〉として自らを再定義していく点で、きわめて象徴的である。

四国、今治の回船問屋の女主人、山田敬は、巡業で訪れた講談師、玉田玉麟(後に玉秀斎を襲名)と駆け落ちし、養子の主人と五人の子を置いて大阪に逃れる。
玉麟の名を上げようと案じた敬は、隆盛をきわめる速記本に目を付けた。速記者と組ませ、玉麟の講談を起こした本を出し、これもあずかって玉麟は真打ちとなり、玉秀斎を襲名する。
母親の不行跡で婚家を追われた長女を大阪に呼び寄せた敬は、玉秀斎付きとなっていた速記者と娘を添わせた。だが、この結婚は二年で破綻する。
娘の離婚によって速記者を失うという危機は、新たにチームに加わった長男の阿鉄によって、乗り越えられる。博学で空想癖があったという阿鉄には、戯作者としての素質が備わっていた。阿鉄は、玉秀斎のネタを元にしながら、はじめから作品を書き起こしてしまう書き講談で、速記者の不在という穴を埋めようと考えた。
この原稿の出版を、立川文明堂の立川熊次郎が引き受け、1911(明治44)年春、立川文庫の第一巻『一休禅師』が刊行される。これが快調な売れ行きを示したことで、文庫の刊行に拍車がかかった。
執筆は、玉秀斎が提供したネタを阿鉄らがまとめ、それに玉秀斎と敬が目を通すという形で進められた。やがて敬の子は皆集まって、作業に協力することとなり、家族を母体とする物語作成集団が形成されていく。
創刊以来の計13年間で、立川文庫からは196点が刊行される。年平均15点の刊行を支えたのは、この集団制作体制だった。

「夢をあたえた立川文庫」(http://www.islands.ne.jp/imabari/sasuke/tachikawa.htmlで公開されていたが、現在はリンク切れ。)で、山田一族による集団制作体制の形成過程を紹介した図子英雄氏は、書き講談の流れを汲む作家として、中里介山、吉川英治、大佛次郎、五味康祐、柴田錬三郎、山田風太郎、隆慶一郎等を上げている。

私たちは、文字に定着された三遊亭圓朝の話芸を読むことができる。
その道を開いてくれたのは、日本語速記術の誕生だった。
速記は、話芸の力を文芸に引き込むきっかけを作り、書き言葉を口語文に引き寄せるその後の大きな流れの端緒を開いた。

ではこうした背景を予備知識として頭に置いた上で、『圓朝全集』に対する鈴木行三氏の貢献を、どうとらえるべきなのだろうか。

圓朝の構想力と取材に基づいた緻密な細部、生き生きとした流麗な語り口は彼だけのものだ。
だが彼の芸は、速記者の存在があってはじめて残り、広まることができた。
速記本は廉価版に仕立てられ、貸本屋扱いとされることが多かったという。しばらくは大量に出回ったものが、二十年、三十年たって鈴木行三氏が全集の編纂を検討しはじめた時期には、きわめて入手しにくいものとなっていた。
その鈴木氏に手がかりを与えたのは、『圓朝叢談』と名付けられた四冊本だった。さまざまな出版社から出されていた圓朝速記本の紙型を一括し、1892(明治25)年に出されたこのシリーズが帝国図書館に納められていたという奇遇を得てはじめて、全集の企画がなったと鈴木氏は指摘し、『圓朝叢談』の発行者に謝意を表している。

「兎に角私にとっては、三友舎また金槇堂と名告った鈴木金輔が、安物の売行の盛んな中で真面目に、売行のわるい四巻本を作って置いてくれた事は有難かった。これがあったが為に、円朝全集の計画も実行に移され、完全に、発行されたのであった。」(「円朝全集の思出」鈴木行三、『圓朝全集』世界文庫版、巻四月報)

鈴木行三氏は自らの校訂作業を振り返って、その実態を次のように書いている。

「明治の初め、速記本の出来たころは漢文口調が盛んであったから円朝の速記にも随分無理な文字も使ってあったが、元来速記は発音を写すものであるから、復文の宛字はどうでもいゝと思って、ふりがなの方を尊重して、一字も忽せにせず、漢字の方を出来るだけ平易に改める事にした。」(「『真景累ヶ淵』を見て思い出されること」、岩波書店のPR誌『文庫』、1956(昭和31)年8月1日発行所収)

『圓朝全集』と以前の速記本を引き比べて、高木一夫氏は鈴木氏の貢献を次のように位置づける。

「全集以前の円朝の本はもう余りないし、今日円朝物の復刊と言えば全集を底本としているから、ああいうものだと思っているらしいが、全集前の本は速記者が翻字したままのもので、字使いも送り仮名も明治時代の乱雑なままのものだったのである。僕は古い本の『牡丹燈籠』と『名人長二』を読んで、これを整理し直すという事は並々ならぬ努力が入用だと思った物であった。鈴木さんはその整理に当った人なのだ。」(「鈴木行三氏のこと」『圓朝全集』世界文庫版、巻二月報)

素晴らしいけれどはかない圓朝の仕事は、たくさんの人の働きが繋がってはじめて、残ることができた。
その流れの中に、懇切丁寧な『圓朝全集』の校訂編纂作業もあったという事情は、鈴木氏の仕事に対するその後の評価を、まっ二つに引き裂いている。

一方には、彼の貢献をごくごく内輪に見積もる流れがあり、他方には鈴木氏の働きがあればこそ、圓朝は後世に残ったとする人たちがいる。

1955(昭和30)年6月、岩波書店は岩波文庫から、三遊亭圓朝作『怪談牡丹燈籠』を出した。翌年には三遊亭圓朝著として『真景累ヶ淵』が、翌々年には『鹽原多助一代記』が、同文庫から刊行されている。
だがそのいずれにおいても、なにを底本としたかに関する記述はない。

1975(昭和50)年5月に刊行の始まった、角川書店版『三遊亭円朝全集』は、一巻の解題の最後で、なにをもとにテキストを編んだかについて、次のように説明している。

「なお、最後に本全集のテキストと校訂について一言ふれておきたい。円朝の作品がこれまでまとめられたのは、戦前、大正十五年より昭和三年にかけて春陽堂から刊行された全十三巻の全集と、戦後に出されたその複製本である。この春陽堂版は編纂時に校訂作業は行なわれているものの、大筋においてはほとんど最初の速記本スタイルを踏襲していて、総ふりがな、改行なしである上、もちろん旧字旧かなによっており、現代の読者にはなじみにくい形となっていた。(中略)
 底本には、右の春陽堂版全集に収められている作品はそれを用い、能う限り初版本をはじめ、和装本、ボール表紙本などの各種異版本を参照して校合した。春陽堂版全集には性描写を中心としてかなりの伏字も見られるが、これらも今回のこうした作業を通してもとの形におこしている。」(小池章太郎/藤井宗哲)

たいした校訂の努力は払われていないという解釈なのだろうか。ここには、春陽堂版が鈴木行三氏の働きをもって成ったことに対する言及はない。

こうした無視、ないしは低い評価に対しては、鈴木氏本人と氏の仕事に敬意を払う人から反発があった。

世界文庫版『圓朝全集』巻一の月報に「『円朝全集』因縁噺」を寄せている畠山清身氏によれば、岩波書店からの『怪談牡丹燈籠』の出版は、鈴木氏に対しては「無断で」行われたという。
後に鈴木氏を訪ねたと思われる同書店の山鹿太郎氏との面談の様子を、鈴木氏は次のように書いている。

「思うに今後円朝物を出版するものは、悉く円朝全集を台本とすることであろう。たとえ古い活字本があったとしても、粗悪な紙でベタ組では、土屋君やわれわれのやった苦心を繰返さねばならず、『不可ねえ』とあってもイケネエとイカネエでは、話す人物がガラリと変わってしまう。そんな事にまで気を遣ってゐては金もかゝれば手間もかゝる。それより全集を台本にすれば安くて速い。先頃岩波書店の山鹿太郎という人が来て、比べて見ると矢張り全集本が一番いゝと云うから、他の本と比べましたといふと、傑作集や何かというから傑作集は所々違へたかも知れないが全集のまゝを原稿にしたのですよと云ったら口籠って話を他に転じた。物質的にではないが、土屋君が眼を赤くして助けてくれた労苦も酬はれた訳である。

 消えなんとするともし火を掻き立てゝ照る世を見つゝ一人笑みする
 名人を伝へ得しことの喜びを分たん人は今は世に亡し」(「円朝全集の思出」『圓朝全集』世界文庫版、巻四月報)

鈴木行三氏を良く知る高木一夫氏は、「今日、全集を底本として易々と文庫物なぞに復刊が行われる場合、僕は可能な範囲に手を廻して抗議することにしていた。鈴木さんが『円朝遺聞』を書いた事は署名があるから分ってはいても、当の鈴木さんが健在でいるという事は、もう知っている人が少いからであったろう。当然すべき挨拶もしないで簡単に文庫本なぞを作ってしまうのだ。」と書いている。(「鈴木行三氏のこと」『圓朝全集』世界文庫版、巻二月報)

【結論】

春陽堂版『圓朝全集』の校訂にあたった鈴木行三氏の著作権は、切れていない。

校訂作業がもっぱら鈴木氏によって担われただろうことには疑いの余地がないが、協力者が存在したこともまた明らかである。

鈴木氏が校訂に尽力したことは間違いないが、その場で消え去るべき語りの芸が書き言葉に定着され、簡易な仕立てで流布されたという流れの中で、貢献をなした者は鈴木氏の前にもあった。

春陽堂版『圓朝全集』が刊行された時点では、ぎりぎりで、圓朝の死から30年を経ていない。
だが、奥付には圓朝の著作権を継承した者の表示はない。
各作品の末尾には、ほとんど例外なく速記者の記名があるが、同全集には「速記者の承諾を得た」とする記述はない。
以下は報告者の推測であり、そのことが鈴木氏の権利に関する検討を打ち切ってよいことの理由にはならないが、非売品扱いとされた春陽堂版『圓朝全集』は、著作権継承者の許諾も、速記者の了承も得ずに編纂されたものと思われる。
師匠のもとで芸を養い、ネタを学び、そこにめいめいが独自の味付けをほどこす落語の世界には、著作権制度の根にある精神とは異なった、〈語り継ぎ〉の伝統と仁義があったはずだ。著作権法に照らせば、春陽堂版『圓朝全集』の成り立ちには確かめたい点がある。だが、その世界の秩序からは、はみ出すところはなかったのだろう。

現在までに明らかになったこれらの調査結果を踏まえ、春陽堂版の『圓朝全集』に対する鈴木行三氏の貢献は大きなものであるとはいえ、氏の働きは、著作権法が保護の対象として想定する、創作性を有するものには当てはまらないと報告者は判断する。

岩波書店による「無断」文庫化が行われた後、鈴木氏は同書店との対応を、高木一夫氏に一任した。その際、鈴木氏は「改めて全集を刊行してくれる所はないか、その条件としては、全集を定本とした旨を明記さえしてくれゝばいゝ」としたという。
当時、高木氏にあてた手紙の一節には、次のようにあったそうだ。

「私はもとより、権利とか利益とかは念頭にありません。ただ、円朝には『錦の舞衣』のやうなトスカの翻案ものもあり、後世に残すべきものだと思ひますから、岩波文庫のやうなものにでもなって続々と同店から出される事が希望なので、直きに消えてなくなるやうなものでなく、なるだけ永く伝へられることを望んで居ります。」(「『円朝全集』因縁噺」『圓朝全集』世界文庫版、巻一月報)

著作権法に照らしても、また道義の観点からしても、『圓朝全集』を底本に電子化した作品の公開をためらう理由はない。
むしろ私たちがこの作業にのぞむことこそが、圓朝を長く伝えたいと願った鈴木行三氏の遺志にもそう道であると考える。
圓朝の芸を残すために、多くの先人達が受け渡してきたバトンを、青空文庫はここで引き継ごうと思う。


【今後の検討課題】

古い作品の電子化に継続して取り組む者は誰も、今回の調査で私たちが向き合うことになったこの種の困難に、いつかは突き当たるだろう。
では、この課題を乗り越えるために、どのような手がうてるのか。
現時点で念頭に浮かぶものを、最後に示したい。

1 著作権者、著作権継承者〈たずね人〉ページの新設

青空文庫の用意した「著作権の切れた作家一覧」や、もりみつじゅんじ氏による「死せる作家の会」のリスト、その他の参考図書などで没年が確認できず、著書の出版元でも手がかりが得られなかった場合は、著作権が切れているか否かの確認はきわめて困難となる。

そこで、著作権者、著作権継承者に関する情報を集めるための〈たずね人〉ページを用意し、情報の提供を呼びかければ、手がかりがえられるかもしれない。

青空文庫の協力者である小林徹さんは、島崎藤村の刊行した雑誌『處女地』で執筆していた、伊東英子の電子化を検討されている。小林さんはこれまで、調査を重ねてこられたが「1890年に仙台市光禅寺通りに生まれた」という情報しかなく、没年確認に至っていない。(「水野 仙子ホームページ」

「印刷文化の開祖・本木昌造翁伝」を著した島屋政一氏の著作権継承者を捜している、株式会社朗文堂が抱え込んだのも、同種の困難である。(「WANTED 島屋政一氏」

たずね人ページは、テキストのアーカイビングに関わるものの求めを、広く集める形で育てていくことが望ましいだろう。

2 裁定制度の利用

現行の著作権法は、著作権者とどうしても連絡が取れない場合の救済措置として、「裁定」と名付けられた制度を設けている。

「(著作権者不明等の場合における著作物の利用)
第六十七条 公表された著作物又は相当期間にわたり公衆に提供され、若しくは提示されている事実が明らかである著作物は、著作権者の不明その他の理由により相当な努力を払つてもその著作権者と連絡することができないときは、文化庁長官の裁定を受け、かつ、通常の使用料の額に相当するものとして文化庁長官が定める額の補償金を著作権者のために供託して、その裁定に係る利用方法により利用することができる。
2 前項の規定により作成した著作物の複製物には、同項の裁定に係る複製物である旨及びその裁定のあつた年月日を表示しなければならない。」

一時、鈴木行三氏に関してもこの制度を利用できないかと考え、報告者は文化庁長官官房著作権課に問い合わせた。
だが著作権者の私権を制限することになるこの制度の運用に、文化庁はきわめて消極的であるという印象を受けた。
・「相当な努力を払っても連絡することができない」という条件を満たすためには、全国紙にたずね人の広告を出すくらいのことはやってもらわないといけない。
・裁定の申し入れを受け付けた例は、この10年間で二度しかない。
といった指摘を著作権課から受け、報告者はこの制度の実効性に関して大きな疑問をもった。

今回の調査の過程で、復刻版はしばしば「著作権継承者が分からなかった。連絡をいただければ、著作権料を支払う」といった注記付きで刊行されていることを確認した。
さらに、明らかに著作権が切れていないにも関わらず、そうした注記もなしで発行し、著作権者として復刻版出版を行った者の名を記している例もあった。(念のため、そうした形を取っているある出版社に確認すると、「我が社の出版物はすべて著作権者の了承を得て出している。だが、三年前に引っ越しをして資料が倉庫に入ったままの状態となっているため、指摘された出版物の著作権継承者が誰であるかは回答できない」という返事だった。)

こうした不透明な復刻の〈主犯〉は、発行元であろう。
だが、申し入れにきわめて高い敷居を設定しているとすれば、裁定制度の運用実態にもまた、十分な〈共犯〉の資格があるように思う。

国会図書館は、国際子ども図書館の「絵本ギャラリー」向けに『コドモノクニ』と『幼年画報』の電子化を進める過程で、多くの著作権者、著作権継承者の消息探しという難問に突き当たった。
この件に関しては、著作権課は申し入れを受け付け、文化庁長官は裁定を行っている。

この裁定制度を、例えば青空文庫のようなグループが利用しようとすればどのような問題が生じるのかを明らかにし、制度を活用できる条件を整えていくことは、大切な課題であると考える。
春陽堂版『圓朝全集』に関しては、裁定の申請は必要ないと判断したが、例えば伊東英子に関して、青空文庫がこの制度の利用を試みることは、検討に価するだろう。


直面した課題にもどる